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浜松市史 三
(浜松誘致 士族と国立銀行)
浜松誘致 士族と国立銀行 国立銀行の浜松誘致は、気賀林・気賀半十郎・横田保・青山宙平(磐田郡
中泉
村、,気賀 林 気賀 64 平野又十郎 貴布弥 50 横田 保 内野 50 金原明善 安間 45 青山宙平
中泉
,前島嶼一 見附 30 気賀荘太郎 気賀 30 横田保平 内野 30 横田茂平 内野 30 青山 徹
中泉
,30 竹山謙三 下堀 30 吉川淳平
中泉
●印 士族 年次 季別 資本金 株主数
浜松市史 三
(天領)
中泉
代官大竹庫三郎が誓書を出して勤王を表明し、「遠江・三河・信濃支配地是迄之通被仰渡」(『静岡市史編纂資料第四巻,そして
中泉
(現磐田市)に参河裁判所出張所が置かれるのは五月であった。
浜松市史 三
(石川雅長 林鋼三郎)
また、
中泉
代官(文政年間)羽倉簡堂(外記)が、その娘うめに迎えた
中泉
代官(天保年間)林鶴梁(伊太郎)の
浜松市史 三
(地方行政機関)
これは明治二年(一八六九)正月領内十一か所(府中・浜松・沼津・掛川・相良・
中泉
・田中・小島・赤坂・遠江横須賀,しかし、版籍奉還に伴う機構改革によって奉行所はまもなく廃止され、代って郡政役所が静岡・沼津・田中・掛川・
中泉
浜松市史 ニ
(風流九家会)
青城は井通の熊谷氏、芦岸は
中泉
の山田氏、鹿鳴館は
中泉
の秋鹿氏である。
浜松市史 ニ
(茅野新田)
茅野新田 【弥助新田】また茅野(かやの)新田は寛文五年掛塚村庄屋が開発を
中泉
代官所へ願い出ており、弥助新田
浜松市史 ニ
(水野氏浜松入)
旅籠町伊藤本陣の裏の広場で庄屋一同勢揃いして威儀を正すうちに、何村庄屋誰々と大音で指名され、おそるおそる
中泉
御元,〆服部様の前へまかり出ると、
中泉
代官伊奈玄蕃の口上で、このたびの所替についてのこまかい指示があった。,城明渡し】有玉下村庄屋高林伊兵衛(方朗)は二十二日のことを、当日は上使牧野采女(うねめ)・柴田庄衛門・
中泉
代官伊奈玄蕃
浜松市史 ニ
(鴨渓)
安政四年没、のち林鶴梁(時の
中泉
代官)撰文の頌徳碑が見付の金剛寺境内に建てられた。
浜松市史 ニ
(以弘追慕書画会)
記録によると主催者は以弘の子助弥で、そのほかに掛川駅・見付駅・
中泉
のほか浜松駅・馬郡邑・羽鳥村・恒武村
浜松市史 三
(社会不安と一揆)
(二軒)・木舟村(一軒)・新原村(三軒)・長嶋村(二軒)・宮口村(三軒)が「打倒」され、三年二月には
中泉
方面
浜松市史 三
(復旧工事)
復旧工事
中泉
代官をはじめ浜松藩・旗本知行所は扶食米を放出したりして救済に着手し、破堤個所も仮普請で
浜松市史 三
(人車鉄道)
人車鉄道 なお、四十二年には
中泉
町(現磐田市)と池田村(現磐田郡豊田町)を結ぶ人車鉄道が開通している
浜松市史 三
(復活運動 陳情団上京)
【※新居町駅は大正四年一月の開駅】このとき陳情団は浜松駅以外に掛川・袋井・
中泉
・舞阪・新居の各駅からも
浜松市史 ニ
(杉浦国頭)
(表)杉浦国頭門人録 住所 氏名 入門の年 豊田郡
中泉
秋鹿内匠朝暢 宝永 6 佐野郡垂木村 山崎出雲守久城,15 敷智郡八幡村 金原筑前守清房 同 16 長上郡北島村 大橋主殿正員 同 豊田郡
中泉
浜松市史 ニ
(村櫛村の鳥浦)
鴨猟のはじまる九月になると今切関所へ認可状(千形)の下付を願い、これには関所の管理者である吉田城主と
中泉
