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浜松市立中央図書館/浜松市文化遺産デジタルアーカイブ

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浜松市史 五 ([入野村と積志村の合併])

[入野村と積志村の合併] 【入野村 積志村 可美村】  昭和三十年(一九五五)四月の市長選で再選を,同三十二年二月十九日になって静岡県知事が浜松市と入野村の合併を勧告するに至り、同年二月二十三日に市村同時,に議会で合併を決議し、同年三月三十一日をもって入野村の合併が実施された。 / [入野村と積志村の合併]
浜松市史 四 ([神久呂(かくろ)村志都呂の入野村編入])

[神久呂(かくろ)村志都呂の入野村編入] 【神久呂村 志都呂】  浜名郡神久呂村は明治二十二年(一八八九,、産業的に見ても入野村と似ていた。,  【入野村 志都呂の入野村編入】  このようなことから、神久呂村志都呂の住民は昭和二十六年十一月,そして地理的に接近し、産業上似通った入野村への合併運動に乗り出し、本村と対立する状態に至った。,昭和二十八年二月になって神久呂村は入野村の条件をのむこととし、ここに志都呂の神久呂村からの分村と入野村 / [神久呂(かくろ)村志都呂の入野村編入]
浜松市史 三 (佐鳴湖)

佐鳴湖 佐鳴湖(さなるこ)入野村に属した。,また高塚の蓮池(はすいけ)も漁場であった(『入野村誌』)。  
浜松市史 ニ (製機技術の進歩)

『変化抄』にはさいわいに入野村の場合について簡略ながら記述があるので、これによって述べてみよう。  ,【綿打業】『変化抄』によると、入野村の綿打ちは「古来より綿は手弓にて打来候処、文化十三年(一八一六)より,出来事はこの地方に織屋ができたことで、従来は「此辺にては織屋と申は古来無之候処」、天保六、七年にいたって入野村,【十反引き】以上は入野村の例であるが、このころと前後して東南部方面では小山みいによって織屋がはじめられ
浜松市史 ニ ([伊能忠敬の測量])

【伊能忠敬の佐鳴湖測量】十八日には二手に分かれて浜名湖東部の篠原村・入野村・佐鳴湖を測量、同夜は入野村竹村又右衛門方
浜松市史 ニ (蝶夢不二の山の句碑)

方壺の家は竹村氏の総本家で、通称本竹と呼ばれ、入野村で酒の醸造を営んでいた豪商である。,斗六は名を袴田孫四郎といい、入野村田端の人である。
浜松市史 三 (小村の合併)

向新田・茅野新田村合併)などが新設され、土呂新田(龍禅寺村へ合併)・奈川新田(上中島村へ合併)・蜆塚村(入野村,(沢) 浜松宿 名残村 寺島村 龍禅寺村 土呂新田 龍禅寺村 上中島村 奈川新田 上中島村 入野村, 蜆塚村 入野村 西大山村 東大山村 大山村 佐浜村 谷上村 佐浜村 乙君村 西村 細田村 協和村
浜松市史 三 (茶業組合 共同組合)

入野村共同組合が結成されたのは四十二年四月で、それ以後、各地の共同組合は年を追って増加し大正時代には十指,に数うるにいたった(鴨江・伊場西・東大山・神ヶ谷・曳馬村・阿弥陀・富塚村・三方原大谷・吉野村・入野村),0.3 和地村 13.0 吉野村 14.5 雄踏村 0.9 神久呂村 34.5 伊佐見村 15.5 入野村
浜松市史 ニ (竹村尚規)

竹村尚規 竹村尚規は敷智郡入野村(当市入野町)佐鳴湖畔の竹村又右衛門家に生まれた。,竹村家は堀江大沢藩の家臣であったといわれるが、入野村に住みつき、のち浜松藩主の御用係も勤めたが、代々酒造
浜松市史 ニ (湖東地域)

湖東地域 西南部は入野村付近から浜名湖岸の宇布見村方面で『遠江国風土記伝』の篠原村の項にも「百姓織木綿為産業
浜松市史 ニ (水車の企業化)

こうして和地村に近い篠原村・富塚村・入野村・志都呂村にも牧田家と同じように商業に従事する農家が弘化ごろから,善右衛門 七蔵 兵蔵 忠五郎 弥七 茂平 銀蔵 太吉 太平 又八 孫四郎 幸吉 喜久治 左右衛門 入野村
浜松市史 四 ([近郊の行楽地])

