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浜松市立中央図書館/浜松市文化遺産デジタルアーカイブ

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浜松市史 四 (伊場遺跡)

伊場遺跡 【高柳智】  伊場遺跡が、一世紀後半から二世紀代の弥生時代集落の在り方を伝える遺跡として,伊場遺跡調査隊長は樋口淸之教授であった。,教授の執筆による「浜松市伊場遺蹟調査の栞」なるガリ版刷りの文書が残されており、伊場遺跡の存在意義が次のように,の試掘から四回の発掘調査までをまとめた冊子は浜松市文化財調査報告書『伊場遺跡』として昭和二十八年九月に,図2-78 伊場遺跡東側入口(説明看板と標識) / 伊場遺跡
浜松市史 一 (伊場式土器の分布)

伊場式土器の分布 このような伊場式土器の特徴は、そのまま年代を示す特徴でもあって、東海地方の後期前半,伊場式土器の分布は、いまのところあまり多くは知られていない。,断じかねるのであるが、つぎの後期後半になると、弥生文化は明らかに大きな発展段階を迎えるのであるから、伊場遺跡 / 伊場式土器の分布
浜松市史 一 (伊場遺跡保存会の結成)

伊場遺跡保存会の結成 昭和二十四年といえば、静岡市において登呂遺跡の発掘が始まり、はなばなしくジャーナリズム,こうした情勢の中で「伊場遺跡保存会」(会長坂田啓造)が結成されたのである。,第19図 伊場遺跡周辺の地形と地質 / 伊場遺跡保存会の結成
浜松市史 四 ([『伊場遺跡』の刊行])

[『伊場遺跡』の刊行] 國學院大學伊場遺跡調査隊の編集による『伊場遺跡―西遠地方に於ける低地性遺跡の,伊場遺跡保存会理事による跋文の冒頭に次のようにある。,    【伊場遺跡 高柳智 樋口淸之 國學院大學伊場遺跡調査隊 伊場遺跡保存会,】  伊場遺跡は、第二章第九節第九項で既述のように太平洋戦争末期に、浜松市内を襲った艦砲弾の幾つかが,図3-90 『伊場遺跡』 / [『伊場遺跡』の刊行]
浜松市史 一 (伊場遺跡出土の土器の特徴)

伊場遺跡出土の土器の特徴 伊場遺跡出土の土器群(第20図)を、全体として他の地域の土器と比較すると、,伊場遺跡出土の土器にみられる特徴としてはつぎのような点があげられる。    ,第20図 伊場遺跡出土の弥生式土器(1~21,Ⅰ式 22~29,Ⅱ式)(外山和夫氏実測) / 伊場遺跡出土の土器の特徴
浜松市史 一 ([発見と調査])

[発見と調査] 伊場遺跡については、以下、国学院大学伊場遺跡調査隊編の学術調査報告書『伊場遺跡』にもとづいて,伊場遺跡は、太平洋戦争末期に受けた艦砲射撃が、発見の直接の原因になった。,【試掘】高柳氏は、伊場遺跡の内容を明らかにするための手はじめとして、昭和二十四年四月十六日・十七日の二日
浜松市史 一 (遺跡の範囲)

遺跡の範囲 調査の行なわれた範囲が、約二三〇平方メートルで、その中に狭義の伊場遺跡が大体収まっていたらしい,伊場遺跡の調査報告書の中にも、発掘地点以外にも弥生式土器の発見される地点があり、遺跡の大きさは東西一キロメートル,この推定はやや過大気味であるが、このように広く解釈することはできるわけで、これを広義の伊場遺跡と呼んでもよいだろう,狭義の伊場遺跡はおそらく一戸ないし二戸の住居跡とそれに関連した遺構であったと考えられるが、このような遺跡,が、浜松工場からその南側一帯にかけて散在し、広義の伊場遺跡を構成していたといえるのではなかろうか。
浜松市史 一 (愛知県とのつながり)

①は、その源流が近畿地方に求められるのであって、伊場遺跡の土器が大きく櫛描文土器群の仲間にはいる証拠とされるのであるが,そして④は、これまでのところ、伊場遺跡独自の手法とされているのである。  ,こうしてみると、伊場遺跡出土土器は愛知県下のものに共通性を多く見出すのであって、大きくみてそれと同類であるといえる,愛知県ではこの時期のものを寄道式土器と呼んでいるが、伊場遺跡の土器はほぼ寄道式と同じ内容であるとみられるわけである,しかし、④と⑦の特徴は、寄道式土器にはあまり見うけない要素であるために、寄道式の亜種として「伊場式土器
浜松市史 ニ (助郷村の負担)

