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浜松市立中央図書館/浜松市文化遺産デジタルアーカイブ

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浜松市史 一 (今川氏の徳政)

今川氏の徳政 【井伊氏の抵抗】永禄十年(一五六七)八月、今川氏真は井伊谷にも徳政を令した。,【今川氏のねらい】翌十一年八月、今川氏はまた井伊氏に命令している(『蜂前神社文書』)。,農村と都市の金融資本との相剋、今川氏が、せまりくる徳川氏の勢力を懸念して有力農を把握しようとする政策である / 今川氏の徳政
浜松市史 一 (今川氏の一族)

今川氏の一族 今川氏は、足利氏の支族で、足利義氏の子長氏の次男国氏からはじまる。,以上の三氏は、今川氏の「御一家」となる。,基氏には、多くの妹があって、その子供たちが今川氏一族の石川・名兒耶(奈古屋)氏である。  ,国氏・基氏時代の今川氏については、よくわからないが、宗家足利氏とともに鎌倉幕府に仕えた御家人であろう。,今川氏略図 / 今川氏の一族
浜松市史 一 (今川氏の権力基盤)

今川氏の権力基盤 【新名体制 検地 蔵入地 国人 寄子同心制】今川氏は名主百姓を権力の基礎にしていた,今川氏は本名主たちの村落内での地位をバック・アップし、その一部をしだいに給人(知行人)としながら、機会,蔵入地の本名主たちは、今川氏の部将のうちから任命された代官の支配下に入り、しだいに今川氏直属の給人となってゆく,今川氏は検地帳に登録されている農民以上の者を一つのグループとして寄子とした。,今川氏はこの寄子・同心制で軍事編成をととのえ、国人たちが自立しようとする動きをおさえた。   / 今川氏の権力基盤
浜松市史 一 (今川氏の老臣)

今川氏の老臣 今川氏の譜代の被官で、老臣(年寄)としては、三浦・両朝比奈・菴原・由比などの諸氏があった / 今川氏の老臣
浜松市史 一 (今川氏の全盛時代)

今川氏の全盛時代 【今川氏輝 今川義元 今川氏真】大永(たいえい)六年(一五二六)六月氏親は死亡。,これが義元であり、のち永禄三年(一五六〇)五月、敗死するまで三十五年間は今川氏の全盛時代であった。 / 今川氏の全盛時代
浜松市史 一 (今川氏の内争)

今川氏の内争 そののちも一門の瀬名・関口・新野・入野・奈古屋、重臣の三浦・両朝比奈・庵原・由比らは、,駿河石脇城(焼津市)にいた伊勢氏の兄新九郎宗瑞(早雲)は、道灌に諒解をもとめ、今川氏の一族や家臣をとき / 今川氏の内争
浜松市史 一 (検地 今川氏の検地)

検地 今川氏の検地 戦国大名は、領主権をうちたて、荘園制をのりこえるために検地を行なった。,つぎは大永(たいえい)四年(一五二四)今川氏親が駿河国で実施している。 / 検地 今川氏の検地
浜松市史 一 (今川氏の伊勢信仰)

今川氏の伊勢信仰 今川氏は、伊勢(伊勢市)の大神宮を信仰していた。 / 今川氏の伊勢信仰
浜松市史 一 (今川氏の遠江侵入)

今川氏の遠江侵入 嘉吉(かきつ)元年(一四四一)閏九月、義健は駿河守護今川範忠が遠江の地を侵略したのを,左兵衛佐 延徳3 (1491) ―文亀1 (1501) 斯波義達 ―永正5 (1508) 今川氏親,修理大夫 永正5 (1508) ―大永6 (1526) + 今川氏輝 五郎 大永6 (1526),―天文5 (1536) + 今川義元 治部大輔 天文5 (1536) ―永禄3 (1560) + 今川氏真 / 今川氏の遠江侵入
浜松市史 一 (今川氏の伝馬手形)

