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浜松市史 ニ
(代官役所)
代官
役所 幕末(弘化四年、一八四七)には浜辺・万斛・国領・浜名・川東の五組となっている(『有玉村高林家諸用記,なお、江戸後期にはこれらの
代官
が常勤した藩の御役所が、有玉(ありたま)・三嶋(みしま)・入野(いりの),災害をうけた組に藩の「地
代官
」が見分をして年貢の差引を行なっている。,この地
代官
は収納官僚としての藩士であったが、前述の
代官
とは別の存在のように思われ、また、同地の専任
代官
,年月日 地
代官
名 延宝8.8.6 大風雨 衣笠又右衛門 仁見瀬兵衛 元禄6.4. /
代官
役所
浜松市史 ニ
(天領の代官)
天領の
代官
天領を支配するのが
代官
であり、元禄期の
代官
の管轄区域は前述の領主分布表から察せられる。,【市野氏 惣太夫 浜名
代官
】近世初期の浜松地方の
代官
としては、中泉(なかいずみ)村(磐田市)の秋鹿家と,となり浜名十郷その他を支配し(『随庵見聞録』に浜名
代官
「浜名十郷辺ハ慶長五年ハ堀尾殿領浜松分、同六年ノ,元和二年死去(市野村の宗安寺に葬る)するや、
代官
職と惣太夫の称号は実次(さねつぐ)・実利(さねとし)・,寛文のころの市野・秋鹿両
代官
支配地の一端を上表に示そう。 / 天領の
代官
浜松市史 ニ
(代官の交代要求)
代官
の交代要求 さらに当時の浜松領内の状況をうかがうことのできる一事件をしるしておこう。,井上藩が浜松にきた当初に
代官
を勤めたのは、海老沢孫左衛門・清水助次郎・相曽幸次兵衛の三人であったが、弘化五年,(嘉永元年、一八四八)正月七日夜のこと、
代官
の清水助次郎を排撃する張り紙が、浜松城の大手門や馬込の木戸,
代官
の身柄をもらいうけて自由に処分したい。 /
代官
の交代要求
浜松市史 ニ
(藩士に代る代官)
藩士に代る
代官
【税務官僚】ここにみられる
代官
は、かつての在地土豪層出身ではなく、税務官僚としての藩士,であることが注目され、藩の
代官
制の転換を示している。,御米付并御蔵諸色入草・千石夫・定助大助郷)の割りあては六組の組単位に行われている、その割付の組別村名から
代官
六人 / 藩士に代る
代官
浜松市史 ニ
(在地土豪の初期代官)
在地土豪の初期
代官
【高林家】浜松藩の初期の
代官
の中でその性格や任務を代表的に示しているのは高林家である,を支配した
代官
六人の中の一人として六年間在職した。,を辞任し、
代官
佐二兵衛は自害したことが知られる。,【六
代官
】浜松藩の当時の六人の
代官
については、右の高林家・山下家の外に万斛(まんごく)村の鈴木家(権右衛門先祖,彼らは、戦国武士の土着した家筋で、在宅勤務の
代官
に任命されたものと考えられ、その故にこそ
代官
の地位にも / 在地土豪の初期
代官
浜松市史 一
(今川心省 今川貞世父の代官として山陰に出陣)
今川心省 今川貞世父の
代官
として山陰に出陣 その年の八月には父心省が守護となった(『富田仙助氏所蔵文書,佐藤進一氏は「貞世は父の
代官
として遠江軍を指揮したのだろう」とする。 / 今川心省 今川貞世父の
代官
として山陰に出陣
浜松市史 ニ
(秋鹿氏)
秋鹿氏 【市野村】ところで、市野家の真防は元禄十年(一六九七)
代官
職を辞し、小普請に就任し、正徳四年,【土豪
代官
】市野
代官
の治績については不明であるが、市野氏が前に述べた初期の浜松藩の
代官
と同じような土豪的給人的性格,の
代官
であること、また元禄期に
代官
職からはなれているという点は
代官
制度の転機を示すものとして留意したい,
代官
秋鹿氏も元禄十年以後は無役となり、本来の遠江国府八幡宮神主に専念している(『秋鹿家文書』)。
浜松市史 一
(蒲御厨)
