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三方原:わが町文化誌
(浜松市立三方原公民館『三方原:わが町文化誌』 目次)
三方原
:わが町文化誌 /
三方原
台地の地形と土壌 三
三方原
台地をとりまく気象と防風林 四
三方原
台地の植物 五 ,
三方原
台地の動物 第二章
三方原
の歴史 35 一
三方原
の誕生 二 和歌の名所
三方原
三,
三方原
の戦い 四
三方原
の夜明け 五 大正の
三方原
六 昭和の
三方原
七 戦後の開拓,二
三方原
の工業 三
三方原
の交通 第五章 急速に進む都市化と未来の
三方原
301 一,に広がる医療福祉施設 六 未来の
三方原
○
三方原
地区町名の由来 ○
三方原
地区の年表 ○ / 浜松市立
三方原
公民館『
三方原
:わが町文化誌』 目次
解説「徳川家康と三方原の合戦」
(解説「徳川家康と三方原の合戦」)
解説「徳川家康と
三方原
の合戦」 / 【
三方原
合戦とは何か】
三方原
の合戦について概説しよう。,なお、
三方原
合戦における論点は、次の三つであろう。 ,なお、
三方原
合戦について詳細に論述した文献としては、高柳光寿『
三方原
之戦』、小和田哲男『三方ケ原の戦い,【
三方原
合戦図とは】
三方原
合戦については、まだわかっていないことが本当に多い。,しかし、
三方原
合戦の合戦図屏風の存在は今のところ知られていない。 / 解説「徳川家康と
三方原
の合戦」
浜松市史 一
(三方原)
三方原
天竜川が山地をはなれる二俣付近を頂点として磐田原と
三方原
の一対の洪積台地が南に向かって扇状にひろがる,磐田原台地の末端に磐田市があり、
三方原
をおおって浜松市がある。,
三方原
は礫層が厚く、地下水面が深く、灌漑に不便なため、ながい間耕地が開けなかった。 /
三方原
浜松市史 三
(三方原)
三方原
浜名茶と呼ばれる浜松地方の茶は、敷知郡小池村の間渕小源太が安政六年(一八五九)に栽培したのに,始まるといわれるが、明治初年の
三方原
の茶園(百里園と称した)経営や、報徳信者の浜松田町の小野江善六が敷知郡島之郷内 /
三方原
浜松市史 一
(三方原礫層)
三方原
礫層
三方原
台地は旧天竜川が上中流から運んで来た砂礫によって形成された扇状地である。,したがって
三方原
台地上に広く分布する
三方原
礫層と現天竜川の河床礫とを比較してみると、両者の構成礫は第2,しかし
三方原
礫層は風化をうけて黄褐色を呈している点で現河床のものと、はっきり区別がつくのである。 ,(表)第2表
三方原
と現天竜河床との礫質の比較 礫質 東鴨江
三方原
小野口 現天竜河 累層 礫層 /
三方原
礫層
浜松市史 三
(三方原沽券地改正絵図 三方原の村名)
三方原
沽券地改正絵図
三方原
の村名 こうして気賀林を主とする
三方原
茶園経営は終り、第三期の横田保の時代,明治八年地租改正のさい、
三方原
入会地(『浜松市史二』参照)は民有の証が明らかでないとして官有地第三種に,この沽券図はそのころの図と推測され「
三方原
沽券地改正絵図面」とあり、当時の状況がよくわかる(前掲「
三方原
開拓部分図,
三方原
に村名を付したのが明治十三年(『静岡県市町村合併沿革史』『浜名郡
三方原
村誌』、『浜名郡誌』には明治十二年,【江川永脩】なお江川永脩(隼太)は
三方原
大谷の険路を修繕したといわれるが、明治十年ころ去っている。 /
三方原
沽券地改正絵図
三方原
の村名
浜松市史 一
(三方原台地)
三方原
台地 蜆塚遺跡の北から東にかけての地帯は、いうまでもなく広大な
三方原
台地であって、そこには原始林 /
三方原
台地
浜松市史 三
(三方原村成立)
三方原