今川氏の伝馬手形 永禄三年(一五六〇)四月八日、今川氏は皇大神宮御師(おし)で今川家の祈祷師足代(あじろ / 今川氏の伝馬手形
浜松市史 一 (遠江今川氏の分国となる)

遠江今川氏の分国となる 【引馬城を包囲】このために貞綱は、斯波義達・巨海(おおみ)新左衛門とともに勢力,氏親が懸川城に進むと、信虎は永正十四年に、勝山城を囲み、今川氏の援軍と本国とを遮断しようとする。,【宇津山城】これで遠州はまったく今川氏の分国となった。,三河・尾張の国人のうちにも、今川氏に味方するものができてきた。 / 遠江今川氏の分国となる
浜松市史 ニ (今川氏の人質となる)

今川氏の人質となる 竹千代は天文十八年十一月から永禄三年(一五六〇)五月まで、八歳から十九歳までの十二年,岡崎には今川氏の城代が鎮し、松平氏の家臣団は今川氏の先鋒として戦場にがり出される。 / 今川氏の人質となる
浜松市史 一 (遠江東部は今川氏の勢力)

遠江東部は今川氏の勢力 【懸川築城 朝比奈氏】義忠の勢力はひろく遠江国東部におよんだ。,斯波氏に対抗する今川氏は、斯波氏の守護代を拒否したろう。 / 遠江東部は今川氏の勢力
浜松市史 一 (今川氏の氏神 松平氏の氏神)

今川氏の氏神 松平氏の氏神 鎌倉武士は、その主将の源家が氏神として八幡信仰をもっていたから、その家人,今川氏は八幡、松平氏の氏神は三河松平郷の六所明神である。 / 今川氏の氏神 松平氏の氏神
浜松市史 一 (新居の関銭)

新居の関銭 翌六年二月、今川氏は実情を調査させる。,九月九日、今川氏は安定の処分をきめた朱印状を、彼の知行地に近い宇布見郷の今川氏代官中村源左衛門に下達した,その要旨は「今年度の米銭勘定は、今川氏の勘定方が仲介して安定に納める。,指出以外の増分は、山野・芝原・開墾地・浦浜・内浦・関銭・林・屋敷・寺社をふくめて今川氏の蔵入分とする。,さらに今川氏は同日、五か村に対しても「年貢を納める以前に借米・借銭の催促してはならない。
浜松市史 一 (皮革)

皮革 【今川氏】皮革は軍需品として重要である。,今川氏は皮作の八郎右衛門と彦太郎の両人にたいし、駿河と遠江両国の製革業を統制し、今川氏の必要におうじて
浜松市史 ニ (信長と同盟を結ぶ)

信長と同盟を結ぶ 元康は岡崎に帰ってからも、周辺の織田方と戦いながら、一方では今川氏真(うじざね)に,ここで今川氏と断交して織田氏と講和する動きがでてきた。,だが今川氏に人質をだしている諸将は、信長との講和に反対した。,元康は信長の申し入れをうけて、今川氏をはなれ、信長と同盟をむすんだ。
浜松市史 一 (水上交通業者の税)

水上交通業者の税 水上交通業者に対し、たとえば今川氏は帆役・湊役などの課税をし、津料(港湾税)・と駄別,【浜名湖の交通過書】今川氏は、永禄五年(一五六二)今切のうちに繋いである宇布見郷(浜名郡雄踏町)の船二艘,に、印判(今川氏の朱印状)と過書(手形)を与え、運送させているばあいは村櫛や新居に寄航する必要はない。,この指令をうけた中村右衛門太郎は、今川氏のときに舟奉行、徳川氏の入国ののちは代官となり、宇布見・人見(
浜松市史 一 (小笠原氏)

