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浜松市立中央図書館/浜松市文化遺産デジタルアーカイブ

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浜松市史 ニ (五社明神社)

五社明神社 つぎに浜松城下の神社について記す。  ,五社明神社(当市利町、五社神社諏訪神社)創立年代不詳。,旅籠町平右衛門記録』)、城内には後宮(あとみや)がまつられその拝礼は例年二月初午の日であったという(『御城内五社御旧跡拝礼覚 / 五社明神社
浜松市史 ニ (五社の絵画と彫刻)

五社の絵画と彫刻 このうち五社の本殿について述べると、建物は内外とも漆塗にし、外部は朱、内部は蝋色でいずれも,壁画(鳳凰と折花)は狩野山楽(一五五九-一六三五)あたりの筆であろうと伝えられている(吉岡勇蔵「浜松五社神社御由緒並,五社神社拝殿正面欄間彫刻 / 五社の絵画と彫刻
浜松市史 三 (五社と諏訪 井伊谷宮)

五社と諏訪 井伊谷宮 神社制度の整備による神官の世襲禁止と上知令とは神社の経済的基礎を失うことであり,、ことに徳川家の庇護の厚かった五社神社と諏訪神社(いずれも浜松利町、朱印高三〇〇石)などはその打撃が大 / 五社と諏訪 井伊谷宮
浜松市史 三 (浜松教導職 浜松中教院 五社神社)

浜松教導職 浜松中教院 五社神社 これを浜松県でみると、浜松県の教導職の活動は明治六年に始まった。,十月に県内の神官七十の教導職採用願を提出し(『岡部家文書』)、十一月に最初の説教を浜松利町の五社神社で,翌七年八月には浜松中教院を五社神社境内に設立し、翌八年二月には鎮座祭を施行し、その後ここを会場とし、神仏各 / 浜松教導職 浜松中教院 五社神社
浜松市史 ニ ([神社の建築物と庭園])

[神社の建築物と庭園] 【五社 諏訪社】浜松地方の代表的な建造物に五社・諏訪社(当市利町)があげられる,「お江戸みたくば五社・諏訪ごろじ、お江戸まさりの五社や諏訪」「石になりたや浜松石に五社のお前(まえ)の,切石に」とむかし俗謡にうたわれた五社・諏訪社は桃山様式の権現造りで、すぐれた彫刻・絵画をそなえていた。,この五社・諏訪社も竣工以来たびたび修復されて維持してきたが、本殿(五社神社の本殿は大正三年に特別保護建造物
浜松市史 一 (当市内の徳川氏の氏神)

当市内の徳川氏の氏神 【五社神社 諏訪神社】なお徳川氏の氏神は、五社神社とか諏訪神社だともいわれる(,天正八年(一五八〇)七月、家康は浜松城内の五社明神を城外に遷した(『浜松御在城記』『武徳編年集成』)。,慶長十五年(一六一〇)十月、彦坂光正の判物写には「浜松御社大明神領之事」(「五社神社文書」『浜松市史史料編二,当市内利町(とぎまち)の五社神社がこれで、相殿(あいどの)には応神天皇と家康とをまつる。  
浜松市史 四 (神社の統合 墓地の移転)

神社の統合 墓地の移転 【五社神社 諏訪神社】  浜松の旧市内には多くの社寺があり、寺院にある墓地,神社のうち合併したものは五社神社と諏訪神社で、旧五社神社内に五社神社諏訪神社と改称し、仮社殿を建てた。
浜松市史 四 ([社殿再建築の動き])

  【五社神社 諏訪神社】  戦前には近世以来の社格の伝統を有し、独立した社殿を構えていた,五社神社、諏訪神社では、昭和十三年に五社神社が修復竣工、同二十年に諏訪神社が修復竣工した直後、同二十年六月十八日米軍,戦後、まず昭和二十三年に五社神社仮殿ができ、同三十五年には五社神社と諏訪神社が合祀されて五社神社境内に,するものであったが、浜松の産業界や団体・個人の寄付に拠ったものという(浜松市立中央図書館・浜松読書文化協力会編「五社神社,  【五社・諏訪両社の復興工事】  五社・諏訪両社の復興工事にみえるこのエネルギーは資金
浜松市史 ニ (諏訪明神社)

