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浜松市史 ニ
(定助郷と大助郷の指定)
定
助郷
と大
助郷
の指定 これによると、
助郷
は宿常備人馬が不足すれば近在の
助郷
村が出動し、それでもなお不足,の場合は
助郷
村以外の近郷の村々の出動を規定している。,が百疋と定まったのは翌寛永十五年で、その後元禄七年(一六九四)にいたり東海道往復の人馬の輻湊により定
助郷
,・大
助郷
の制ができた。,村高一万五千六百六十六石、合計
助郷
高二万七百六十四石六十か村であった(小名あわせて七十七か村)。 / 定
助郷
と大
助郷
の指定
浜松市史 ニ
(増助郷)
増
助郷
東海道筋のようにしばしば大通行がある場合には、従来の
助郷
村の人馬だけでは不足を告げるので、増
助郷
,浜松宿では天保七年(一八三六)に三十五か村が増
助郷
として指定されている。,その総
助郷
高は二千石で、村々は天竜川中流域と浜名湖北三ケ日付近の二か所に集中し、もっとも遠い豊田郡青谷村 / 増
助郷
浜松市史 ニ
(増助郷村の困窮と代助郷)
増
助郷
村の困窮と代
助郷
代
助郷
は増
助郷
に差支えが出来た場合にも課せられた。,浜松宿では「浜松宿増
助郷
羽鳥村外八ケ村水難に付、吟味之上、休役並代
助郷
共割合を以て左之通申付候」とあるように,、羽鳥村・恒武村・松小池村・笠井村など天竜川沿いの増
助郷
九か村が水害のため休役となり、そのかわりを堀之内村,・海老嶋村などの七か村が嘉永四年(一八五一)から文久三年までの十三年間代
助郷
を勤めている。 / 増
助郷
村の困窮と代
助郷
浜松市史 ニ
(助郷制の公布と助郷村の指定)
助郷
制の公布と
助郷
村の指定 寛永十四年(一六三七)三月
助郷
制が定まり、浜松宿では伊場村・東鴨江村・西若林村,・東若林村・佐藤村の五か村がはじめて
助郷
村に指定された。,その
助郷
高二千十三石で馬五十疋であった。その内訳は次ページの表のとおりである。,一今度助馬付候郷村、町馬同前ニ高役をゆるし可申候、但堤川除道橋等役之小分其所之なみたるへき事 一今度
助郷
,(表)浜松宿定
助郷
(寛永14年) 定
助郷
村
助郷
高 役馬数 伊場村 888 石 22 疋 /
助郷
制の公布と
助郷
村の指定
浜松市史 ニ
(助郷の一本化)
助郷
の一本化 ところがこの区別も享保十年(一七二五)に廃止され一本化されることになった。,【
助郷
範囲の拡張】したがって最初指定された
助郷
村は浜松近辺であったのに、このときになると動員範囲も浜名,(表)元禄15年定
助郷
村名表 定
助郷
村
助郷
高 役馬 町組 石 疋 伊場村,16か村 石 疋 5098 127 (表)文政4年
助郷
組別表 符号 組
助郷
高 &,(「糀屋記録」『浜松市史史料編一』) 大
助郷
村
助郷
高 大
助郷
村
助郷
高 石 /
助郷
の一本化
浜松市史 ニ
(助郷村の負担)
助郷
村の負担 では
助郷
村には年間を通じてどのくらいの人馬割当の負担がかかっていたのであろうか。,が定まったとき最初の
助郷
村に指定をうけ役馬二十二疋を有していた。,のよい四月は大通行が比較的に多く、したがって
助郷
勤の頻度も大きい。,また
助郷
人足は秋冬に出動が偏り、
助郷
馬は春夏において連続出勤している。,これは
助郷
村への人馬割当は全
助郷
いちようにかかっているのではなく、各組を順番廻りとなっていたものと思われる /
助郷
村の負担
浜松市史 ニ
(助郷村の困窮)
助郷
村の困窮 【休役 代
助郷
】
助郷
村が困窮するようなことがあると、これが休役となりその分のかわりを勤,めるのが代
助郷
である。,文久元年(一八六一)に浜松宿
助郷
村のうち四十九か村が困窮し、そのかわりとして代
助郷
が定められている。,当時の浜松宿の定
助郷
