• 機関トップ
  • 資料グループ
  • テキスト一覧
  • 年表一覧
  • キーワード一覧
  • 参照データ一覧

浜松市立中央図書館/浜松市文化遺産デジタルアーカイブ

  1. トップページ
  2. 詳細検索

詳細検索


検索条件を追加
閉じる
検索結果 : 213件
辞書ファセット
/ 5ページ
浜松市史 ニ ([医学])

[医学] 浜松の医家では、寛文時代に後道の渡辺玄之、享保年間に大工町の渡辺蒙庵(国学漢学参照)・田渕玄統,・井上氏時代には久保寿軒・高津元慎・村尾玄融・足立双松(蘭学参照)・賀古公斎(蘭学参照)・内田乾隈(漢学参照,つぎに、主な医家についてのべよう。  ,永純の子成秀も医師を継いだが、馬の治療も巧みであった。  ,玄之はこの成秀の子で、岡本玄治に医術を学び、帰郷後は医として遠州の諸侯に招かれた。 / [医学]
浜松市史 五 (医科大学誘致)

医科大学誘致 【医科大学誘致】  浜松市においては市制六十周年記念事業の一環として昭和四十六年一月,の支持もあり、かつ、政府の一県一医科大学設置方針に乗って、国立の医科大学誘致を期したのである。  ,これより前の昭和四十三年九月の定例県議会では医科大学設置促進特別委員会を設けた。,静岡県の医療水準の向上は医科大学誘致が先決であるとし、文部・大蔵両省にその実現を働き掛けてきた。,医科大学の教育関連病院とする構想」があり、かつ、市は八万坪の土地を確保していた。 / 医科大学誘致
浜松市史 四 ([遠江医学会])

[遠江医学会] 【遠江医学会 内田六郎 『遠江医学会五十年の歩み』】  第二章の第八節第六項の関連,の在任)の下で遠江医学会五十周年記念式典がもたれた。,『浜松市医師会史』において「遠江医学会」を執筆した君野徹三によれば、医学の分野で専門化・細分化が始まり,、専門知識尊重の風潮が生まれているので、遠江医学会のように全科を網羅した総合医学会の存在意義が疑問視されるようになった,なお、この式典で講演した武見太郎日本医師会長は地域医療と学会の連携を強調し、遠江医学会の歴史と偉業を讃 / [遠江医学会]
浜松市史 五 ([医大誘致運動と浜松医科大学の開学])

[医大誘致運動と浜松医科大学の開学] 【医大誘致運動】  高度経済成長が始まり人口が増えていく中で,当初は静岡大学に医学部を設置するといった運動が行われたが、昭和四十五年になって単独の医科大学誘致の方が,図3-18 国立医科大学、浜松市に設置 【浜松医科大学】  昭和四十八年九月十日、国立医科大学創設準備室,卒業生が進学する浜松医科大学大学院は同年四月一日に設置、ここには医学研究科博士課程が置かれた。  ,開学十年で施設・設備のほとんどが整い、念願の大学院医学研究科を修了した浜松医大の医学博士が誕生することになった / [医大誘致運動と浜松医科大学の開学]
浜松市史 四 ([西遠医会から遠江医学会へ])

[西遠医会から遠江医学会へ] 【遠江医学会】  明治十四年二月二十日、西遠医会が発足し、会長には浜松病院院長,これが後に浜松医学会、さらに明治三十七年に遠江医学会と改称され、現在の遠江医学会に至っている。  ,現在の遠江医学会は医師会を主体にして、静岡県西部地区の全医療機関(浜松医科大学・総合病院・開業医等)が,しかも重要な点は、昭和二十五年六月の全国医師会定款に基づいて、遠江医師会は静岡県西部医学会の性格も併せ,持っていることが強調されている(『浜松市医師会史』所収、君野徹三執筆「遠江医学会」)。 / [西遠医会から遠江医学会へ]
浜松市史 三 (浜松医学校新設)

浜松医学校新設 【九年】なお、この附属医学教場は明治九年五月紺屋町心造寺の側(四三番屋敷)に新築開場,ど県費で、月謝五十銭も本科生よりは徴収せず、級外生も半額にするなどの優遇策がとられていた(「浜松病院医学校場規則,ついで十年七月には「壱区域毎ニ弐名ノ医学生ヲ募集シ区費ヲ以テ」支弁することになったが(「区会議題」)、 / 浜松医学校新設
浜松市史 五 ([浜松救急医学研究会])