諏訪明神社 諏訪明神社(当市利町、五社神社諏訪神社)五社明神社の南隣にある。,五社明神とならんで「台徳院殿御誕生処之明神」(寛永十一年社領寄付朱印状写)として崇敬された。,五社明神といい諏訪明神といい、社殿も荘厳で(後述。第七章第五節)、浜松の代表的な神社であった。
浜松市史 ニ (浜松の諏訪社)

【浜松の五社】そして三代将軍家光の命令により寛永十一年(一六三四)から社殿の修造が始まり、この時に社地,を「並宮」の五社と一緒に引きあげて西山へ遷した―駅屋之上とか西山へ引きあげという傾斜地は正徳三年(一七一三,慶長のころまではここに五社・諏訪社はなかった―五社が浜松城内からこのあたりにうつされたのは浜松城普請の,「五社大門通」「諏訪大門通」東西約五十五間(享保九年の『遠州浜松各町書上』)がここにみられる。,【浜松城主の保護】徳川将軍家は、二代将軍秀忠の御産神としても、五社諏訪の大明神を崇敬し手あつい保護を加
浜松市史 三 (忠魂碑 招魂祭)

【五社神社】浜松町の記念碑は日露戦争後に五社神社の境内に建てられた。,金色の鵄(とび)を置いた碑は、招魂祭(十一月二十三日の新嘗祭の日などに行われた)の中心であった(現在五社公園内
浜松市史 ニ (誕生屋敷)

誕生屋敷 【五社松】二の丸の西の広場は、二代将軍秀忠の誕生屋敷跡というので誕生の松が植えられていたらしく,この関係はわからない)、その北つづきには、天正八年(一五八〇)常寒山に遷座した五社大明神跡で、五社松という
浜松市史 ニ (森暉昌)

森暉昌 諏訪社の大祝杉浦国頭とならび称せられる五社明神の神官森暉昌(もりてるまさ)は、国頭と同様に社殿修造,とねりしんのうせんねんさい)には祝詞を撰し、この地方における神職としてつねに指導的位置にいた(内田旭「五社,五社裏の清水谷に葬る。,光海霊神】賀茂真渕の撰になる、暉昌の事績を記した光海霊神(うなてりのみたま)(暉昌の諡号)の碑銘は、いま五社神社諏訪神社
浜松市史 三 (神社仏閣)

神社仏閣 【五社明神 諏訪明神】「神社仏閣」 五社大明神・諏訪大明神がある。,【心造寺】時の鐘は五社大明神の北隣の心造寺で二六時撞いている。,五社神社(浜松市利町) 鴨江観音(浜松市鴨江4丁目)
浜松市史 ニ (戦勝祈願)

【屯所五社】三月二十五日本隊四十一名の出発にあたって、屯所の五社の社前に戦勝を祈願して式典があげられた
浜松市史 ニ (社領)

石高も徳川家から格別の優遇をうけた浜松利町(とぎまち)の五社明神・諏訪明神両社が各々三百石で計六百石、,過半を占め、これを除くと一般神社の朱印高・除地高はきわめてすくない(寛文朱印帳によれば全国で九百八十五社
浜松市史 四 ([神道指令と神社の諸問題])

[神道指令と神社の諸問題] 【五社神社 諏訪神社 氏子総代 公職追放】  日中戦争から太平洋戦争に,拡大した時代において、五社神社・諏訪神社は国家神道下の浜松の総社として位置付けられていた。,五社神社・諏訪神社の場合は徳川秀忠誕生における産土神を祭ったことに由来する格式を誇っていた。,に収斂(しゅうれん)していく(湯浅隆「二 五社神社、諏訪神社の成立過程」、斉藤新「四 近代の五社神社と,右の全七カ条で述べられた問題点は、五社神社・諏訪神社特有の問題点ではない。
浜松市史 三 (郷社 村社 浜松郷社)

