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浜松市史 ニ
(主謀者処罰)
主謀者処罰 「手鎖村預ケ
下村
伊左衛門 伝兵衛 半六 畑屋村 伝十 丁田村, 新八 新右衛門 代次郎 上瀬村 善左衛門 欠
下村
六郎兵衛 新村 円蔵
浜松市史 ニ
(ペリー浜松沖通過)
【藩兵出動】外国船が浜松沖に出現し、壱番手の藩兵が出動するので、有玉
下村
からは人足十五人、馬二疋を出すようにというのであった,しかし有玉
下村
は四百弐拾石ほどの高を持ちながら「馬之儀ハ御伝馬役ニ罷出無之」、この伝馬出役の馬もわずかに,これは有玉
下村
だけの特別の現象ではなく、すでに浜松宿の伝馬にさえ、十分な頭数は集められない状況であった
浜松市史 ニ
(義倉社倉の設置)
【有玉
下村
】『有玉村高林家諸用記』によると有玉
下村
における義倉の初見は天保十一年で、その積穀の量は別表,これは有玉
下村
の義倉が正式に発足する以前に同村において義倉と同性質の積穀があり、このとき引き継いだためであろう,(稗) 社倉(稗) 俵 斗 升 合 俵 斗 升 合 畑屋村 15 2 8 5 78 2 2 1 欠
下村
浜松市史 三
(小村の合併)
頭陀寺・参野・恩地・石原・本郷・西恩地・安松・弥十村合併)・有玉村(下・畑屋・町田・上瀬・松木島・新・欠
下村
合併,石原村 本郷村 西恩地村 安松村 弥十村 内野村 小島村 内野村 半田村 新半田村 半田村
下村
, 畑屋村 町田村 有玉村 上瀬村 松木島村 新村 欠
下村
引佐郡 上都田村 下都田村 都田村
浜松市史 ニ
(農兵隊編成)
『有玉村高林家諸用記』によると、有玉
下村
庄屋伊兵衛(方朗(みちあきら)の子)は天保十五年三月九日、有玉役所,に出頭を命ぜられて農兵組頭(小頭)に任ぜられ、その配下に農兵として有玉
下村
喜三郎・松小池村庄屋孫市・同村新之丞,同時に羽鳥村松島右衛門・下大瀬村幾次郎・万斛村嘉平治・橋爪村十右衛門・小池村塩田茂三郎・有玉
下村
作左衛門
浜松市史 ニ
(農民と村役人の衝突)
それというのも善七が有玉
下村
の組頭を務めていただけに、その責任を問われ、調停にはいった村役人もその態度,窮地にたった有玉
下村
の村役人たちは、畑屋村庄屋弥平二の助言で、全面的に非を認め詫状を入れざるをえなかった
浜松市史 ニ
(天保六年)
天保六年 天保六年へはいると、有玉
下村
では六月晦日洪水があり、田二十五町歩のうち二十町歩、畑二十七町歩
浜松市史 ニ
(出張役所設置)
有玉
下村
市場に開かれたのは正月十一日であった。,ついては一歩進めて出張役所に代官の常駐在宅をお願いしたい、と有玉
下村
をはじめ「請所」十五か村の庄屋たちが
浜松市史 ニ
(神主連の情報交換)
神主連の情報交換 右のように岡部・池田両人をはじめ、有玉
下村
の農民有賀豊秋・浜松井上藩士友野次平・宇布見
浜松市史 ニ
(再度の震災)
、地割れや砂の吹きだす田畑もあって、前年の地震のうえにさらに大きい打撃となった(安政二年の引米は有玉
下村
,【調達金下命 安政二年】この調達金をめぐって、有玉
下村
を例にとると村役人たちは十一月二十八日夕方、正光寺
浜松市史 ニ
(職人町と屋敷)
1 鍛冶町 2 板屋町 1 下前島村 1 早馬町 1 平田町 1 有
下村
,高林村 1 利町 1 神明町 1 神明町 1 鍛冶町 10 天神町村 1 有
下村
浜松市史 ニ
(水野藩の加免)
弘化四年(一八四七)十一月に有玉
下村
では文政五年(一八二三)の年貢を皆済するために借りた金が、二十五年目
浜松市史 ニ
(天保二年 天保三年)