[浜松救急医学研究会] 【浜松救急医学研究会 大久保忠訓 岡田眞人】  平成十一年四月二日付の『朝日新聞,』には、四月一日に浜松市内の病院や消防関係者らでつくる浜松救急医学研究会(会長大久保忠訓)によるドクターヘリ,医師の診察後に再離陸。午後二時四十四分に聖隷三方原病院に戻り、手術室に直行した。,同病院の岡田眞人副院長は浜松救急医学研究会の立ち上げに尽力した医師であるが、その談話として、「欧米では,医療の原点が救命救急医療にあることを実践するためにも、まさに課題山積というものである。 / [浜松救急医学研究会]
浜松市史 五 ([大学を持たない地方開業医])

[大学を持たない地方開業医] 浜松の地に医科大学が設立されんことを願うのは、浜松市民のみならず、開業医,【国立浜松医科大学開学】  すなわち、昭和五十五年三月二十六日に挙行された卒業式において、浜松の地に,昭和四十九年六月七日に国立浜松医科大学が開学され、まさに浜松医学校廃校後の百年という節目に、浜松医科大学,地方都市である浜松の地に医科大学が存在し、深化する医療を開業医が身近なものとして認識できることは、医師会,そこに開業医としての医科大学待望論を見ることが出来よう。 / [大学を持たない地方開業医]
浜松市史 五 ([浜松医科大学学生の結核調査報告])

[浜松医科大学学生の結核調査報告] 【結核】  戦前の結核療法(『浜松市史』四 第二章第八節、第三章第八節参照,【松下實 桜井信夫】  浜松医科大学公衆衛生学教室、衛生学教室が主宰する実習に参加した学生らの報告書,すなわち、昭和五十四年度、浜松医科大学公衆衛生学教室教授松下實・衛生学教室教授桜井信夫編『社会医学(公衆衛生学,・衛生学)学生実習報告書』、および、昭和五十八年度、浜松医科大学衛生学教室教授桜井信夫・公衆衛生学教室講師豊川秀治編,『社会医学(衛生学・公衆衛生学)学生実習報告書』第5集である。 / [浜松医科大学学生の結核調査報告]
浜松市史 三 (医師養成)

医師養成 つぎに併設された附属医学教場(通称浜松医学校)について述べよう。,三種があり、全生徒数四十名(明治九年)、本科生は「毎級半年ヲ以テ一期ノ課業ト定メ」られて、第六級(化学),・第五級(解剖学・生理学)・第四級(薬物学)・第三級(病理学)・第二級(外科学)・第一級(内科学・病床実際試術,明治二十七年没、三十八歳)・中西玄仙・河合虹平・奥田喬治・柴田邵平・太田用成などがあった(『明治十年浜松病院医会日記 / 医師養成
浜松市史 三 (浜松病院医会)

浜松病院医会 【西洋医学 医師免許】浜松病院は各地にさきがけて出来たというだけでなく、その特色は西洋医学,静岡県立になるとともに七年利町に新築移転と定まり、附属医学教場が開設されたことも画期的なことであった。,医学校長は病院長太田用成が兼任し、西洋医学の教授が行なわれた。,福島豊策  【福島豊策】明治十五年七月県費削減措置により、静岡県医学界の先端を行く存在であった浜松病院,、明治十二年から第二代院長となっていた福島豊策がひきつづき院長となった(天保九年佐賀蓮池藩士族、長崎医学校卒 / 浜松病院医会
浜松市史 四 (医療救護情況)

医療救護情況 「医療救護情況」の項目では、六月十八日・二十日・七月三日における八カ所の患者収容所に収容,事情は不明であるが、城北・曳馬・八幡の各国民学校と西遠高等女学校、中部配電浜松営業所の患者は六月二十二日,に鴨江国民学校に移し、陸軍病院収容の患者は鴨江国民学校と遠州病院貴布祢分院に収容している。,また、医療班の活動状況として、救護班を組織し、市営バス一台に医療薬品を満載して巡回したこと、また、浜松,から七月三日までの間の医師・歯科医・看護婦・保健婦・助産婦・衛生係の出動状況一覧表を記録している。 / 医療救護情況
浜松市史 五 ([医師の増加])

