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浜松市史 一
([古墳と古墳文化])
[
古墳
と
古墳
文化] 古噴とは
古墳
墓、つまり古いお墓という意味であるから、墓と名のつくものはほとんど
古墳
,ということになろうが、考古学上「
古墳
」という場合は、ある限られた時代の特定の墓を指している。,
古墳
の代表として常にあげられるのは、応神・仁徳両天皇陵で、これはエジプトのピラミッドや秦の始皇帝陵をしのぐ,世界最大のお墓であるが、このように大規模な
古墳
は天皇陵以外にはほとんどみられない。,むしろ、どこにでもみられるという意味での代表的な
古墳
は、径一〇メートル余、高さ一メートル未満の小規模なものである / [
古墳
と
古墳
文化]
浜松市史 一
(古墳時代)
古墳
時代 さて、西暦四世紀代から七世紀代にいたる、ほぼ四百年間は、こうした各種の
古墳
が全国的に相ついで,巨大な墳丘に矮小な埋葬施設、豊富な副葬品、展望のきく立地、そうした
古墳
のあり方自体が、
古墳
を生み出した,そこでこの前後四百年間を
古墳
時代と呼んでいるわけである。,しかしながら
古墳
によって特色づけられる時代であったといっても、
古墳
時代の人間がすべて
古墳
に葬られたというのではなかった,むしろ
古墳
は、ごく限られた個人のためにだけ作られたともいえるのであって、他の多くの人々は、その埋葬された /
古墳
時代
浜松市史 一
(入野古墳)
入野
古墳
浜松市内には、干人塚
古墳
の他にもいくつかの中期
古墳
が存在している。,まず第一に入野
古墳
をあげなければならない。,
古墳
からは、三方原台地南方一帯の水田地帯を望見することができる。,円墳としては千人塚
古墳
につぐ大きさである。 / 入野
古墳
浜松市史 一
(亀塚古墳)
亀塚
古墳
これらの
古墳
の中には、前方後円墳が一基含まれている。,呉松町地内にある亀塚
古墳
で、現状では全長二一メートル、後円部径九・六メートル、高さ二・五メートル、前方部幅八,この
古墳
には埴輪円筒がめぐっていたらしく、破片が散乱しているので、少なくとも六世紀中葉以後へはくだらない,
古墳
としてよい。 / 亀塚
古墳
浜松市史 一
(経塚古墳)
経塚
古墳
②磐田市連城寺・経塚
古墳
この
古墳
は東海道本線の工事中に発見され、その完成とともに消滅したので,松林山
古墳
の東側の丘陵の先端にあってやはり太田川流域を望む場所にある(『静岡県史』第一巻)。 / 経塚
古墳
浜松市史 一
(赤門上古墳)
赤門上
古墳
③浜北市内野・赤門上
古墳
全長五六・三メートルの前方後円墳である。,内部主体は、
古墳
の長軸に平行して割竹形木棺が直葬されていたらしく、長さ五・二五メートル、幅六〇センチ、,この
古墳
は、天竜川の平野を見下ろす丘陵の先端に立地し、平野へ側面をみせている(下津谷達男他『遠江赤門上
古墳
,以上三基のうちで、松林山
古墳
はあらゆる点で畿内の代表的な前期
古墳
の特徴を具備しており、副葬品も優れているのに,反し、経塚
古墳
と赤門上
古墳
は、立派な鏡(いずれも、これと同型の鏡が畿内の
古墳
から発見されている)が目立 / 赤門上
古墳
浜松市史 一
(古墳の規模)
古墳
の規模 各
古墳
の規模を、円墳については基底径、前方後円墳については全長によって表示すれば第10表,【分布】つぎに三方原
古墳
支群一五八基に、その後発見した五基を加えた
古墳
の分布状態を、第30図に示しておこう,【内容】以上の一六三基中、正式な調査が行なわれたのは、千人塚
古墳
