機関トップ
資料グループ
テキスト一覧
年表一覧
キーワード一覧
参照データ一覧
浜松市立中央図書館/浜松市文化遺産デジタルアーカイブ
トップページ
詳細検索
詳細検索
目録
テキスト
年表
キーワード
その他(トップページ等)
検索条件を追加
目録
テキスト
年表
キーワード一覧
その他(トップページ等)
AND
OR
NOT
年号変換
閉じる
検索結果
: 219件
辞書ファセット
○○○
△△△
10件
20件
50件
100件
(並べ替え)
テキストタイトル(昇順)
テキストタイトル(降順)
ページタイトル(昇順)
ページタイトル(降順)
掲載ページ(昇順)
掲載ページ(降順)
/ 5ページ
浜松市史 一
(入野古墳)
入野
古墳 浜松市内には、干人塚古墳の他にもいくつかの中期古墳が存在している。,まず第一に
入野
古墳をあげなければならない。 /
入野
古墳
浜松市史 ニ
(入野川の水運)
入野
川の水運 また水上輸送には、佐鳴湖(佐鳴池または佐鳴浦)から浜名湖に注ぐ
入野
川を利用することもあった,幕末のころ浜松藩では浜名湖からこの川をさかのぼり関西米を
入野
村土橋(どばし)に陸上げし、これを早馬(はやうま /
入野
川の水運
浜松市史 一
(浜松荘 入野木寺宮領)
浜松荘
入野
木寺宮領 浜松荘 浜松荘宇間郷に吉良氏の料所(直轄領)があった。,
入野
の木寺宮領は、特殊な地位にあるため戦国時代まで残った。 / 浜松荘
入野
木寺宮領
浜松市史 五
([入野村と積志村の合併])
[
入野
村と積志村の合併] 【
入野
村 積志村 可美村】 昭和三十年(一九五五)四月の市長選で再選を,岩崎市長は周辺町村との合併を進める方針を打ち出し、市議会も昭和三十一年五月に市町村合併特別委員会を設置し、
入野
,同三十二年二月十九日になって静岡県知事が浜松市と
入野
村の合併を勧告するに至り、同年二月二十三日に市村同時,に議会で合併を決議し、同年三月三十一日をもって
入野
村の合併が実施された。 / [
入野
村と積志村の合併]
浜松市史 四
([神久呂(かくろ)村志都呂の入野村編入])
これに比べ隣村の
入野
村は雄踏街道沿いで比較的近く、バスが浜松―
入野
―志都呂―宇布見間に頻繁に運行されており,、産業的に見ても
入野
村と似ていた。,特に
入野
中学校へはわずかに二キロ弱、バスの便も良かった。, 【
入野
村 志都呂の
入野
村編入】 このようなことから、神久呂村志都呂の住民は昭和二十六年十一月,昭和二十八年二月になって神久呂村は
入野
村の条件をのむこととし、ここに志都呂の神久呂村からの分村と
入野
村 / [神久呂(かくろ)村志都呂の
入野
村編入]
佐鳴湖のあるまち:わがまち文化誌
(浜松市立入野公民館『佐鳴湖のあるまち:わがまち文化誌』 目次)
目次 『佐鳴湖のあるまち:わがまち文化誌』 浜松市立
入野
公民館 昭和63年(1988年),目 次 ページ 画像 はじめに 5 第1章 なりたち 今のすがた 11
入野
の歴史,わらべうた 183 第7章 年中行事とくらし くらしの知恵を伝えて 191 方言 208
入野
/ 浜松市立
入野
公民館『佐鳴湖のあるまち:わがまち文化誌』 目次
浜松市史 一
(家康の木寺宮領の保証)
家康の木寺宮領の保証 【
入野
】天正八年(一五八〇)五月、徳川家康は市内
入野
町の竜雲寺に住む「大宮」に,対し、
入野
(当市内
入野
町)の本所領と竜雲寺領は、住持瑞椿に譲るのならこれを保証し、大宮の存生中はお考えのとおりにすると,【竜雲寺と木寺宮】
入野