を標榜してきた医師会員の動向、特に医会や医学会の総括記事は、その関心を満たしてくれるものである。  ,また、昭和六年刊の『日本医籍録』(順天堂大学山崎文庫蔵書)には日本医学校を卒業し、浜松新町二十二番地の,昭和十五年に東京帝国大学医学部を卒業し、柿沼内科に入局した。,翌年に陸軍軍医となり、昭和二十一年に帰還し、東京大学医学部助教授を務め、後に兼四郎の後継者として浜松に,センター、同五十一年に聖隷三方原病院、同五十二年に聖隷浜松病院に未熟児センター、同五十二年に浜松医科大学医学部附属病院 / [医師の増加]
浜松市史 五 (医薬分業の実施)

医薬分業の実施 浜松地区の総合病院で初めての医薬分業に踏み切ったのは浜松医科大学医学部附属病院で、平成六年四月十九日,この状況を踏まえて平成七年四月に実施予定(実施は平成七年五月)の県西部浜松医療センターは、医師・薬剤師,【医薬分業推進支援センター浜松】  また、一般社団法人浜松市薬剤師会は薬局と医薬品情報の拠点となる医薬分業推進支援,センター(医療機関等や一般市民への情報提供など)と、研修センター(薬剤師、薬学生を対象の研修)である。,それは県西部浜松医療センター前の医薬分業推進支援センター浜松横に東京の業者が保険薬局を開設することが明 / 医薬分業の実施
浜松市史 五 (医師会中央病院)

、『広報はままつ』を引用し、その後で『浜松市医師会史』に依拠して、開業医らによる医師会中央病院の設立運動,「いわば開業医の共同病院」というもので、開業医が入院を必要とする患者を入院させ、その開業医が主治医として,【谷口集談会 開業医の職業倫理 圭友会】  他方、戦後の浜松市医師会の開業医の研修機関としては、外科医,これは初め平野多賀治が主唱した勉強会であり、戦後のドイツ医学から離れてアメリカ医学の導入における臨床医学,また、医師会中央病院を生んだ発想は開業医として日本の医療制度に対する反省から始まったもので、その発現の / 医師会中央病院
浜松市史 四 ([浜松病院医会の発足])

[浜松病院医会の発足] 【太田用成】  先駆者の苦悩を刻んだ遠江医学会の前史として、浜松病院医会、,それは医師会病院設立、浜松医科大学の建設を必然化させた動向を探るためである。  ,とその付属医学校が果たした役割は否定できなかった。,その四月十五日に開催された医会では医域区分・医制・経費の三項目について議決し、明治十年四月十五日に最初,六月二十四日付の「浜松病院医会誌」には医域ごとの医学生を募集し、学費はその医域負担とし、卒業後にその地 / [浜松病院医会の発足]
浜松市史 五 ([浜松医界百年のマグマ])

、明治の浜松医学校をいい、次いで大正の遠江医学会、昭和初期の谷口健康主宰の浜松集談会を挙げている。,明治初年の浜松医学校と大正の遠江医学会については、既に『浜松市史』新編史料編二と『浜松市史』四(通史編,この病院には浜松医学校が付設されていた。  ,明治九年八月二十一日の静岡県との合併後、浜松病院に医学校教員として太田用成の門人で大学東校卒業生の虎岩武,【国立浜松医科大学の開学】  昭和四十九年六月、国立浜松医科大学が開学され、昭和五十五年三月二十六日 / [浜松医界百年のマグマ]
浜松市史 五 ([医薬分業に向けて])

[医薬分業に向けて] 医薬分業は医師による患者の囲い込みによる薬価利益の独占を排除する側面があり、他方,では戦後の化学薬品における技術革新に伴う薬学の進展を前にして、医師は調剤の時間や人件費が省け、保険の請求事務,これは静岡市薬剤師会が、医師を対象にして行った医薬分業を推進させるためのアンケートの結果分析であった。,他方、医師の本音のような記事も併記されている。,し、同五十年に診療報酬の見直しが行われ、処方箋を作成する医師の技術料が引き上げられたので、医薬分業は急速 / [医薬分業に向けて]
浜松市史 五 ([小児科医の趨勢])

[小児科医の趨勢] 【小児科医の保険診療】  戦後のベビーブームによって右のように大病院の小児科開設,小児科は他の診察科と違い、稲留研三は現今の「医療経済の中では、小児科医という冷や飯食い」と嘆じている。,小児科医師の特徴として人間味が重視されるのは、頑是(がんぜ)ない子供の診断には内科・外科・耳鼻咽喉科などあらゆる,また医学生が小児科を志向しない傾向が著しくなるのである。 / [小児科医の趨勢]
浜松市史 五 ([医薬分業の方針])