【伊場村】一つのケースとして伊場村の場合を挙げてみよう。,宝暦十年の『伊場村御用書留帳』(『浜松市史史料編四』)をしらべると、助郷勤は毎月二、三回で、とくに陽気,(表)宝暦10年伊場村の人馬出動数 月日 人足数 馬数 1.17 36 人 18 30 19
浜松市史 一 ([出土遺物])

[出土遺物] 伊場遺跡の構造については、前述したようにあまり明確には把握されていないのであるが、そこで,しかしながら、低湿地に立地し現に籾粒を出土しているという事実からは、やはり伊場遺跡では水田経営に、完全,しかし伊場遺跡では、鋤頭・槌と記載されている例が発見されているにすぎない。
学びの里祈りの丘:わが町文化誌 (浜松市立県居公民館『学びの里祈りの丘:わが町文化誌』 目次)

しない 目   次 ページ 画像 【昭和22年撮影航空写真】 【平成7年撮影航空写真】 【伊場遺跡出土木簡,】 はじめに 第一章 浜松のあけぼの 1 一 浜松が形成されるまで 2 (一)伊場遺跡,と伊場遺跡群 2 【栗原駅家 敷智郡家 濱松郷】 3 (二)県居・西地区の地形と地質 【鴨江台地,なたもちおかせ 西伊場町】 159 【法華講とお伊勢参りなど 西伊場町 おかげまいり】 160 三,の由来 岡部の里】 273 【西伊場町 西伊場町西】 276 【南伊場町 国鉄 官舎】 278
浜松市史 一 (第四期調査)

この調査では遺跡の南縁に調査区が設定され、伊場遺跡の規模をある程度明らかにした。,こうして、八月一日をもって伊場遺跡の調査は終了した。
浜松市史 四 ([道路延長の急伸と街路計画の進展])

西伊場・可美 20 Ⅰ. 3. 4 伝馬雄踏線 伝馬・入野 25 Ⅱ. 1. 8 広沢入野線 広沢・,入野 20 Ⅰ. 3. 5 旭伊場線 旭・西伊場 27 Ⅱ. 1. 9 和合富塚線 和合・富塚 20,東伊場・亀山 12 Ⅰ. 3.17 天神長上線 天神・長上 27 Ⅱ. 3. 3 佐鳴湖西岸線 入野,山下上島線 山下・上島 20 Ⅰ. 3.19 曳馬早出線 曳馬・早出 25 Ⅱ. 2. 8* 鴨江西伊場線,鴨江・西伊場 16 Ⅰ. 3.20 子安大柳線 子安・芳川 25 Ⅱ. 2. 9# 鴨江入野線 鴨江
浜松市史 三 (大字制度 新町名)

改称)・元目町(げんもくちょう)(大字元城の内の元目)・中山町(なかやまちょう)(中山は小字名)・東伊場町,(ひがしいばちょう)(大字伊場の改称)・西伊場町(にしいばちょう)(通称伊場西)・森田町(もりたちょう,の各一部 一部を成子町へ編入 鴨江町 かもえまち 改称 東鴨江 一部を海老塚・東伊場・西伊場・中山・,三組・成子・元魚・菅原の各町へ編入 東伊場町 ひがしいばちょう 〃 伊場 東鴨江の一部 一部を菅原・西伊場,・森田の各町へ編入 西伊場町 にしいばちょう 新設 (伊場西) 東鴨江・伊場の一部 森田町 もりたちょう
浜松市史 三 (中学入学希望者激増 第二中学校の創立)

所在地浜松市伊場西(現在西伊場町)で校地八千坪、西山の丘陵にある校舎は「銀くもりなき大洋や東天耀う芙蓉峰,67 33 1,743 県立浜松第一中学校 広沢町 5 40 21 1,099 県立浜松第二中学校 西伊場町
浜松市史 一 (原始編)

一五一        前期弥生文化の波及  低湿地の形成  中期弥生文化の波及と定着   第三節 伊場遺跡,                一六〇        自然環境  発見と調査  遺跡の構造  出土遺物  伊場式土器,  伊場式土器の年代と分布   第四節 後期弥生文化の展開           一六九        
浜松市史 一 (原始編)