の竜雲寺が木寺宮に関係があるというのは、浜松藩士永井随庵が主命で延宝八年(一六八,徳川家康判物(浜松市
入野
町 竜雲寺蔵) 伝木寺宮康仁親王墓(浜松市
入野
町 竜雲寺)
浜松市史 四
([道路延長の急伸と街路計画の進展])
元浜 20 Ⅰ. 1. 6 龍禅寺中ノ町線 龍禅寺・中野町 36 Ⅱ. 1. 4 板屋蜆塚線 板屋・
入野
,砂山・中田島 16 Ⅱ. 1. 7 伊場可美線 西伊場・可美 20 Ⅰ. 3. 4 伝馬雄踏線 伝馬・
入野
,25 Ⅱ. 1. 8 広沢
入野
線 広沢・
入野
20 Ⅰ. 3. 5 旭伊場線 旭・西伊場 27 Ⅱ.,
入野
・可美 20 Ⅰ. 3.10 龍禅寺森田線 龍禅寺・森田 25 Ⅱ. 1.14 佐鳴湖東岸線
入野
,鴨江・
入野
16出典:『浜松市戦災復興誌』より作成 注:*は昭和29年追加、#は33年追加。
浜松市史 ニ
(竹村尚規)
竹村尚規 竹村尚規は敷智郡
入野
村(当市
入野
町)佐鳴湖畔の竹村又右衛門家に生まれた。,竹村家は堀江大沢藩の家臣であったといわれるが、
入野
村に住みつき、のち浜松藩主の御用係も勤めたが、代々酒造,「遠津淡海遠きところとききしかど思ひいり野の野は近かりき (大平) 心ある人に見せばや
入野
川秋
浜松市史 三
(東海道線)
東京・熱田間の全区間が馬車を主とする方式に改善された(下表参照、堀留運河は引船のため不自由だったので
入野
,島田・新所間継立表(明治11年所要時間9時間8分) 島田―日坂 日坂―
入野
入野
―新所 2里29町 10
浜松市史 三
(佐鳴湖)
佐鳴湖 佐鳴湖(さなるこ)
入野
村に属した。,明治三十四年
入野
漁業組合(最初佐鳴湖漁業組合と称す)設立。,また高塚の蓮池(はすいけ)も漁場であった(『
入野
村誌』)。
浜松市史 四
([近郊の行楽地])
[近郊の行楽地] 【佐鳴湖 漁場 貸ボート屋 佐鳴湖花火大会 飛び込み台
入野
漁業協同組合 佐鳴湖開放促進会,また、湖岸北東部の小藪と南西部の
入野
村臨江山(北脇)には佐鳴湖に観光に来る人たちのための貸ボート屋があった,朝鮮特需で
入野
村の機業地は一気に勢いを取り戻すと、佐鳴湖は付近の織屋さんに働く多くの女工さんたちの休日,
入野
村の機業家が主体となって昭和二十七年から佐鳴湖花火大会が開催されるようになった。,佐鳴湖の湖底は
入野
寄りは泥で泳ぐのには不向きであったが、小藪付近はきれいな砂利で湧水も出ていて、飛び込
浜松市史 一
(今川氏の一族)
国氏のあとをついだ基氏の弟は、のちの関口・
入野
・木田などの諸氏の祖である。 ,【
入野
氏】
入野
氏は、当市
入野
からおこった。基氏の弟俊氏が祖である。
浜松市史 三
(浜名湖の水浜松に入る)
浜名湖の水浜松に入る 【四年七月】工事は予想以上の早さで進み、明神野川(在来悪水堀)をへて七月には
入野
川,
入野
川は佐鳴湖から流れ出て浜名湖へ通ずる川である。,かくて浜名湖の水ははじめて浜松へ通じたわけで、今まで浜名湖からの荷物は
入野
川土橋で陸上げをして浜松へ運
浜松市史 一
(神社の統制)
【
入野
郷】永正十四年(一五一七)に井伊千代寿が、峯田郷一町六段の年貢三貫文を、永禄十年(一五六七)今川氏真,は
入野
郷(浜松市
入野
町)のうちで百五貫文の年貢のある土地を(『熊野夫須美神社文書』)、同十二年徳川家康
浜松市史 ニ
(蝶夢不二の山の句碑)
方壺の家は竹村氏の総本家で、通称本竹と呼ばれ、
入野
村で酒の醸造を営んでいた豪商である。,斗六は名を袴田孫四郎といい、
入野
