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浜松市史 三
(浜松教導職 浜松中教院 五社神社)
浜松教導職 浜松中教院
五社神社
これを浜松県でみると、浜松県の教導職の活動は明治六年に始まった。,十月に県内の神官七十の教導職採用願を提出し(『岡部家文書』)、十一月に最初の説教を浜松利町の
五社神社
で,翌七年八月には浜松中教院を
五社神社
境内に設立し、翌八年二月には鎮座祭を施行し、その後ここを会場とし、神仏各 / 浜松教導職 浜松中教院
五社神社
浜松市史 一
(当市内の徳川氏の氏神)
当市内の徳川氏の氏神 【
五社神社
諏訪神社】なお徳川氏の氏神は、
五社神社
とか諏訪神社だともいわれる(,慶長十五年(一六一〇)十月、彦坂光正の判物写には「浜松御社大明神領之事」(「
五社神社
文書」『浜松市史史料編二,当市内利町(とぎまち)の
五社神社
がこれで、相殿(あいどの)には応神天皇と家康とをまつる。
浜松市史 四
(神社の統合 墓地の移転)
神社の統合 墓地の移転 【
五社神社
諏訪神社】 浜松の旧市内には多くの社寺があり、寺院にある墓地,神社のうち合併したものは
五社神社
と諏訪神社で、旧
五社神社
内に
五社神社
諏訪神社と改称し、仮社殿を建てた。
浜松市史 四
([社殿再建築の動き])
【
五社神社
諏訪神社】 戦前には近世以来の社格の伝統を有し、独立した社殿を構えていた,
五社神社
、諏訪神社では、昭和十三年に
五社神社
が修復竣工、同二十年に諏訪神社が修復竣工した直後、同二十年六月十八日米軍,戦後、まず昭和二十三年に
五社神社
仮殿ができ、同三十五年には
五社神社
と諏訪神社が合祀されて
五社神社
境内に,するものであったが、浜松の産業界や団体・個人の寄付に拠ったものという(浜松市立中央図書館・浜松読書文化協力会編「
五社神社
浜松市史 三
(忠魂碑 招魂祭)
【
五社神社
】浜松町の記念碑は日露戦争後に
五社神社
の境内に建てられた。
浜松市史 四
([中田島での凧揚げ])
[中田島での凧揚げ] 【中田島 浜松市連合凧揚会
五社神社
】 昭和二十三年と二十四年の凧揚げは遠州灘,24 浜松名物凧揚祭 浜松市連合凧揚会 5/1~5 中田島海岸 42 54 初日に
五社神社
拝礼。,組代表の一人が午前十時に
五社神社
へ出て拝礼するという儀式を始めた。,これは大正十一年(一九二二)から凧揚げに参加する各組の代表が
五社神社
に参拝するようになり、その後、
五社神社
,なお、戦前、
五社神社
は浜松市の総社としての地位を得ていた。
浜松市史 四
([神道指令と神社の諸問題])
[神道指令と神社の諸問題] 【
五社神社
諏訪神社 氏子総代 公職追放】 日中戦争から太平洋戦争に,拡大した時代において、
五社神社
・諏訪神社は国家神道下の浜松の総社として位置付けられていた。,
五社神社
・諏訪神社の場合は徳川秀忠誕生における産土神を祭ったことに由来する格式を誇っていた。,、諏訪神社の成立過程」、斉藤新「四 近代の
五社神社
と諏訪神社」『調査研究報告書
五社神社
・諏訪神社 社殿等修理関係資料本文篇,右の全七カ条で述べられた問題点は、
五社神社
・諏訪神社特有の問題点ではない。
浜松市史 ニ
(五社の絵画と彫刻)
壁画(鳳凰と折花)は狩野山楽(一五五九-一六三五)あたりの筆であろうと伝えられている(吉岡勇蔵「浜松
五社神社
御由緒並,
五社神社
拝殿正面欄間彫刻
浜松市史 ニ
(高力忠房)
五社神社
諏訪神社(両社は昭和三十五年から
五社神社
諏訪神社という)には忠房の寄進した石の手洗鉢二基がいまも,高力摂津守忠房寄進手洗鉢(浜松市利町
五社神社
諏訪神社) 幕府は忠房が島原に移封と決定したとき
浜松市史 三
(翼賛会)
【壮年団】翼賛壮年団は翼賛会の推進にあずかって力があり、浜松翼賛壮年団は昭和十七年三月十五日
五社神社
で
浜松市史 三
(神社参拝)
【総社参列】浜松では大正十一年に利町の
五社神社
が市の総社と定まると、祭日の五月四日には全市小学校児童代表
浜松市史 三
(郷社 村社 浜松郷社)
岡部政美(前述)を浜松県神社取締係に命じ、調査の結果浜松県内に県社六社(明治五年六月、浜松では利町の
