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浜松市立中央図書館/浜松市文化遺産デジタルアーカイブ

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浜松市史 三 (横田保の三方原開拓進言)

横田保の三方原開拓進言 気賀林のあとをうけた横田保は鋭意茶園の経営に専念することになるが、保と茶園との,ら」れたので「保氏は気賀林・金原明善にはかり」(「横田保君之伝」『嶽陽名士伝』、『静岡県茶業史』)と三方原開拓 / 横田保の三方原開拓進言
浜松市史 三 (三方原開拓と時代区分)

三方原開拓と時代区分 江戸時代には入会地にすぎなかった不毛の三方原(『浜松市史二』参照)も明治を迎えるとようやく / 三方原開拓と時代区分
浜松市史 三 (第一期開拓)

これについては士族方の記録はいっさい伝わらず、民間側の気賀林の『三方原開拓記録』(上中下三巻。,三方原開拓記録
浜松市史 三 (開拓の延期)

その理由は「三方原開拓之儀、自然宿駅之姿を為し候而ハ往々本海道より故障申出候様可相成哉も難計候間」それでは,驚いた気賀林は人夫差出方の中止を指令するとともに、七月二十日付をもってこのたびの三方原開拓の理由は「素
浜松市史 四 ([回虫に悩まされて])

三方原開拓農業協同組合がまわした回覧板には「検便結果の御知らせ」として、都田地区の十一家族(全二十人のうち,三方原開拓農業協同組合における「組合内全般については八九・四%の保有率」という全体状況であった。
浜松市史 三 (開拓着手)

生育方取締飯高七之丞、同介赤林立之助、調役地方掛長山晋之助の三名が気賀林と打合わせ、翌二十四日には前記の三方原御用掛が三方原開拓掛,二十七日には三方原開拓掛岩井林右衛門(気賀林)の名をもって、刑部(おさかべ)・祝田(ほうだ)・瀬戸(せと
浜松市史 三 (入植の困難)

明治三年の浜松最初の案内書『浜松漫録』は三方原開拓について述べ「士族数百軒商売是に准し自らに移住し月々,三方原開拓部分図(気賀林宅及び学校敷地付近)
浜松市史 四 ([三方原台地と開墾])

[三方原台地と開墾] 【三方原開拓建設事業 国営開墾 中津川繁雄 開拓者の窮乏 開拓事業実施要領】, 戦後の三方原開拓建設事業は、農地開発営団(昭和二十二年九月から農林省が組織を引き継いだ)の手によって,この内、三方原開拓(三方原工区)は旧陸軍の飛行場と爆撃演習場千三百町歩のうち、九百十一町歩を開墾することになった,表2-30 三方原開拓の地区面積及び計画開墾面積 (単位:町歩)  工区名  地区面積 開墾面積  開田,の記録』より作成 図2-35 三方原開拓建設事業地区位置図
浜松市史 三 (開拓反対 開拓の本格化)

そこで気賀林は二十二日井上八郎に二十五棟はすでに普請進行中でその経費も立替払いをしてあることであるし、「三方原開拓御家中様五六百竈御移住之儀,三方原開拓概念図 気賀借地(14・16~19) 井上・田村借地(4~13) カッコ内の数字は丁目を示す
浜松市史 四 ([揚水による米作の開始])

  【三方原開拓建設事業 三方原の水田化】  戦後になると、主に軍用地となっていた三方原台地一帯,で国営の三方原開拓建設事業が始まったが、開田計画があったのは、三方原工区と西川工区のみでほかはなかった,  【大型揚水機】  戦後に始まった国営の三方原開拓建設事業での地区別の計画開墾面積は第二章
浜松市史 四 ([戦後緊急開拓と浜松の開拓地])

 根洗松開拓 百里園開拓 平手塚開拓 遠州開拓 都田開拓 白昭開拓 豊岡地区 川山開拓 根本山開拓 三方原開拓,もともと三方原開拓農協に参加し工区の中央部に所属していた農家百二十二戸が、昭和三十四年に三方原開拓農協,昭和二十三年に三方原開拓農協の設立に参加したものの、意見を異にし、四十二名が脱退し豊岡開拓農協を設立した,⑬三方原開拓  広大な三方原開拓地の中央部、戦前は陸軍の三方原爆撃場で、爆弾の投下演習が行われていた,三方原開拓には東曳馬野・赤松・共営・愛隣・豊原・瑞穂・千代田・穂積・上志野・前原・旭原・富岡・辺田原の
浜松市史 三 (百里園の解散)

たらずで終りを告げるにいたったのであった(早出町薬師堂境内「明治四十一年虚空蔵菩薩建立由来」、「昭和二年三方原開拓碑
浜松市史 三 (三方原沽券地改正絵図 三方原の村名)

この沽券図はそのころの図と推測され「三方原沽券地改正絵図面」とあり、当時の状況がよくわかる(前掲「三方原開拓部分図,浜名郡誌』には明治十二年とある)といわれるが、多くの士族が離散したのちも留って産を成し村会議員等をつとめ三方原開拓
浜松市史 三 (建白要旨)

計画中の下堀村(現在当市天王町)庄屋平左衛門、「開路」は忰半十郎の意見を徴されるよう「人家取立」すなわち三方原開拓
浜松市史 四 ([トラホームと市立診療所])

  【三方原開拓地のトラホーム】  『静岡新聞』昭和三十一年七月二十八日付の記事では、三方原開拓地
浜松市史 三 (開発許可 士族授産)

【平民移住】そのため三方原開拓の決定をみたのは六月にはいってからで、その内容は「三方原生育方五百軒も御取立
浜松市史 三 (百里園茶製所 三方原救貧院)