は六十か村(小名分をあわせ七十七か村)であったから、そのうちの四十九か村といえば
助郷
村,(表)文久元年浜松宿代
助郷
郡 代
助郷
村 豊田 波ヶ嶋村ほか26か村 引佐 下刑部村・中刑部村・上刑部村 /
助郷
村の困窮
浜松市史 ニ
(助郷村との紛争)
助郷
村との紛争 宿場の困窮の影響は、ただちに
助郷
村へおよんでくる。,宿の有馬が減少するにしたがって、
助郷
人馬が年中おびただしく触れ出されるようになり、宿と
助郷
村とのあいだに,【宿馬の疲弊】
助郷
村の方でも凶作や物価高のため、その期間中に助馬の約三分の二が退転するという始末で、宿方,への雇馬も不自由となり、こういった
助郷
村の事情が宿場へはねかえり、宿馬の疲弊に一段と拍車をかける結果となった /
助郷
村との紛争
浜松市史 ニ
(浜松宿と助郷村の係争)
浜松宿と
助郷
村の係争 弘化四年七月から十一月ごろにかけては、何か不穏な情況がつづいたらしい。,弘化四年の秋は作柄が悪かったせいもあろうが、
助郷
村々は、浜松宿の連尺・伝馬・旅籠・塩・田・肴の六か町にたいして,しかもこの取りきめにそむく者があれば、制裁として
助郷
諸入用をその村に課すことを
助郷
七十八か村が申しあわせているところをみると,清水助次郎を罷免し犬塚啓三郎を登場させた原因も、この浜松宿方と
助郷
村々との係争にあったかもしれない。 / 浜松宿と
助郷
村の係争
浜松市史 ニ
(宿駅の困窮と余荷)
これは宿駅が困窮した場合に、増
助郷
村がその宿駅の人馬を補助するのである。,ならびに増
助郷
の村々で負担した。,【変更】増
助郷
は臨時的一時的な拑置であるから、時期を異にすれば増
助郷
の数も村も変更された。,(表)天保7年浜松宿の増
助郷
増
助郷
村 増
助郷
村 中瀬村 恒武村 永嶋村 大見村 万正寺村 長命村,増
助郷
村 増
助郷
村 柴本村 小松村 市野市 新原村 恒武村 平口村 白鳥村 半田村 羽鳥村
浜松市史 ニ
(無役村の人足割)
無役村の人足割 代
助郷
は
助郷
村にかわって勤めるのであるから広い意味で
助郷
村に包括してよい。,ところで増
助郷
は大通行がある際に用意されているので咄嗟の間にまにあわないことがある。,そこで
助郷
全村が出払ってもなお不足するという場合、宿を助ける
助郷
そのまた
助郷
を助けるものとして浜松宿では,その範囲は大体浜松宿の
助郷
圏内で四触れに分割されている。,しかもこれらの村々のほとんど全部がのちに増
助郷
村に指定されたのであった。
浜松市史 ニ
(浜松宿の困窮)
天保六年十一月十二日夜には、鍛冶町より出火、伝馬町ほか五か町に延焼し、人馬の継立にもさしつかえる有様であり、
助郷
村,【
助郷
村との紛争】このため宿と
助郷
村とのあいだに紛争を生じ、翌七年三月の浜松宿増
助郷
三十五か村五か年間,このとき藩年寄水野小河三郎たちは宿の負担の軽減を意図した宿役人を支持したが、
助郷
村の立場に立った忠邦の,しかし、浜松宿
助郷
総代も「浜松宿江助馬之儀被仰付候、少茂我儘成儀不仕、浜松宿より触次第馬急度出し可申事
浜松市史 ニ
(農民の反対)
反対 しかし一方、一般農民たちは年を追って増加する御用通行の継人馬になやみ、人気は益々不穏となり、
助郷
惣代庄屋,彼らは慶応元年暮より慶応二年中の
助郷
諸帳面を残らず写し取り検討したものの、不正を発見できず、藩の決裁にもちこんだが,【議定書交換】しかしそれとともに五月一般農民と
助郷
惣代庄屋との間に議定書がとりかわされた。 ,慶応元年九月一般農民は、新川掘立てについて疑義をいだき
助郷
惣代庄屋に対して談判したが、その後、
助郷
惣代
浜松市史 ニ
(議定内容)
関する金より、弐両三分弐朱を紛争によって迷惑をかけた馬士や子供・下男・下女にいたるまで分配すること、
助郷
惣代庄屋九人,第四には、
助郷
舁金から二十九両二分支出し、うち二十両は今回の訴訟で出府した
