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浜松市立中央図書館/浜松市文化遺産デジタルアーカイブ

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浜松市史 四 (公園)

公園 戦前の浜松で極端に不足していたのが公園であった。,昭和二十三年度から建設が始まったのは野口公園(今の静岡文化芸術大学一帯)、和地山公園、浜松城公園で、様々,このため、浜松城公園建設に当たっては多くの民家の移転が必要であった。,野口公園は名古屋地方専売局浜松支局の工場であったが、戦災で焼失して移転したため、公園とし児童遊具やテニスコート,にようやく浜名湖県立公園が誕生した。 / 公園
浜松市史 五 (浜松城公園)

浜松城公園 【日本庭園】  浜松市の中心部にある浜松城公園内に、日本庭園が完成しオープンしたのは昭和六十年四月一日,同公園は、もともと市制施行四十周年記念事業として昭和二十五年に開催された浜松こども博覧会を契機に開設されたもので,同公園は昭和五十二年四月、天皇陛下御在位五十年記念事業の公園(全国十一カ所)に指定され、同年から再整備,【作左の森 石舞台】  日本庭園に続いて、公園内に展望広場、芝生の小広場、作左(さくざ)の森の三つの,また、同年七月には浜松城公園石舞台(三月に完成)で武智鉄二演出の現代薪能が行われた。 / 浜松城公園
浜松市史 四 (土地利用計画)

比較的広いものとしては今もある浜松城公園、和地山公園、四ツ池公園(区域外)などがあった(表2-2 公園緑地計画,和地山公園 和地山町、追分町 10.16 8.50 普通公園 地区内 5 四ツ池公園 幸町、上島町 26.80,29.09 自然公園 地区外 6 茄子公園 船越町 3.56 5.00 普通公園 7 野口公園 野口町, 地区外 10 白羽浜公園 中田島町 22.09 31.50 自然公園   〃 11 高砂公園 浅田町,13 五社公園 利町 2.90 0.63 児童公園 地区内 14 出の丸公園 松城町 0.76 廃止
浜松市史 三 (行楽地)

春 桃花(若林・銭取) 桜花(五社公園・天守閣・八幡公園・岩水寺) 牡丹(ぼたん)(天林寺公園) 躑躅,観月(天守閣・高町半僧坊) 鴨狩(浜名湖) 茸狩(三方原・舘山寺・都田山)    冬 雪見(五社公園,・八幡公園・天守閣) 避寒(弁天島) 梅花(八幡公園)    このほか鴨江十九番根上り松や沢の金魚池
浜松市史 五 ([東地区土地区画整理事業])

この地区の区画整理は西側を東第一土地区画整理事業とし、昭和六十二年度から事業を始め、道路や公園、駐車場,ここも道路や公園を計画的に配置し、北側を東小学校と野口公園に予定していたが、静岡文化芸術大学を東小学校,と野口公園の位置に建設することとなり、学校と公園は大学の南に移ることになった。,広大な野口公園のほか、馬込川公園は四季の花が楽しめるところとなった。
浜松市史 五 ([歴史の散歩道の整備])

設定された散歩道のコースは、浜松城公園から佐鳴湖まで約四・二キロメートル。,途中にある史跡・施設等として、浜松城公園・普済寺・西来院・宗源院・三謡公園・蜆塚公園・博物館・太刀洗いの,これは浜松城に十七年間を過ごした徳川家康を前面に出した事業であるが、ルートはスタートを浜松城公園から誕生井戸
浜松市史 五 ([浜名湖国際頭脳センターの設立])

同センターは、平成元年四月に創立総会を開催し、浜名湖頭脳公園と公園内の頭脳センタービルの建設計画を承認,浜名湖頭脳公園構想は調査研究機能と頭脳をリフレッシュするリゾート機能を併せ持つ環境を整備しようとするもので,、公園は広さ約百ヘクタールで、敷地内には研究・研修施設の並ぶ研究所ガーデン、滞在型研修宿泊施設、無農薬
浜松市史 五 ([新しいスポーツ施設])

[新しいスポーツ施設] 【浜松アリーナ 花川運動公園テニスコート 浜松市弓道場 浜松市北部水泳場】,同じく浜松城公園のテニスコートも八面しかなく、全国規模の大会開催は不可能であった。,全国高校総体や国体に向けて建設されたのが花川運動公園テニスコートである。,弓道場は浜松城公園と可美公園に小規模な施設があったが、平成八年四月六日に可美公園に落成した浜松市弓道場
浜松市史 五 ([県立音楽堂の挫折])