村田端の人である。,蝶夢不二の山の句碑(浜松市
入野
町 臨江寺) とほつあふみの記 このやまやさくらはちれと香はのこり
浜松市史 五
(佐鳴湖東岸土地区画整理事業)
佐鳴湖東岸土地区画整理事業 【佐鳴湖団地 佐鳴台】
入野
村が浜松市に合併したのは昭和三十二年、浜松市,また、蜆塚・
入野
の両地区は高級住宅地にする計画もあった。,そして、昭和四十年に小藪・蜆塚・
入野
北・
入野
南の各土地区画整理組合の設立発起人を選出して準備に取り掛かった,そして同四十八年にはスーパーマーケットが開店、五十一年一月には
入野
町と分かれて佐鳴台が独立、これまで遠,くの
入野
小学校に通っていた子供たちの不便を解消すべく佐鳴台小学校が開校したのは同五十二年四月のことであった
浜松市史 三
(運河開掘の諸計画)
これは「
入野
村地付新堀有之を相用、浜松七軒町浦迄堀付、上下馬荷之分船積ニいたし運送仕候ハゝ」どのようにか,便利であろう、というもので「
入野
村地付新堀」とは、嘉永六年(一八五三)に明神野村(現在当市神田町)地付,の次郎助池から流れ出て
入野
川へ合流する明神野川(沼田川ともいう)を改修した悪水吐用水路のことである(東海道,【安政二年案 前島密案】かつて安政二年(一八五五)岡村黙之助義理(よしさと)が
入野
川の水を浜松城下元目
浜松市史 ニ
(引馬城の築城)
引馬城は永禄十一年(一五六八)四月十五日に「引間領之内
入野
郷(当市
入野
町)」の住民が「引間城内之塀弐拾五間,」の修築を課せられている(『米良文書』
入野
郷は熊野那智社領であった)。
浜松市史 一
(木寺宮領)
木寺宮領 【
入野
】浜松荘の
入野
(当市
入野
町)に木寺宮(きでらのみや)の御領があった。,浜松荘
入野
のうちを与えられたのであろう。,【竜雲寺】
入野
は地頭方・本所方・国方とわかれ、竜雲寺を木寺方とか木寺宮といった(『竜雲寺文書』)。,宇間郷瓜打村 天正3.11.25 六所神社所蔵棟札 (瓜内町) (1575) (浜松市史史料編二)
入野
,天正8.5.28 竜雲寺文書 (
入野
町) (1580) (浜松市史史料編三) 富塚郷 天正10.8
浜松市史 ニ
(社宮司社)
入野
村赤宮神(しゃぐじん)の赤宮神は、現在
入野
町西彦尾に移したが、いまも毎年九月十七日を例祭日と定めているし
浜松市史 ニ
(道祖神)
道祖神
入野
村道陸地(どうろくじ)(当市
入野
町)には道祖神が祀られている。
浜松市史 ニ
(仏教界の沈滞)
入野
村(当市
入野
町)の竹村広蔭はこれを歎いて、文化年間には寺へ女性が入りこんだだけで村民が寺をとりかこむというさわぎがおきたが
浜松市史 ニ
(都田川の鮎漁)
【佐鳴湖の鮒】佐鳴池では鮒(ふな)・鰻(うなぎ)・白魚(しらうお)・蜆(しじみ)を産し、
入野
村に生簀(,鮒は
入野
鮒といって浜松城主太田備中守の献上品となり、鰻は遠州白と称し江戸で賞美された。
浜松市史 三
(開掘仕様案)
八百五十四間(一五四五メートル)、新堀をうがち、この左右にその延長千七百間(三〇九〇メートル)の土手を築き、「
入野
村在来悪水堀,」(明神野川)の内七百七十一間を浚渫して接続せしめ、
入野
川に合流するというもので、掘割の間に水門一か所
浜松市史 ニ
(製機技術の進歩)
『変化抄』にはさいわいに
入野
村の場合について簡略ながら記述があるので、これによって述べてみよう。 ,【綿打業】『変化抄』によると、
入野
村の綿打ちは「古来より綿は手弓にて打来候処、文化十三年(一八一六)より,出来事はこの地方に織屋ができたことで、従来は「此辺にては織屋と申は古来無之候処」、天保六、七年にいたって
