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浜松市史 三
(二俣街道)
二俣
街道 ④
二俣
(ふたまた)西街道 いわゆる
二俣
街道である。,県道となって
二俣
浜松停車場線といった。 /
二俣
街道
浜松市史 一
(二俣近江守)
二俣
近江守
二俣
氏
二俣
近江守昌長が享禄二年(一五二九)ころ、実在したことは『遠江国風土記伝』所収の,【
二俣
城】また天文五年(一五三六)十二月今川義元の判物写には「
二俣
近江守・朝比奈下野守寄進状」とあり、,
二俣
城を守り、今川氏の部将であった(『玖延寺文書』)。,なお(永禄十一年)十二月十二日の家康判物のうちに「
二俣
左衛門跡職」(『鈴木文書』)とある。 /
二俣
近江守
浜松市史 ニ
(二俣城攻略)
二俣
城攻略
二俣
城は七か月の籠城で食糧がつきた。,牧野城と
二俣
城の占領は家康にとって大きな収穫であった。 /
二俣
城攻略
浜松市史 ニ
(二俣城の地形)
二俣
城の地形
二俣
は、浜松の北方約二〇キロ、浜松から南信方面への交通路の要地である。,
二俣
城は、今川氏の将松井和泉守が家康の入国のとき降参した。,合代島に陣した信玄は、子勝頼に
二俣
城を攻めさせ、馬場信春に北条氏政の援兵をそえて浜松からの援兵にそなえさせた /
二俣
城の地形
浜松市史 ニ
(二俣城陥落)
二俣
城陥落
二俣
城はなかなか陥落しない。 /
二俣
城陥落
浜松市史 三
(二俣へ行く鹿島線)
二俣
へ行く鹿島線 ①鹿島線 浜松田(字板屋)と磐田郡
二俣
(ふたまた)町(鹿島)間を結ぶ十七・七キロメートル,で軌幅二フィート六インチ(七六二ミリメートル)、明治四十二年十二月六日開通、鹿島線(
二俣
線ともいった),人口密度も多く産業経済の発達した西遠平野を南北に縦貫する
二俣
街道(
二俣
西街道ともいう)に沿って新設され,停車場入口に立派なアーチが建てられ、二十八人の定員に対して、四十人以上が乗り込んだため、浜松から岩水寺、
二俣
/
二俣
へ行く鹿島線
浜松市史 三
(浜松二俣線)
浜松
二俣
線 ②浜松・
二俣
間 大正七年七月創立の浜松自動車株式会社(本社浜松市大字田、社長久野幸太郎) / 浜松
二俣
線
浜松市史 ニ
(昌景二俣に着陣)
昌景
二俣
に着陣 信玄が出発するまえ、九月二十八日信濃伊奈衆をひきいて三河に入った山県昌景は、山家(やまが,だみね)の菅沼貞忠・長篠の同満直を先鋒として吉田を奪い、遠江の井伊谷(引佐郡引佐町)に陣し、三河から
二俣
,昌景は
二俣
で攻囲軍に参加する。 なお信玄は、早くから秋山信友に美濃方面に侵入させていた。 / 昌景
二俣
に着陣
浜松市史 ニ
(二俣城を包囲)
二俣
城を包囲 信玄は見付の台から北に向かい、匂坂(さぎさか)(見付の北方約四キロ)を攻略し、合代島(,ごうだいじま)(見付の北方約一五キロ)に陣して
二俣
城(合代島の西方約七キロ)を囲む態勢をとる。 /
二俣
城を包囲
浜松市史 三
(二俣佐久間線)
二俣
佐久間線 この遠信鉄道案は、その後省線として取り上げられることとなり、
二俣
佐久間の名称のもとに昭和十二年建設 /
二俣
佐久間線
浜松市史 ニ
(信康二俣城に自害)
信康
二俣
