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浜松市立中央図書館/浜松市文化遺産デジタルアーカイブ

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浜松市史 三 (大正の凧揚げ)

大正の凧揚げ 明治四十四年市制がしかれ、鉄道工場が大正元年操業を始めると、浜松歩兵第六十七聯隊(現在,陸軍の好意によりそののち毎年五月一日から五日までの使用が許可され、凧揚げといえば和地山練兵場、和地山といえば,凧揚げ場というようになった。 / 大正の凧揚げ
浜松市史 四 ([凧揚げ祭の復活])

[凧揚げ祭の復活] 【浜松市連合青年会 凧揚連合会 凧揚げ祭 西寮グランド 浜松市凧揚連合会 統監部,】  凧揚げ祭の復活は昭和二十二年に果たされた。,四月三十日に浜松市連合青年会長は各町の祭担当者に「凧揚げ祭行事計画に就て」の文書を送ったが、その中に「,戦後復活した凧揚げ祭では屋台は凧揚げ会場に集結する方式をやめ、昭和二十二年五月四日は旧元城国民学校(今,凧揚げ会の名称は、戦前は浜松連合凧揚会であったが、戦後は浜松市凧揚連合会とした。 / [凧揚げ祭の復活]
浜松市史 四 ([中田島での凧揚げ])

[中田島での凧揚げ] 【中田島 浜松市連合凧揚会 五社神社】  昭和二十三年と二十四年の凧揚げは遠州灘,市街地から約四キロも離れた場所であり、屋台の凧揚げ会場への集結は不可能であった。,五月四日に凧揚げ会場を訪れた観衆は十万人を数え、戦前のピーク時の人出となった。,凧揚げは午後一時から五時まで、いずれも花火を合図に行われた。,凧揚げや屋台引きは無し。 / [中田島での凧揚げ]
浜松市史 三 (明治初期の凧揚げ)

明治初期の凧揚げ 明治維新当時、浜松の凧揚げ(『浜松市史二』参照)は小野組火事をはじめ数回にわたる火災 / 明治初期の凧揚げ
浜松市史 三 (浜松総社の決定 凧揚げ由来の普及)

浜松総社の決定 凧揚げ由来の普及 このように屋台の出現によってお祭化が進んでくると、大正十一年から浜松,酒井真邑の著という浜松凧揚げの由緒を記した『浜松城記』(大正十五年発行『浜松市史』収録)が発見されたのもこのころであった,浜松の凧揚げは「飯尾豊前守殿御居城 義広(豊前守殿長子)殿誕生の時佐橋甚五郎(入野の者)凧の大なるものに,御名を記し揚奉る」と記した『浜松城記』の記事が、浜松凧揚げの由緒として採用され一般に普及するようになった,大正初期の凧揚げ風景(和地山練兵場) / 浜松総社の決定 凧揚げ由来の普及
浜松市史 三 (明治後期の凧揚げ)

明治後期の凧揚げ 【鉄工場時代】しかし市街の宅地化が進んでくるとさらに広い総合の凧揚会場ということで / 明治後期の凧揚げ
浜松市史 四 ([神輿を担いで市内を行進])

[神輿を担いで市内を行進] 【浜松青年復興会】  浜松市民にとって凧揚げ祭の復活は悲願であった。,昭和十二年(一九三七)の凧揚げ祭の後、戦時体制が強化されてくると凧揚げ祭は中断されたままであった。,戦後は衣食住の確保に追われ、凧揚げ祭の準備どころではなかった。,昭和二十一年五月五日、木戸町ほか十五カ町の青少年二千五百名は凧揚げ祭の代わりに、揃いの襦袢に赤ふんどし
浜松市史 三 (浜松まつり 中田島砂丘 町ぐるみの祭典)

浜松まつり 中田島砂丘 町ぐるみの祭典 戦後は凧揚げの道具・屋台(やたい)などを焼失した町が多かったが,、浜松に凧揚げだけはということで二十二年から再建された(会場浜師寄宿舎グラウンド)。,中田島砂丘などと二転三転したが、二十五年より市民あげての行事として浜松まつりが開催されるようになると凧揚,しかし凧揚げ会場が市の中心街より離れているので、凧揚げには加わるが市内の屋台行列は中止する、屋台行列には,参加するが凧揚げは遠慮するといった町組も現われてきている。
浜松市史 ニ (起源)

起源 凧揚げは浜松における随一の行事に数えられているので、特にその概要について述べよう。,浜松の凧揚げの起原については、信憑するような文献に乏しいが、江戸時代に書かれたという酒井真邑の『浜松城記,永禄年間引馬城主飯尾豊前守の長子義広の誕生を祝って、入野村の住人佐橋甚五郎が、義広の名を大凧に記して揚げたとあり、これが凧揚,げのはじめであろうといわれている。
浜松市史 五 ([浜松まつりの見直し])