小笠原氏 【馬伏塚城 高天神城】小笠原氏 信濃の小笠原長高は今川氏に仕え、遠江横須賀を与えられ、馬伏塚,子右京進春儀は文亀元年(一五〇一)十一月一日、朝比奈泰凞から、今川氏親の出陣を通告されている。,久島左衛門が高天神城で今川氏に謀反をはかったので春儀はこれを殺した。
浜松市史 一 (村櫛荘)

永正(えいしょう)元年(一五〇四)八月、今川氏の食客伊勢宗瑞(いせそうずい)は、守護代の命令をうけて、,六月一日(年号不詳)守護今川氏親は、領家氏が部下になることを約したので、領家方と尾奈郷を給与した。,すでに村櫛荘は解体し、その土地は今川氏の領土になっている。,天文(てんぶん)二年(一五三三)十二月、今川氏輝は、村櫛に在城している大沢氏に浜名湖の運輸についての税,【和田氏】今川氏の将松井宗信の同心和田八郎次郎・同弥六郎は、村櫛荘和田の土豪である(『蠧簡集残篇』)。
浜松市史 一 (戦国時代と浜松)

戦国時代と浜松 【今川氏】戦国大名今川氏の民政は、うしろむきではなかった。,今川氏が滅びさったのは、義元の油断と子氏真の水準以下の人物であったことが大きく作用している。  
浜松市史 一 (竹木)

竹木 【今川氏】竹木は築城とか武器などの用材として必要である。,また今川氏は、駿河富士北山に対し伐木を統制している。
浜松市史 一 (農業政策)

今川氏は地頭が百姓の名田を自由に没収することを禁止して、土地所有を保護している(『今川仮名目録』一条),また今川氏真は富士田上原を開くという町田左衛門三郎に、棟別などの諸役を永禄(えいろく)四年(一五六一),用水路の維持費にあてた井料(いりょう)について今川氏の規定がある(『今川仮名目録』五条)。,【天竜川の堤防林】今川氏真は、遠江浜名郡万石(万斛、いま当市中郡町)の名主沢木六郎左衛門に対し、「所有地
浜松市史 一 (分国領の租税の特色)

【今川氏の苦心】永禄六年(一五六三)九月、今川氏は遠江浜名郡の某郷(堀江郷の中安氏であろう)の指導者に,年貢の収納に苦心したのは今川氏だけではない。
浜松市史 一 (水運政策)

【今川氏の公方船】大名も船をもっている。今川氏は「公方船」という(『中村文書』)。,今川氏はその分国駿河・遠江・三河で渡船とか海上船を建造するにあたって、その資材を社寺や領民から徴発した,【寄船保護】今川氏は、駿河・遠江二国の沿岸に漂着した寄船、つまり難破船を不法に押領するのを厳禁している
浜松市史 一 (銅銭の流通)

【今川氏】この法令は、幕府だけでなく大内氏をはじめ今川氏も公布した。,今川氏真は永禄六年(一五六三)に制札できめたようにし、みだりにえらんではならないと定めた(『今川判物証文写
浜松市史 ニ (湖西の守備)

湖西の守備 【佐久城 日比沢城】三遠国境南部の今川氏の守備線は、引佐(いなさ)郡で佐久城に浜名頼広(,【境目城】しかし東部国境から武田信玄、西部国境から徳川家康の脅威が急速にたかまってきた永禄十年、今川氏真,飯尾連竜判物(浜松市向宿町 寿量院蔵) 今川氏真判物(浜松市頭陀寺町 頭陀寺旧蔵)
浜松市史 一 (分国経済のありかた)

しかし今川氏は、まず松木・友野を御用商人とし、山中氏を沼津大岡荘問屋とし、彼らのいままでの権利を認め、,たとえば、永禄十年(一五六七)今川氏は駿河産の茜(あかね)(赤色染料)の移出を友野・松木らに限り許している,また領内の都市や市場に対して寺院・小領主のもつ支配権をとめて、今川氏がおさえた。,六角氏と今川氏の商業政策は本質的にちがいはないが、地域差と時間のずれである。  
浜松市史 一 (浜松荘 入野木寺宮領)