城に自害 九月十五日信康は、父家康から自殺を命ぜられて切腹する。二十一歳。,
二俣
の清滝寺に葬られた。 築山殿関口氏は信康の母で、家康の正室である。 / 信康
二俣
城に自害
浜松市史 三
(遠美鉄道 二俣線 都田駅)
遠美鉄道
二俣
線 都田駅 政府も大正九年に遠江と三河・美濃方面を結ぶ遠美鉄道(遠江掛川駅より中央線大井町駅間,これが
二俣
線(湖北線ともいった)で、工事は十年から十一年にかけて東は掛川駅から、西は新所原駅(豊橋と新所原駅間,東海道線を共用)から着工し、利木トンネル等の工事があったが、十一年十二月には豊橋駅と三ケ日駅間のいわゆる
二俣
西線,単線で三ケ日・
二俣
・森を経由し距離七十九・一キロメートル、遠州北部方面の材木、浜名湖北方面のセメントの / 遠美鉄道
二俣
線 都田駅
浜松市史 ニ
(二俣城にそなえる)
二俣
城にそなえる 六月には社山(やしろやま)(磐田郡豊岡村)・合代島(ごうだいじま)(同上)・渡島(,わたがしま)(天竜市)の諸砦をきずき、
二俣
城にそなえ、長篠を攻撃する。 /
二俣
城にそなえる
浜松市史 五
([二俣電車線の輸送量増強])
[
二俣
電車線の輸送量増強] 【
二俣
電車線】
二俣
電車線の輸送人員は、『遠州鉄道四十年史』によれば,【
二俣
線遠江
二俣
駅まで乗り入れ】 また、昭和三十六年五月には、国鉄
二俣
線遠江
二俣
駅まで乗り入れていた,しかし、
二俣
線乗り入れは昭和四十一年十月、遠江森駅まで延長後約六年で廃止となった。 ,【赤い車体の誕生】 なお、
二俣
電車線の車体は、昭和三十六年十二月、それまでのクリーム色とグリーンの,
二俣
電車線の旅客輸送の増加、車両の大型化、運行回数の増加等に伴う電力使用量の増大に対応して、昭和三十年 / [
二俣
電車線の輸送量増強]
浜松市史 三
(二俣線開通と西鹿島駅 遠州鉄道株式会社)
二俣
線開通と西鹿島駅 遠州鉄道株式会社 昭和に入り不況の波がおしよせると、鹿島線沿線の岩水寺を遊園地,その後十五年省線の
二俣
線が開業すると、旧駅(鹿島駅)より浜松寄りに新しく省線と共同の西鹿島駅を設置した /
二俣
線開通と西鹿島駅 遠州鉄道株式会社
天竜市史 下巻
(天竜市史 下巻 目次)
から
二俣
警察署へ 二五五 分署の設置 巡査の勤務と犯罪 派出所の設置
二俣
警察署 第三項 戦後の警察法,の場合 六四九 幕末の
二俣
村 遠州
二俣
の景況 寄留人の問題 産物と商人 二十年前後の
二俣
の商圏 所得構成,
二俣
町商業組合の設立
二俣
とその周辺の職業構成
二俣
の屋並みと商店 北遠の中心地
二俣
の発展 第二節, 大園道路 第二節 道路組合の時代 七七八 見付・
二俣
間道路 森・
二俣
間道路 山梨・
二俣
間道路 浜松,・
二俣
間道路 河輪・
二俣
間道路 笠井・
二俣
間道路
二俣
・熊間道路
二俣
・犬居間道路 横山・熊間道路
浜松市史 四
([国鉄バスの運行])
昭和二十一年七月に名古屋鉄道局は、遠州鉄道に対して同社の水窪線(
二俣
─水窪間)を省営バスに譲渡するよう,これは国鉄が、佐久間線(
二俣
─佐久間間)が出来るまでその区間をバスで代行するという計画に沿ったものであった,結果的に、遠州鉄道は
二俣
電車線の
二俣
乗り入れなど六項目の条件を付けて水窪線を譲渡した。
