機関トップ
資料グループ
テキスト一覧
年表一覧
キーワード一覧
参照データ一覧
浜松市立中央図書館/浜松市文化遺産デジタルアーカイブ
トップページ
詳細検索
詳細検索
目録
テキスト
年表
キーワード
その他(トップページ等)
検索条件を追加
目録
テキスト
年表
キーワード一覧
その他(トップページ等)
AND
OR
NOT
年号変換
閉じる
検索結果
: 82件
辞書ファセット
○○○
△△△
10件
20件
50件
100件
(並べ替え)
テキストタイトル(昇順)
テキストタイトル(降順)
ページタイトル(昇順)
ページタイトル(降順)
掲載ページ(昇順)
掲載ページ(降順)
/ 2ページ
浜松市史 一
(三方原台地)
三方原台地
蜆塚遺跡の北から東にかけての地帯は、いうまでもなく広大な
三方原台地
であって、そこには原始林 /
三方原台地
浜松市史 一
(三方原台地をめぐる遺跡)
三方原台地
をめぐる遺跡 まず、蜆塚遺跡を取りまく同時代の遺跡を推定するために、
三方原台地
とその周辺に /
三方原台地
をめぐる遺跡
浜松市史 三
(遠州灘海岸平野 天竜川平野 三方原台地)
遠州灘海岸平野 天竜川平野
三方原台地
一般に地盤の若い①遠州灘海岸平野地域②天竜川沖積平野地域に被害,③では高町から名残町へかけての高台(たかだい)地域はいわゆる
三方原台地
の一部で、高射砲第一聯隊の仮建築 / 遠州灘海岸平野 天竜川平野
三方原台地
浜松市史 四
([三方原台地と開墾])
[
三方原台地
と開墾] 【三方原開拓建設事業 国営開墾 中津川繁雄 開拓者の窮乏 開拓事業実施要領】 / [
三方原台地
と開墾]
三方原:わが町文化誌
(浜松市立三方原公民館『三方原:わが町文化誌』 目次)
1994年) 目 次 ページ 画像 まえがき 6 第一章 三方原の自然 7 一
三方原台地
,の出来るまで 二
三方原台地
の地形と土壌 三
三方原台地
をとりまく気象と防風林 四
三方原台地
,の植物 五
三方原台地
の動物 第二章 三方原の歴史 35 一 三方原の誕生 二 和歌の名所三方原,一 人口の増加 二 大型集合住宅の増加 三 大型店舗の増加 四 金融機関の進出 五
三方原台地
浜松市史 五
([三方原用水の完成])
三方原用水は秋葉ダムから取水、毎秒一六・七一トン(一日最百四十四万三千トン)の水が天竜市・浜北市を経て
三方原台地
,秋葉ダムの取り入れ口の水門が開くと、二十二キロ離れた
三方原台地
に向かって待望の水が流れていった。,これにより、明治以来の悲願であった「天竜の水を
三方原台地
に」が実現することになった。 ,三方原用水の完成により、従来、用水事情に恵まれていなかった
三方原台地
は長い間の悲願であった稲作経営が可能,これにより
三方原台地
の農業も変質していくことになった。
浜松市史 一
(都田川の下流)
都田川が西南流する下流域の南側には
三方原台地
がひろくひろがり、その北縁は急斜面をもって都田川の沖積平地,これに対して北側には広い台地こそないが、古生層山地に接して、ほぼ
三方原台地
面と同じ高度の平坦面がそこここに
浜松市史 一
(沿岸低地の地質)
沿岸低地の地質 このような砂堤列を載せている沿岸低地の地質をみると、
三方原台地
と密接なつながりをもっている,
三方原台地
の開析谷の延長部にあたる沖積平地では、上位に砂礫を主とした沖積層、その下位に泥を主とした沖積層,以上をまとめて沿岸低地の生い立ちをみると、
三方原台地
が形成された後、台地内に開析谷が生じ、これらが海水準
浜松市史 一
(行動半径)
したがってこれを蜆塚遺跡に移して考えると、蜆塚人の生活領域は佐鳴湖を中心とした
三方原台地
の南部一帯を占,第13図
三方原台地
周辺の縄文時代遺跡群 (△印は無土器時代遺跡 A次郎大夫前遺跡 B
浜松市史 四
([揚水による米作の開始])
[揚水による米作の開始] 明治以降
三方原台地
に入植した人たちはなんとかして米を収穫したいと考えてきた,しかし、幾度となく計画された用水は