代官所,【運上】有効期間は翌年二月までであったから毎年下付を申請する要があり、船一艘につき銀十匁ずつを
中泉
代官所
浜松市史 三
(機関庫 列車運転回数)
(表)静岡・浜松間列車時刻表 明治22年4月16日付官報 下 り 静岡発 掛川 袋井
中泉
,1.25 1.37 1.55 4.00 5.18 5.35 5.47 6.05 上 り 浜松発
中泉
,馬郡 明治21.9.1 明治24年11月1日舞坂、昭和15年舞阪となる 鷲津 明治21.9.1
中泉
浜松市史 ニ
(首謀者詮議)
水野領小嶋陣屋(豊田郡小嶋村、いま磐田郡)管下の村々におよぶおそれがあったことは、同年六月二十九日付で
中泉
代官所
浜松市史 ニ
(応挙と文晁)
【鉄支】応挙と遠江との関係はきわめて少ないが、応挙の門人に
中泉
(磐田市)の山田鉄支がある。
浜松市史 三
(浜松新聞)
浜松印刷株式会社(明治三十六年)となり、大正十五年には社長佐藤章次、取締役兼支配人松浦孤山で、静岡・沼津・清水・
中泉
浜松市史 三
(会社病院)
診療は医師荻生汀宅に於て仮病院の形で開始されたが、これには静岡藩医として
中泉
郡政役所に駐在していた小川清斎
浜松市史 ニ
(宿の財政と助成)
【幕府 藩】幕府は、たとえば寛永十九年のように、当初のあいだは主として
中泉
代官に助成の事務(金品の引渡
浜松市史 ニ
(三方原の名称)
【三方原入会起原】しかしこの原が入会地となった起原は元和年間に溯るのであって、元和年間に
中泉
代官が野米
浜松市史 三
(浜松鉄道株式会社)
【光明電鉄】以上の他に静岡県西部地方には、光明電鉄株式会社(大正十四年六月設立、本社磐田郡
中泉
町、現磐田市,)があって、昭和五年十二月には
中泉
・二俣間を約五十分で結び活躍したが折からの不況と資金難から光明村への
浜松市史 ニ
(報国隊分裂)
徳川藩は赤・報両隊員の東京移住をなんとか、思いとどまらせようと、浜松奉行井上八郎(延陵)や
中泉
奉行らを
浜松市史 三
(改租開始)
いっぽう、同年八月には県下の小区(八〇)を五つの出張所(気賀・
中泉
・二俣・掛川・相良)の管轄に分かち、
浜松市史 三
(西遠銀行)
三階の洋風建築は人の目をそばだたしめ、市内に東(馬込)・南(菅原)、郡部に新居・鷲津・中野町・掛塚・
中泉
浜松市史 ニ
(浜松領受取)
領内村々より参集した村役人たちの眼前で、水野藩役人より
中泉
代官に郷村を返し、即刻その場で、代官の手から
浜松市史 ニ
(追贈大碁会)
間野桂山 有段者 名古屋 加藤隆和 五段 平尾村 水野佐右衛門 後二段 気賀村 岩井半十郎 後初段
中泉
村
浜松市史 三
(郵便取扱所)
浜松と同じ三月一日に創設された取扱所には、白須賀・荒井・見付・袋井などがあり、すこしおくれて舞坂・
中泉
浜松市史 ニ
(浜松藩出動)
掛川藩太田摂津守百九十人、相良田沼玄蕃頭百五十六人、田中本多豊前守三十二人、駿府代官羽倉外記二十八人、
中泉
代官竹垣庄蔵二十八人
浜松市史 三
(オリンピック出場 世界新記録)
野田一雄・片山兼吉(浜一中―明大)・宮崎康二(浜一中)・牧野正蔵(見付中)・小池礼三(沼津商)・竹林隆治(
中泉
農
浜松市史 一
(安政の被害)
中泉
の被害はさほどでもなく、横須賀・相良・川崎辺の家屋は過半が潰れた。
浜松市史 ニ
(掛塚領有案)
家職のさしつかえとなる、ことに掛塚湊は遠州灘をひかえて名だたる「難湊」で舟の出入りには出費が多いため
中泉
代官
浜松市史 ニ
(職人の由緒)