と瓢簞塚の二基を除くと、つぎの二〇基にすぎない,さらにその中で年代の判定できる
古墳
となると、わずかに九基という数になってしまう。 /
古墳
の規模
浜松市史 一
(古墳の外形)
古墳
の外形 また、
古墳
といえばただちにその具体的な姿が頭に浮かんでくるというほど規格性のあるものではない,そこで、
古墳
について若干の説明をしておく必要がある。,【周濠】
古墳
の外周には濠のめぐるのを整った例とする。これを周濠と呼び、周湟または周堀とも称する。,また周濠を欠く例も新しい
古墳
には多い。,さらに墳丘には、埴輪と呼ぶ土管状の焼き物をたて並べた
古墳
もある。 /
古墳
の外形
浜松市史 一
(古墳の特色)
古墳
の特色 では、
古墳
とはなにかということをひとくちで定義することは、実は大変むずかしいのである。,
古墳
の特色として、第一に巨大な外形に比して遺体埋葬の施設はきわめて小さいこと、第二に当時としてはなかなか,しかし、このような特色にあてはまらない
古墳
もまたたいへん多いことも事実である。,とはいえ、年代的に溯る
古墳
ほどこの特色を強く出しているということは、
古墳
が内容よりも外見が重視されていたということを /
古墳
の特色
浜松市史 一
(瓢簞塚古墳)
瓢簞塚
古墳
つぎに、千人塚
古墳
と同じく三方原学園の中に存在する瓢簞塚
古墳
をあげよう。,この
古墳
の年代は中期としても終わりに近く、五世紀代後半と推定される(山口欣二・市川和男「三方原瓢簞塚
古墳
発掘概報,第28図 有玉西町瓢簞塚
古墳
と出土の鏡板(国学院大学蔵) / 瓢簞塚
古墳
浜松市史 一
(狐塚古墳)
狐塚
古墳
富塚町安座(あんざ)には、幅八メートルの周濠をめぐらした、基底径二一メートル、高さ一・七メートル,の狐塚
古墳
がある。 / 狐塚
古墳
浜松市史 一
([千人塚古墳])
[千人塚
古墳
] 遠江地方全体の中期
古墳
のあり方は、磐田原台地東南部と、西縁部を中心舞台として展開している,代表的な
古墳
は、磐田市御厨の堂山
古墳
(全長一〇五メートルの前方後円墳であったが削平された)・同市寺谷銚子塚
古墳
,(全長一一二メートル)・天竜市山東光明山
古墳
(全長八二メートル)・磐田市見付兜塚
古墳
(基底径八〇メートル,)・同市新貝高根山
古墳
(基底径八〇メートル)などである。,そして浜松市域に
古墳
が築造され始めたのは、こうした
古墳
時代中期になってからのことであった。 / [千人塚
古墳
]
浜松市史 一
(古墳群の構造)
古墳
群の構造 こうした関係を念頭において、浜松市史という立場で以上述べてきたところを整理してみると、,第一に
古墳
群の構造という観点から、つぎのようなことがいえるようである。,
古墳
時代を通じてこの地域には都田・敷智北・敷智南・三方原という四つの小さな勢力圏があった。,このうち都田支群は大きく引佐
古墳
群として別の勢力に入っていた。,しかしもし
古墳
のあり方を重視するとすれば、より古くから、より充実した存在といえる④の遠淡海
古墳
群地帯をもって /
古墳
群の構造
浜松市史 一
(松林山古墳)
松林山
古墳
①磐田市新貝・松林山
古墳
全長一一六・四メートルの前方後円墳で、後円部径六五メートル、高,主体部の主軸は、
古墳
の長軸と直交している。,その立地からみて、松林山
古墳
は太田川流域に基盤をもっていた首長の墓と考えられる(後藤守一他『松林山
古墳
発掘調査報告書 / 松林山
古墳
浜松市史 一
(後期古墳の特色)
後期
古墳
の特色 中期の後半ごろからとくに天皇陵は急に規模を縮小し始めた。,天皇陵に限らず各地の
古墳