[浜松まつりの見直し] 昭和二十五年から始まった浜松まつりは従来の凧揚げや屋台の引き回しのほか、広告,げ会場が変更になった翌年は、前年に比べ凧揚げ不参加の組は八組、屋台引き回し不参加の組は七組減った。,・清水みのる作詞の新民謡「浜松まつり唄」「凧揚げ小唄」できる。,ただし、凧揚げは3日~5日(40年・41年も)。 ・9町が不参加を決める。,・凧揚げ会場を中田島海岸に移転。
浜松市史 四 ([盛大になった浜松まつり])

[盛大になった浜松まつり] 【凧揚げ音頭 浜松夜曲 浜松まつりの唄】  昭和二十五年に始まった浜松,昭和二十六年の浜松まつりに向けて「凧揚げ音頭」と「浜松夜曲」が、翌年には「浜松まつりの唄」が作られ、市内,行列の先頭には岩崎市長が直衣姿で乗馬、先導に当たり、市内各町を経て和地山町の凧揚げ会場へ向かった。,凧揚げ会場ではこの御輿が各町の若衆に担がれて会場を回った。,表3-39 凧揚げと屋台引き回しの参加町(組)数の推移 年 凧揚げ 参加町 (組)数 屋台引き
浜松市史 四 ([第一回浜松まつりの実施])

それはこれまでの凧揚げ祭の反省から出てきたのである。,この二つの祭りの成功から、これらの祭りと従来からの凧揚げ祭を組み合わせ、商工業や農業、観光など全市を挙,そして、祭りの名称は浜松まつりとし、表2-53のように凧揚げはまつりの一つの行事とはなったものの、筆頭,凧揚げには前年より九町多い五十一町、屋台は五十九町が参加したが、凧揚げは狭い会場だけに揚げる人々と観光客,また、屋台の凧揚げ会場への集結もなかった。  
浜松市史 五 ([浜松まつりへの女性・障害者の参加])

昭和十五年に実施された陸軍浜松飛行場で行われた皇紀二千六百年記念の凧揚げ大会に八歳で参加した経歴を持つ,平成八年、西伊場町自治会・同町凧揚げ会西組・メンズボランティア共生会が協力して障害者のまつりへの参加を,平成十年からは、児童だけでなく大人の障害者にも参加枠を広げ、凧揚げも見物できるようにした(『静岡新聞』,は平成十年代には、地元の西部中学校の凧作り同好会「勢組」の顧問の一人となり、子供たちが凧作りや校内の凧揚,げ大会の参加を通して健全育成を図る取り組みに参加していた。
浜松市史 五 (浜松まつり)

この参加町数の激増期の昭和六十年四月十七日に中田島町の凧揚げ会場の近くに浜松まつり会館が開館した(『新編史料編六,これは、新たに屋台をつくる負担の大きさから、凧揚げへの参加で済ませることが多かったと見られる。,つまり、浜松まつり参加町数の増加分のほとんどは凧揚げへの参加数の増加であった。,表3-27 凧揚げと屋台引き回しの参加町(組)数、人出の推移 年 参加町(組)数 まつり,の人出 (万人) 備考 凧揚げ 屋台 引き回し 昭和48年 49 47 70
浜松市史 ニ (紛争)

紛争 浜松の凧揚げも種々の紛争が起こり、庄屋・町役人の手数を煩わせたことが一再ならずあった。,兵 衛   町方御役人中様           庄屋  平  八」    時に争いもあったが、凧揚,げは庶民にとって大きな楽しみであった。
浜松市史 ニ (凧合戦)

凧合戦 浜松の凧揚げの特色は、凧糸を切り合う凧合戦で、敵味方にわかれ、からみ合った糸をたがいに摩擦して
浜松市史 ニ (五月)

初節供の家では、贈られた凧を揚げる(前述、浜松の凧揚げの項参照)。
浜松市史 三 (凧揚組の増加)

凧揚組の増加 【和地山時代】和地山練兵場は浜松が初めて得た本格的な凧揚げ広場で、このころになると砂山
浜松市史 四 ([浜松まつりの開始])

    浜松の凧揚げは浜松っ児の象徴として、浜松人の気風を育てた心の糧でありますが、三百八十余年,   〈凧揚部〉凧揚げ競技大会 山車屋台引回し  〈演芸部〉木遣り道中 邦楽舞踏 洋楽舞踏
浜松市史 三 (昭和の凧場げ 御殿屋台の出現と夜の賑わい)

そして翌五年五月三十日には飛行第七聯隊に於て凧揚げの天覧にあずかった。
浜松市史 三 (連合凧揚会 屋台の出現)