東大寺は応永二十五年(一四一八)に直接管理するため使者(
代官
)を派遣し、用水管理権を回収するなどして、,領家の伊勢皇大神宮側の代表者蒲氏の支配権を弱め、名主をそれぞれの名の公文職(くもんしき)とし、
代官
がこの,応島久重遠江国蒲御厨
代官
職請文(奈良 東大寺蔵) 【応島氏の自立運動】永享(えいきょう)二年(,そして文安元年(一四四四)に応島久重は、年貢三百五十貫文の
代官
職請文を呈出している。,すなわち寛正二年(一四六一)六月大河内兵庫助真家と磯島藤衛門俊家を蒲御厨
代官
職にした。
浜松市史 ニ
(検見の緩和)
廻村方を任命し、よく民情を視察するように命じたが(これは農民の反感をおそれ翌月中止)、翌四年八月には六手
代官
所,【六手
代官
】六手
代官
所(陣屋)とは長上(ながかみ)郡丸塚村・同郡有玉下村・敷智(ふち)郡入野村・同郡三嶋村,・同郡三ケ日村・豊田郡小嶋村の領内六か所に設けた藩庁の出先機関である(
代官
一名、手代二名)。
浜松市史 ニ
(仕法改革)
【両全講新設】ところが十一月一日村役人を
代官
所に集めて当五月村々へ月並調達金を申しつけたが、このままでは,年月 内容 理由 対象 通達者 嘉永2.8 10月までに50両 高林左衛門
代官
〃6.12,100両 殿様入部 高林左衛門
代官
3人 臨時物入 手代3人 不明 〃 高林維兵衛作左衛門,ら 安政元5 月並調達金 勝手向不行届 領内村役人多数 家老井上織部
代官
ら 5ヵ年間 〃,11 調達金 重立世話掛71名 3.5 調達金 村役人
代官
浜松市史 一
(農村の構造変化)
【
代官
】そして
代官
・小
代官
・郡代などの武士を現地において、民政をとらせる。
浜松市史 一
(新居の関銭)
九月九日、今川氏は安定の処分をきめた朱印状を、彼の知行地に近い宇布見郷の今川氏
代官
中村源左衛門に下達した,本年度の収納についても米七四八俵のうち、五〇〇俵は蔵入とし、残り二四八俵は、中村
代官
はじめこの一件に尽力,右の額以外に「百姓前」が横領している分があれば言上すること、その額により
代官
などに扶持する。,将来安定に右の蔵入分を返却してやることがあっても、
代官
らに扶持した米銭は永久にそのままとする。」 ,今川氏は給人(知行人)を押えるために「百姓前」を利用し、関係の
代官
などに恩賞を与える一方で、「百姓前」
浜松市史 一
(都市の行政)
都市の行政 【引馬宿】都市の行政は、はじめのころはその都市をふくむ荘園領主の
代官
が直接におこない、のち,引馬宿は、中世では浜松荘の領家の
代官
が支配し、南北朝になると吉良氏の手に移った。
浜松市史 一
(遠江の勢力分布)
遠江の勢力分布 このころ西遠には、南部に三河吉良氏の
代官
大河内氏が浜松荘に勢力をもち、北部に斯波氏の,
代官
は井伊氏と結んでいた。
浜松市史 ニ
(浜松領受取)
領内村々より参集した村役人たちの眼前で、水野藩役人より中泉
代官
に郷村を返し、即刻その場で、
代官
の手から,あくる六日には領内のおもだった庄屋たちは、井上藩の郡奉行や諸
代官
・手代・同心など村方支配の役人たち十九軒
浜松市史 ニ
(浜松藩出動)
横須賀西尾隠岐守二百二十人、掛川藩太田摂津守百九十人、相良田沼玄蕃頭百五十六人、田中本多豊前守三十二人、駿府
代官
羽倉外記二十八人,、中泉
代官
竹垣庄蔵二十八人、一橋
代官
小島源一が十二人の手兵を出してものものしく沿岸の警備を行なった(『
浜松市史 ニ
(村役人の自重)
【立入拒否】左衛門はまた下大瀬村(当市大瀬町)の年貢勘定のため、嘉永二年(一八四九)二月
代官
所より東美薗,しかし下大瀬村の村役人たちの説明を聞き、左衛門・藤右衛門の両人はとくに問題もないとして、立入りの中止を
代官
所,四月になって再度、
代官
所より下大瀬村へ立ち入るよう命ぜられたが、弘化三年の一揆の落着していないのを理由