平成二年三月になって、県ではそれまでの音楽堂建設計画を音楽公園計画として基本構想をまとめた。,平成四年十月、県音楽公園基本計画がまとめられた。,音楽公園構想は、ガーデンパーク計画へと大きく変更されて結着を見たわけである。
浜松市史 五 ([緑の基本構想、緑化推進センターの開設と緑化事業])

この基本構想によると、昭和六十五年までに都市計画公園の面積を千二百五十一ヘクタール、人口一人当たり二十六平方,この見直しでは、地震等の大きな災害が発生した場合の避難地の役割を果たす公園緑地を中心に、市街化区域内での,【浜松城公園】  浜松城公園は昭和五十二年に天皇在位五十年記念公園に指定され、市はここを緑のまちづくりの,)、西入り口広場、作左の森、子どもの広場などが造られ、昭和六十二年三月にせせらぎの池が完成し、浜松城公園
浜松市史 四 ([国体秋季大会の開催])

鹿谷公園の庭球場入口までは、姫街道と六間道路から新しく道路(国体道路)をつくり、六面のコートが整備されていた,バレー競技は野口公園につくられた六面のコートで行われたが、隣接の東小学校に四面の練習用のコートを準備した,午後には地元の西遠女子学園高校が出場し、この時間に天皇、皇后両陛下が競技をご覧になられるとあって、野口公園一帯
浜松市史 五 ([松くい虫の被害と対策])

これが行われたのは同年の二月から三月にかけて、姫街道沿い、四ツ池公園、浜松城公園などの松約三百二十本を,調査ではこうした処置を受けた松は被害を受けていないことが分かり、市は今後、文化財に指定されている名松や公園
浜松市史 五 ([農業バイオセンターとフルーツパークの開所])

フルーツパークは市とフラワー・フルーツパーク公社が十年の歳月をかけて計画から建設までを進めてきた果樹公園,同公園はテクノポリス都田開発区北方のミカン畑四十三万平方メートルを切り開いたもので、東京ディズニーランド,同公園は果樹農業の振興という目的とともに、市民が自然の中で憩い、さらに農業体験も出来る観光施設としての
浜松市史 五 ([全国最長のコミュニティ道路])

のコミュニティ道路] 【コミュニティ道路】  佐鳴湖西岸には入野町と富塚町を結ぶ道路があり、また公園,佐鳴湖を一周できる歩道の整備は市民の要望が強く、五・八キロメートルの周遊路計画のうち西岸と東岸の公園や
浜松市史 五 ([水野欣三郎の彫刻])

・やわらぎ像(浜松市動物園、昭和四十年)   ・愛郷(浜松五社公園、昭和四十一年)   ・意相(静岡大学工学部図書館,、昭和四十九年)   ・戦没者慰霊像(浜松城公園、昭和五十四年)   ・若き日の徳川家康公像(浜松城公園
浜松市史 五 ([齢松寺の移転])

[齢松寺の移転] 【齢松寺の移転】  右の「公園緑地計画」「墓園計画」を遂行するに際して、行政が直面,戦後の昭和二十四年、浜松市の都市計画で浜松城一帯が都市計画公園に指定されたのを機に、寺院とその附属幼稚園
浜松市史 五 ([松韻亭の開室])

[松韻亭の開室] 【茶室 松韻亭】  浜松城公園内に、浜松市茶室(松韻亭)が開室したのは平成九年(,ただ、同記事はこの段階では茶室の設置場所について、浜松城公園やコンベンションホール、アクトシティなどの
浜松市史 三 (浜松の名所)

名所には天林寺の花見・鴨江寺の池・西来院の藤・半僧坊の月見・天林寺の牡丹(ぼたん)・馬込の納涼・五社公園,の桜・鹿谷園の躑躅(つつじ)・浅田の螢(ほたる)・八幡公園の梅・若林の桃・田町の夜見世(よみせ)(大正九年版
浜松市史 五 ([多くのスポーツ施設の開設と改修])

【庭球場 弓道場】  浜松城公園庭球場は昭和三十二年の国体の庭球場になったところ、ここを拡張してクレー,この庭球場の少し東(今の松韻亭の位置)に浜松城公園弓道場が同年四月に開場した。,昭和五十年代に入ると老朽化が目立ち始め、市はこれに代わるものとして江之島町に遠州灘海浜公園江之島水泳場,四ツ池公園の緑に囲まれた良い環境の中に近代的な陸上競技場が誕生したが、既に完成した隣接の浜松球場と相まって,これを受けて静岡県は江之島町の遠州灘海浜公園内に浜松球技場を建設、昭和六十三年十月九日に開場した。
浜松市史 四 ([観光協会の設立と浜名湖の観光])