[医薬分業の方針] 近世の俗語で医者の生態を言う時、薬九層倍と言い、薬価は暴利を生むと皮肉られていた,医薬同業の慣行から脱して医薬分業へ完全に移行するには時間を要した。,【『日本の医療史』】  医薬分業の歴史をたどる時、その原点は明治七年制定の医制(全七十六条)にある。,これは医療および医学教育関係の全てにわたって政府が初めて制定した規則であり、東京・京都・大阪三府に布達,、医師の処方箋の院外発行は医師の判断に委ねられた(任意医薬分業法)。   / [医薬分業の方針]
浜松市史 五 ([口腔保健医療センターの業務])

[口腔保健医療センターの業務] 【口腔保健医療センター】  かくて浜松歯科衛生士専門学校等の施設を,図3-50 浜松市口腔保健医療センター 【医薬品情報管理センター】  口腔保健医療センターの業務,建物の二階は歯科医師会の歯科衛生士専門学校で、これは二年制の専修学校、定員は一学年四十人。,三階と四階は浜松市医師会看護高等専修学校、定員は一学年五十人。,参加対象者は幼稚園・保育園・学校や障害児施設の関係者というように、かなり大規模なものであった。 / [口腔保健医療センターの業務]
浜松市史 四 ([地域医療の第一歩])

敗戦直後の医療状況を表しているのは、追分国民学校における無料の臨時診療所の開設であったが、その後も巡回診療所,主として罹災者や海外引揚者、無医村が当面の対象である。,昭和二十一年十二月二十二日から二十六日まで、引揚者の越冬援護の事業として、無料の巡回診療が国立病院の担当で市内の国民学校,診療券の有効期間は一カ月、医療は初診より一カ月である。,また、割引率は「医療費半額 但し入院医療費又は高価薬は三割引」としている。   / [地域医療の第一歩]
浜松市史 五 ([地域密着の歯科医師])

まず、幼児の歯痛の応急措置が間に合わないこと、小中学生のクラブ活動後の受診が時間外にかかることが多く不便,【浜松市歯科医師会】  浜松市歯科医師会においては昭和五十年四月、地域社会に密着した歯科医師の在り方,浜松市歯科医師会は右の地域医療対策審議会において口腔保健医療センターの機能および施設の概要と基本構想を,浜松市歯科医師会が策定した原案は、①予防対策、②医療対策、③歯科医療関係者の養成施設の設立、というものであり,他方、昭和五十一年四月に発足した浜松市保健医療協議会を構成する三専門部会(三師会―医師会・歯科医師会・ / [地域密着の歯科医師]
浜松市史 ニ ([蘭学])

[蘭学] 蘭学は江戸時代中期以後、オランダ語による西洋の学術・文化を研究する学問として、わが国文化の,浜松の蘭学者としては、先ず岡村義昌をはじめとし、ついで蘭法医学者として著名な足立双松があり、また蘭学に,通じ、蘭医書の飜訳に長じて藩校克明館の発展に力を尽した賀古公斎、蘭学・医学をよくし、蘭法治療の医家として / [蘭学]
浜松市史 五 ([看護学校])

同五十年には二年課程を併設、同五十一年には県西部浜松医療センターに隣接して建てられた新校舎に移り、同病院,を実習病院として近代医学に対応できる看護教育に乗り出した。,看護学校の実習施設は時代により変わるものだが、昭和五十九年頃は県西部浜松医療センターなどの病院のほか、,【浜松市医師会看護高等専修学校】  浜松市医師会の准看護婦養成所は昭和四十三年に浜松市医師会附属准看護学院,と改称、さらに専修学校の認可を受けて昭和五十八年四月にはこれまでの学院を廃止、新たに浜松市医師会看護高等専修学校 / [看護学校]
浜松市史 五 (東洋歯科大学)

【建設期成同盟会 歯科医師会】  東洋歯科大学建設期成同盟会の計画は「総工費十億百万円で鉄筋コンクリート,まず、東洋歯科大学の浜松市設置に反対する県西部歯科医師会(会員数三百人、浜松、浜名、引佐、磐周、小笠・,この点こそ開業医としての歯科医が大学設置に反対する根拠があるようである。,学長、事務局長、医師などの人事も内定し図書も発注した。,これで浜松市歯科医師会が日本歯科医師会の支持を受けて展開させた歯科大学設置反対運動は終息した。 / 東洋歯科大学
浜松市史 五 ([浜松市歯科医師会有志の奉仕活動])