交易ルート     一四三 蜆塚遺跡出土の縄文文化らしからぬ石器(浜松市立郷土博物館蔵) 一四五 伊場遺跡出土,水神平式土器出土遺跡と弥生時代中期遺跡  一五三 浜松付近出土の水神平式土器および前・中期弥生式土器 一五八 伊場遺跡周辺,の地形と地質図             一六二 伊場遺跡出土の弥生式土器              
浜松市史 三 (編入 編入)

編入 編入 【浜松寺島 浜松八幡地 龍神寺 浅田 海老塚 伊場 東鴨江】しかし、浜松駅設置により浜松町,さらに②四十一年十月一日には浜名郡浅場(あさば)村のうち大字浅田(八六町歩余)・海老塚(一六町歩余)・伊場
浜松市史 ニ (犀ケ崖の夜戦)

なお伊場村(当市東伊場)次郎左衛門(岡部政定)は夜襲に加わり武功をたてたという(「浜松御在城記」『浜松市史史料編一
浜松市史 三 (浜松町の敷地提供 中止の飛報)

ただちに用地買収(敷地予定三十三万六千坪)に着手し、翌年八月には三千二百筆の登記もすみ、次の正月から伊場,交渉成り難たしを以て約十万円の補足金を支出し関係地主は今回祖先伝来の耕地」を手離して移住し、敷地予定地の伊場,工場予定地の伊場を視察のため鉄道院総裁後藤新平が地元浜松の用意した歓迎会にも顔をみせず車内を宿所にあてて
浜松市史 一 (海蝕崖)

海蝕崖 【東伊場町 入野町】三方原台地は、天竜川右岸において北東から南西にかけて、きわめてゆるやかに,傾斜する約二〇キロの扇形をなし、その南縁は浜松市東伊場町・入野町・浜名郡雄踏町にわたって東西に走る海蝕崖
浜松市史 五 (組合施行の土地区画整理事業)

組合施行の土地区画整理事業 ところで、戦後の浜松市における組合施行の土地区画整理事業は昭和三十三年の伊場台地,早出北、上島東、十軒、上島西などで、同六十年代は有玉西、半田や東洋紡績浜松工場跡地の土地区画整理を行う東伊場南土地区画整理組合
浜松市史 ニ (克明館校則)

克明館も同様で、新町の内田正太郎(のち正)・伊場村(当市東伊場)の岡部譲・本魚(もとうお)町の醸造家に
浜松市史 五 ([鳥居松遺跡からの家形土器の出土])

その立地から、三重の環濠を持つこの地域の中核集落である伊場遺跡の周辺集落の一つとして位置付けられた。, なお、鳥居松遺跡では、遺跡発見後も断続的に発掘調査が行われ、弥生時代の遺物だけでなく、隣接する伊場遺跡,この大溝の周辺からは古墳時代以降の遺物・遺構も検出され、伊場遺跡群を構成する集落(官衙)遺跡の一つであることが,金銀装円頭大刀】  さらに、第五次調査(平成二十年一月~六月)の際に、金銀装円頭大刀(全長76・5㎝)が伊場大溝
浜松市史 一 (出土土器)

伊場遺跡の土器と比較するとつぎの点が異なっている。①壺形土器の器形が円味をもっている。,この三点は、伊場式土器より新しい特徴で、後期の後半であることを示すものである。
浜松市史 三 (区長)

なお、浜松八幡地・浜松寺島・龍禅寺の各区は明治三十九年四月、鴨江(東鴨江)・伊場東・伊場西・浅田・海老塚
浜松市史 ニ (海岸地帯)

【浅田村】『旅籠町平右衛門記録』(『浜松市史史料編一』)によると、享保十一年(一七二六)に浅田村・伊場村,後文政八年(一八二五)に志都呂村前の川通りに「新田開発」のための「新堤」が作られたために西鴨江・入野・伊場
浜松市史 一 ([自然環境])

[自然環境] 伊場遺跡は、三方原台地南縁の海蝕崖から直下に望むような位置にある。,伊場遺跡人たちはこの低湿地に目をつけて、現在国鉄浜松工場のあるあたりにムラ作りを始めた。
浜松市史 三 (明治八年小学校)

