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浜松市史 ニ
(寺院の配置)
そのほか小さな仏堂として新町に庚申堂、塩町裏に十王堂、
七軒町
に薬師堂などがあった。,薬師堂は慶安二年のころ新道から
七軒町
に移ったという(「旅籠町平右衛門記録」『浜松市史史料編一』)。
浜松市史 三
(木綿商人密集地域)
【名残町
七軒町
板屋町 新町】そのうち①宿の北部の名残町に多いのは庄内地方の綿作地帯に、②
七軒町
・成子坂町方面
浜松市史 ニ
(戸口の増減)
伝馬町・肴町・板屋町・新町・大工町・紺屋町が加わり七か町となり、また五十軒未満が旅籠町・塩町・成子坂町・
七軒町
,また、二十五軒以上の増加は、御役六町では塩町があるばかりでその他は
七軒町
・板屋町・新町・早馬町・下垂町
浜松市史 ニ
(工事の進行)
はたしてどれだけできたものであろうか、明治四年(一八七一)のこと、徳川藩浜松奉行井上八郎(延陵)の尽力で、浜松
七軒町
,より入野村へ通じる掘割が完成し、七月二十八日より
七軒町
から新所村(湖西町)まで船が通うようになったが、
浜松市史 ニ
(町屋)
上新町(かみしんまち)・
七軒町
(しちけんちょう) 街道の中で、東海道往還の西端に新しく発達したのが上新町,と
七軒町
で、
七軒町
は家数が七軒になったときはじめて町となった。
浜松市史 三
(修道学校)
修道学校 【西部地域】修道学校 九年七月浜松
七軒町
(普化宗普大寺跡)に設置。
浜松市史 ニ
(天神社)
明治十五年(一八八二)に
七軒町
と上新町が合併したとき菅原町と名づけたのは、祭神菅原道真にちなんだためという
浜松市史 三
(東海道通)
【塩町 成子坂町
七軒町
】塩町には依然と塩商人(一七戸)が軒をつらね、成子坂町には酒造店(神谷忍冬酒),があり、
七軒町
には宿の西はずれらしく薬湯とか駄菓子屋が多かった。
浜松市史 一
(火災)
一、上新町
七軒町
火事、元禄七甲戌年(一六九四)十一月二十九日朝、火元は
七軒町
より出申候、此節両町不残類火仕候
浜松市史 ニ
(開帳)
また
七軒町
普大寺不動尊では享保九年、下垂町明光寺は享保十三年(『旅籠町平右衛門記録』)、寺嶋村大聖寺は,阿弥陀如来 本魚 蓮光院 阿弥陀如来 肴町 大安寺 薬師如来 沢 大仙寺 文殊菩薩 下垂 昌安寺 十王地蔵
七軒町
浜松市史 ニ
(町幅)
三間は旅籠町・田町・
七軒町
・上新町・下垂町、三間未満は肴町・成子坂町・早馬町・鍛冶町・平田町・本魚町・
浜松市史 ニ
(虚無僧寺)
虚無僧寺 普化宗 普大寺(
七軒町
、法林寺の南、廃寺)下総国一月寺の末寺。
浜松市史 三
(堀留運河の計画)
駿河商法掛の矢村小四郎・青木錠一郎に対し、浜松と浜名湖間の水路開鑿について述べ「入野村より浜松宿之西口
七軒町
迄凡貳三十丁之間,このとき林は「
七軒町
堀割之儀ハ、兼而下堀村庄屋平左衛門始是迄目論見いたし居候ニ付、右之者江被仰付候様仕度
浜松市史 三
(開掘仕様案)
開掘仕様案 「仕様書」によると、上新町(
七軒町
の隣町)を起点として、その長さ八百五十四間(一五四五メートル
浜松市史 ニ
(流行の仏たち)
七軒町
の子育地蔵。万福寺(当市八幡町)の身代り黒衣地蔵。寺嶋村(当市寺島町)の鳥追地蔵。,享保九年(一七二四)三月には「
七軒町
普大寺不動様開帳」で「殊外参詣人多」かったという(『旅籠町平右衛門記録
浜松市史 三
(浜松の仮戸長と管轄地)
一梅谷甚三郎 八百五十八軒 秋葉町・清水町・利(とぎ)町・本魚町・紺屋町・大工町・大堀新地・猿屋町・愛宕町・
七軒町
浜松市史 三
(建白要旨)
建白要旨 【通船】建白書の要旨は①「浜松宿は通船無之運送之失費人力之煩雑難渋」が多いので、浜松
七軒町
浜松市史 ニ
(井上氏所替)
このとき町方庄屋一同も同一歩調をとることとなり旅籠町問屋庄屋兼帯甚兵衛・
七軒町
庄屋治左平の両人も同行した
浜松市史 ニ
(巡礼)
「
七軒町
・上新町(いずれも当市菅原町)同行男女十六人」とあって、享保八年(一七二三)八月の日付がある(,光谷寺 30 笠井村 法永寺 74 瓜内村 薬師堂 31 板屋町 南能庵 75 中野町 松林寺 32