しかし永禄六年(一五六三)五月、今川氏真は、松下筑後入道に、浜松荘因幡郷などを給与している(『古証文』,【今川氏領 引馬】永禄九年(一五六六)四月今川氏真は、前年引馬城の飯尾連竜を処断した時に身命を捨てて協力
浜松市史 ニ (家康の東進策)

家康の東進策 信長との講和ができると、吉田城(豊橋市)など今川氏の支城に収容されていた人質は殺されてしまう,元康は矛(ほこ)を逆にして、今川氏に味方する三河の諸将に攻撃をかけ出した。
浜松市史 一 (駿河の臨済宗)

一五三六)今川義元に招かれて臨済寺(りんざいじ)(静岡市大岩町)に入り、二世太原崇孚(たいげんすうふ)は、今川氏,しかし今川氏の滅亡とともに臨済派の勢力は衰えた。  
浜松市史 一 (中世編)

四七二        足利尊氏の反乱  戦いのあけくれ  変わりゆく戦のすがた  半済  守護大名  今川氏,             五八五        戦国大名の基盤は農村  遠江の有力な土豪   第三節 今川氏,                 五九四        今川義忠  今川氏親   第四節 戦国大名
浜松市史 一 (天野氏 尾上氏 奥山氏)

今川氏との関係は、明徳(めいとく)三年(一三九二)仲秋から浜笠名、翌年上長尾を返されたのがはじめである,天野氏は今川氏から「惣領地頭」とよばれ、犬居の地帯と遠江北部の所領を知行し、尾上・渡辺・和田氏ら在地の
浜松市史 一 (戦時の水運政策)

戦時の水運政策 【武田の水軍】武田氏は、今川氏の水運機関を接収すると、水軍の編成にのりだした。,今川氏も戦時には港湾を統制した。  中世の海運は、海賊と関税のため発達がおくれた。
浜松市史 一 (農民政策)

【今川氏のばあい】今川氏は前記のように地頭が理由なく名田をとりあげることを禁止した。,今川氏真は永禄四年(一五六一)に未進分を弁済すると申しでた大田彦十郎に対し、与三郎の知行した土地を知行,年貢未納などでなくとも、農民が自由に武士の奉公人になろうとする動きに対し、農民の身分を固定しようとする今川氏
浜松市史 一 ([今川仮名目録])

[今川仮名目録] 【今川氏親の制定】今川仮名目録は、大永六年(一五二六)四月十四日、今川氏親の制定である
浜松市史 ニ (氏政信玄と結ぶ)

信玄は氏政に対し、小田原にいる今川氏真を殺すことをもとめる。,今川氏真は、武蔵品川で家屋敷を与えられ高家として幕府に仕えていたが、慶長十九年(一六一四)十二月二十八日死亡
浜松市史 一 (繁田氏)

大原資良は今川氏の将か。,(浜名郡雄踏町) 高橋右近 永禄 7. 3.朔 蒲神明宮文書 今川氏真判物。右近は斯波義達の旧臣。,(市内蒲神明宮) 袴田対馬入道 永禄10.10.13 瀬戸文書 今川氏真判物。,(引佐郡引佐町) 赤佐次郎左衛門 永禄11. 9.14 瀬戸文書 今川氏真判物。,(なお『蠢簡集残篇』三に収めた永禄3年12月9日「松井宗信宛今川氏真判物案」によると,宗信の部下には蒲
浜松市史 ニ (松平氏八代)

【今川氏と争う】松平氏の支族は南三河にひろがり、その勢力が東三河にのびてくると、信光のつぎの親忠のあとをついだ,長親の代には、西進してきた今川氏親の勢力と衝突するようになった。
浜松市史 ニ (勢力の均衡破れる)

十月武田信玄は、長子義信を殺し、夫人を実家の今川氏に帰した。武田・今川の平和は破れた。,【今川氏真 上杉輝虎】家康は、信長と和して氏真と争い、はるかに輝虎とむすぶ。
浜松市史 一 (堀越氏)