浜松市史 四
([史上最多の利用客])
[史上最多の利用客]
二俣
電車線の乗降客数は、創立年度の昭和十八年度は二百三十万人(昭和十八年十一月,
二俣
方面や沿線の各地域から、たった一筋の
二俣
電車線にすがりつくようにして利用する日が続いた。,図2-44
二俣
電車線の混雑(『鉄道ピクトリアル』昭和40年1月号より)
浜松市史 五
([国鉄ローカル線の廃止])
[国鉄ローカル線の廃止] 【
二俣
線】 国鉄ローカル線は、モータリゼーションの進展によって輸送量が,昭和五十七年十一月、東海道本線掛川駅と同新所原駅を結ぶ
二俣
線が第二次廃止対象路線の候補となった。,これより先の昭和五十六年六月以降、沿線の十三市町村による
二俣
線存続沿線市町村対策協議会による
二俣
線存続運動
浜松市史 一
(松井氏)
【蒲御厨
二俣
城】そして義元のときに松井宗信は、鎌田御厨をはじめ
二俣
・野辺・下平河・津久部、蒲御厨の鶴見,・長田両郷の代官職を知行し、今川家の支城
二俣
を守っていた。
浜松市史 ニ
(遠江国侍の来降)
の後藤氏(引佐郡三ケ日町日比沢・本坂)・頭陀寺の松下氏・匂坂氏(さぎさか)・上村氏などは人質を出し、
二俣
城,家康は鵜殿氏長らに
二俣
城を守らせる(『譜牒余録後編』)。
浜松市史 四
([乗降客の変遷])
[乗降客の変遷] 【
二俣
電車線 奥山線】
二俣
電車線による輸送人員は、昭和二十年度に千五十七万人,
二俣
電車線と奥山線を合計すると同期間では八百万人後半から九百万人台で推移した。
浜松市史 ニ
(天明の騒動)
【笠井方面
二俣
方面】このころ、また笠井村には過激な立札を立てる者があり、豊田郡
二俣
(ふたまた)村では,十月十六日笠井村では庄三郎・庄兵衛・庄右衛門(以上池田家一統)・徳三郎ほか二軒が強奪にあい、翌十七日夜には
二俣
村,その原因は「
二俣
村商人共」が物資を買い占め売り惜しみをしたためであるという(『中村文書』)。,笠井村といい
二俣
村といい、いずれも町名をもって呼ばれ、前者は笠井市(後述)の市場であり、後者は北遠地方
浜松市史 一
(斯波氏の反撃)
斯波氏の反撃 【
二俣
昌長】文亀元年(一五〇一)三月、社山(やしろやま)(磐田郡豊岡村)城主の
二俣
昌長
天竜市史 上巻
(天竜市史 上巻 目次)
三波川変成岩帯 五 第三節 貫入岩 六 第四節 秩父古生層 一〇 第五節 四万十帯 一一 第六節
二俣
地溝帯,天野氏の山香荘入部 鎌倉幕府の滅亡 第二節 南北朝時代の北遠地方 二二一 建武の新政 南朝と遠江
二俣
郷,二五七
二俣
城主の性格 瀬名一秀 朝比奈時茂
二俣
昌長 松井貞宗 第三節 引馬城主の所領 二七三,の攻防 第七節 徳川支配下の北遠地方 三〇六 大久保忠世の
二俣
城入城 徳川信康 第八節 堀尾氏の北遠支配,三二〇 堀尾氏の北遠支配と転封 第三章 中世の城・館 第一節 城郭 三二九 中世の城郭
二俣
城
浜松市史 五
(第三セクター)
けて、同会は昭和六十一年一月に第三セクターの新会社を設立して存続させることを決定、さらに同年三月には
二俣
線特定地方交通線対策協議会,同六十三年に
二俣
―横山間の約七割の工事を終了したのみで建設は中止となった。
浜松市史 五
(天竜浜名湖鉄道)
運輸審議会は、同年十一月、