また教員に辻本高山(伊場光雲寺住職、伊場学校)・岡本晃(鴨江快真寺住職、鴨江学校)などがあった(西小学校
浜松市史 ニ (平手汎秀の戦死)

は、城に入ることができず、東海道今切(いまぎれ)(浜名郡舞阪町)に向かったが稲葉(いなんば)(当市東伊場,東伊場に「平手監物の墓」がある(渥美実「ひらてんさま」『土のいろ』第十七巻第一号)。
浜松市史 三 (被爆地域)

弾着音が激しく、次第に鹿谷(しかたに)から浜松城址方面へ移り一旦砲声は跡絶えたが、再開後は浜松駅をはじめ伊場,の鉄道省工場等の交通施設に、ついで東部の浅野重工業等軍需工場地帯へかけて盛んに弾着があり(東伊場町二二,なったということで、被爆地域は①浜松駅より寺島方面②中島町浅野重工業会社工場より相生町鈴木織機工場方面③東伊場町浜松鉄道工場方面
浜松市史 四 ([賀茂神社の氏子会])

先には浜松市域の神社を糾合した氏子総代会や連合氏子会の存立を示す規約等を見たが、ここでは賀茂神社(東伊場町,賀茂神社宮司岡部嚴夫は昭和二十四年六月の氏子会の発足を、翌年七月十五日付で刊行した東伊場町青年会雑誌『,そして宮司岡部厳夫は賀茂真淵の子孫らしく、賀茂神社がオアシスであった歴史を指摘して、「伊場遺跡の住人達
浜松市史 五 ([浜松まつりへの女性・障害者の参加])

昭和十五年に実施された陸軍浜松飛行場で行われた皇紀二千六百年記念の凧揚げ大会に八歳で参加した経歴を持つ西伊場町,平成八年、西伊場町自治会・同町凧揚げ会西組・メンズボランティア共生会が協力して障害者のまつりへの参加を,参加した児童らは西伊場町の子どもラッパ隊の歓迎を受け、「西組」と書かれたおそろいの法被に袖を通し、保護者
浜松市史 ニ (真渕の家系)

近世の国学史上重要な地位を占める賀茂真渕は、元禄十年(一六九七)三月四日、遠江国敷智郡浜松庄岡部郷伊場村,(当市東伊場)に、岡部政信(定信ともいう)の子として生まれた。,宮中に奉仕したので、浜松庄岡部郷を賜わり、局はこの地へ京都の賀茂社を勧請して新宮を斎き(いまの当市東伊場賀茂神社
浜松市史 四 ([罹災した寺院])

広厳寺(船越町)、天林寺(下池川町)、浄土寺(広沢町)、普済寺(広沢町)、西来院(広沢町)、瑞生寺(東伊場町,)、光雲寺(東伊場町)、円通寺(植松町)、本誠寺(富吉町)、教興寺(伝馬町)、松林寺(名残町)、観音院
浜松市史 三 (上水道候補地)

すると近隣から井戸水が涸れるという苦情がおこったので、急遽市内船越と伊場に変更したが、伊場からは水が出
浜松市史 ニ (寺院の形式化)

笠井村の旧家山下佐二兵衛家は法永寺と定明寺の両寺に墓地をもち、伊場村岡部家は同村の見海院が檀那寺であるがその,また墓地が伊場村岡部与三郎家のように邸内の裏山にある場合もあったし、利町諏訪明神のように神官だけの墓地
浜松市史 ニ (文政倹約令)

この趣旨により、伊場村ではこの月村役人が協議して村の実情に即し「村方倹約并取締箇条」を申しあわせている,ぎや町方へ出て日雇儲けを抑制し農事に専念することなどの細則を定め、住民全部が請印をしている(『文政二年伊場村倹約取締
浜松市史 三 (年中行事)

・八幡宮、野口) 二十四日(玄忠寺地蔵会、田町)   【秋彼岸 秋祭】九月 十日(賀茂神社大祭、伊場,本県共祭招魂祭)  十月 十七日(半僧坊大祭、高町) 二十八日(報国隊例祭) 三十日(県居神社大祭、伊場
浜松市史 三 (浜松の名所)

犀ケ崖 (名残町) 鎧懸松 (松城町) 雲立の楠 (八幡宮) 颯々の松 (八幡宮東) 鳥居坂 (東伊場町,龍山公残亭 (龍禅寺境内) 火灯山 (中沢町) 六本松 (中島町) 鴨江城趾 (鴨江町) 県居翁誕生地 (東伊場町
浜松市史 一 (木寺宮領)