になると三月五日飢饉の前兆のごとき霰(あられ)をまじえた雷鳴があり、やがて七月には旱魃がつづき、有玉
下村
浜松市史 ニ
(名前帳提出)
有玉畑屋村招月院 (重立掛)鈴木権右衛門 高林維兵衛 栩木孫十郎 山本桂助 源馬喜平治 半十郎 有玉
下村
, 畑屋村 町田村 上瀬村 松木嶋村 新村 欠
下村
小池村上組 下組 下大瀬村 万斛村 橋爪村 西ヶ崎村
浜松市史 ニ
(天保四年 天保五年)
その五月には有玉
下村
市場の秋葉灯籠に、恒武村仁右衛門が笠井丸一屋惣太郎・松屋徳三郎・上石田村彦左衛門・
浜松市史 ニ
(首謀者詮議)
七月二十日有玉
下村
の伊兵衛は仮役所に出頭を命ぜられたが「先達の乱妨一条何か其後手懸りはこれ無きやとの御尋
浜松市史 三
(三方原村成立)
まで第十二大区二十小区となったり曲折があったが、町村制施行(明治二十二年)のさい三方原村となり、曳馬
下村
浜松市史 ニ
(安政五年の不作)
安政六年元旦、すがすがしい朝をむかえるべき有玉
下村
の庄屋高林維兵衛は、同役長左衛門から、急を告げる書付,この一揆は村役人を越えて直接藩権力にむかったものであるが、有玉
下村
の百姓半六ら一般農民は自分たちの調査
浜松市史 ニ
(御積穀御仕法金制)
この案がどのようになったかわからないが、有玉
下村
支配下五十三か村の醵出額は前年度より百両減の四百両となっている,天保十五年九月に有玉
下村
の半六は「御上様御用向」に対し「過言」があったとして閉門になっている。
浜松市史 ニ
(領民の困惑)
領民の困惑 【庄屋出奔】藩資金の調達に献身してきた有玉
下村
の庄屋吉田長左衛門が、借金の返済にこまり、
浜松市史 ニ
(仕法掛任命)
竹山孫左衛門(天王村庄屋)・杉浦次郎八(入出村庄屋)・斎藤七郎右衛門(瓜内村庄屋)・高林維兵衛(有玉
下村
庄屋
浜松市史 ニ
(開掘願出)
開掘願出 【慶応三年】入野村庄屋竹村又兵衛・楊子村庄屋引馬伝三郎・天王村庄屋竹山孫左衛門・有玉
下村
庄屋高林維兵衛
浜松市史 ニ
(検見の緩和)
【六手代官】六手代官所(陣屋)とは長上(ながかみ)郡丸塚村・同郡有玉
下村
・敷智(ふち)郡入野村・同郡三嶋村
浜松市史 三
(曳馬町)
助信・新津・茄子一色・船越一色・野口・八幡・下池川・上池川・中沢の十六か村を大字として自治村となり曳馬
下村
浜松市史 ニ
(助郷の一本化)
744 中田嶋村 221 有玉村 1376 福塚村 120 2石4斗3升減 寺脇村 453 有玉
下村
,79 渡瀬村 170 永田村 537 名切村 38 笹ヶ瀬村 399 塚越村 68 古川村 62 蒲
下村
浜松市史 ニ
(作付面積の増加)
また有玉
下村
では、天保四年(一八三三)には畑二十五町四段一畝十五歩のうち綿の作付面積は十九町六段九畝二十二歩
浜松市史 ニ
(人口の流出)
また同十年有玉
下村
では人口四百六十人のうちで、村を出て働く者六十五人で領外に移住する者四十三人となっている
浜松市史 ニ
(無役村の人足割)
(表)無役村の人足割 無役村 人足 無役村 人足 漆嶋村 5 人 下飯田村 8 人 欠
下村
4
浜松市史 ニ
(天保十年知行地)
下堀村 将監名村 天王村 天王新田村 篠ヶ灘村 原嶋村 宮竹新屋村 宮竹村
下村
,横須賀村 高畑村 沼村 西美薗村 東美薗村 油一色村 西ヶ崎村 有玉欠
下村
,有玉
下村
有玉町田村 有玉上瀬村 有玉松木嶋村
浜松市史 ニ
(村請制)
享保十四年有玉
下村
年貢割付状 前部・後部(浜松市立図書館蔵)
浜松市史 ニ
(天保七年の飢饉)
」となり米価は一両につき四斗四升で一升百八十四文となり(『西伝寺文書』)、人々の困難は言語に絶し有玉
下村
浜松市史 ニ
(農兵の役割)