二俣
線の運営を引き継ぐ天竜浜名湖鉄道会社と、線路、駅舎などの無償譲渡についての,役割を終えた
二俣
線存続沿線市町村対策協議会は解散し、同線の利用促進を図るための対策を検討・実施する組織,同車両は合計十三両が発注され、第一陣の六両が昭和六十一年十一月末に、第二陣七両が翌年二月に遠江
二俣
駅に
浜松市史 五
([工事線への編入と着工])
事業認定されたのは国鉄
二俣
線遠江
二俣
駅─飯田線中部天竜駅間約三十二キロメートルで、鉄道建設費用は約八十億円,【佐久間線の着工】 昭和四十二年四月二十七日、
二俣
─横山間十三・四キロメートルについて運輸大臣からようやく,国鉄佐久間線建設期成同盟会は、建設工事の早期完成はもとより、工事費などの大幅増額、横山─中部天竜間の工事認可、
二俣
浜松市史 四
([利用客の動向と能力の限界])
既述のように、同年に奥山線の起点である東田町駅と
二俣
電車線の遠州浜松駅とが遠鉄浜松駅に統合され、バスの,とはいえ、それ以降、
二俣
電車線の利用者数が一貫して伸びたのに対して、奥山線は再び減少に転じた。 ,表3-26
二俣
電車線と奥山線の停留場新設・駅名変更・駅舎改築等 年月日
二俣
電車線 奥山線 昭和26
浜松市史 三
(浜松と近郊間の馬車)
【宇布見 掛塚】このほかに金指・入野・宇布見・掛塚・
二俣
方面へも乗合馬車が運行されるようになった。,立場は笠井行は田町(現在の静岡銀行浜松支店付近)、
二俣
行は元目、気賀・金指行は高町、宇布見行は伊場にあった
浜松市史 五
([国鉄バスの運行])
[国鉄バスの運行] 【国鉄バス】 国鉄バスの営業所は、西北遠地域では新居町と遠江
二俣
に置かれ、浜松,および浜松周辺の主な運行路線は、山間部を中心とした遠三線(浜松―三河大野)、天竜本線(遠江
二俣
―池島),国鉄バスが運行していた浜松―佐久間ダム間または遠江
二俣
―佐久間ダム間の運行は、昭和三十九年三月に廃止された
浜松市史 一
(三方原)
三方原 天竜川が山地をはなれる
二俣
付近を頂点として磐田原と三方原の一対の洪積台地が南に向かって扇状にひろがる,山地をはなれる天竜川(天竜市
二俣
付近)
浜松市史 三
(浜松最初の自動車 郊外自動車)
七年には市と郊外とを結ぶ営業用自動車が走りはじめている(『静岡民友新聞』によれば明治三十八年には浜松・
二俣
間,最初で、これより各地との間に郊外自動車の発達をみるのであるが、その主要な路線は①浜松・笠井間②浜松・
二俣
間
浜松市史 四
([市内中心部の被害甚大])
[市内中心部の被害甚大] 【遠州鉄道
二俣
電車線 戦災被害】 遠州鉄道
二俣
電車線の施設は、昭和二十年
浜松市史 四
([その他のスポーツ])
[その他のスポーツ] 【駅伝競争大会】 浜松・
二俣
間のマラソン大会は戦前から行われていたようで、,スタートは
二俣
町役場、ゴールは松菱百貨店前ということもあって、沿道での声援が大きかった。
浜松市史 三
(小野組支店)
豊田郡
二俣
村 明治31.1 営業満期前の特別処分により普通銀行へ 明治31.1 立百三十八 磐田郡
二俣
町,大正10.10 他行と合併して
二俣
銀行を設立 明治12.9 荷質会社 浜名郡舞阪 明治25.12,遠江銀行と改称 明治38.10 遠江 浜名郡浜松町 大正15.3 遠州銀行と合併 明治31.2