岡部政美(前述)を浜松県神社取締係に命じ、調査の結果浜松県内に県社六社(明治五年六月、浜松では利町の五社神社,その中、浜松地域内の郷社は次頁の十五社であった。,郷社名 行政区画 位置 五社神社 1~1 浜松宿 八幡神社 1~2 八幡村 蒲神明宮 1~3 神立村
浜松市史 四 ([中田島での凧揚げ])

[中田島での凧揚げ] 【中田島 浜松市連合凧揚会 五社神社】  昭和二十三年と二十四年の凧揚げは遠州灘,24 浜松名物凧揚祭 浜松市連合凧揚会 5/1~5 中田島海岸 42 54 初日に五社神社拝礼。,組代表の一人が午前十時に五社神社へ出て拝礼するという儀式を始めた。,これは大正十一年(一九二二)から凧揚げに参加する各組の代表が五社神社に参拝するようになり、その後、五社神社,なお、戦前、五社神社は浜松市の総社としての地位を得ていた。
浜松市史 三 (行楽地)

春 桃花(若林・銭取) 桜花(五社公園・天守閣・八幡公園・岩水寺) 牡丹(ぼたん)(天林寺公園) 躑躅,秋 観月(天守閣・高町半僧坊) 鴨狩(浜名湖) 茸狩(三方原・舘山寺・都田山)    冬 雪見(五社公園
浜松市史 ニ (神主隊指示事項)

【五社 諏訪社】(3)溜場は五社・諏訪両社であって、到着の際は手札をもって月番に届け出ること。
浜松市史 ニ (樹木)

樹木 樹木 城内に五社松・鎧掛松・樹木屋敷(前述)があったが、その他に松・樫・椎や雑木が繁茂していたと
浜松市史 ニ (高力忠房)

五社神社諏訪神社(両社は昭和三十五年から五社神社諏訪神社という)には忠房の寄進した石の手洗鉢二基がいまも,高力摂津守忠房寄進手洗鉢(浜松市利町 五社神社諏訪神社)  幕府は忠房が島原に移封と決定したとき
浜松市史 五 (工業団地)

【ツルミオートパーツ】 (1)ツルミオートパーツ 市内で操業していた中小企業五社が公害問題の解決、設備,同業種であるため、五社のうち四社は境界の壁を設けず、ワンフロア方式を採用し、相互の機能補完、技術交流などを,【浜松三新工業団地】 (2)浜松三新工業団地 市内で操業する金属・鋳物製造の五社が三新町に工業団地を
浜松市史 三 (吉田冠三)

実子で放浪のあげく、浜松新町八四の朝比奈善八方の控家に住み、池田村などに人形を教え明治三十六年五月、五社小路
浜松市史 三 (翼賛会)

【壮年団】翼賛壮年団は翼賛会の推進にあずかって力があり、浜松翼賛壮年団は昭和十七年三月十五日五社神社で
浜松市史 三 (神社参拝)

【総社参列】浜松では大正十一年に利町の五社神社が市の総社と定まると、祭日の五月四日には全市小学校児童代表
浜松市史 五 (週休二日制)

昭和四十八年七月末現在の浜松商工会議所調べでは、同会議所に加盟していて従業員二十人以上の事業所(三百九十五社,)の四十一%が週休二日制の実施(完全週休二日制八社、月三回四社、隔週三十五社、月二回三十社、月一回八十五社
浜松市史 ニ (【瓦師】)

なおその間、寛永年中五社・諏訪両社の造営に奉仕し、太田摂津守当時役瓦一か年一万三千枚を差し上げたこともある
浜松市史 ニ (横町)

に松尾小路(松尾神社がある)、大工町に南小路(若宮八幡宮があるので若宮小路ともいう)・北小路、利町に五社大門通
浜松市史 五 (神前奉納)

神前奉納 【浜松茶農協】  平成九年五月二日付記事では、利町(とぎまち)の五社神社 諏訪神社へ初摘,他方、葉茶ではなく、煎茶を点じて五社神社 諏訪神社神前に奉納するという記事は、恒例ながら平成十三年九月十一日付,【針供養】  平成五年二月九日付記事では、二月八日、五社神社 諏訪神社に裁縫の上達を願う針供養があったと,【居合道】  平成十四年二月十一日付、同十五年二月十八日付、同十六年六月七日付記事では、五社神社 諏訪神社,初めて五社神社 諏訪神社で奉納演武を行ったのは、平成十四年二月十日であった。
浜松市史 ニ (寺社領)