村成立 行政的には明治六年(一八七三)二月には敷知郡第一大区二十一小区に属し初代小区長が間宮鉄次郎,べたが、その後十二年三月まで第十二大区二十小区となったり曲折があったが、町村制施行(明治二十二年)のさい
三方原
村,そして民有地のうち畑地は茶園をふくめ百三十九町歩に達していた(『浜名郡
三方原
村誌』)。 /
三方原
村成立
浜松市史 ニ
(三方原の名称)
三方原
の名称 『曳駒拾遺』(『浜松市史史料編四』)に「みかたが原」として「此原は一里ばかり乾(いぬい,といふと、されとも今は百八さとの草かり場となれり、又三村の原なるをもて此名ありともいへり」とあって、
三方原
,【
三方原
入会起原】しかしこの原が入会地となった起原は元和年間に溯るのであって、元和年間に中泉代官が野米 /
三方原
の名称
浜松市史 ニ
(三方原の戦の意義)
三方原
の戦の意義 信玄のこの作戦は、遠江を占領するのが直接目的であったとの説もある。,しかし
三方原
合戦には、浅井長政の使者が信玄方の陣営におり(『桃山武将真蹟展図録』)、信長は近江から岐阜,
三方原
戦図 祝田坂古戦場(引佐郡細江町)
三方原
古戦場
三方原
古戦場犀ヶ /
三方原
の戦の意義
浜松市史 四
(三方原のダイコン)
三方原
のダイコン
三方原
台地でのダイコンの栽培は大正元年ごろから始まったようだが、大正十年ごろから沢庵,
三方原
農協は昭和二十八年ごろから沢庵事業に取り組み、沢庵ダイコンの産地を形成していった。,遠州の空っ風が吹く十一月下旬になると、
三方原
のあちこちでダイコン干しが始まり、白いダイコンが空っ風に揺 /
三方原
のダイコン
浜松市史 三
(三方原入会地)
三方原
入会地 つぎに
三方原
入会地はどうなっていったか。 /
三方原
入会地
浜松市史 三
(子規三方原句碑)
子規
三方原
句碑 昭和六年四月には浜松市天林寺境内に「馬通る
三方原
や時鳥」の子規の句碑を建立したが、翌七年十一月二十四日市内森田町地先 / 子規
三方原
句碑
浜松市史 一
(伝三方原出土銅鐸)
伝
三方原
出土銅鐸 ①伝
三方原
出土銅鐸 天明七年(一七八七)、
三方原
から銅鐸が出土したことが、『銅鐸図記 / 伝
三方原
出土銅鐸
浜松市史 四
(三方原のバレイショ)
三方原
のバレイショ 【男爵 農林一号】
三方原
村にバレイショの栽培が導入されたのは大正の初期であるが,そのうち浜松だけでは売れ残るようになっていったため、昭和二十八年に
三方原
バレイショの共同販売が実施され,その後、
三方原
台地の酸性の赤土と豊富な日照量で育った
三方原
バレイショは、きめ細やかな味で市場評価を高める,結果となり、その後、
三方原
バレイショのブランド名を確立、日本一の折り紙を付けられるようになっていった。 /
三方原
のバレイショ
浜松市史 ニ
(三方原の戦の教訓)
三方原
の戦の教訓
三方原
の戦いは、家康の経験した六大合戦のうち姉川の戦いにつづく第二の大戦であった。,家康が野戦の名将となったのは、
三方原
の敗戦によってえた経験が大きく作用している。 /
三方原
の戦の教訓
浜松市史 三
(三方原給水計画)
三方原
給水計画 明善は五年正月浜松県から堤防方付属を命ぜられ、十月には天竜川御普請専務(月手当六円),明善はこのとき県に対し、天竜の流路を西鹿島で締めきって
三方原
(みかたがはら)へみちびき、浜名湖に直接注 /
三方原
給水計画
浜松市史 五
([三方原用水の完成])
[
三方原
用水の完成] 【
三方原
用水事業】 昭和二十五年に制定された国土総合開発法により浜松地域は,これによると
三方原
用水は秋葉ダムから取水、毎秒一六・七一トン(一日最百四十四万三千トン)の水が天竜市・,これにより、明治以来の悲願であった「天竜の水を
三方原
台地に」が実現することになった。 ,
三方原
用水の完成により、従来、用水事情に恵まれていなかった
三方原