[浜松市歯科医師会有志の奉仕活動] 口腔保健医療センターが単に市民のための市立歯科診療所ではなく、センター,【浜松市歯科医師会】  これに至る前提は浜松市歯科医師会有志たちによる長年の奉仕活動があったからと思,がおおぞらの家歯科診療班を組織し、小羊学園(昭和四十一年五月開園)、聖隷福祉事業団(昭和四十八年十二月改称,)時代の若樹学園(昭和五十三年開園)という重症心身障害児(者)施設において、初め安岡魁医師の指揮下に毎月二,医師と患者との信頼関係が長年にわたって築き上げられてきたことがうかがえよう。 / [浜松市歯科医師会有志の奉仕活動]
浜松市史 五 ([県西部浜松医療センターの設立])

もっとも診療科目について見ると、県西部浜松医療センターが昭和四十九年四月に開学予定の国立浜松医科大学の,先に医師会中央病院の病院医の経歴から開業医に転じた阿部正昌の論文で見たように、国の医療法の下での矛盾を,ちなみに渡邊登の発言には、オープンシステム病院の勤務医は専門医が望まれるし、入院診療には専門医のグループ,しかも、開業医にとっては「入院中の診療権はそれまでの主治医権と別けて考えるのが適当」(『浜松市医師会中央病院記念誌,専門医としての家庭医の実現を、現今の医療制度の中に位置付け、社会的地位を確立させることを強調している。 / [県西部浜松医療センターの設立]
浜松市史 五 ([医師同乗のヘリ搬送])

[医師同乗のヘリ搬送] 昭和四十五年五月四日、南アルプス聖岳付近で訓練中の大学生ワンゲル部員が発病し,同五十四年一月九日付の報道では、愛知県警察本部のヘリコプターが愛知県北設楽郡設楽町から県西部浜松医療センター,医師を同乗させての飛行の場合、問題点はやはり常設のヘリポートが不可欠であることが明らかになった。,【日本救急医療ヘリコプター】  昭和五十八年十月に入って、聖隷福祉事業団は中日本航空(本社名古屋市),救急ヘリコプターには人工呼吸装置、点滴装置など最新の医療機器約二十種を積み、医師と看護婦が患者を治療しながら / [医師同乗のヘリ搬送]
浜松市史 五 ([静岡県立大学短期大学部の開学])

[静岡県立大学短期大学部の開学] 【静岡女子短期大学】  静岡女子短期大学は昭和五十年四月に第一看護学科,浜松医大の開学とその教育関連病院の充実のための看護婦不足、また、医学の目覚ましい進歩に対応できる優れた,【静岡県立大学短期大学部】  昭和五十七年になると、県立三大学(静岡薬科大学・静岡女子大学・静岡女子短期大学,そして、浜松にあった静岡女子短期大学は昭和六十二年四月に静岡県立大学短期大学部となり、文化教養学科、食物栄養学科,、第一看護学科、第二看護学科が置かれた。 / [静岡県立大学短期大学部の開学]
浜松市史 五 ([その他の大学の動き])

[その他の大学の動き] 【浜松医科大学 光量子医学研究センター】  浜松医科大学には平成三年に光量子医学研究,センターが設置され、多様な光量子技術を用いて医学医療分野における光応用の最先端の研究に当たっている。,平成七年には医学部に看護学科(一学年六十名)を設置、豊かな人間性と高度な看護技術を持つ看護専門職(看護師,そして同十六年には四年制の浜松学院大学が誕生、これまでの浜松短期大学は短期大学部となっていく。  ,この後、同大学はビジネスに加え、健康や保健医療分野の学部を持つようになる。 / [その他の大学の動き]
浜松市史 五 ([県西部浜松医療センターに向かう必然性])

これについては、『新編史料編六』 八医療 史料3「県西部浜松医療センターの開院」の解題・解説の部分で渡邊登医師,初め病院に勤務する医師は病棟医と呼ばれ、後には病院医と改められた。,すなわち、健康保険制度下において、開業医が医師会中央病院における非常勤医師としての診療時における診療報酬,また、渡邊登は医学教育を論ずる者は、医療制度、医療経済を無視しては無意味であると切言している。  ,その構成標題を要約すると、病院医について、病院医の医療業務について、病院の運営と経営について、病院の医学教育 / [県西部浜松医療センターに向かう必然性]
浜松市史 五 ([浜松市発達医療総合福祉センターの開設])