『元禄高帳』から寺社領の集中を表示すればつぎのとおりである(表は、たとえば五社大明神の朱印高は三百石でそれは,六か村に分布しているという意味、海老塚の石高は七十八石であるがそれは五社と白山社の領有であるという意味
浜松市史 ニ (金山社)

社伝によると、浜松城建設にあたり城内へ創立されたが、寛永年間五社明神造営のおり清水谷(しみずだに)(当市中山町
浜松市史 ニ (城下の寺社地)

その外、寺社の配置については格別の特色をみとめがたいが、浜松城主に関係の深かった利町の五社と諏訪社について
浜松市史 ニ (察元の来遊)

明和八年(一七七一)正月、囲碁の家元本因坊九世察元(一七三三-一七八八)名人は、上洛の途中、浜松五社明神社
浜松市史 三 (会社)

創立年代は明治時代の三十三社(金融関係八、織物関係一八)に対し、大正時代(大正十三年まで)には百九十五社,は、大正十三年に二百四十六社のうち織物関係が九十二社の三十七%と最も多く、つぎに日用品製造販売が四十五社
浜松市史 三 (明治二十五年度)

また五社諏訪両社境内を公園とすることを可決した。
浜松市史 三 (憲法発布 衆議院選挙)

衆議院選挙 明治二十二年二月十一日、紀元節を卜して明治憲法すなわち「大日本帝国憲法」が公布され、浜松でも五社神社境内
浜松市史 三 (神社の復活)

三社神社 分器稲荷 金山神社】秋葉神社(三組町)に合祀された三社神社(鹿谷町)や分器稲荷(田町)、また五社神社
浜松市史 三 (史蹟指定)

また大正三年特別保護建造物として指定をうけた浜松利町の五社神社の修理が竣工したのは昭和十三年十二月であった
浜松市史 三 (岡部政美)

浜松地方の勤王論はこのとき胚胎したという)、明治五年三月浜松県より神社取締役を命ぜられ、八月浜松五社神社
浜松市史 三 (浜松市青年団総会)

また昭和十二年十月十日の浜松市青年団総会は駅前広場において開催し、五社神社に皇軍の武運長久と聖寿万歳を
浜松市史 三 (文芸と青年)

大正三年三月『少年世界』の主筆巌谷小波が浜松で童話会(浜松教育会主催、若松座)を開いたときの浜松五社神社前
浜松市史 三 (弔祭)

市長が葬儀委員長となり市主催の合同葬を浜松仏教会の奉仕により仏式で執行し、また年一回神式により市内利町五社神社
浜松市史 三 (江間殿小路火事)

火は東北風のため表通りへ延焼し、西側に焼え移り五社小路の浜松米穀取引所及び仲買店を焼失した。
浜松市史 三 (演武館)

演武館 日清日露戦争に出征戦勝の祈願が盛んになると、神社の参拝者も増したが、明治四十年には五社神社境内
浜松市史 ニ (【木挽職】)

また五社大明神・諏訪大明神両社の造営にも力を尽くした。
浜松市史 三 (二俣線開通と西鹿島駅 遠州鉄道株式会社)

戦局が進展した十八年十一月には他の交通機関五社(浜松自動車・遠州秋葉自動車・掛塚自動車・遠州乗合自動車
浜松市史 三 (商店数と種類 商品移出入 米穀取引所 商品相場)

各地との米の取引も盛んになって同年三月には米のみ売買をする浜松米穀取引所(理事長鶴見信平)が浜松町利(五社小路,三十四年廃止となったが五社小路通りには仲買商が軒をならべていた。
浜松市史 三 (浜松八景)

停車場夜雨(やう)・馬込夕照(ゆうしょう)・愛宕山晴嵐(せいらん)(元魚町付近)・常寒山暮雪(ぼせつ)(五社諏訪神社付近
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