台地は長い間の悲願であった稲作経営が可能,これにより
三方原
台地の農業も変質していくことになった。 / [
三方原
用水の完成]
浜松市史 四
([三方原教導飛行団])
[
三方原
教導飛行団] 【毒ガス
三方原
教導飛行団 化学戦】
三方原
教導飛行団は昭和十九年四月浜松飛行学校,から独立し、中部第九十七部隊の使用していた
三方原
飛行場の一角にあった
三方原
の演習廠舎にあった。,必要上、二十年八月の十六日か十七日ころ部隊所有の軍需品(毒ガス等)の投棄を急遽(きょ) 命じられたため、
三方原
教導飛行団 / [
三方原
教導飛行団]
浜松市史 四
(三方原用水 秋葉ダム)
三方原
用水 秋葉ダム この開発計画は、戦後、浜松市が発展していく上で大いに貢献することになる。,第一は、この計画により
三方原
用水の事業が強力に進められたことである。,そのほか、
三方原
開墾を中心にした開墾事業、浜名湖周辺部の干拓事業、浜名用水を中心とした灌漑用水事業などが /
三方原
用水 秋葉ダム
浜松市史 一
([三方原古墳支群])
[
三方原
古墳支群] 五世紀中葉に千人塚古墳が築造されてより、七世紀にいたるほぼ二世紀間にわたり、
三方原
台地,これらの古墳を一括して
三方原
古墳支群と呼ぶ。 / [
三方原
古墳支群]
浜松市史 四
([三方原台地と開墾])
[
三方原
台地と開墾] 【
三方原
開拓建設事業 国営開墾 中津川繁雄 開拓者の窮乏 開拓事業実施要領】, 戦後の
三方原
開拓建設事業は、農地開発営団(昭和二十二年九月から農林省が組織を引き継いだ)の手によって,当初の計画では、全体を
三方原
工区・浜松工区・葵工区・西川工区・中川工区の五つに工区分けした(表2-30,この内、
三方原
開拓(
三方原
工区)は旧陸軍の飛行場と爆撃演習場千三百町歩のうち、九百十一町歩を開墾することになった,の記録』より作成 図2-35
三方原
開拓建設事業地区位置図 / [
三方原
台地と開墾]
浜松市史 五
(三方原地区土地改良事業)
三方原
地区土地改良事業 【
三方原
ほ場整備 畑地かんがい 都市近郊農業】 平成二年、
三方原
地区土地改良事業,この事業は
三方原
台地とその周辺の二市三町(浜松市、浜北市、引佐郡細江町、浜名郡雄踏町・舞阪町)を受益面積,が始まり、水不足に悩む
三方原
台地の農業基盤整備を図ることを目的とした。,最大規模の五区(
三方原
町、根洗町、初生町及び浜北市・引佐郡細江町の一部)は昭和四十五年に設立され、換地業務,表3-17
三方原
土地改良事業の概要(昭和63年) 事業名 事業の概要 国営
三方原
用水事業 /
三方原
地区土地改良事業
浜松市史 三
(百里園茶製所 三方原救貧院)
百里園茶製所
三方原
救貧院 これよりさき、気賀林は明治八年一月
三方原
に新居をかまえ、ここで百里園の事務,また、この十年四月には自宅近くへ「
三方原
救貧院」と称する救護機関を設立している。,【林拝謁】明治十一年十一月一日明治天皇東幸の途次、浜松行在所(あんざいしょ)(第二十八国立銀行)で
三方原
開拓,しかし
三方原
在住士族の代表者はその名簿にはなかった。,製茶の業も進み、十二年七月には
三方原
製茶共進会へ、また十月の横浜における製茶共進会には二等賞をうけ、収穫高 / 百里園茶製所
三方原
救貧院
浜松市史 三
(三方原開拓と時代区分)
三方原
開拓と時代区分 江戸時代には入会地にすぎなかった不毛の
三方原
(『浜松市史二』参照)も明治を迎えるとようやく,をおろした郷土の人たちがわずかに残った士族たちと力を合わせ開拓を進め、ついに明治四十三年(一九一〇)
三方原
村 /
三方原
開拓と時代区分
浜松市史 三
(横田保の三方原開拓進言)
横田保の
三方原