も急速に小形化してきた。,その反面
古墳
の数は後期になると飛躍的に増加し、またそれまで
古墳
の営まれなかったような山間島嶼にも新しく,
古墳
が築造されるようになった。,したがって前段に述べたような、規模の急激な縮小化、小規模
古墳
の飛躍的増大などの事象は、
古墳
が権威を誇示 / 後期
古墳
の特色
浜松市史 一
(中期古墳の特色)
中期
古墳
の特色 中期
古墳
の特色は、前期
古墳
にみられたような内部施設よりも外観を誇示しようとする意欲を,
古墳
の規模は最大に達し仁徳陵のように墳丘だけでも全長四八六メートルという大墳丘をなすものが作られた。,天皇陵をはじめ主要な中期
古墳
は前方後円墳であるが、円墳や帆立貝式
古墳
なども増加している。,内部主体は、変化に富み天皇陵級では長持形石棺を石室で囲む例が多く、通常の
古墳
では粘土槨や石棺直葬などが / 中期
古墳
の特色
浜松市史 一
([都田古墳支群])
[都田
古墳
支群] 都田町の須部・吉影・横尾・谷上・中津・一色などの丘陵上にも、後期の
古墳
が群をなしている,これらを一括して都田
古墳
支群と呼ぶ。 ,【規模】
古墳
の規模は、三方原
古墳
支群について認められたと同様に、基底径一五メートル以下の
古墳
が、ほぼ九四,【吉影
古墳
】これに若干遅れて吉影
古墳
が作られていた。,第31図 都田
古墳
支群(右上)と敷智
古墳
支群の分布 / [都田
古墳
支群]
浜松市史 一
(前期古墳の特色)
前期
古墳
の特色 前期の
古墳
とされているものには、前方後円墳が多い。,このために
古墳
はその発生時において前方後円形という特殊な形に作られたといわれるのである。,天皇陵と治定された
古墳
の中では、崇神陵と景行陵などが前期に入れられる。,前期
古墳
は一般に小高い丘の上や丘陵の先端に築かれており、規模は比較的大きい。 / 前期
古墳
の特色
浜松市史 一
([敷智古墳支群])
[敷智
古墳
支群] 【分布】三方原台地の西部から南部にかけての丘陵地帯には、二、三基ずつの単位群が散在,また、深萩町から呉松町へかけての根本山一帯には、昭和五年当時一五〇余基の
古墳
が密集していたと、『静岡県史,敷智
古墳
支群と呼ぶ。,【規模】これらの
古墳
の多くは後世変形を受けているので、正確な規模がわからない。,このうち不明としたのは、いずれも小規模
古墳
と推定されるものであるから、基底径一五メートル以下の
古墳
は、 / [敷智
古墳
支群]
浜松市史 一
([三方原古墳支群])
[三方原
古墳
支群] 五世紀中葉に千人塚
古墳
が築造されてより、七世紀にいたるほぼ二世紀間にわたり、三方原台地,の東縁、半田町から元城町にかけて総数一六三基の
古墳
が作られた。,二世紀間とはいっても、五世紀代の
古墳
は三基にすぎず、六世紀前半に降っても一〇基に満たない。,したがって大部分の
古墳
は六世紀後半から七世紀にかけて築造されたことになるのである。,これらの
古墳
を一括して三方原
古墳
支群と呼ぶ。 / [三方原
古墳
支群]
浜松市史 一
(その他の中期古墳)
その他の中期
古墳
以上の他にも、中期に位置づけられそうな
古墳
が若干あるが、そのほとんどが盗掘を受けていたり,そこで外観だけから判断してほぼ中期で間違いなかろうと思われる
古墳
は、都田町一色の恩塚山山頂にある将軍塚
古墳
/ その他の中期
古墳
浜松市史 一
([「遠淡海」古墳群])
[「遠淡海」
古墳
群] 浜松市域に分布する
古墳
を「群」としてまとめながら整理すると、以上のとおりである,細江支群と都田支群をあわせて、「引佐(いなさ)