また、湖岸北東部の小藪と南西部の入野村臨江山(北脇)には佐鳴湖に観光に来る人たちのための貸ボート屋があった,朝鮮特需で入野村の機業地は一気に勢いを取り戻すと、佐鳴湖は付近の織屋さんに働く多くの女工さんたちの休日,入野村の機業家が主体となって昭和二十七年から佐鳴湖花火大会が開催されるようになった。
浜松市史 ニ (退転馬の増加)

天保十四年敷智郡入野村助郷歎願書前部 天保十四年敷智郡入野村助郷歎願書後部 年次 伝馬
浜松市史 四 ([まだあった女工哀史事件])

 昭和二十八年は繊維業界の景気が回復し、中卒者への求人が男女とも増えたが、同年九月二回にわたって入野村,翌月、浜松労基署は浜松市南部、浜名郡可美村・入野村の百四十八の織布工場を臨検し、女子年少者に深夜作業をさせていた
浜松市史 ニ (入野川の水運)

幕末のころ浜松藩では浜名湖からこの川をさかのぼり関西米を入野村土橋(どばし)に陸上げし、これを早馬(はやうま
浜松市史 ニ (藍の移入)

舞坂宿の問屋場の記録「永代控」によると、天保十五年から嘉永四年までの八年間に入野村又兵衛は八十二駄、志都呂村治右衛門
浜松市史 ニ (統制の効果)

入野村では、文政三年(一八二〇)に始まった風呂屋を村役人がたびたび中止を命じたがまた始まり、白砂糖の製造
浜松市史 三 (運河開掘の諸計画)

これは「入野村地付新堀有之を相用、浜松七軒町浦迄堀付、上下馬荷之分船積ニいたし運送仕候ハゝ」どのようにか,便利であろう、というもので「入野村地付新堀」とは、嘉永六年(一八五三)に明神野村(現在当市神田町)地付
浜松市史 四 ([青年学級の開設])

表3-10 和地村青年学級の教科課程表 出典:『青年学級のあゆみ』   【入野村青年学級,】  それより少し前、昭和二十六年度の入野村青年学級の対象者は二百二十名、講座の開講数は二十九、出席延,なお、このころの入野村は織物関係の工場が立ち並び、若い女子工員が多かった。,この女子工員を対象に入野村は職場社会学級を開設、その対象人員はなんと千三百人、出席延べ人員は二万五千二百人,入野村の青年学級や職場社会学級の目的は「教養と社会道徳の高揚を図り文化の振興と民主化に努める」というものであった
浜松市史 ニ (起源)

浜松城記』(大正十五年発行『浜松市史』)によると、永禄年間引馬城主飯尾豊前守の長子義広の誕生を祝って、入野村
浜松市史 三 ([県会議員選挙])

十二年三月施行され、長上郡では近藤準平(有玉村、現浜松市)・大場三郎(老間村、現浜松市)、敷知郡からは竹村太郎(入野村
浜松市史 ニ (社宮司社)

入野村赤宮神(しゃぐじん)の赤宮神は、現在入野町西彦尾に移したが、いまも毎年九月十七日を例祭日と定めているし
浜松市史 ニ (道祖神)

道祖神 入野村道陸地(どうろくじ)(当市入野町)には道祖神が祀られている。
浜松市史 ニ (生活の変化)

生活の変化 【衣生活】たびたび引用した竹村広蔭の『変化抄』は著者の住む浜松領敷智(ふち)郡入野村を中心,これは入野村の例であるが、これはどの村にも通じることであったろう。  
浜松市史 一 ([自然の制約])

九・四一平方キロ)・湖東村(二〇・五平方キロ、旧和地村・旧伊佐見村)・積志村(一三・六五平方キロ)・入野村
浜松市史 ニ (都田川の鮎漁)

【佐鳴湖の鮒】佐鳴池では鮒(ふな)・鰻(うなぎ)・白魚(しらうお)・蜆(しじみ)を産し、入野村に生簀(
浜松市史 ニ (仏教界の沈滞)

入野村(当市入野町)の竹村広蔭はこれを歎いて、文化年間には寺へ女性が入りこんだだけで村民が寺をとりかこむというさわぎがおきたが
浜松市史 三 (開掘仕様案)

八百五十四間(一五四五メートル)、新堀をうがち、この左右にその延長千七百間(三〇九〇メートル)の土手を築き、「入野村在来悪水堀
浜松市史 三 (蔬菜 園芸品 品種改良)

また品種改良も行なわれ、入野村竹村源助の源助大根、桂喜一郎(飯田村)の桂胡瓜などはその例である。
浜松市史 ニ (火の神)