助郷
惣代庄屋五人に、同じく六両,は
助郷
惣代庄屋三人に、同じく三両弐分は、留守居の惣代庄屋七人に謝礼としてはらうこと。,いであまりがでたが、これを諸入用に加えること、また弐千石につき一人の割合で一般農民の代表を出し、人馬遣方や
助郷
惣代庄屋,整理取調べにあたって、これまでのとおり五人立ちあい、疑惑のないように努力することが、一般農民の代表と
助郷
惣代
浜松市史 ニ
(無役町の人足割)
無役町の人足割 浜松宿では急な通行で
助郷
村へ触れ出す余裕のない場合には、宿の脇町などの無役町から助人足,したがってこれは性格からいえばまったく
助郷
と同一であるが、
助郷
が恒常的で以前から多い通行が予想されている
浜松市史 ニ
(改革の一環)
水路の左右杭柵も買い入れ、掘立て人足の手配もすんで、ようやく掘り始めようとしたところ、一般農民の間に、
助郷
惣代,この通船工事は去る慶応元年九月、一同相談のうえで開始したものであるが、近ごろはこの工事に尽力した
助郷
惣代,しかし藩より内々の話もあるので、それまでとりかかったところは
助郷
方で損をしても掘割を完成させたいと思うが
舞阪町史 上巻
(舞阪町史 上巻 目次)
補充 第二節 宿駅制度の展開 388 道中奉行の創設前後 十七世紀後半の宿駅政策 元禄政治と宿駅・
助郷
政策,561 寛政改革 改革政治の狭間 文政の宿駅改革 第五節 天保飢饉・天保改革期の舞坂宿 598 代
助郷
,と余荷
助郷
天保飢饉 天保改革期の交通政策 第六章 幕末・維新期の舞坂宿 第一節 宿財政の破綻,崩壊 小車の導入 運河の開鑿問題 第三節 宿駅制度の終末 696 幕末期の交通政策 新政府の宿駅・
助郷
政策
浜松市史 ニ
(二筋の姫街道)
なお市野宿に対する
助郷
はなく、その代わり宿並の扱いであったので、
助郷
差村に指定されたこともなかった(『
浜松市史 ニ
(退転馬の増加)
天保十四年敷智郡入野村
助郷
歎願書前部 天保十四年敷智郡入野村
助郷
歎願書後部 年次 伝馬
浜松市史 三
(今切関所)
明治維新によって、明治二年正月には今切関所が、三年閏(うるう)十月には本陣が、五年七月には伝馬所及び
助郷
浜松市史 ニ
(船賃配分)
これは宿駅の
助郷
制に相当するものであるが、その起源は明らかでない。
浜松市史 ニ
(農兵募集令)
農兵募集令 一、軍事訓練をするので一般から農兵を募る 十五日までに
助郷
会所へ報告のこと
浜松市史 三
(運河開掘の諸計画)
がるもので、文久三年(一八六三)「近年街道筋御通行別而多く人馬御継立出来兼」ていた浜松宿問屋および同宿
助郷
村々,が、問屋源左衛門・忠兵衛をはじめ
助郷
惣代下堀村(現在当市天王町)庄屋平左衛門などを代表として「通船」を
浜松市史 ニ
(黙之助の通舟案)
岡村のこの意見は、
助郷
惣代の庄屋や御仕法掛の者たちも、知るところであったはずである。,岡村黙之助の意見と、
助郷
惣代らの新川掘立ての意図、あるいは御仕法掛の建白書の内容とが、改革の基本的な方向
浜松市史 ニ
(藩士に代る代官)
この諸役御高帳によると、領分村々に対する諸役(足役・御米付并御蔵諸色入草・千石夫・定助大
助郷
)の割りあては
浜松市史 ニ
(開掘願出)
助郷
惣代庄屋たちは、一般農民の間に高まった彼らへの不満をてこにして、藩より有利な条件をかちとろうとしたのであるが
浜松市史 ニ
(工事の進行)
とすれば慶応年間の掘割が、現存する堀留運河ほどに立派でなくとも、
助郷
惣代庄屋たちの熱意と農民たちの努力
浜松市史 ニ
(浜松の交通圏)
注目すべきことは、この内圏が後述するところの初期定
助郷
圏と一致するという点で、江戸時代初期における浜松宿
浜松市史 ニ
(御役六町)
計75疋 寛永14 浜松宿の
助郷
制始
馬込川が流れるまち:曳馬地区わが町文化誌
(浜松市立曳馬公民館『馬込川が流れるまち:曳馬地区わが町文化誌』 目次)