入野
村,【十反引き】以上は
入野
村の例であるが、このころと前後して東南部方面では小山みいによって織屋がはじめられ
浜松市史 ニ
(黙之助の通舟案)
安政二年九月、彼は「御為筋申上げ覚書」の中で、 一、通舟の事 【
入野
川 平田川 寺嶋川 法雲寺小橋, 元目御堀】一、田方水はきの為メニ近来出来候
入野
川より明神の村迄、掘割候井筋を成子坂町と猿屋町との道ばた,の富有、公私の利潤計り難き義と奉存候、尤川幅狭く候間、所々ニ舟溜リを付ケ、往返通舟も区々ニ不相成様、
入野
舟何十艘,
入野
川より明神野村まで水はけ用水路がつくられたのは、嘉永六年(一八五三)正月である(「変化抄」『浜松市史史料編四
浜松市史 ニ
(念仏)
入野
村(当市
入野
町)北脇・田畑では、江戸中期ごろからはじめた百万遍を月一回ずつ家々を順廻りに今もつづけているという
浜松市史 三
(浜名湖佐鳴湖の船運)
佐鳴湖畔でも
入野
村本所の人島津亀作による遠州
入野
東会社の本所河岸(がし)(佐平河岸)とか小薮(こやぶ)
浜松市史 一
(海蝕崖)
海蝕崖 【東伊場町
入野
町】三方原台地は、天竜川右岸において北東から南西にかけて、きわめてゆるやかに,傾斜する約二〇キロの扇形をなし、その南縁は浜松市東伊場町・
入野
町・浜名郡雄踏町にわたって東西に走る海蝕崖
浜松市史 ニ
(築山殿殺される)
築山殿殺される 築山殿は本坂道(姫街道)を三ケ日(みっかび)にでて、そこから浜名湖をわたり、宇布見から
入野
,なお築山殿の墓(『糀屋記録』に廟守
入野
村鈴木喜平次・同伝左衛門とある。
浜松市史 ニ
(竹村方壺)
蝶夢は富士を見るため天明六年(一七八六)春の末に、遠州白須賀(しらすか)の虚白を訪れ、その案内で
入野
,(当市
入野
町)の竹村方壺(ほうこ)を訪問、佐鳴湖(さなるこ)西岸の臨江寺(りんこうじ)に逗留したが雨のあがるのを
浜松市史 ニ
([伊能忠敬の測量])
【伊能忠敬の佐鳴湖測量】十八日には二手に分かれて浜名湖東部の篠原村・
入野
村・佐鳴湖を測量、同夜は
入野
村竹村又右衛門方
浜松市史 ニ
(安政地震)
嘉永七年十一月四日朝五ッ半(午前九時ごろ)の地震は
入野
村では倒壊三十二軒死者一名を出し、翌五日夕七ッ過,(午後四時)には津浪襲来の噂が立って浜松・伊場・
入野
方面では裏山に避難し夜を明かすものも少なくなかったという
浜松市史 四
([国体夏季大会の開催])
漕艇競技は九月二十三日に
入野
町の佐鳴湖で開会式が行われ、地元の佐鳴会の男子が一般ナックルフォアに、女子,浜松市内は花で飾られ歓迎ムード一色で、選手からは日本一の運営と讃えられ、
入野
の民宿のサービスも満点の評価
浜松市史 三
(茶業組合 共同組合)
入野
村共同組合が結成されたのは四十二年四月で、それ以後、各地の共同組合は年を追って増加し大正時代には十指,に数うるにいたった(鴨江・伊場西・東大山・神ヶ谷・曳馬村・阿弥陀・富塚村・三方原大谷・吉野村・
入野
村),0.3 和地村 13.0 吉野村 14.5 雄踏村 0.9 神久呂村 34.5 伊佐見村 15.5
入野
村
浜松市史 三
(小村の合併)
向新田・茅野新田村合併)などが新設され、土呂新田(龍禅寺村へ合併)・奈川新田(上中島村へ合併)・蜆塚村(
入野
村,(沢) 浜松宿 名残村 寺島村 龍禅寺村 土呂新田 龍禅寺村 上中島村 奈川新田 上中島村
入野
村, 蜆塚村
入野
村 西大山村 東大山村 大山村 佐浜村 谷上村 佐浜村 乙君村 西村 細田村 協和村