二俣
貯蓄,磐田郡
二俣
町 明治44.6 東京へ移転 明治31.2 都田 引佐郡都田村 昭和18.8 解散 明治,昭和3.8 他行と合併して西遠銀行(第二次)を設立 明治34.2 中瀬 浜名郡中瀬村 昭和5.7
二俣
銀行
浜松市史 四
([ポール式からパンタグラフ式に])
[ポール式からパンタグラフ式に] 【パンタグラフ式
二俣
電車線】 戦後復興とともに車両の近代化を,同工事は昭和二十七年十二月に完成し、これにより
二俣
電車線の戦後輸送体制の基礎が確立した。
浜松市史 四
(赤穂への移動)
)によれば、「最後の人員出発は…八月十五日早朝、教導隊は…兵営内の清掃を入念にやって、各中隊ごとに『
二俣
駅,…十二時少し前に『
二俣
』駅前に赤山隊長を中心に整列して、〝終戦の詔勅〟を聞いた。
浜松市史 一
(東方の地質)
二俣
から掛川へかけて発達する鮮新世の掛川層群は、ゆるやかに南西に傾斜し、その下の中新世上部の相良層群は
浜松市史 四
([国鉄バスの路線拡大と遠鉄バス])
バス】 遠鉄バスは、北遠については、昭和二十一年に水窪線を国鉄に譲渡したとはいえ、旧阿多古自動車(
二俣
,さらに、昭和二十七年十二月には
二俣
─浦川間、三十年十二月には浜松─渋川温泉前間にバスの運行を開始した。
浜松市史 四
([交通の拠点・遠鉄浜松駅])
[交通の拠点・遠鉄浜松駅] 【遠州浜松駅と東田町駅を統合】
二俣
電車線の駅名変更と駅舎改築等については,同駅は、それまで百メートル以上離れていた
二俣
電車線遠州浜松駅と奥山線の起点である東田町駅を統合したもので
浜松市史 三
(遠州紡績株式会社)
遠州紡績株式会社 つぎに
二俣
方面であるが、ここには政府の紡績奨励政策の一環として、洋式紡績工場(豊田郡
二俣
村
浜松市史 四
([和田―水窪線の建設])
天竜東三河特定地域総合開発計画では、道路関係として昭和二十七年以降二級国道となった旧県道飯田浜松線(浜松─
二俣
間,)、同じく旧県道静岡浜松線(静岡―浜松間)の道路改良事業のほか、
二俣
水窪往還(秋葉街道)をさらに青崩峠
浜松市史 ニ
(犬居城攻撃)
二俣
城と武田氏との連絡をたつためであろう。
浜松市史 三
([新しい綿糸への模索])
[新しい綿糸への模索] 浜松にこのような動きが見られたころ、東北部綿作地域と
二俣
地方には紡績工業が胎動
浜松市史 一
(熊野信仰)
二俣
・井伊谷などは、その国衙領である。
浜松市史 一
(騎馬武者が中心の軍隊)
元亀(げんき)三年(一五七二)十二月、武田信玄は遠江
二俣
城の守備軍に対し「忍の用心」を警告している(『
浜松市史 ニ
(測量術)
このため
二俣
(天竜市)・掛塚(磐田郡竜洋町)では木材や物資の集散が増して便益を得た。
浜松市史 一
([都田川流域])
して東南流し、浜松市域の最北端にある滝沢付近では景勝地滝沢渓谷を形成しつつ、流路を南にかえ、さらに国鉄
二俣
線都田駅東方
浜松市史 三
(第二十八国立銀行)
静岡の第三十五は十一年五月十五日、沼津の第五十四は同年十月十一日、見附の第百二十四は同年十一月十日、
二俣
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