古墳
群」と呼ぶことにしよう。,をあわせて、「敷智
古墳
群」と呼ぶ。,これを少し大きいが「遠淡海
古墳
群」としてまとめることができる。,(表)第14表 遠江西部の
古墳
群 第35図 西遠地区の
古墳
群 / [「遠淡海」
古墳
群]
浜松市史 一
(中期古墳の成立過程)
中期
古墳
の成立過程 こうした中期
古墳
の成立過程については、二つの解釈が行なわれている。,四世紀末ごろからの朝廷の東国への支配が強まった結果、朝廷との服属関係が生じ、新しく五世紀代になってから
古墳
,、天竜川流域はおろか、広く西遠地方一帯に君臨していたが、生産力の発展につれて社会的な階層分化が進み、
古墳
,ところで、五世紀代に内野地区・積志地区・寺谷地区、それに都田川流域とそれぞれ
古墳
群の核になるような、小,後期の群集墳形成の下地はこうして中期
古墳
時代に準備されていたのを知ることができる。 / 中期
古墳
の成立過程
浜松市史 一
(前期古墳時代の社会)
前期
古墳
時代の社会 このような前期
古墳
の特徴は、各地の
古墳
にかなり斉一的に認められるのであって、そこに,前期
古墳
は各地に分布するとはいえ、その数はひじょうに少ないのであって、各地における階層分化がまだ十分進,また、前期
古墳
は、その外形が大きいにもかかわらず、内部の設備は実に簡素であり、墳丘も大部分自然の丘を利用,そこには、
古墳
を無理やり大きくみせようとする意識が感ぜられるのであって、弥生時代以来の共同体の規制を突,すなわち前期
古墳
時代は、ふるい共同体的関係の中に、大和朝廷を中核とした新しい専制的な支配を確立しようとする / 前期
古墳
時代の社会
浜松市史 一
(浜松周辺の中期古墳)
浜松周辺の中期
古墳
こうした浜松市内の中期
古墳
を考えるためには、若干地域を広くとって、中期
古墳
のあり / 浜松周辺の中期
古墳
浜松市史 一
([古墳支群と「郡」])
[
古墳
支群と「郡」]
古墳
時代後期中ごろ(六世紀後半)に成立した群集墳が、河川流域や谷あいを基盤として,、
古墳
支群を、さらに大きく
古墳
群を形作っている点について、第四節に詳述した。,そしてそれら支群や
古墳
群の成立が各地域の地方的勢力を反映していたことを推定したのである。 ,A、湖西支群と三ケ日支群==浜名
古墳
群……………浜名郡 天平十二年(七四〇)初見 B、細江支群と,都田支群===引佐
古墳
群……………引佐郡 万葉集巻十四初見 C、敷智北支群と同南支群==敷智
古墳
群 / [
古墳
支群と「郡」]
浜松市史 一
(古式古墳の分布状態)
古式
古墳
の分布状態 以上の三基についで古いと考えられる
古墳
は、十数基知られているが、そのほとんどは平野部,にもおよんできたときに、いち早くその傘下に入り、朝廷の威をかりて首長の座を占めたのは天竜川平野部に勢力を得た内野赤門上
古墳
,の被葬者と、太田川流域を基盤とした松林山・経塚両
古墳
の被葬者であった。 / 古式
古墳
の分布状態
浜松市史 一
([浜松地方の中期古墳文化])
[浜松地方の中期
古墳
文化]
古墳
時代中期に入ると、天竜川下流域の台地縁辺部と、都田川流域に新たに
古墳
,として、赤門上
古墳
の周辺(内野地区)・千人塚
古墳
とその周辺(積志地区)・磐田市銚子塚
古墳
とその周辺(寺谷地区,また、独立的な
古墳
としては、天竜市光明山
古墳
・浜北市於呂
古墳
・浜松市入野
古墳
などが築造されたし、都田川流域,には新しく中期前半に引佐町馬場平
古墳
が、単独墳として成立し、中期後半には細江町陣座ヶ谷
古墳
・浜松市将軍塚
古墳
,・都田山
古墳