【林拝謁】明治十一年十一月一日明治天皇東幸の途次、浜松行在所(あんざいしょ)(第二十八国立銀行)で三方原開拓
浜松市史 三 (三方原茶園開墾計画 着手方法)

なおこれに添えた「三方原開拓着手方法」によると、第一条に「良地ヲ択ヒ町毎ニ阡陌(せんぱく)(あぜみち)
浜松市史 四 ([深刻な食糧・衣料不足を救ったララ物資])

ただ、三方原村役場の「ララ物資の配分について」の文書には、該当者として「三方原開拓地の入植で真に衣料に
浜松市史 五 ([有線放送電話の普及と団地電話の開通])

] 【有線放送電話】  昭和三十四年の都田農協有線放送電話に続いて、同三十七年には豊西・神久呂・三方原開拓農協
浜松市史 三 (運河開掘の諸計画)

運河開掘の諸計画 三方原開拓とともに士族授産につながる事業に堀留運河の開掘があった。
浜松市史 四 (浜松保健所)

例えば、この観点を含めて昭和三十一年度の浜松保健所では無医地区への巡回診療地区として、三方原開拓地区や
浜松市史 三 (移住開始)

【徳川家達見順】明治三年四月になると人煙立ちのぼる三方原開拓地へ「徳川従三位中将家達様」が、順見になった
浜松市史 四 ([コンポストでのごみとし尿の処理])

[コンポストでのごみとし尿の処理] 【コンポスト】  市内で出るごみとし尿はこれまで酸性土壌の三方原開拓地
浜松市史 三 (堀留運河の計画)

のみならず、遠江半国之融通上下之大幸無此上奉存候」と意見を述べたのが端緒であったと述べている(岩井宜徳『三方原開拓記録
浜松市史 四 ([敬神生活の意味])

まさに農業生活を支える信仰心の根元を示しているものであり、三方原開拓という戦後引揚者などの苦闘を昇華させる
浜松市史 四 ([土地の接収、高射砲大隊移駐反対の運動])

  【三方原開拓農業協同組合 三方原演習地反対村民大会】  昭和二十八年二月ごろ、保安隊航空学校,の幹部と米軍顧問団員が三方原村の三方原開拓農業協同組合の事務所を訪ねてきた。
浜松市史 三 (写真・図版目次)

                 六五 堀留運河鑑札(表・裏)      (浜松市神田町 自治会蔵) 六七 三方原開拓記録,浜松市立中央図書館蔵) 六九 気賀林                            七〇 三方原開拓概念図,                       七四 三方原開拓部分図(気賀林宅及び学校敷地付近)         
浜松市史 四 ([消えた作物と新しい換金作物])

昭和29年の統計は三方原開拓地を含まない。
浜松市史 四 (主な参考文献)

静岡県戦後開拓史』静岡県開拓生産農業協同組合連合会 『自立』38周年記念根洗松開拓誌 根洗松開拓農業協同組合 三方原開拓農業協同組合,『創立三十周年記念誌』三方原開拓30周年記念事業会 『天竜川下流水利誌』関東農政局天竜川下流農業水利事業所,静岡県 『明善と天竜の水』金原用排水組合 『静岡県土地改良史』静岡県土地改良史編さん委員会 『三方原開拓建設事業,の記録』農林省三方原開拓建設事業所 『浜松の農業1963』浜松市役所農務課 『へちま』西遠糸瓜振興対策協議会
浜松市史 四 ([様々な職場への女性の進出])

三方原開拓では柏木はつゑ、浜松開拓では加藤やすがその任に当たった。
浜松市史 四 ([青年団・青年会の運動の再出発])

東伊場町青年会は『まなび』、豊西村青年団は『大地』、長上村青年団は『萬年青』、都田村青年団は『青年団報』、三方原開拓青年連盟
浜松市史 四 ([オートレース場の建設])

しかし、これに対して三方原開拓者連盟が六百戸の開拓農民の総意に基づき、オートレース場の三方原開拓地への
浜松市史 四 ([基地の大拡張と反対運動])

飛行場の北側一帯は戦前は浜松爆撃場として使われていたが、戦後は農地開発営団(後に農林省)による三方原開拓建設事業
浜松市史 四 (図・表一覧)

静岡県土地改良史』平成11年2月発行 2-34 買収令書 可美村役場文書「買収令書」 2-35 三方原開拓建設事業地区位置図, 農林省三方原開拓建設事業所『三方原開拓建設事業の記録』昭和35年5月 2-36 村櫛村の臨海開拓地,年3月発行 2-29 専業兼業別農家戸数 浜松市役所『浜松発展史』昭和29年3月発行 2-30 三方原開拓,の地区面積及び計画開墾面積 農林省三方原開拓建設事業所『三方原開拓建設事業の記録』昭和35年5月 2
浜松市史 四 ([市街化と農業])

三方原台地に広がる旧陸軍飛行場、爆撃場跡が解放され、浜松開拓、三方原開拓をはじめ、多くの地区で開拓が行
しいの森はぎの原:わが町文化誌 (浜松市立北部公民館『しいの森はぎの原:わが町文化誌』 目次)

石川数正 夏目次郎左衛門 犀ケ崖】  31 幻の開拓者第一号、駿府豪商・松木新左衛門 ―三百年前の三方原開拓
浜松市史 四 (農地改革の成果)

三方原の開拓地は、三方原開拓農業協同組合管内で千二百四十五町歩に及び、その他根洗松等では百六十町歩であった
浜松市史 三 (目次)

          見舞人足町村との紛争           堀留会社の創設    第二項 三方原開拓
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