小名木伊太郎、紺屋町の中西文作、尾張町の鈴木清造、海老塚の葭川市郎、連尺の江間長三郎、千歳の小名木延次郎は凧揚,げの名人といわれた)自ら統制も必要になり、相互の連絡のため大正三年には浜松市連合凧揚会が、また五年には,これは凧揚げの競技化にも通ずるものであった。
浜松市史 ニ (取締令)

取締令 凧揚げは、その後浜松の城下町でしだいに華美に行なわれるようになったので、当時の為政者はしばしば
浜松市史 五 ([浜松まつりへの高校生の正式参加])

参加する各町内・各校の高校生には凧揚げや屋台の由来などの歴史や凧揚げの技術伝承、さらに参加規則の徹底を,高校生の参加が解禁となった平成五年五月の凧揚げ会場で、寺脇町は「高校生監督」というタスキを掛けた高校生
浜松市史 五 ([西部中学校のふれあいルーム])

なお、ふれあいルーム学習会には、数名の地域の学習ボランティアが参加し、凧作りや凧揚げ活動(西部中では地元,の人々の協力により凧揚げの「勢組」が結成され、その部屋も用意されていた)など、地域に開かれた活動がなされていた
浜松市史 四 ([清水みのると歌謡曲])

[清水みのると歌謡曲] 【清水みのる 森の水車 『歌謡レイク』 浜松夜曲 凧揚げ音頭】  戦前から,このほか、彼の浜松とかかわりのある作詞としては「浜松夜曲」(田端義夫歌)、「凧揚げ音頭」(小唄勝太郎歌
しらわき 川と海に育まれて:わが町文化誌 (浜松市立白脇公民館『しらわき 川と海に育まれて:わが町文化誌』 目次)

(三)アカウミガメ 64 (四)野鳥の楽園 68 二 砂丘のつどい 70 (一)凧揚,げ 70 (二)浜の運動会 71 (三)親子ラジオ体操 73 (四)太藺干し 75,)消防組頭・分団長一覧表 258 三 安全を支える水防団 259 四 ひとのわをひろげる凧揚,げ 263 (一)砂丘凧揚会 264 (二)三島町凧揚会 265 (三)瓜内町たこ揚会,266 (四)白羽町浜松まつり凧揚げ会 267 (五)中田島町凧揚会 268 (六
浜松市史 一 (梅雨)

梅雨 こういった晩霜も四月上旬までで、やがて春もたけなわとなり、五月晴れとともに凧揚げがはじまる。
浜松市史 ニ (正月)

削り掛け 大の子(浜松市西町) 浜松の凧揚げ(大正時代)(現和地山公園1)
浜松市史 三 (浜松青年同志会 青年会より青年団へ 浜松市連合青年団)

そして凧揚げの行事などを世話するようになった。
浜松市史 三 (目次)

          歓楽街           町のニュース           天変地異    第五項 凧揚,げ                   五六五        明治の凧揚げ           大正,の凧揚げ           昭和の凧揚げ   第七節 文化    第一項 大正期の文学                
浜松市史 五 ([浜松まつりの参加町数の増加と観客数の減少])

参加町数の増加と観客数の減少] 【浜松まつり】  浜松まつりの参加町数は平成二年から同十六年までに、凧揚,げでは百三十六から百六十九に、御殿屋台引き回しでは、六十五から八十一にそれぞれ増加していった。
浜松市史 五 ([新しいタウン誌の誕生と『浜松百撰』])

そのほかに、凧揚げ祭のことや伊場遺跡問題も取り上げられていて、当時の浜松という都市の現状と問題点を相当的確
浜松市史 ニ (天保倹約令)

【凧揚 人別改】すなわち十三年三月には絹布着用を禁じ、また初凧揚げにおける無益の出資の抑制を命じ、透し
浜松市史 三 (会場)

てられ、始めて見る博覧会の近代的な建造物に入場者はあとをたたず、ことに日曜日・祝祭日及び鴨江彼岸中と凧揚,げ期間は、開館を待ちわびる人の列で身動きもできぬほどで、しばしば入場の制限を行ない、西会場は彼岸中の鴨江寺
浜松市史 五 (北口駅前広場)

メートルで「伸びゆく浜松」をテーマにしたもので、ピアノ、オートバイ、織物といった浜松の三大産業や市民の木、凧揚,げ合戦などをイメージしていた。
浜松市史 三 (駅前広場の発展)

四月五月遊興高 郊天尤好紙鳶翺 法雲寺前出相集 市中少年気太豪 東阡西陌繹騒(以下略)」(『遠湖小品』)とここに凧揚,げが行なわれたことを記している。
浜松市史 四 ([静大工学部の発展])