開拓進言 気賀林のあとをうけた横田保は鋭意茶園の経営に専念することになるが、保と茶園との,関係は「明治六年七月浜松県令林厚徳町村学校巡視の際、
三方原
にいたり横田保氏に此処に茶園を経営すれば有望,ら」れたので「保氏は気賀林・金原明善にはかり」(「横田保君之伝」『嶽陽名士伝』、『静岡県茶業史』)と
三方原
開拓 / 横田保の
三方原
開拓進言
浜松市史 三
([三方原村の成立])
[
三方原
村の成立] つぎは第四期である。 / [
三方原
村の成立]
浜松市史 三
(三方原茶園開墾計画 着手方法)
三方原
茶園開墾計画 着手方法 かくて、その議が成って「
三方原
開墾見込書」を小区長間宮鉄次郎・小区副長原良平,その内容は「
三方原
ノ如キハ人民一鋤ヲ試ミス(中略)私共辛未(明治四年)以来此地ニ住シ受領邸中自耕転任、,なおこれに添えた「
三方原
開拓着手方法」によると、第一条に「良地ヲ択ヒ町毎ニ阡陌(せんぱく)(あぜみち) /
三方原
茶園開墾計画 着手方法
浜松市史 三
(三方原茶生産額 百里園製茶所)
三方原
茶生産額 百里園製茶所 【十七年】明治十七年の
三方原
の茶生産額は六千三百二十貫(価格七三八〇円 /
三方原
茶生産額 百里園製茶所
浜松市史 五
([三方原用水導入による新水道計画])
[
三方原
用水導入による新水道計画] 【
三方原
用水 大原浄水場】 昭和四十二年(一九六七)八月二十八日,、
三方原
用水の幹線国営水路が完成、水源地の秋葉ダムと
三方原
台地で歴史的な通水式が行われた。,
三方原
用水の上水道導入により、浜松市の給水能力は格段に向上したが、経済の高度成長に伴う人口の都市集中と / [
三方原
用水導入による新水道計画]
浜松市史 三
(気賀林の三方原開発案)
気賀林の
三方原
開発案 つづいて四月になると長上・敷知(ふち)・浜松付の地方役所の長山晋之助及び滝口小一郎宛 / 気賀林の
三方原
開発案
浜松市史 三
(三方原臨時飛行場 飛行聯隊 陸軍飛行学校)
三方原
臨時飛行場 飛行聯隊 陸軍飛行学校 【大正十五年】これよりさき、浜松郊外の
三方原
に爆撃を専門とする,
三方原
は、陸軍が大正八年に第一次世界大戦後の空軍の発達に対処するため、フランス将校を招いて(浜松では学童 /
三方原
臨時飛行場 飛行聯隊 陸軍飛行学校
浜松市史 一
(三方原台地をめぐる遺跡)
三方原
台地をめぐる遺跡 まず、蜆塚遺跡を取りまく同時代の遺跡を推定するために、
三方原
台地とその周辺に /
三方原
台地をめぐる遺跡
浜松市史 三
(遠州灘海岸平野 天竜川平野 三方原台地)
遠州灘海岸平野 天竜川平野
三方原
台地 一般に地盤の若い①遠州灘海岸平野地域②天竜川沖積平野地域に被害,が多く③
三方原
洪積台地方面は少なかった。,③では高町から名残町へかけての高台(たかだい)地域はいわゆる
三方原
台地の一部で、高射砲第一聯隊の仮建築 / 遠州灘海岸平野 天竜川平野
三方原
台地
浜松市史 一
(幼年期の地貌)
幼年期の地貌 このような生い立ちをもつ
三方原
を磐田原と比べて現地形をみると、平均高度は磐田原の方が高,開析が相当進んで、表面に多くの谷ができ原表面の残りが少なく、早壮年期に近い地貌を呈しているのに対して、
三方原
,したがって
三方原
形成後の地盤運動を考えなければならない。,また
三方原
では東縁に岩石段丘が連なって、この方面の土地の上昇を物語っているのに反して、西縁にはこういった,
三方原
礫層(浜松市深萩町)
三方原
の林と原野(浜松市
三方原
町)
浜松市史 四
([揚水による米作の開始])
[揚水による米作の開始] 明治以降
三方原
台地に入植した人たちはなんとかして米を収穫したいと考えてきた,しかし、幾度となく計画された用水は
三方原
台地を流れることはなかった。,大正末期になって
三方原