浜松市史 一
(松井氏)
】そして義元のときに松井宗信は、鎌田御厨をはじめ二俣・野辺・下平河・津久部、蒲御厨の鶴見・長田両郷の
代官
職,すなわち宗信は遠江の中部に所領をもち、今川氏の蔵入地遠江尾奈郷の
代官
職をつとめ(『蠧簡集残篇』)、在地
浜松市史 一
(都田御厨)
領家洞院氏の
代官
は守護代甲斐三河守、その
代官
池島(応島であろう)は上方の地頭、下方の地頭で
代官
は堀江城
浜松市史 一
(村櫛荘)
室町時代のはじめに村櫛荘本家年貢を押領したのは、和地・伊左地を吉良氏の
代官
、西郷分を肥田兵庫允、領家方半済分,を
代官
の安西中務丞・高橋太郎左衛門尉・後藤次郎左衛門尉・深谷某であり、さらに村櫛九郎があり、なお惣
代官
浜松市史 ニ
(藩の苦慮)
というのもわずか一年半前の弘化三年六月の一揆で、農民たちが
代官
清水帯刀の首を貰いうけたいと、要求したのときわめてよく,両名の経験は、
代官
の身柄引渡しを要求する張り紙に示された領内のけわしい空気をやわらげるのに、十分に役立
浜松市史 ニ
(井上家の調停)
証文は三通のうち一通は水野家郡奉行から井上家郡奉行へ、一通は水野家
代官
から井上家
代官
へ、一通は水野家仮役所
浜松市史 三
(石川雅長 林鋼三郎)
また、中泉
代官
(文政年間)羽倉簡堂(外記)が、その娘うめに迎えた中泉
代官
(天保年間)林鶴梁(伊太郎)の
浜松市史 一
(蒲御厨の徳政一揆)
【大河内氏】引馬の領主大河内氏(浜松荘領家吉良氏の
代官
)は、吉良氏を通じ遠江守護代甲斐氏に張本人の処断,一揆の首謀者は国人で、蒲の
代官
政所の石田義堅を味方につけ、大河内氏の勢力を不快に思う守護代を説得して勝訴
浜松市史 一
(領家氏)
領家氏 領家氏 村櫛荘の領家の
代官
の子孫であろうか(『大沢文書』『中村文書』)。
浜松市史 ニ
(組別支配制)
組別支配制 【支配領域】ところで、高林家四代の忠勝は元禄三年(一六九〇)藩主から
代官
に任命されたが、,(表)
代官
支配区分一覧(石未満切捨)
代官
名 熊谷三太夫 藤井仙右衛門 飯野八兵衛 小野四郎右衛門
浜松市史 ニ
(調達金下命)
九月十二日江戸表より重役の永田権六が浜松に出張し、
代官
ら列座のうえで、集めた村役人に一層資金調達の協力,その一方、農民たちは十月、生活難渋のため拝借米をぜひ下されたいと
代官
所に願い出る始末であった。
浜松市史 一
(大河内氏)
貞綱は浜松荘領家吉良氏の
代官
であり、引馬城に住み、遠江守護斯波義達とともに今川氏親に抗戦して遂に敗死した
浜松市史 ニ
(浜松藩の新田開発者)
浜松藩の新田開発者 【
代官
】この当時の浜松藩領は戦国武士の系譜を持つ六人の在地土豪が「
代官
」としてこれを,有玉村の高林家三代目忠吉のころ(承応元年)には「御領分新田隠田、万御仕置改まり、さはがし」くなり、忠吉は
代官
浜松市史 一
(市場商人は名主)
のちには、
代官
立ち合いのもとで、農民と市場商人が自由競争できめる。,一二三九)、幕府は諸国の地頭が、山僧(さんそう)(延暦寺の僧)・商人・借上(かしあげ)(高利貸)らを
代官
,のちのことだが永享(えいきょう)十二年(一四四〇)、京都の東寺領の遠江細屋(ほそや)郷(掛川市細谷)の
代官
浜松市史 一
(都築氏)
天正三年(一五七五)十一月廿九日付棟札に「国主家康」「地頭都築惣左衛門(秀綱)子息惣十郎、奉行紅林彦八郎
代官
火置三蔵
浜松市史 ニ
(茅野新田)
茅野新田 【弥助新田】また茅野(かやの)新田は寛文五年掛塚村庄屋が開発を中泉
代官
所へ願い出ており、弥助新田
浜松市史 一
(浜松荘)
了俊は笠原荘と浜松荘とが欠所地になっているので、その
代官
職を要求した。,吉良氏は、のち
代官
をおいた(『鴨江寺文書』『寿量院文書』)。
浜松市史 ニ
(新田開発の奨励)