[浜松市発達医療総合福祉センターの開設] 【浜松市発達医療総合福祉センター】  浜松市は平成四年七月一日,、浜北市高薗と浜松市豊町にまたがる天竜川沿いに、浜松市発達医療総合福祉センター・はままつ友愛のさとを開設,このように医療と福祉が一体となった総合施設は、全国でも先進的なものであった。,浜松市発達医療総合福祉センターの開設に伴って、浜松地区肢体不自由児親の会が運営していた笠井学園と小規模授産施設,同学園は二十二年の歴史に別れを告げた(『静岡新聞』平成二年二月十六日、同四年五月十八日付)。 / [浜松市発達医療総合福祉センターの開設]
浜松市史 五 ([聖隷クリストファー大学の開学])

[聖隷クリストファー大学の開学] 【聖隷クリストファー看護大学 聖隷クリストファー大学】  聖隷准看護婦養成所,昭和六十年代に入り医療技術の高度化・専門化が進む中、聖隷学園は看護学部看護学科を持つ四年制大学の設立を,看護大学の入学式が三方原町の同校で行われた(開学式は同年五月十四日)。,大学設立の理由としては医療技術が日々進歩していく中で、医療機器の操作なども含めた高度な知識が求められること,聖隷クリストファー大学内には聖隷歴史資料館があり、長谷川保や聖隷関係の医療、社会福祉、教育に関する貴重 / [聖隷クリストファー大学の開学]
浜松市史 五 ([脳・精神科学の探求])

[脳・精神科学の探求] 【脳・精神科学平和探求国際会議 光科学技術研究振興財団】  浜松ホトニクス,そこで晝馬輝夫は核医学分野の第一人者でPET医学研究の草分け的存在である米国ジョンズホプキンス大学のH,同年二月二日~四日の三日間で医療・工学などの世界の研究者が遺伝子発現の画像化に焦点を当て、脳の働きを解明,光科学技術の応用例として、県西部浜松医療センターのPETの臨床研究成果、尾内康臣医師による痴ほうの診断,二月四日の会議最終日には簑島聡ミシガン大学教授(核医学、県西部浜松医療センター顧問)は、脳内を解明するのに / [脳・精神科学の探求]
浜松市史 五 (静岡大学)

静岡大学 【大学院電子科学研究科】  昭和四十七年は浜松高等工業学校の創立五十周年に当たり、浜松工業会,これを受けて、昭和四十八年には工業短期大学部にも情報工学科を設置、同五十五年には電子工学科と電子工学研究所,当初の教官定員は電子工学研究所十六名、工学部二十八名、浜松医科大学四名で、これに対し学生の定員は十七名,科の設立に当たって努力されたのは桜場周吉、鴨川寿、西田亮三など、また、浜松医大との連携も特色の一つであったが,これを受けて、工学部はすべての学科の改組に取り組み、昭和五十九年には電気工学科と電気工学第二学科を改組 / 静岡大学
浜松市史 五 ([専門学校と各種学校])

[専門学校と各種学校] 【日本情報技術専門学校 浜松情報専門学校 常葉環境情報専門学校】  浜松地域,専門学校を開校、前記の専門学校を東海調理製菓専門学校と改称、同十二年にはマリン関係の専門学校を東海工科専門学校,以後、連尺町にも医療福祉の専門学校を開設するようになっていく。,そのほか、平成十三年現在、既述のもの以外に医療系として常葉学園医療専門学校、浜松歯科衛生士専門学校、社会福祉関係,として聖隷介護福祉専門学校、また、静岡県西部理容美容専門学校、国際医療管理専門学校浜松校、国際観光専門学校浜松校 / [専門学校と各種学校]
浜松市史 五 ([浜松歯科衛生士専門学校の設立])

[浜松歯科衛生士専門学校の設立] はじめ浜松市歯科医師会の原案では歯科衛生士養成所も口腔保健医療センター,【浜松歯科衛生士専門学校】  この市長部局の最終結論に直面して浜松市歯科医師会は、昭和五十五年八月、,次に歯科医師会は組織内部に社団法人浜松市歯科医師会立浜松歯科衛生士専門学校及び浜松市口腔保健医療センター,同校は同年四月八日に開校・入学式を迎え、初年度の入学生は四十名であった。  ,浜松歯科衛生士専門学校の設立については、『浜松市歯科医師会沿革史』のほかに、水川秀海副校長(落成式式典委員会委員 / [浜松歯科衛生士専門学校の設立]
学びの里祈りの丘:わが町文化誌 (浜松市立県居公民館『学びの里祈りの丘:わが町文化誌』 目次)