三方原台地
を流れることはなかった。, 【三方原開拓建設事業 三方原の水田化】 戦後になると、主に軍用地となっていた
三方原台地
一帯,これにより
三方原台地
では天竜川の水によって昭和二十五年から水田が開かれたが、まだ本格的なものではなかった
浜松市史 一
(原始編)
原始編
三方原台地
周辺の無土器時代石器(浜松市立郷土博物館・戸塚賢二氏蔵) 七三 蜆塚遺跡全景 ,浜松市立郷土博物館蔵) 一二九 浜松市内縄文時代遺跡の出土品(浦部ひで氏・浜松市立郷土博物館蔵) 一三六
三方原台地
周辺
浜松市史 一
(三方原礫層)
三方原礫層
三方原台地
は旧天竜川が上中流から運んで来た砂礫によって形成された扇状地である。,したがって
三方原台地
上に広く分布する三方原礫層と現天竜川の河床礫とを比較してみると、両者の構成礫は第2
浜松市史 一
([低湿地の形成])
】やがてまた海進期に入るにしたがい、河川流域には水田に適した湿地帯が、しだいに形成されるようになり、
三方原台地
,
三方原台地
南側の砂堤列間においても同様湿地の形成が順調に進行していたと思われる。
浜松市史 ニ
(位置)
に築いたもので、天竜川・遠州灘海岸へおのおの五・五キロ、また一二キロで浜名湖東岸に達し、西北方一帯は
三方原台地
浜松市史 ニ
(信玄の作戦)
戦いは
三方原台地
の北端でおこった。信玄軍二万、家康軍は約一万の兵力であったという。
浜松市史 一
(小野口礫層)
小野口礫層
三方原台地
東縁の段丘群は、いずれも東鴨江累層を不整合におおう新しい礫層を載せている。
浜松市史 三
([利水事業])
明善が天竜川を分水して
三方原台地
・浜名平野の開発を促進せんとする遠大な計画をたて、金原疏水財団(明治三十七年
浜松市史 ニ
(現存の一里塚)
浜松宿近郷の一里塚で、現在昔の俤をとどめているのは姫街道の市野から
三方原台地
に登り、追分に近い道側に一基
浜松市史 三
(商品化)
【甘藷】甘藷の主産地は
三方原台地
で、品種は飯郷・源氏・甘日芋などで、日中戦争以後は酒精原料としても増産
浜松市史 一
(入野古墳)
古墳からは、
三方原台地
南方一帯の水田地帯を望見することができる。
浜松市史 四
(三方原のダイコン)
三方原のダイコン
三方原台地
でのダイコンの栽培は大正元年ごろから始まったようだが、大正十年ごろから沢庵
浜松市史 一
(珍しい植物)
マルバアキグミ チガヤ タヌキマメ ケカモノハシ ビロウドテンツキ マルバアカザ コモウセンゴケ
三方原台地
,とその周辺湿地
三方原台地
は酸性土壌のやせ地で、その上、礫層のため土地は乾燥し、植物も満足に成長しない,このような山地にとどまらず、
三方原台地
周辺の湿地のような暖地で平坦なところにもキリガミネトウヒレンのごとく
浜松市史 一
([三方原古墳支群])
[三方原古墳支群] 五世紀中葉に千人塚古墳が築造されてより、七世紀にいたるほぼ二世紀間にわたり、
三方原台地
浜松市史 四
([コンポストの建設と堆肥])
そこで、浜松市は総工費約六千万円を投じて昭和三十三年三月から
三方原台地
の一角(初生町)にコンポスト(し,このコンポスト(塵芥堆肥)は、当時酸性土壌で悩まされていた
三方原台地
の農民からは大いに歓迎され、需要期
浜松市史 五
([西遠農業センターと農業の機械化])
場所は
三方原台地
の北端に当たる都田地区内の三十三・七ヘクタールの敷地に、本館、製茶工場、農産物貯蔵庫、,畑作も
三方原台地
の地質に適したバレイショ、キャベツ、スイカなどを栽培し、一区画一ヘクタール規模の耕地で
浜松市史 一
(残丘とチャート)
残丘とチャート 【大草山 根本山 舘山寺】平坦な
三方原台地
の中にきわだって飛びでているのが、舘山寺ロープウェイ
浜松市史 一
(砂堤列)
【佐鳴湖】またもっとも北にある第一砂堤列は
三方原台地
南縁の海蝕崖下に断片的に分布し、開析谷の出口をふさいでいる
浜松市史 一
(海蝕崖)
海蝕崖 【東伊場町 入野町】
三方原台地
は、天竜川右岸において北東から南西にかけて、きわめてゆるやかに