五社神社
,郷社名 行政区画 位置
五社神社
1~1 浜松宿 八幡神社 1~2 八幡村 蒲神明宮 1~3 神立村
浜松市史 五
(神前奉納)
神前奉納 【浜松茶農協】 平成九年五月二日付記事では、利町(とぎまち)の
五社神社
諏訪神社へ初摘,他方、葉茶ではなく、煎茶を点じて
五社神社
諏訪神社神前に奉納するという記事は、恒例ながら平成十三年九月十一日付,【針供養】 平成五年二月九日付記事では、二月八日、
五社神社
諏訪神社に裁縫の上達を願う針供養があったと,【居合道】 平成十四年二月十一日付、同十五年二月十八日付、同十六年六月七日付記事では、
五社神社
諏訪神社,初めて
五社神社
諏訪神社で奉納演武を行ったのは、平成十四年二月十日であった。
浜松市史 三
(憲法発布 衆議院選挙)
衆議院選挙 明治二十二年二月十一日、紀元節を卜して明治憲法すなわち「大日本帝国憲法」が公布され、浜松でも
五社神社
境内
浜松市史 三
(神社の復活)
三社神社 分器稲荷 金山神社】秋葉神社(三組町)に合祀された三社神社(鹿谷町)や分器稲荷(田町)、また
五社神社
浜松市史 三
(史蹟指定)
また大正三年特別保護建造物として指定をうけた浜松利町の
五社神社
の修理が竣工したのは昭和十三年十二月であった
浜松市史 三
(文芸と青年)
大正三年三月『少年世界』の主筆巌谷小波が浜松で童話会(浜松教育会主催、若松座)を開いたときの浜松
五社神社
前
浜松市史 三
(浜松市青年団総会)
また昭和十二年十月十日の浜松市青年団総会は駅前広場において開催し、
五社神社
に皇軍の武運長久と聖寿万歳を
浜松市史 三
(岡部政美)
浜松地方の勤王論はこのとき胚胎したという)、明治五年三月浜松県より神社取締役を命ぜられ、八月浜松
五社神社
浜松市史 三
(演武館)
演武館 日清日露戦争に出征戦勝の祈願が盛んになると、神社の参拝者も増したが、明治四十年には
五社神社
境内
浜松市史 三
(弔祭)
市長が葬儀委員長となり市主催の合同葬を浜松仏教会の奉仕により仏式で執行し、また年一回神式により市内利町
五社神社
浜松市史 三
(浜松総社の決定 凧揚げ由来の普及)
によってお祭化が進んでくると、大正十一年から浜松に最も由緒深い徳川二代将軍秀忠公の産土神(うぶすながみ)の
五社神社
浜松市史 ニ
([神社の建築物と庭園])
この五社・諏訪社も竣工以来たびたび修復されて維持してきたが、本殿(
五社神社
の本殿は大正三年に特別保護建造物
浜松市史 三
(五社と諏訪 井伊谷宮)
の整備による神官の世襲禁止と上知令とは神社の経済的基礎を失うことであり、ことに徳川家の庇護の厚かった
五社神社
浜松市史 ニ
(地勢)
沖積平野に形成された浜松市街の甍(いらか)がならび、南側は河岸段丘が低くのびて常寒山(とこさむやま)(
五社神社
諏訪神社
浜松市史 五
([習俗を生きる])
【
五社神社
諏訪神社】 平成六年四月二十八日付記事では、
五社神社
諏訪神社が徳川秀忠の産土神を祭る
浜松市史 四
([盛大になった浜松まつり])
【浜松市観光協会
五社神社
の御輿渡御 復古調】 これまで浜松まつりの主催者は浜松まつり,まつりの正式行事ではなかったが、この年の五月四日に戦後初めて
五社神社
の御輿渡御が行われた。,同日午前十時に諏訪神社、十一時に
五社神社
の大祭が行われ、午後一時から御輿と神宝に奉仕する行列が
五社神社
浜松市史 ニ
(諏訪明神社)
諏訪明神社 諏訪明神社(当市利町、
五社神社
諏訪神社)五社明神社の南隣にある。
浜松市史 四
([神輿を担いで市内を行進])
また、浜松青年復興会は
五社神社
広場で音楽演奏会を、中山町男女青年は刑務所跡地で演芸大会を開催した。
浜松市史 三
(団体運動)
さらに十一年十一月二十三日には、西南戦争以来現在までの千四百余柱の静岡県西部共祭招魂祭が浜松利町
五社神社
境内
浜松市史 三
(有賀豊秋 中村大館)
屋号を伎倍廼舎(きべのや)、俳号を烏玉(うぎょく)といい慶応四年三月、報国隊出発にあたって浜松
五社神社
浜松市史 ニ
(五社明神社)
五社明神社(当市利町、
五社神社
諏訪神社)創立年代不詳。
浜松市史 ニ
(森暉昌)