学びの里祈りの丘:わが町文化誌 / 】 76 【私立女子高等技芸学校 西遠女子学園高等学校 浜松実科高等学校 西遠高等女学校 平田町】,】 82 【浜松市医師会看護高等専修学校】 83 【友クッキングスクール】 84 (五)幼稚園, 白萩荘】 106 【浜松乳児院】 107 【浜松市公設市場跡 三組町】 108 (三)保健・医療施設,【浜松市保健所】 109 【浜松市母子保健センター】 110 【浜松市口腔保健医療センター】,大工頭桑原家 末広通り 琉球国 儀衛正 平田踏切 開かずの踏切】 283 【塩町 提灯屋 肥料屋 医者 / 浜松市立県居公民館『学びの里祈りの丘:わが町文化誌』 目次
浜松市史 五 ([看護婦養成学校の設置])

[看護婦養成学校の設置] 【浜松高等看護学院】  看護婦養成については高等学校の項で取り上げたが、,に富塚町(今の浜松医療センターの東側付近)の新校舎に移転した。,一般教養の講師には静岡大学や静大工業短大、県立女子短大などの教授などが当たり、看護・医学関係の講師は遠州病院,をはじめ、県内の厚生連の病院の医師や看護婦長などが務めた。,なお、浜松医科大学の浜松設置が決まった昭和四十八年には同大学への看護学科併設の声も上がったが、その実現 / [看護婦養成学校の設置]
浜松市史 三 (静岡師範浜松支校 浜松中学校 静岡中学へ併合)

静岡師範浜松支校 浜松中学校 静岡中学へ併合 五月一日開校、六月末には第一回下等小学修了生が巣立っていった,しかし、こうして発足した浜松瞬養学校も浜松県の廃止によって静岡師範学校に合併され、静岡師範学校浜松支校,【変則中学】ついで浜松支校は明治十年六月浜松変則中学校と改称され、師範学科も併置となった(修業三年で区貸費生,しかし、勅令第十五号一県一中学制により十九年七月県都静岡の静岡中学校へ併合という形で、浜松瞬養学校以来続,そのほか明治初期には県立浜松病院内に設立された附属医学教場通称浜松医学校(第四節第六項「近代医療と浜松 / 静岡師範浜松支校 浜松中学校 静岡中学へ併合
浜松市史 五 (開かれた大学)

開かれた大学 これまで大学、特に国立大学はいわゆる〝象牙の塔〟と揶揄(やゆ)され、高度で難解な学問探究,静岡大学工学部で公開講座を始めたのは昭和五十四年、工学部の名前のとおり、先端科学入門や環境問題などの問題,浜松医科大学でも昭和五十四年から医学や食生活についての公開講座を開き、毎年二百人前後の参加者を数えている,常葉学園浜松大学では平成元年からくらしに役立つ情報をテーマに公開講座を開始、平成八年の大学院経営学研究科,昭和六十二年には静岡県立大学で『研究者プロフィール』、平成四年には静岡大学で『静岡大学教官総覧』の冊子 / 開かれた大学
浜松市史 五 ([常葉学園浜松大学の開学])

[常葉学園浜松大学の開学] 【常葉学園浜松大学】  昭和六十三年四月に常葉(とこは)学園浜松大学が,都田町に開学、第一回入学式が行われた。,の技術者を養成することを目的に、産業情報学部を設置、学科は産業情報学科(定員二百人)、産業経営学科(同百人,常葉学園は昭和六十一年五月に、大学名を常葉学園浜松大学とし、設置する学部・学科を経営学部・経営情報学科,初代の学長は浜松市出身で労働省産業医学総合研究部長などを務めていた長谷川弘道、彼は定年を前に退官し、大学設置 / [常葉学園浜松大学の開学]
浜松市史 五 ([諸大学の動き])

[諸大学の動き] 【浜松短期大学】  浜松短期大学は昭和四十年代の後半に住吉校舎を建設したのに続いて,そして、翌年から初の海外語学研修を実施、多くの学生が米国で語学研修とホームステイを体験、実力を付けていった,【浜松衛生短期大学】  浜松衛生短期大学は昭和四十九年四月に待望の第一衛生看護学科(三年制)を開設、,この頃になると男子学生も入学、男性看護士を目指すようになった。,この短大には昭和五十五年四月に専攻科助産学特別専攻が開設され、近代的な医療機器にも精通した助産婦の育成 / [諸大学の動き]
浜松市史 四 ([結核患者・死亡者の減少と医療機関の転進])