村の有力者は深さ約八メートルほどの井戸を掘り、発動機を使って揚水に成功し、水田を, 【
三方原
開拓建設事業
三方原
の水田化】 戦後になると、主に軍用地となっていた
三方原
台地一帯,で国営の
三方原
開拓建設事業が始まったが、開田計画があったのは、
三方原
工区と西川工区のみでほかはなかった
浜松市史 三
(開拓着手)
藩論決定により、府中を代表して浜松奉行井上八郎、同添奉行田村弘蔵および長山晋之助の三名が六月二十二日
三方原
見分,、二十三日には
三方原
御用掛として静岡藩の生育方取締飯高七之丞、同介赤林立之助、調役地方掛長山晋之助の三名,が気賀林と打合わせ、翌二十四日には前記の
三方原
御用掛が
三方原
開拓掛に任ぜられることになった。,二十七日には
三方原
開拓掛岩井林右衛門(気賀林)の名をもって、刑部(おさかべ)・祝田(ほうだ)・瀬戸(せと,いしおか)・金指(かなさし)・井伊谷(いいのや)・伊平(いだいら)の八か村(旧旗本近藤領)の庄屋に「今般
三方原
江御家中凡五百軒御移住
浜松市史 一
(自然環境編)
天竜市二俣付近) 一五 浜松周辺付近の地質図 一六
三方原
東縁,二一 舘山寺のラジオラリヤ・チャート(浜松市舘山寺町) 二一 百里園旧士族屋敷の井戸(浜松市
三方原
町,化石 (細江町史料調査会蔵) 二四 佐浜泥層(浜松市佐浜町) 二四
三方原
礫層,(浜松市深萩町) 二六
三方原
の林と原野(浜松市
三方原
町)
浜松市史 一
(東鴨江累層)
東鴨江累層 この
三方原
礫層の下位には、より古い礫層および泥層が、この台地の東半部に分布し、西半部には,東半部にみられる古い礫層は
三方原
礫層に不整合におおわれ、俗に死石といわれているように、元来硬い砂岩や花崗岩,【百里園】
三方原
の中央部にある百里園は明治初年に帰農士族が入植して開発したところであるが、いまに残る士族屋敷,また上位の
三方原
礫層中を透過する地下水は泥層の境界沿いに流動し、谷壁斜面に湧泉をつくっている。,百里園旧士族屋敷の井戸(浜松市
三方原
町) 東鴨江累層(浜松市紺屋町)
浜松市史 一
(小野口礫層)
小野口礫層
三方原
台地東縁の段丘群は、いずれも東鴨江累層を不整合におおう新しい礫層を載せている。,現在浜北市に合併)と名づけられているものであって、礫の組成は、
三方原
礫層や現天竜川河床礫と似ているが、,
三方原
礫層ほど風化して黄褐色になっておらず、むしろ新鮮である。
浜松市史 一
(自然環境編)
をめぐる地形 一三 地形の概観 地質の概観 第二節
三方原
台地,の生い立ち 一八
三方原
は洪積台地
三方原
の成因
三方原
の現地形
浜松市史 三
(移住士族戸数)
移住士族戸数 徳川の旧臣たちが帰参がかない、浜松宿・
三方原
・和地山・内野方面へ移住してきたのは明治二年,その戸数
三方原
は八百余戸(「明治七年
三方原
御払下上申指令」『浜松市史史料編六』)人数二千人余、浜松宿は
浜松市史 四
([戦後緊急開拓と浜松の開拓地])
④根洗松開拓(浜名郡
三方原
村)
三方原
国営開拓建設事業地区の中の中川工区で、開拓地の北側道路が引佐郡中川村,⑦遠州開拓(浜名郡
三方原
村) 国営開拓の
三方原
工区に属する農家集団で、地区ではない。,もともと
三方原
開拓農協に参加し工区の中央部に所属していた農家百二十二戸が、昭和三十四年に
三方原
開拓農協,⑧都田開拓(引佐郡都田村)
三方原
国営開拓の
三方原
工区北部の外周道路北側に位置している。,⑬
三方原
開拓 広大な
三方原
開拓地の中央部、戦前は陸軍の
三方原
爆撃場で、爆弾の投下演習が行われていた
浜松市史 三
(移住開始)
移住開始 掛塚村大工職鈴木丑五郎伝(『嶽陽名士伝』)によれば「明治二年徳川家ノ命ニヨリ
三方原
長屋百五十棟新築,いずれにしてもこうして、明治二年(一八六九)十二月には「士族」「三民」(農・工・商、つまり平民をいう)両方よりなる