新田開発の奨励 江戸幕府開設後の慶長年間に、関東その他の地方で、伊奈忠次らの有力
代官
は新田開発を奨励,【飯田新田の開発】浜松地方の例として、忠次と共に幕府の有力
代官
であった彦坂九兵衛光正が寅年(慶長七年)
浜松市史 ニ
(志都呂の松平氏)
大久保
代官
所跡(浜松市大久保町) 志都呂
代官
所跡(浜松市志都呂町) 志都呂松平(五井
浜松市史 ニ
(出張役所設置)
設置にあたり
代官
支配下の村惣代十五名は、このたび出張役所が設けられて農事視察の廻村をしていただけるのはありがたい,ついては一歩進めて出張役所に
代官
の常駐在宅をお願いしたい、と有玉下村をはじめ「請所」十五か村の庄屋たちが
浜松市史 一
(中村氏)
中村氏 【宇布見】中村氏 浜名郡雄踏町宇布見の「地頭」であり、今川氏の
代官
を勤め(『中村文書』)、徳川家康
浜松市史 ニ
(水野氏浜松入)
【領内庄屋出頭】六月二十日には領分の庄屋・組頭・百姓代の名簿を、田町に出張の
代官
森勇右衛門の宿所に提出,威儀を正すうちに、何村庄屋誰々と大音で指名され、おそるおそる中泉御元〆服部様の前へまかり出ると、中泉
代官
伊奈玄蕃,し】有玉下村庄屋高林伊兵衛(方朗)は二十二日のことを、当日は上使牧野采女(うねめ)・柴田庄衛門・中泉
代官
伊奈玄蕃
浜松市史 一
(引馬城の飯尾氏)
【飯尾賢連】飯尾賢連は、吉良氏から浜松荘の
代官
に任命されて引馬城に入り、のち引馬は飯尾氏の居所となった
浜松市史 ニ
(浜松町奉行)
井上氏】井上藩については、嘉永(かえい)四年(一八五一)の勤役が前掲の表(第三章第二節)によって郡奉行・
代官
,深いものは、町場では町奉行と宿駅に関する朱印改役(高力摂津守時代)・問屋出役であり、村方では郡奉行・
代官
浜松市史 ニ
(川留と川明)
その川留・川明について『東海道浜松宿大概帳』には、 【川会所 川立札】「此川留明之節ハ支配御
代官
并宿方,天竜川御定賃銭高札也、其外賃銭割増有之候節、右傍江建添ニ相成、是を大小天竜川江建置、建替之節は支配御
代官
役所
浜松市史 ニ
(助郷制の公布と助郷村の指定)
但在郷助馬之者勝手よく罷出侯ハ、各別たるへき事 一右助馬之分ニても荷物つかへ不罷成時ハ、町中より地頭
代官
,へ断申せんき糺之上往還之衆多通り荷物つかへ候義於無紛者、地頭
代官
より申付、御料私領を不限、助馬之外其所之近
浜松市史 一
(奉公方の経済基礎)
さらに奉公衆を将軍の直轄領
代官
にした。
浜松市史 一
(第二次解体期)
第二次解体期 荘園領主が守護や守護の関係者を荘園の
代官
にしたことは、まもなく荘園をうしなう結果をまねいた
浜松市史 ニ
(松湖)
松湖 藤田松湖は通称三千郎、宇布見の人、大久保(当市大久保町)の
代官
所につとめるかたわら絵を半香に学
浜松市史 一
(幕府の弱体)
幕府の弱体 元亨(げんこう)二年(一三二二)陸奥国(青森県)の津軽に、蝦夷(えぞ)を統治する幕府
代官
浜松市史 ニ
(鴨渓)
安政四年没、のち林鶴梁(時の中泉
代官
)撰文の頌徳碑が見付の金剛寺境内に建てられた。
浜松市史 ニ
(浜松地方の天領)
浜松地方の天領 浜松地方の天領に関する古い史料は元和(げんな)五年(一六一九)の『遠州池田川西御
代官
所高帳,【相給】一村が大名・
代官
・旗本など複数の領主によって分割領有される(相給という)事例は、浜松地方には少
浜松市史 ニ
(甲府駐屯)
六月四日には水防掛に犬塚雄太郎、六月八日には
代官
として赤松孫太郎が任命され、甲州の治安維持にあたった。
浜松市史 一
(守護の基盤)
守護は直轄領をつくりだし、(占領地のうち・開墾地・没収地など)直属の家臣団(
代官
・馬廻・小姓たち)をもつことに
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