江馬氏 70 七 徳川家康 73 【検地実施の大勢一覧表】 82 【各村高及び庄屋名】 86 【
助郷
役,わりあての図 元禄十五年定
助郷
村名表】 88 【五人組 敷知郡早出村五人組御仕置帳】 89 【村入用帳
浜松市史 三
(堀留運河の計画)
兼而下堀村庄屋平左衛門始是迄目論見いたし居候ニ付、右之者江被仰付候様仕度」(『岩井宜徳伝自書』)と、前記の
助郷
村惣代
浜松市史 ニ
(組別支配制)
また延宝八年および元禄七年に浜松宿
助郷
の村々は万斛・町・浜辺・国領の四組に分けられている(『糀屋記録』
天竜市史 上巻
(天竜市史 上巻 目次)
農村分解の進行 第二節 農民闘争の展開 六五六 無礼塩一件 弘化期の塩出入一件 船明村庄屋の不正 増
助郷
,と代
助郷
熊村の無宿人騒動 鹿島分一一揆 二俣蓑かぶり一揆 第三節 幕末社会の不安と動揺 六八七
浜松市史 ニ
(凶歳御手当)
とくに
助郷
村々の農民の負担は大変なもので、農民たちの間に不満の声が高まった(『山本大隅日記』慶応元年三月二十日条
浜松市史 ニ
(町村の財政)
このうち村に所持馬がないので、
助郷
とか津出し米の搬出には借馬しなければならなかったのでその費用が総入用
浜北市史 通史 上巻
(浜北市史 通史 上巻 目次)
平口の堰 897 5 畑方村々の麦・大豆・たばこ 902 6 木綿栽培と機織り 906 第四節
助郷
,と課役 913 1 見付宿大
助郷
と市野宿助馬村 913 2 朝鮮使節と天龍川船橋役 917 3 ,1068 1 天龍川大洪水と難渋者 1068 2 嘉永七年の大地震 1072 3 将軍上洛と
助郷
負担
浜松市史 ニ
(目次)
立場 天竜川の渡船制度と船越村 浜松宿の規模 浜松宿の
助郷
浜松市史 ニ
(写真・図版目次)
一八八 嘉永三年浜松宿杉浦本陣の図 (浜松市菅原町 川島浦治氏蔵) 一九七 元禄七年浜松・舞坂両宿
助郷
村図, 二〇二 天保十四年敷智郡入野村
助郷
歎願書前部・後部 二一
解説「浜松城絵図と城下絵図」
(解説「浜松城絵図と城下絵図」)
次に
助郷
関係の記載を検討する。,などの大通行の際、荷物の継立用の宿場の馬の不足を補うため、近隣の村から馬を徴発する制度、人足も徴発する
助郷
制,一方、
助郷
制度が確立した元禄7年(1694)の浜松宿の
助郷
村を集計した「元禄七年浜松宿
助郷
村譯石高」(,なお大助の村数や石高が、「元禄七年浜松宿
助郷
村譯石高」と比較すると多すぎるようにも思われるが、これについては,以上から、本絵図は、寛文年間から元禄年間にかけての頃の御役町などの浜松宿の状況と、浜松宿周辺の
助郷
村の
輝くいなほはたの音:わが町文化誌
(浜松市立東部公民館『輝くいなほはたの音:わが町文化誌』 目次)
63 【にぎわう東海道 向宿の一里塚】 64 【お姫様の墓 光姫 竜梅寺 天神町】 65 【
助郷
細江町史 通史編中
(細江町史 通史編 中 目次)
第13節 関所とその要害村 321 第2章 気賀関所での通行と取り締まり 第1節 気賀関所と
助郷
村
汽笛・ステンショ・まちこうば:わが町文化誌
(浜松市立南部公民館『汽笛・ステンショ・まちこうば:わが町文化誌』 目次)
】 20 (二)きびしい年貢 【江戸時代 減税の訴訟】 21 (三)村の困窮 【宿場
助郷
学びの里祈りの丘:わが町文化誌
(浜松市立県居公民館『学びの里祈りの丘:わが町文化誌』 目次)
表筋町 裏町通筋 横町】 7 【浜松名産「忍冬酒」 神谷家】 9 【東海道宿駅制度 浜松宿の本陣
助郷
制度
引佐町史 上巻
(引佐町史 上巻 目次)
対策 921 第四節 鳳来寺参詣道と金指関 923 (一)鳳来寺への参詣道 923 (二)気賀宿
助郷
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