七軒町
浜松市史 ニ
(無役町の人足割)
その後、文政九年(一八二六)に、無役町のうち下新町・成子坂町・神明町・板屋町にさらに
七軒町
・新町を加えて
浜松市史 三
(各町消防組 連合消防組)
小野組大火によって、各町は消防組設置の必要を感じ、同年十月に新町・田町・肴町・連尺町・伝馬町・塩町・成子町・
七軒町
上新町
浜松市史 ニ
(宿の根幹表筋町)
【寛文期十か町】ここで右折して
七軒町
となる。
浜松市史 三
(日本楽器会社)
やまはとらくす)によって創立され、初め山葉風琴(ふうきん)製造所(のちに山葉楽器製造所)と称し、浜松宿
七軒町
浜松市史 ニ
(寛文期)
寛文期には新町から
七軒町
までの通筋の家数は五百四十五軒であったから、この四半世紀のあいだに約百軒増加したことになる
浜松市史 三
(神社の統合)
賀茂神社 松尾神社】須倍神社は村内の六十九社を、賀茂神社(東伊場)は十社を合わせ、また松尾神社には天神社(
七軒町
浜松市史 ニ
(本末制度の進行)
本末制度の進行 【再建移築】寛文期と前後して浜松地方では、慶安二年(一六四九)薬師堂が新堂から
七軒町
浜松市史 三
(寺島村 和地山)
123 491 12 1 2 浜松成子町 板屋町 93 310 3 3 0 成子坂町 浜松菅原町
七軒町
浜松市史 ニ
(城下のにぎわい)
寒さは昨日に劣らず、
七軒町
・上新町などいふ市を過ぎて鳥井縄手をこえ若林村に入る。
浜松市史 ニ
(藩の武芸者)
【町道場】なお浜松で町道場を開いて剣術を教えた者には、袋町(いまの松城町・紺屋町)に小林平之進、
七軒町
浜松市史 三
(連合制の発達 浜松宿二十六か町村連合会 地方自治制の出発 浜松宿議会)
酒井吉重 (旅籠町) 大庭作平 武田勘平 (寺島村) 樋口林治郎 伊東宗作 (上新町) 林弥十郎 (
七軒町
浜松市史 三
(運河開掘の諸計画)
これは「入野村地付新堀有之を相用、浜松
七軒町
浦迄堀付、上下馬荷之分船積ニいたし運送仕候ハゝ」どのようにか
浜松市史 ニ
(各町の夫役)
ただし
七軒町
・上新町は勅額通行のときはじめて助人足を出したことがある。 ,城内家中屋敷火事火元石川監物宅 〃 6.9.11 板屋町火事4軒焼失 〃 7.11.29 上新町
七軒町
全焼
浜松市史 ニ
(東海道往還通)
176 7 成子坂町● 37 11 6 5 2 東78 2.4 免 馬 火 茶 西71 8
七軒町
浜松市史 ニ
(城下の不穏)
愛宕下(当市元魚町)の御用達池田庄三郎をはじめ本魚町若森長右(権左)衛門・神明町木綿屋柳瀬権左衛門・
七軒町
八百屋善兵衛
浜松市史 三
(大きな町)
4 113 7 成子坂町 7 69 76 7 7 11 35 16 1 5 1 69 8
七軒町
浜松市史 三
(中心街板屋町 問屋街の形成)
成子坂町 76 0 4 3 3 10 10 13.2
七軒町
浜松市史 三
(廃寺と合併 上知令)
(鴨江寺塔頭) 鴨江 〃 曹洞宗 光珠寺(宗源院末) 平田町 明治6年 普化宗 普大寺
七軒町
浜松市史 ニ
(水野氏浜松入)
家臣は文化十五年(文政元年)三月から三、四回に分かれてぼつぼつと浜松へ到着、上新町(かみしんまち)・
七軒町
浜松市史 ニ
(町の意義)
『遠州浜松各町書上』に、「往還通り西端の
七軒町
・上新町は古来近村の伊場村・東鴨江村・浅田村の百姓の「名敷地
浜松市史 ニ
(領主の保護)
七軒町
浜松市史 三
(浜松学校)
女 241 明倫学校 同新町 ― 男 2 男 66 有 4円余 7 女 0 男 47 修道学校 同
七軒町
浜松市史 三
(学区制)
5番 673 浜松旅籠町 仝塩町 仝平田町 平田村 権田和三郎 6番 640 浜松成子坂町 仝
七軒町
学びの里祈りの丘:わが町文化誌
(浜松市立県居公民館『学びの里祈りの丘:わが町文化誌』 目次)
番所 忍冬酒 浜納豆 尋常小学校准教員養成所 白王児童図書館 スカウト】 287 【菅原町の由来
七軒町
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