橋爪 11月 1日, 2日 大瀬 6日, 7日 畑屋 11日, 12日
下村
浜松市史 ニ
(貧富の差)
貧富の差 浜松領有玉
下村
の持高をみると、享保十年(一七二五)五百十三石九斗二升五合で、このうち同村庄屋高林家
浜松市史 ニ
(調達金下命)
ついては借主には池川の天林寺・上飯田の竜泉寺・有玉の竜秀院・三島の神宮寺がなるが、質物としては有玉
下村
浜松市史 三
(借家建築)
組合頭(入居者世話人)は弥三郎で、平六・周蔵・弥藤治・又三郎・長次郎(以上有玉
下村
)・幸次郎(有玉畑屋村
浜松市史 ニ
(村役人の自重)
【庄屋辞退】有玉
下村
(当市有玉南町)の庄屋左衛門が弘化四年(一八四七)の正月、橋爪(はしづめ)村庄屋十右衛門
浜松市史 ニ
(台場築造)
【家中】これにもとづき有玉
下村
では村役人たちは三月一日夕方村民を残らず正光寺へ集めて今般御台場御家中ニテ
浜松市史 三
(学区制)
安間村 安間新田 北島村 37番 669 薬師村 薬師新田 橋羽村 大蒲村 38番 908
下村
,25小区 5666 189番~196番 村名略す 略 26小区 近藤政敏 197番 891
下村
, 新村 上瀬村 横田保 198番 892 欠
下村
畑屋村 松木島村 町田村 199番 679
浜松市史 ニ
(天保八年の飢饉)
村々へは米で分配されたが、有玉
下村
では人口の四割の百四十六人が一人四合四勺余の米の配給をうけたという。
浜松市史 三
(天竜川通堤防会社 治河協力社 沿岸住民の反対)
しかしこのような計画がどの程度実施されたかは明らかでなく、とくに出資金は安間村村越伊七・与七の百五十円、有玉
下村
浜松市史 ニ
(五月の一揆)
五月の一揆 【高林家】閏五月十日、この日は夜になっても暑さが去らず、有玉
下村
庄屋高林伊兵術はいつまでも
解説『遠江国風土記伝』と内山真龍
(解説『遠江国風土記伝』と内山真龍)
また、有玉
下村
(現 浜松市東区有玉南町)の高林方朗(みちあきら)は、浜松藩主で天保改革を行った水野忠邦,二条日記』と高林方朗(みちあきら) 【高林方朗】 高林方朗は明和6年(1769)8月15日、長上郡有玉
下村
,同書によると、方朗は文政10年(1827)閏6月9日、有玉
下村
の自宅を出立して京都に滞在、任務を終えて
浜松市史 ニ
(国入と領民)
有玉
下村
の場合は、組頭四人に酒一升二合・干肴二十枚、惣百姓八十六軒に酒一斗七升二合・肴二百五十八枚(肴
浜松市史 ニ
(山本大隅の記録)
『さばえのさわぎ』にも山本大隅が、三河の神主加藤監物や有玉
下村
の国学者有賀豊秋らと、「幕府の長州再征の
浜松市史 ニ
(宿駅の困窮と余荷)
寺嶋新田 掛塚村 石原村 船明村 鼠野村 江之嶋村 有掛
下村
浜松市史 ニ
(馬込川流域)
【小池村】翌文政五年になると、早出・有玉
下村
・植松など十一か村の井堰組合と小池村との間に訴訟がおきている
浜松市史 ニ
(村櫛村の鳥浦)
入野川で鳥浦をして「入野川預り役人」と出入におよび(『舞坂宿文書』)、安政二年(一八五五)十一月気賀
下村
代吉
浜松市史 ニ
(御用船)
がある時には、小番船二十二艘のほかに高瀬船十一艘が出勤し、さらに定助船九艘・大助船四十五艘、立野村・森
下村
浜松市史 ニ
(仕法改革)
【中止願】しかし発足してみると種々不都合のこともあったようで、有玉
下村
では「右月割金村々割合之処依怙有之
浜松市史 ニ
(水野氏浜松入)
【城明渡し】有玉
下村
庄屋高林伊兵衛(方朗)は二十二日のことを、当日は上使牧野采女(うねめ)・柴田庄衛門
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