息神社所蔵棟札にもある (浜名郡雄踏町宇布見) 岡部郷 同上 同上 賀茂別雷神社文書・岡部文書等にもある (東伊場町,鴨江寺文書所収増田長盛・長束正家連署状)や大窪十兵衛長安(岡部文書)もこの地に関係があろうか (天竜市あたりか) 伊場郷,山田・助信村 慶長8.9.15 竜禅寺文書 山田は天正18.12.28竜禅寺文書にもある (鴨江町・西伊場町,沢村 同上 同上 (広沢町) 山田 天正18.12.26 寛文御朱印帳 竜禅寺文書にもある (西伊場町
浜松市史 一 (第二期調査)

第二期調査 こうして、昭和二十四年(一九四九)八月二十日から九月一日まで、伊場遺跡保存会による、第二期調査
浜松市史 三 (一月の空襲)

人,全壊4戸 半壊6戸,小破27戸,全焼35戸,半焼10戸 11 20.3.4 250キロ爆弾 東伊場町,14.20 死者1人,軽傷者1人 23 20.7.24 小型爆弾及び銃撃 広沢町 八幡町 砂山町 東伊場町,艦載機約70機,爆弾3箇 7.10 死者1人,軽傷者3人 24 20.7.25 〃 東伊場町 成子町,65戸 26 20.7.29 艦砲射撃 中島町 松江町 馬込町 新津町 旭町 追分町 名残町 東伊場町,西伊場町 艦砲射撃6,780発 23.23 死者177人,重傷者49人,軽傷者107人 全壊324
浜松市史 ニ (報国隊の特徴)

浜松木魚町、四百石どりの士分にとりたてられていた御用商人池田庄三郎をはじめ、その弟で分家の池田庄二郎、伊場,の加茂社の神主岡部次郎左衛門、伊場県居霊社神主の岡部与三郎、宇布見天神宮神主の中村源左衛門、掛塚川袋牛頭天王神主,【山本大隅】彼らが比礼廼舎のほか、宇布見の中村家や伊場の岡部家にも会して、国学の研究とともに時事を論じ
浜松市史 ニ (巡礼)

また、遠く西国巡礼などに出かける例もあった(「伊場村御用書留帳」『浜松市史史料編四』)。,#160; 22 鍛冶町 浄鏡院 66 四本松 永正寺 23 高林村 松林寺 67 江川村 法泉寺 24 伊場村,観正寺 40 西之郷村 慶福寺 84 西若林 光林寺 41 堤村 増見寺 85 嶋之郷村 松寿院 42 伊場村
浜松市史 ニ (助郷制の公布と助郷村の指定)

助郷制の公布と助郷村の指定 寛永十四年(一六三七)三月助郷制が定まり、浜松宿では伊場村・東鴨江村・西若林村,元禄七年浜松・舞坂両宿助郷村図 (表)浜松宿定助郷(寛永14年) 定助郷村 助郷高 役馬数 伊場村
浜松市史 ニ (忠邦染筆)

こうして伊場村加茂社の境内に県居霊社は建立されそののちこの霊社は、遠江一国の国学のよりどころとなったのである
浜松市史 五 ([住居表示の実施])

によると第一次計画(昭和三十九~四十一年度)では浜松城を中心に、北は和地山、中沢、船越、西は広沢、鴨江、西伊場,次いで西伊場町と南伊場町が同四十一年二月一日に、四番目は同年五月一日に上池川・追分・名残(一部)の三町,住居表示により新しく誕生した町は前述のもの以外に西伊場町から独立した山手町、東名高速道路浜松インター付近
浜松市史 一 (土器)

土器 以上述べた木製品・土製品・石製品・ガラス製品などは、弥生時代に一般的な遺物であるが、伊場遺跡ではその,伊場遺跡の出土品は、以上であって、その種類や量ともに蜆塚遺跡にはおよばないが、そこに滲み出ている性格は
浜松市史 三 (市営バスの誕生)

昭和三年鈴木幸作市会議長らによって論議されていたが、七年中村陸平市長時代に入るとようやく機運が熟し、市営乗合自動車事業(伊場,そののち十四年十二月には上池川に車庫を新設、十五年四月には自動車係より自動車課へ昇格、早出・伊場線などの
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