[結核患者・死亡者の減少と医療機関の転進] 浜松市衛生課では昭和二十六年以来、五カ年計画の結核予防対策,、中学校八校の約一万六千名についてツベルクリン検査、レントゲン撮影による結果では、小学校(二百六十三名,)、中学校(百三十一名)の要注意者があり、開放性の罹患者もいた。,特に南部中学校・中部中学校・元城小学校では兄弟の感染者がいることを指摘している。,の聖隷病院(三方原)でも結核サナトリウムから地域住民の要望を担い一般病院へと転換させている(『浜松市医師会史 / [結核患者・死亡者の減少と医療機関の転進]
浜松市史 五 ([光産業と光産業創成大学院大学])

[光産業と光産業創成大学院大学] 【光技術関連産業集積促進特区 浜松ホトニクス】  平成十五年八月,特区内では①外国人研究者を受け入れる場合の在留許可期間が三年から五年に延長され、②民間企業が浜松医科大学,育成するために大学院大学の設立を計画した。,この大学院大学の特徴は単に知識を得るだけでなく、学生自らが起業することで成果を出し、光産業のパイオニア,平成十七年四月、光産業創成大学院大学は呉松町の浜松ホトニクス呉松研究所内に開学した。 / [光産業と光産業創成大学院大学]
浜松市史 五 (各種学校)

各種学校 【笹田文化服装学院 浜松文化服装学院 アルスアミモノアカデミー】  戦後各種学校の設立が,【珠算教育 尾崎速算学会 浜松経理学校 浜松啓陽高等学校 静岡県西部理容美容学校 カワイ中央音楽学園 ,からは学力調査科を設けて、西部地区の中学三年生の進学希望者を対象とする模擬テスト(学力コンテスト)を開始,牧野和洋裁学院 天神町 語学 斉藤英語学校 松城町 ○高橋文化服装学院,鴨江一丁目 ○アルス編物技芸専門学院 元目町 看護婦 浜松市医師会付属准看護婦養成所 / 各種学校
浜松市史 四 ([看護婦養成所の発足])

[看護婦養成所の発足] 【馬淵一貫 浜松博愛看護婦学校 『日本医籍録』 馬淵貞司 浜松市医師会附属准看護婦養成所,このような医院各自が産婆学校を設立した例には、大正期の栩木盛太郎(元城町)、馬淵享三郎(田町)、昭和期,昭和六年版・同十年版『日本医籍録』の馬淵貞司の記事中に、県立第一中学校・師範学校校医の肩書きのほかに、,この財団法人浜松博愛看護婦学校の戦後の状況については、『浜松市医師会史』に次のように記述されている。,『浜松市医師会史』には、財団法人浜松博愛看護婦学校が「現在の浜松市医師会看護高等専修学校に変遷する」との
浜松市史 五 ([寄付講座とワークショップ])

【浜松医科大学光量子医学研究センター】  右講座は平成四年九月三十日、予定通り終了したが、浜松ホトニクス,株式会社から引き続き寄付を受けることができ、同年十月一日より三年間の期限で、浜松医科大学光量子医学研究,図4-38 浜松医大に出来た光量子医学研究センター 【ワークショップ】  浜松ホトニクスが浜松医科大学,それは全国の医学部・理学部・農学部の大学院生や助手、民間企業の研究員を対象とするもので、平成七年八月二十日,これらのことは浜松ホトニクスが先導し、県西部浜松医療センター、浜松医科大学、静岡大学工学部が参画することによって
浜松市史 ニ (賀古公斎)

賀古公斎 賀古公斎は医を業とし、蘭学者でもあった。,文政二年(一八一九)大坂に生まれ、幼時から父の友人篠崎小竹に学び、のち京都の小石玄瑞について医を学び、,さらに長崎に遊び、蘭学を研究して蘭医書の飜訳を行なった。,【藩医】公斎は漢詩文のほか蘭学に通じていたので、浜松井上藩士岡村黙之助義理と知り、嘉永四年(一八五一),三月、江戸への途次浜松に足をとどめ、この地の人となり、藩医を兼ねて医を業とすることとなった。
/ 5ページ
  • 資料グループ
  • テキスト一覧
  • 年表一覧
  • キーワード一覧
  • 参照データ一覧
  • 機関トップ
  • 利用規定
  • 利用ガイド
  • サイトマップ
  • ADEACトップ
X(旧Twitter) facebook line urlcopy
トップへ
ページURLがコピーされました