浜松市史 一
(吉野町出土の石器)
第1図
三方原台地
周辺の無土器時代石器(1~3.浜松市立郷土博物館蔵 4.戸塚賢二氏蔵)
浜松市史 一
(立地の特殊性)
逆に
三方原台地
への最短距離は五キロで、ここには浜北市内野の赤門上古墳(前期の前方後円墳)がある。
浜松市史 一
(自然環境編)
をめぐる地形 一三 地形の概観 地質の概観 第二節
三方原台地
浜松市史 四
(三方原のバレイショ)
その後、
三方原台地
の酸性の赤土と豊富な日照量で育った三方原バレイショは、きめ細やかな味で市場評価を高める
浜松市史 ニ
(地勢)
は河岸段丘が低くのびて常寒山(とこさむやま)(五社神社諏訪神社がある)の山つづきとなり、北をのぞむと
三方原台地
浜松市史 一
([自然環境])
[自然環境] 伊場遺跡は、
三方原台地
南縁の海蝕崖から直下に望むような位置にある。
浜松市史 五
([三方原用水導入による新水道計画])
大原浄水場】 昭和四十二年(一九六七)八月二十八日、三方原用水の幹線国営水路が完成、水源地の秋葉ダムと
三方原台地
浜松市史 四
([小学校の発足と復興への歩み])
戦後になって爆撃場だった
三方原台地
の開拓が始まったが、ここに入植した農家の子どもたちは遠く離れた三方原小学校,なお、
三方原台地
北端の開拓地に都田小学校南分教場(今の都田南小学校)が開校したのは昭和二十八年四月八日
浜松市史 一
(東平遺跡 次郎大夫前遺跡)
①浜松市神ケ谷町東平遺跡 ②浜松市吉野町次郎大夫前遺跡 ①は、
三方原台地
の南部にあって、神,ここは
三方原台地
を西方から大きく侵蝕した谷の奥まった部分であって、台地面より下った谷底に近い地点であったらしい
浜松市史 五
(三方原地区土地改良事業)
この事業は
三方原台地
とその周辺の二市三町(浜松市、浜北市、引佐郡細江町、浜名郡雄踏町・舞阪町)を受益面積,として秋葉ダムが完成、同三十五年天竜川(秋葉ダム)を水源とする国営三方原用水事業が始まり、水不足に悩む
三方原台地
浜松市史 一
(遠州灘沿岸)
(1)
三方原台地
の生い立ち (2) 遠州灘と沿岸低地 (3) 天竜川と沖積平地 (
浜松市史 ニ
(名残追分新田)
名残追分新田 【台地新田】名残追分新田
三方原台地
上の新田で、犀が崖に近く今日両追分と呼んでいるところに
浜松市史 一
(磐田原台地の石器群)
このように、無土器時代の遺跡が磐田原台地に豊富で、
三方原台地
に乏しいのは、調査の精粗によるともいえようが
浜松市史 一
(浜松周辺の中期弥生文化遺跡 白石山遺跡)
三方原台地
の南側沖積地にはいく列かの砂堤列のあることは、すでに述べたが、その砂堤列は浜名湖入口に近いところでは
浜松市史 三
(飛行機製作)
昭和七年
三方原台地
に移転し株式会社浜松飛行機製作所となり、軍用機や新聞社機等の修理を行なって終戦まで存続
浜松市史 一
(支湖と入江 川と湖岸平野)
その後天竜川の運んだ砂礫は沿岸流により
三方原台地
南縁の沖合に幾条の沿岸州をつくり、西にのびて湾口を埋め
浜松市史 一
(生活領域の広さ)
他の時期ではこれははっきりしないが、少なくとも蜆塚第九期のころには、
三方原台地
の縁辺に四ないし五の集落
浜松市史 一
(深度)
浜名湖の成因は三方原の生い立ちと緊密な関係をもっており、したがって大体のことは
三方原台地
の生い立ちのところで
浜松市史 ニ
(秋葉講)
【接待茶屋】
三方原台地
の北端、秋葉街道筋の二軒屋(当市都田町)には、接待茶屋や旅籠屋、餅・甘酒などを売
浜松市史 五
([工場誘致])
基地拡張ごとに
三方原台地
の赤ちやけた畑が坪当り二千円内外で買上げられる。
浜松市史 一
([敷智古墳支群])
[敷智古墳支群] 【分布】
三方原台地
の西部から南部にかけての丘陵地帯には、二、三基ずつの単位群が散在
浜松市史 四
([大規模ミカン園の開発])
昭和三十三年には
三方原台地
の北端に当たる都田町東原地区に、麁玉村宮口で織物工場を営む竹内猪熊がミカン園
/ 2ページ