光海霊神】賀茂真渕の撰になる、暉昌の事績を記した光海霊神(うなてりのみたま)(暉昌の諡号)の碑銘は、いま
五社神社
諏訪神社
浜松市史 三
(神社仏閣)
五社神社
(浜松市利町) 鴨江観音(浜松市鴨江4丁目)
浜松市史 四
([凧揚げ祭の復活])
そのコースは三日と四日、五日では異なっていたが、五月三日の場合は
五社神社
→栄町→伝馬町→連尺町→神明町,五月三日午後一時、
五社神社
に新憲法実施記念行事として青年一万五千名が参集し、新憲法の精神に基づき、新日本建設
浜松市史 五
([教化活動の現れ])
浜松茶商組合による
五社神社
への献茶式は地場産業としての茶業の振興発展を祈願するもので、毎年の五月三日頃,昭和六十三年二月三日、
五社神社
で節分の豆まきが行われ、約千人の市民でにぎわったと報じた(同年二月四日付記事
浜松市史 一
(木寺宮領)
竜禅寺文書にもある (鴨江町・西伊場町・助信町) (1603) (同上) 池川・将監 慶長15.12.16
五社神社
文書,上池川町・下池川町・将監町) (1610) (同上) 海老塚村・下池川村・西塚村 寛永11.7.2
五社神社
文書
浜松市史 ニ
(祭礼)
蒲神明宮 元旦 (田打) 賀久留神社 2. 14 (田遊) 子安神社(富田) 4. 16
五社神社
浜松市史 三
(検挙 米廉売札 市当局の救済運動)
なお翌日も
五社神社
の境内には前夜来の騒動の余燼がくすぶり、大勢の群衆が集まったが大半は弥次馬で、一部に
浜松市史 三
(浜松へ波及)
浜松へ波及 【
五社神社
】当時の新聞記事によると、十四日浜松市内には朝から「今夜米騒動が起こるぞ」というような,風評が流れていたが、夕方になると利町(とぎまち)の
五社神社
境内へ十人、二十人と市民が集まり始め、午後八時
浜松市史 三
(市民の集会場)
市民の集会場 これまで市民の集会場には、利町
五社神社
境内の演武館とか元城町の浜松報徳館などの建物を借用
浜松市史 三
(六月十八日の大被害 全市火の海 見渡すかぎりの焦土 公式発表 米軍記録)
全焼一万六千十一戸に達し、罹災者数約五万六千名、浜松市役所・市の枢要(すうよう)な機関をはじめ国宝建造物の
五社神社
, 浜松憲兵分隊 松菱百貨店 浜松工業試験所 中部瓦斯株式会社 浜松図書館 社寺 学校 利町
五社神社
浜松市史 四
([戦争終熄奉告臨時奉幣祭])
この体制下で浜松市長は、昭和二十年十月十五日、利町の総社
五社神社
において帰還軍人神前奉告祭を単独で開催
浜松市史 四
([第一回浜松まつりの実施])
実業団対抗珠算競技大会 ・市内循環駅伝競争 ・商工人野球大会 <その他> ・各町の出し物・打ち上げ花火(
五社神社
,まつり初日の
五社神社
拝礼はこの年も実施されたが、会場が戦前のように和地山町に戻ったにもかかわらず、
五社神社
神輿
浜松市史 三
(市長交替)
選考しその意見の一致をみた三十一名を内定し、他の九名は特別推薦と地区別推薦に委(まか)せ、八月十五日
五社神社
浜松市史 四
([地方議会議員選挙])
市の連合青年団は戦争放棄という世界に類例のない新憲法実施を記念し、神輿を担いで市内を練り歩き、
五社神社
浜松市史 四
([敗戦と神社])
五社神社
(利町)・諏訪神社(利町)・県居神社(東伊場町)・松尾神社(元魚町)・秋葉神社(三組町)・東照宮
浜松市史 四
([浮浪者取り締まり])
浮浪者対策として、市は鴨江病院内に救護所を設置し、二十一年十一月ころには十一名を収容していたが、
五社神社
境内
浜松市史 四
([メーデーの復活と争議の激化])
浜松では土砂降りの雨の中、浜松工機部や日本楽器の従業員など三十四団体の労組員七千余名が
五社神社
境内に参集,浜松工機部はこの日勤務日であったが、当局との交渉で出勤扱いとなり、工機部で勢ぞろいし、会場の
五社神社
まで,
五社神社
広場には一万人が集まり、勤労大衆は餓死せんとする状況にあり、インフレの昂進で国家の滅亡は眼前にあるにもかかわらず
浜松市史 四
([婦人参政権と戦後初の総選挙])
浜松で野外の大演説会が開催されたのは昭和二十一年三月二十一日、
五社神社
境内には四千余の聴衆が押し掛けた
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