堀越氏 堀越範将 今川氏の一族。了俊の子孫。狩野氏とともに第四章にみえる。
浜松市史 一 (義忠の遠江経略)

【飯尾長連の戦死】室町幕府の奉行人飯尾氏の一族飯尾長連は、今川氏に招かれていたが、この戦いで死んでいる,義忠の死は今川氏の一族・家人の争いをひきおこし、また堀越公方や上杉家の干渉を招くことになった。,義忠は遠州経略にのりだしたが、今川氏は人の和をかき、遂に戦死という凶事までひきおこした。
浜松市史 一 (伝馬の制度)

今川氏は永禄元年(一五五八)の定めで、一里を十五銭(文)とした。,公用でも今川氏は一日五疋と制限してある。,永禄二年三月、今川氏は駿河・遠江・三河の宿駅に対し、伝馬一疋をださせた(『屋代本文書』)。
浜松城下のうつりかわり (解説)

引馬城築城時の城主は不明であるが、16世紀前半には今川氏配下の飯尾氏が城主を務めていた。,参考文献:「浜松城跡10」発行/浜松市教育委員会     浜松城跡の周辺地形  →今川氏配下,による引馬城の時代(16世紀前半)  ⇒並べ重ね画像 今川氏配下による引馬城の時代(16世紀前半
浜松市史 一 (交通税)

弘治(こうじ)三年(一五五七)今川氏に呈出した目録に、税収は「不同」と書いたので、永禄六年(一五六三),村櫛荘に住した大沢氏は、天文二年(一五三三)十二月、今川氏輝から「内海小船役」を安堵されている(『大沢文書
浜松市史 一 (一新する守護の顔ぶれ)

一新する守護の顔ぶれ 【今川氏】南北朝中期ころの貞治元年(一三六二)になると、守護の顔ぶれは一新した,遠江・駿河(静岡県)の今川氏などもその例である。足利氏以外の有力者では、山名・赤松などにすぎない。
浜松市史 一 (寄子の自由行動禁止)

今川氏では、寄親に対し寄子の自由な行動を禁止している(追加二条)。
春野町史 通史編 上巻 (春野町史 通史編 上巻 目次)

301 第一節 室町幕府の成立と発展 301 一 花の御所と南北朝の合体 301 二 遠江守護今川氏,の乱 331 一 管領細川氏と天野氏 331 二 駿河守護今川義忠の遠江攻略 335 第二節 今川氏親,・氏輝と天野氏 337 一 今川氏親の遠江経営 337 二 今川氏親の遠江検地 341 三 今川氏輝, 東西の陣労 357 五 惣領景泰と被官百姓の確執 367 六 桶狭間の戦い 370 第四節 今川氏
天竜市史 上巻 (天竜市史 上巻 目次)

 戦国時代 第一節 戦国時代の北遠地方 二四五 応仁の乱 今川義忠の活動 今川・斯波両氏の対立 今川氏親,の遠江進入 斯波義雄 今川氏に対する国人の動向 第二節 二俣城主 二五七 二俣城主の性格 瀬名一秀 ,朝比奈時茂 二俣昌長 松井貞宗 第三節 引馬城主の所領 二七三 阿多古地方 第四節 今川氏の領国支配,二七五 戦国大名今川氏 今川家臣団と軍事力 第五節 今川氏の民政 二八四 今川仮名目録 土地と農民支配, 農民の負担と階層 戦国時代の農村 第六節 徳川・武田両氏の対立と今川氏の滅亡 二八九 桶狭間戦 遠州忩劇
浜松市史 一 (町の自治権)

天文六年(一五三七)四月、堀越氏は滅され、今川氏の代官が治め、年貢百貫文を徴収していた。,今川義元は年貢の五割増をしようとしたが、天文十年に年貢百五十貫文を町民が請け負うかわりに、今川氏から自治
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