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浜松市史 四
(学校新聞)
学校新聞 【北部中学校
中部中学校
西部中学校 南部中学校】 新教育が始まると生徒の自主的活動が,
中部中学校
も早くから新聞を発行していたようで、昭和二十四年八月に発行した『学友新聞』第六号には子供銀行
浜松市史 五
([教室不足とマンモス校、新しい学校の設立])
中学校 順 学校名 生徒数 1 西部中学校 1938人 2
中部中学校
,して一学級五十八人、元城、相生の両小学校は同五十七人、八幡中学校では一年生と三年生は五十九人を超え、
中部中学校
,生徒数が特に多かった
中部中学校
では、昭和三十二年から蜆塚に蜆塚教室を建設、昭和三十五年四月に蜆塚中学校,当時の生徒数は五百七十六名、これに対して分離した
中部中学校
の生徒数は千六百八十一名もおり、まだ市内で最多
浜松市史 四
([市役所の移転新築])
静岡新聞』には「元城町へ新庁舎が出来上れば旧浜松城天守閣下一帯は浜名地区署、浜松税務署、浜松図書館、
中部中学校
浜松市史 四
([新制中学校の建設])
[新制中学校の建設] 【東部中学校 西部中学校 南部中学校 北部中学校
中部中学校
八幡中学校 曳馬中学校,
中部中学校
は浜松高等女学校の跡地に設立されたが、校舎はなく戦災で唯一残った高等女学校の記念館を間仕切りしたり
浜松市史 四
([農繁休暇と手伝い])
昭和二十年代は、
中部中学校
など中心部の一部の学校を除くと、東部・西部・南部・北部などの中学校においても
浜松市史 五
([子供の成人病検診])
昭和三十八年一月から市内の東小学校、元城小学校、五島小学校、北小学校、
中部中学校
の全校児童・生徒を対象
浜松市史 五
([中学生の頭髪自由化])
これにより昭和六十二年度から校内に校則見直し委員会を設置して、教職員や生徒、父母が一緒になって検討をしてきた
中部中学校
浜松市史 五
([横断歩道(歩道橋・地下道)の整備])
同年には、三月に塩町の国道一号線に歩道橋を架設することが決定、同年七月には元城小学校前と
中部中学校
前の
浜松市史 五
([光化学スモッグの発生とその対策])
浜松市でこれが初めて起こったのは同四十八年六月三十日(土曜日)の午後、松城町の
中部中学校
と向宿町の浜松女子商業高校
浜松市史 五
(青年学級)
開設科目は機械技術科、電気技術科、自動車技術科の三科目で定員は各六十名、場所は中心部の
中部中学校
となった
浜松市史 四
([進学と就職])
蜆塚の一部を除いてほとんどが都市部を学区としていた
中部中学校
では、昭和三十三年度の三年生の学級は十六クラス
浜松市史 四
([結核患者・死亡者の減少と医療機関の転進])
特に南部中学校・
中部中学校
・元城小学校では兄弟の感染者がいることを指摘している。
浜松市史 四
([学区制と入学試験])
これを受けて翌二十五年には浜松市立高校を家庭科だけの高校とし、普通科の浜松北高は市内の北部・曳馬・
中部中学校
区
浜松市史 四
([青年学級の開設])
同年二月十七日に浜松市中心部の商店街が一斉休日制を行ったことを契機に、浜松市教育委員会は中心部にある
中部中学校
浜松市史 四
([戦災による分散授業と移転])
浜松高等女学校は、当時浜松市松城町(現在の浜松市立
中部中学校
の位置)にあったが、六月十八日の空襲による
浜松市史 五
([体育館とプールの建設])
昭和五十五年六月十九日に落成式を迎えた
中部中学校
のプールは市内の既存の公立中学校では最後に出来たものであったが
浜松中心街の今昔:わがまち文化誌
(浜松市立中部公民館『浜松中心街の今昔:わが町文化誌』 目次)
北小学校 山下町 空襲 天皇行幸】 246 【船越小学校 船越町 東小学校 八柱神社】 248 【
中部中学校
,【遠州教会 蓮華寺 心造寺 善正寺 浜松町役場】 341 三 松城町 【馬冷 作左 袋町
中部中学校
浜松市史 四
(主な参考文献)
静岡県立浜松工業高等学校 『西山台に立つ』―浜松西高青春群像― 静岡県立浜松西高等学校同窓会 『学友新聞』
中部中学校
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