、浜松まつりにテレビの一般公開を行うことになり、市の公会堂、松菱百貨店ほか市内のラジオ店など九カ所で凧揚,げや屋台の行進などを実況中継した。
浜松市史 ニ (目次)

                   六〇四        講        遠州大念仏        浜松の凧揚,げ        風俗        年中行事        町や村の芸人 年表 索引 付図
浜松市史 四 ([浜松駅、東海道本線の拠点駅へ])

こうして伝統的な凧揚げと結び付いた浜松まつりが生まれることになり、昭和二十五年五月一日~五日に第一回浜松
東方見聞録:東区の文化誌 (東区役所まちづくり推進課東方見聞録編集委員会『東方見聞録:東区の文化誌』 目次)

195 第62話 戦死者の霊を弔う 遠州大念仏 197 第63話 蒲の祭り 199 《コラム》凧揚,げ/おんべ祭り 201 第9章 教育、文化編 205 第64話 報徳思想と下石田村報徳社 207
浜松市史 四 (目次)

               三六三        社会福祉協議会の発足   第四項 行事・観光・娯楽の復活    一 凧揚,げ祭の復活と浜松まつり            三六四        神輿を担いで市内を行進        ,凧揚げ祭の復活        中田島での凧揚げ        第一回浜松まつりの実施    二 
しいの森はぎの原:わが町文化誌 (浜松市立北部公民館『しいの森はぎの原:わが町文化誌』 目次)

【現金収入 落花むき ヘチマ縛り 針仕事】  192 私のお嫁入り 【和合町 婚礼 初節句 凧揚,げ】 194 第六章 しいの森―原っぱ、川っぷち、雑木林 【思い出】 197 学校へ通う
浜松市史 三 (写真・図版目次)

                    五四三 敷島館                           五五八 大正初期の凧揚,げ風景(和地山練兵場)            五六六 死の塔         (浜松市篠ヶ瀬町 松本長十郎氏蔵
とみつか:わが町文化誌 (浜松市立冨塚公民館『とみつか:わが町文化誌』 目次)

93 五 その他の開発     ・富塚と軍事 100 【歩兵第六十七連隊 連隊兵舎 練兵場 凧揚,げ会場 射撃場】 101 【飛行第七連隊 高射砲第一連隊 陸軍飛行学校】 102 【湖東和合線 航空通信隊
浜松市史 ニ (写真・図版目次)

渥美静一氏蔵) 六一〇 削り掛け(浜松市西町)                   六一四 浜松の凧揚,げ                        六一五 都田の舞台(浜松市都田町 須倍神社境内)          
台地と水と輝き:わが町文化誌 (浜松市立高台公民館『台地と水と輝き:わが町文化誌』 目次)

城北工業高校】 180 【和地山公園 和地山三丁目 歩兵第六十七連隊 高射砲第一連隊 行幸 親閲の記念碑 凧揚,げ】 181 【高台の坂道 七曲がりの坂 住吉四丁目】 184 【浄護坂 住吉四丁目 高林】 185
浜松市史 四 (主な参考文献)

静岡県連盟50年史』日本ボーイスカウト静岡県連盟 『動物園半世紀の歩み』浜松市動物園 『浜松まつり凧揚,げ案内』遠州新聞社・浜松市観光協会 『東海婦人新聞』(遠州新聞日曜版) 「青年タイムス」浜松市役所青年
浜松市史 五 (図・表一覧)

昭和47年度 昭和47年11月発行、静岡県保育所連合会『40年の歩み』平成12年3月発行 2-46 凧揚,げと屋台引き回しの参加町(組)数、人出の推移 『静岡新聞』、『中日新聞』、『浜松民報(遠州新聞)』、『,年度に設置された保育園(所) 静岡県民生部『静岡県社会福祉施設・団体要覧』昭和56年4月 3-27 凧揚,げと屋台引き回しの参加町(組)数、人出の推移 『静岡新聞』、『中日新聞』、『朝日新聞』 3-28 舘山寺
浜松中心街の今昔:わがまち文化誌 (浜松市立中部公民館『浜松中心街の今昔:わが町文化誌』 目次)

出 335 一 利町 【市役所】 337 【市制五十周年記念事業 市民会館 養神館 神明館 凧揚,げ】 338 二 紺屋町 【紺屋屋敷】 340 【遠州教会 蓮華寺 心造寺 善正寺 浜松町役場
浜松市史 四 (図・表一覧)

行事一覧表 浜松まつり本部「第六回 浜松まつり行事一覧表」昭和30年 浜松まつり関係資料 3-39 凧揚,げと屋台引き回しの参加町(組)数の推移 『静岡新聞』、『浜松民報(遠州新聞)』、『広報はままつ』 &
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