[観光協会の設立と浜名湖の観光] 【遠州観光協会 浜名湖夏祭 弁天神社祭礼 浜名湖県立公園 舘山寺観光協会,終戦後は軍に接収されていた舘山寺の旅館街は解放され、施設のあった所は小動物が飼育されるなどして小さな公園,昭和二十三年四月、遠州観光協会が結成され、浜名湖の県立公園化と天竜下りの復活を目指すことになった。,浜名湖周辺の市町村や観光業者などの努力が実って浜名湖は二十五年五月十一日に浜名湖県立公園となり、脚光を,県立公園指定から二カ月後の昭和二十五年七月、遠州鉄道は地元業者と協調して舘山寺開発組合を設立し、舘山寺海水浴場
佐鳴の風:わが町文化誌 (浜松市立佐鳴台公民館『佐鳴の風:わが町文化誌』 目次)

佐鳴湖の自然と変化  125 (一)佐鳴湖の植物 135 1 湖周辺の植物 136 2 湖岸、道、公園付近,センター 192 (三)浜松市立佐鳴台公民館 195 (四)佐鳴台会館 199 (五)佐鳴台の三つの公園,200 【佐鳴台第一公園 佐鳴台第ニ公園 県営佐鳴台第三公園(タコ公園)】 200 第六章
浜松市史 五 ([中心市街地の地盤沈下と中心商業地活性化事業])

さらに、昭和五十五年には、このマスタープランを土台に商業近代化実施計画を策定し、①有楽街の買い物公園化,有楽街では自動車通行を排除または制限し、カラー舗装、街路樹、植樹帯、小公園、ベンチなどを整備し、安全に,買い物ができる買い物公園が提案された。
浜松市史 五 (佐鳴湖東岸土地区画整理事業)

新設、市街地からの便を図るため道路や湖畔の周遊道路の建設、ホテルや旅館、飲食店、土産物屋の建設、根川山公園,観光開発が進まない中、佐鳴湖周辺は都市公園として市が整備し、周辺地域は組合施行の土地区画整理事業により,ここには小・中学校や幼稚園、公園などを設置し、県営住宅の建設や市道の整備も計画された。
浜松市史 五 ([浜松市都市計画マスタープラン])

分野別の一つの公園・緑地では基本的な考え方として、浜松らしさを表す水と緑の環境を保全し、次代へと継承すること,、公園や緑地の適正配置・整備・拡充を図ること、緑化に取り組み、まちいっぱいに花と緑を拡げるなどを基本的
浜松市史 三 (明治二十五年度)

また五社諏訪両社境内を公園とすることを可決した。
浜松市史 三 (忠魂碑 招魂祭)

の鵄(とび)を置いた碑は、招魂祭(十一月二十三日の新嘗祭の日などに行われた)の中心であった(現在五社公園内
浜松市史 五 ([その他の土地区画整理事業])

この地区には官公庁街区のほか、広い道路や公園が造られることになった。
浜松市史 一 (蜆塚遺跡の保存と活用)

こうして蜆塚遺跡はしだいに学術公園として活用される方向に向かっているのである。
浜松市史 五 ([オリンピックと国民体育大会])

正式競技のうち浜松ではテニス(花川運動公園テニスコート、監督・選手四百六十一名)、少年女子のバスケットボール,(浜松アリーナ、同六百十一名)、少年女子のソフトボール(和地山公園グラウンド、同二百二十四名)、弓道(,浜松市弓道場・可美公園特設遠的弓道場、同四百十二名)、成年男子のラグビーフットボール(県営遠州灘海浜公園球技場
浜松市史 三 (復活運動 陳情団上京)

日比谷公園に集合した上京陳情団
浜松市史 五 (都市の緑化)

とし、①市面積の二十四%(約六千二百ヘクタール)を永続性のある緑地として確保、②市民一人当たりの都市公園面積
浜松市史 五 ([高丘葵土地区画整理事業])

という面積は県下の土地区画整理事業では最大で、地区は住居、工業、準工業、近隣商業の各地域に分け、道路や公園,さらに、多くの公園(二十カ所)やそこでの緑化、モニュメントやサイン計画などの導入により美しい街に生まれ
浜松市史 三 (町民大会)

【講和反対】ことに日比谷公園に開催された反対の「国民大会」には、浜松からも西遠同志会の代表として井上剛一
浜松市史 四 (緊急戦災復興対策懇談会)

馬込川上流より分水して市内を貫流する清掃用水路(小船による輸送が出来れば理想)の建設、下水道の敷設、公園,この計画案に示された医専の新設、運河計画の確立、下水道の整備、公園・緑地の設置、道路網の整備等は先見性
浜松市史 四 (戦災都市)