浜松市史 ニ
(名残追分新田)
遠江国風土記伝』には「高二十五石一斗七升六合、属原」と記載されているだけであるが、『変化抄』に「当村(
入野
村,変化抄(浜松市
入野
町 竹村梶代氏蔵)
浜松市史 ニ
(水車の企業化)
こうして和地村に近い篠原村・富塚村・
入野
村・志都呂村にも牧田家と同じように商業に従事する農家が弘化ごろから,善右衛門 七蔵 兵蔵 忠五郎 弥七 茂平 銀蔵 太吉 太平 又八 孫四郎 幸吉 喜久治 左右衛門
入野
村
浜松市史 ニ
(湖東地域)
湖東地域 西南部は
入野
村付近から浜名湖岸の宇布見村方面で『遠江国風土記伝』の篠原村の項にも「百姓織木綿為産業
浜松市史 五
(郊外型大型店)
昭和五十二年、大手スーパージャスコ(本社・大阪)が
入野
町へ、さらに、ニチイ(本社・大阪)が上西町の紡績工場,ジャスコは「浜松ジャスコ・シティ」の名称で
入野
町の農地など三万千六百三十三平方メートルの敷地を確保し、,ジャスコの出店に対しては
入野
地区の商店関係者をはじめ、可美村、篠原、舞阪町、雄踏町、新居町、湖西市の各商工会
浜松市史 ニ
(村櫛村の鳥浦)
【
入野
川の鳥浦】宝暦元年(一七五一)十二月篠原村八郎左衛門は
入野
川で鳥浦をして「
入野
川預り役人」と出入
浜松市史 ニ
(城下の不穏)
この日も早朝からデマがとび、すでに
入野
村の
入野
川の土橋付近では
入野
陣屋支配下十三か村、三方原では三ヶ日陣屋
浜松市史 五
([郊外での保育園の急増])
)遠淡海会 * * * * 300 90 210 53年度 権現谷保育園
入野
保育園,住吉第二保育園 たんぽぽ保育園 なかよし第2保育園 初生保育園 わかくさ保育園 富塚町
入野
町,住吉一丁目 上島町 領家町 初生町
入野
町 120 30 90 120 120
浜松市史 一
(支湖と入江 川と湖岸平野)
【
入野
川】佐鳴湖の排水口はいまもみられる
入野
川である。
浜松市史 ニ
(烏明の来遊)
天明五年九月、永田白輅・吉田玄彦(徐生、浜松藩士)・蓮華寺(当市紺屋町)住職鳥居柳也・
入野
(当市
入野
町,を順に廻り、去草・是々堂知白(当市神明町、沢井佐助)・柴田虚白(浜名郡湖西町白須賀)・袴田斗六(当市
入野
町
浜松市史 ニ
(退転馬の増加)
天保十四年敷智郡
入野
村助郷歎願書前部 天保十四年敷智郡
入野
村助郷歎願書後部 年次 伝馬
浜松市史 三
(遊園地)
佐鳴湖巡航商会ができ小藪・
入野
・堀留まで舟が入り、
入野
から弁天島まで四十銭であった。
浜松市史 四
([まだあった女工哀史事件])
昭和二十八年は繊維業界の景気が回復し、中卒者への求人が男女とも増えたが、同年九月二回にわたって
入野
村,翌月、浜松労基署は浜松市南部、浜名郡可美村・
入野
村の百四十八の織布工場を臨検し、女子年少者に深夜作業をさせていた
佐鳴の風:わが町文化誌
(浜松市立佐鳴台公民館『佐鳴の風:わが町文化誌』 目次)
第一章 佐鳴台の成り立ち 1 一 佐鳴台の昔 3 【高低差 造成工事 井ノ上川】 3 【
入野
村,一 蜆塚遺跡 27 【曳馬拾遺 杉浦国頭】 27 【変化抄 竹村広蔭 地名の由来】 28 二
入野
古墳,赤宮神 34 【浜松まつり 三社山神社 徳川家康 築山御前】 34 【佐鳴台六丁目 赤宮神の祠
入野
町西彦尾,御前谷哀歌 作久左曲輪 浜松城 作久左山 本多作左衛門重次】 72 九 知足山不動院 74 【
入野
町彦尾,101 【高峰博 佐鳴八景その他の史跡】 102 ①大屋橋の夕照 103 【佐鳴橋 土橋
入野
大橋
/ 5ページ