入野村では文政三年ごろから、りっぱな雨覆になったという(『変化抄』)。
浜松市史 三 (絵画 宮本甚七)

宮本甚七 絵画については『浜松市史二』で述べたが、そのほかに堀江鷗洲(縫三郎、舞阪)・伊藤梅吉・亀一山、入野村
浜松市史 ニ (お蔭まいり)

蔭まいりであるが、文政十三年(一八三〇)浜名湖北岸気賀(きが)から三ケ日(みっかび)方面にはじまり、入野村
浜松市史 ニ (小栗広伴)

小栗広伴 竜麿の高弟小栗広伴は石原村(当市豊町)に生まれ、十三歳で入野村竹村尚規家に奉公して、その傍
浜松市史 三 (耕地整理 浜名郡耕地整理組合)

 浜名郡耕地整理組合 耕地整理は明治の後期にいたって村単位などで、例えば神久呂村志都呂(四十年)・入野村西鴨江
浜松市史 三 (明治初期の漁業税)

2 村櫛村 42 白洲村 33 協和村 4 堀江村 12 内山村 4 宇布見村 34 山崎村 4 入野村
浜松市史 ニ (念仏)

入野村(当市入野町)北脇・田畑では、江戸中期ごろからはじめた百万遍を月一回ずつ家々を順廻りに今もつづけているという
浜松市史 三 (浜名湖佐鳴湖の船運)

佐鳴湖畔でも入野村本所の人島津亀作による遠州入野東会社の本所河岸(がし)(佐平河岸)とか小薮(こやぶ)
浜松市史 三 (小山みいと永隆社 副業より専業へ)

もっとも、このような新しい動きはすでに天保年間に入野村に始まってはいるが(「変化抄」『浜松市史史料編四
浜松市史 ニ (築山殿殺される)

なお築山殿の墓(『糀屋記録』に廟守入野村鈴木喜平次・同伝左衛門とある。
浜松市史 三 (建白要旨)

建白要旨 【通船】建白書の要旨は①「浜松宿は通船無之運送之失費人力之煩雑難渋」が多いので、浜松七軒町から入野村
浜松市史 ニ (安政地震)

嘉永七年十一月四日朝五ッ半(午前九時ごろ)の地震は入野村では倒壊三十二軒死者一名を出し、翌五日夕七ッ過
浜松市史 四 ([国体誘致と施設の整備])

また、漕艇は佐鳴湖があり、当時織物業が盛んで、財政状況が良かった入野村が引き受けることになった。,二月現在で入野村が漕艇競技に充てた予算は二百五十万円、千メートルのコースを三つつくり、艇庫や本部席、観覧席,入野村での漕艇競技開催に当たって最大の課題は、七百人の役員・選手を収容する旅館が一軒もないということであった,なお、入野村は昭和三十二年三月三十一日に浜松市に合併したため、国体会場は浜松市の佐鳴湖となった。
浜松市史 ニ (寛文の裁許)

【入野村の採藻】『変化抄』に、入野村では宇布見村から菖蒲藻・にら藻を買い入れており、その価格は幕末に近
浜松市史 ニ (仕法掛任命)

瀬四郎左衛門(篠ケ瀬村庄屋)・山本十右衛門(橋爪村庄屋)・竹山平左衛門(下堀村庄屋)・竹村又右衛門(入野村庄屋
浜松市史 ニ (開掘願出)

開掘願出 【慶応三年】入野村庄屋竹村又兵衛・楊子村庄屋引馬伝三郎・天王村庄屋竹山孫左衛門・有玉下村庄屋高林維兵衛
浜松市史 ニ (検見の緩和)

【六手代官】六手代官所(陣屋)とは長上(ながかみ)郡丸塚村・同郡有玉下村・敷智(ふち)郡入野村・同郡三嶋村
浜松市史 ニ (人口の流出)

この傾向を入野村の竹村広蔭はその著『農家心の鞭』で「郷里をつくづく思い見るに、近来は壱人の懐手して利潤
浜松市史 ニ (工事の進行)

はたしてどれだけできたものであろうか、明治四年(一八七一)のこと、徳川藩浜松奉行井上八郎(延陵)の尽力で、浜松七軒町より入野村
浜松市史 三 (浜松県の復活運動)

【十六年】主唱者は竹村太郎(県会議員、敷知郡入野村)・竹山謙三(敷知長上浜名郡長、長上郡下堀村)・岡田良一郎
浜松市史 三 (己卯社)

をうけてできた結社で、近藤準平(天保十二年長上郡有玉村生、明治三十三年没、六十歳)・竹村太郎(敷知郡入野村
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