都市の構成については、緑地や公園がほとんどないため、画期的考え方でこれらの施設を充実したいとし、馬込川,公園としては面積が五~五十ヘクタール程度のものを五~七カ所(候補地として松城、鴨江、中田島など)を配置
浜松市史 五 ([住宅と住宅団地の新しい動き])

するため、市は道路の改良やバス路線の新設、さらに幼稚園・小学校・中学校の建設等を進め、公民館や体育館、公園,このうち、駐車場については昭和四十九年に完成した瞳ケ丘団地でも問題となり、緑地公園の予定地を利用して九十台分
浜松市史 五 ([ふれあい教室])

平成三年五月にふれあい教室(不登校児適応指導教室)を開設、元城小学校の空き教室を拠点に、体育館や浜松城公園,浜松城公園での散歩や教室に用意された用具を使って、輪投げやバドミントンをして語らいながら、かたくなになっていた
浜松市史 五 ([青少年の家と勤労青少年ホーム])

浜松市はこの構想に強い関心を寄せ、県と共に猛運動を展開、鹿谷公園内に用地を確保、昭和三十九年六月一日に,青少年の教養、慰安、レクリエーションのための施設で、娯楽談話室、体育室、音楽室、料理講習室などがあり、公園内
浜松市史 ニ (本丸)

面積も縮小されて浜松城公園の一部となる)。【鉄門】周囲を石垣でかこみ、南面する正門を鉄門とよぶ。
浜松市史 五 ([ホームレスの出現と自立支援活動])

ところが平成の不況が長く続くと、失業して経済的に苦しくなって住む家を失い、浜松駅周辺や地下道、公園などで,比嘉によると、平成六年から八年二月までに計七人の路上生活者が公園で息を引き取っていたという(『静岡新聞,同年十一月市公園管理事務所は住民の苦情もあって路上生活者に段ボールなど身の回り品の撤去を求める警告書を
浜松市史 ニ (招魂社と上京隊員)

遠州報国隊記念碑(浜松市利町 五社公園)
浜松市史 ニ (正月)

削り掛け 大の子(浜松市西町) 浜松の凧揚げ(大正時代)(現和地山公園1)
浜松市史 五 ([産業考古学館の構想])

設置場所は西武浜松店跡地や大学敷地内など二転三転したが、最終的には、大学に隣接した野口公園内にある中ポンプ
浜松市史 五 ([ワルシャワとの協定])

締結の際、ワルシャワ市のワジェンキ公園内にあるショパン像のコピーを、平成六年に完成予定のアクトシティ内
浜松市史 五 ([ユネスコによる「浜松の自然100選」制定])

一位は野鳥の宝庫で景観も優れた佐鳴湖、二位は大砂丘と風紋、三位は浜松城公園。
浜松市史 五 (栗原市政)

当選後の会見で、栗原新市長は懸案の重要事業(東海道本線の高架、駅周辺の整備、浜松城公園の整備、動物園の
浜松市史 三 (浜松まつり 中田島砂丘 町ぐるみの祭典)

そののち会場も和地山(わじやま)公園(旧和地山練兵場)・中田島砂丘などと二転三転したが、二十五年より市民
浜松中心街の今昔:わがまち文化誌 (浜松市立中部公民館『浜松中心街の今昔:わが町文化誌』 目次)

繕い物 洗濯 電話 火鉢 衣服】 128 2、子供たちの遊びとくらし 138 【オテンシ 浜松城公園,226 (三)名所旧跡 227 【浜松城 元城町 徳川家康 引間城 鷹野つぎ 四季と子供 浜松城公園,308 【浜松こども博覧会 天皇在位五十年記念公園 市民プール 石舞台 松韻亭 花見】 308,②牛山公園 309 【牛の像 松浦勝蔵】 309 ③五社公園 310 【浜松市役所跡 浜松市歌 ,万葉集遠江歌考 賀茂真淵 戊辰戦争報国隊紀念碑 天皇行幸】 310 ④船越公園 311 ⑤野口公園
浜松市史 五 ([戦災と市民の木])

木はまず昭和四十二年、地下横断歩道工事のためにすぐ近くの新川公園(現浜松郵便局の西側)に移され、次いで,あとの一本は、浜松城公園内に移されており、これも健在である。
浜松市史 五 (佐鳴湖の浄化)

事業は治水と水質汚濁の対策としてヘドロの除去と残土を利用して湖岸の埋め立てや盛り土とし、水辺に散歩道や公園,、野鳥公園、親水デッキなどを作るというものであった。,ヘドロは公園造成や遊休養鰻池の埋立や肥料などに活用できるとし、県は湖自体も浄化能力があり、ヘドロを除けば
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