三方原
移住,また榛原郡千頭(はいばらぐんせんず)村七左衛門他二十二名が「
三方原
之内都田村御林境より同村道南側」に移住,【徳川家達見順】明治三年四月になると人煙立ちのぼる
三方原
開拓地へ「徳川従三位中将家達様」が、順見になった,同月八日浜松本陣泊、九日三ヶ日泊、十日は
三方原
追分で御小休、
三方原
・和地山移住士族たちの出迎えをうけ、
浜松市史 一
(群の構成)
群の構成
三方原
古墳支群は、南北約七キロのあいだに帯状に分布するが、とくに千人塚古墳の付近に密集する,単位群はさらにいくつか集合して小支群を形成することがあるが、こうした単位群や小支群の集合体として、
三方原
古墳支群,
三方原
支群には少なくとも三〇の単位群がみとめられており、支群全体の主座として千人塚古墳が浮かび上ってくるのである,(表)第10表
三方原
古墳支群の規模 規模 円墳 前方後円墳 49(m) 1 45 1 29~
浜松市史 四
([回虫に悩まされて])
それが端的に表れたのが
三方原
である。,近世の入会地、戦時中の射爆場、戦後の開拓地である
三方原
の痩せた土地に新たに集落を構えた人々の体調こそこの,
三方原
開拓農業協同組合がまわした回覧板には「検便結果の御知らせ」として、都田地区の十一家族(全二十人のうち,
三方原
開拓農業協同組合における「組合内全般については八九・四%の保有率」という全体状況であった。
浜松市史 三
(開発許可 士族授産)
其士族ヲ管内各所ノ郊原ニ配置シテ拓地墾田ニ従事シ、自勉自食ノ道ヲ得セシメ」るため(『浜松県記録』)、
三方原
,【平民移住】そのため
三方原
開拓の決定をみたのは六月にはいってからで、その内容は「
三方原
生育方五百軒も御取立,」すなわち士族五百戸を
三方原
に移住させるとともに、「農工商三民」の取立、つまり平民の移住については気賀林
浜松市史 一
(第一海進期 第二海進期 第三海進期 第四海進期)
第一海進期 第二海進期 第三海進期 第四海進期 以上述べたような
三方原
を構成する洪積層が第三紀末以降四回,こういった立場から
三方原
の生い立ちを考えてみると、最初の海進期に天竜川は東鴨江累層を堆積させ、つぎの海退期,これが
三方原
礫層である。,つづいて起こった海退期には天竜川は現河道付近に谷を刻み、その扇状地を東西に分離させて、磐田原および
三方原
,したがって西気賀累層と小野口礫層とは同時期のものであり、
三方原
礫層より一時代新しい堆積物と考えられる。
浜松市史 一
(千人塚伝説)
元亀三年(一五七二)の
三方原
合戦で最期をとげた人たちを葬った塚だといわれ、ここに九百九十九人を葬り最後,いま墳頂には石碑が建てられていて明治三十二年(一八九九)の陸軍の機動演習が、
三方原
の古戦場を舞台に行なわれたことを,しかし、すでに述べてきたように千人塚は立派な五世紀代の古墳であって、
三方原
合戦の戦没者を葬った跡などまったく,千人塚の伝説は、
三方原
合戦の地がすでに人々の記憶から忘れさられてしまったずっと後世になって、巨大な墳丘
浜松市史 三
(緑茶伝習所 経営困難)
【横田保死去】こうして
三方原
村は明治三十四年は士族平民合わせて百六十戸、人口八百(男四八〇、女三二〇),、茶園三十五町歩に達したが(『浜名郡
三方原
村誌』)、百里園茶園の経営状況ははかばかしくなく、その放棄を,はじめとして内野から幅四間(約七・二メートル)、延長二里十六町(約九・六キロメートル)の新道を開いて
三方原
,いわゆる「
三方原
茶園道」(明治十八年建碑)で保は自宅からこの道を茶園に通った。,【横田保碑】保の碑はいま
三方原
に建っている。 横田保
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