をいただき浜松へ帰り「其節浜松諸職人御褒美として国元居屋敷、一切の御役永く御免被為下、其後御米千石」を
中泉
御蔵米
浜松市史 ニ
(元和の野論)
元和の野論 さらに詳しく述べるならば元和六年(一六二〇)
中泉
代官所(天領)の奉行中野七蔵が遠江の知行割
浜松市史 三
(運河開掘の諸計画)
岡村黙之助義理(よしさと)が入野川の水を浜松城下元目(げんもく)の御堀まで引き通船の便を計ろうとしたのも、また
中泉
奉行前島密
浜松市史 ニ
(天領の代官)
【市野氏 惣太夫 浜名代官】近世初期の浜松地方の代官としては、
中泉
(なかいずみ)村(磐田市)の秋鹿家と
浜松市史 ニ
(葉隠堂只木)
そのうち二十七句は遠江の掛川・
中泉
・新貝・大原など十三か所からの出句で、浜松とあるのは、つぎの一句のみである
浜松市史 三
(人民反対 条件承認)
天保十年佐野郡倉真(くらみ)村、現掛川市に生まれる、父は佐平治、大正四年没、七十七歳)・青山宙平(文政元年生、磐田郡
中泉
浜松市史 ニ
(柳也と月並句会)
近郷の船越・金洗・篠原・高塚・宇布見・掛塚とつづき、
中泉
・横須賀(磐田郡)・上州館林(第六章第六節参照
浜松市史 三
(資産金貸附所)
本社を浜松(板屋町)に第一分社を
中泉
(現在磐田市)、第二分社を掛川(現在掛川市)においた。
浜松市史 ニ
(海の難所遠州灘)
【篠原海岸】慶応三年(一八六七)十一月難破船から抜荷をしたという嫌疑をうけた篠原村(当市篠原町)民は
中泉
代官所
浜松市史 三
(遠江の報徳 与平治力伝 天竜川の氾濫と報徳 西遠農学社)
には白鳥村はじめ九か所で破堤し浸水は合流して豊田・長上・麁玉・敷知の四郡を横流して遂に浜名湖に注ぎ、
中泉
浜松市史 ニ
(天竜川の出水)
天竜川堤防の修理には「公儀普請」と「自普請」の二種があり、前者は幕府(
中泉
代官所)の直轄工事になり後者
浜松市史 ニ
(町民の生活)
があるが、文政六年(一八二三)に浜松宿新町の越川屋藤助は御触書に違反して秤を内密に改作したことを発見され、
中泉
代官所
浜松市史 ニ
(浜松の主要交通路)
より入る道筋にて 一浜松より日坂宿まで道法九里三拾四丁 【横須賀道】一浜松より横須賀町まで、
中泉
浜松市史 ニ
(天竜川安間川流域)
、明治初年にいたるあいだ、井組は「圦樋」「待圦」の修理伏替その他用水の維持に関する願い出を浜松藩主・
中泉
代官所宛
解説「国絵図」
(解説「国絵図」)
遠江国では、東海道筋では新居のほか、小夜中山、
中泉
、本坂通筋では、野地、三ヶ日に御殿があった。,間の宿である「菊川町」、代官所のあった「
中泉
町」、天竜川西岸の町屋である「中ノ町」、白須賀宿の加宿である,「驛肆」をみると、東海道では宿場に加えて立場である天神町、代官所が置かれた
中泉
、本坂通では市野宿、気賀,「古跡」は浜名橋一所(新居、舘山寺西の2ヶ所に記載)、女屋、舟ツキ松(
中泉
)等が記載される。,d.国境への道のりについては、駿河、信濃、三河へ通じる主な道筋の国境には、各々、横須賀、掛川、
中泉
、浜松
天竜市史 上巻
(天竜市史 上巻 目次)
米価の高騰 長州征討と御用金賦課 第四節 江戸幕府倒壊前後の情勢 六九五 「ええじゃないか」乱舞
中泉
代官領
水窪町史 下
(水窪町史 下 目次)
往来手形 一二七 3 水窪から南への道 一二八 (1)秋葉街道 (2)水窪から城西へ (3)水窪から
中泉
代官所
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