などが、都田川流域の
古墳
群の核として形成されたのである。 / [浜松地方の中期
古墳
文化]
浜松市史 一
(中期古墳時代の社会)
中期
古墳
時代の社会 こうした
古墳
の変化は、第一に共同体的な体制の枠を破って成長した首長の力が、武力を,第二に、最大級の
古墳
をしかも全部盛土で築きあげるような大勢の労働力を、総動員できるほどの専制的な権力が / 中期
古墳
時代の社会
浜松市史 一
(前期古墳時代の遺跡)
前期
古墳
時代の遺跡 浜松市内には前期
古墳
が発見されていない。,遠江地方全体の前期
古墳
のあり方が、上述したごとくであったとすると、浜松の地はおそらく浜北市赤門上
古墳
の,その大半(第25図13~16)は後述する
古墳
時代中期の資料であるが、若干前期の資料が含まれているようである,小楠清太郎氏が、自分の畑で発見した一括資料を、市立郷土博物館へ寄贈されたが、それらはこの地方の前期
古墳
時代 / 前期
古墳
時代の遺跡
浜松市史 一
([蛭子(えびす)森古墳])
[蛭子(えびす)森
古墳
] 以上の支群にはいらないが、特殊な立地を示す
古墳
に豊町の蛭子森
古墳
がある。,これらの内須恵器には、少なくとも三型式にわたるものがあり、
古墳
が二、三世代にわたって使われたことが推定,【年代】そして石室の構造、全体の規模、副葬品などから総合して、蛭子森
古墳
の築造年代は六世紀中葉と考えられる,第34図 豊町蛭子森
古墳
の主な副葬品(浜松市立郷土博物館蔵) / [蛭子(えびす)森
古墳
]
浜松市史 一
([前期古墳時代のあらまし])
[前期
古墳
時代のあらまし]
古墳
文化の発展過程は、
古墳
の変遷過程の中に端的に示されているといわれる。,一般に
古墳
の変遷過程は、応神・仁徳・履中・反正・允恭各天皇陵などに代表されるような段階を中に挾んで、前期 / [前期
古墳
時代のあらまし]
浜松市史 一
([遠江地方の前期古墳])
[遠江地方の前期
古墳
] 国家統一事業は、まず西日本で進められ前期後半になってから、東日本各地もその動,遠江地方で前期
古墳
と呼べるものの数は、せいぜい三基知られているにすぎない。 / [遠江地方の前期
古墳
]
浜松市史 一
(古代編)
時代のあらまし 一八五
古墳
と
古墳
文化 国家統一と
古墳
の発生, 遠江地方の前期
古墳
浜松地方の前期
古墳
文化 第三節 浜松地方の中期
古墳
文化 ,一九六 中期
古墳
時代のあらまし 千人塚
古墳
その他の中期
古墳
浜松地方の中期
古墳
文化, 都田
古墳
支群 敷智
古墳
支群 蛭子森
古墳
遠淡海
古墳
群 第五節 後期
古墳
時代の遺跡 ,二二五
古墳
支群と郡
古墳
の終末 第三章 大化改新の前後 第一節 大化前代の
浜松市史 一
(薄葬令の効果 仏教の伝来)
七世紀中葉の
古墳
もすでに数は急激に減じている。,、
古墳
築造の意味は一層薄れてきたという考えも出されている。 ,いずれが直接的な契機として意味をもっていたにしても、
古墳
自体が歴史的な産物である限り、
古墳
を生み出した,
古墳
によって特色づけられた時代、
古墳
時代はこうして七世紀をもって幕を閉じるのである。,(表)年表4
古墳
時代
浜松市史 一
(立地の特殊性)
この
古墳
から磐田原台地への最短距離は三キロで、そこには磐田市寺谷の銚子塚
古墳
(中期初頭の前方後円墳)が,逆に三方原台地への最短距離は五キロで、ここには浜北市内野の赤門上
古墳
(前期の前方後円墳)がある。,距離の遠近のみを根拠とするわけではないが、蛭子森
古墳
は、磐田原台地西縁に連なる
古墳
群(岩田
古墳
支群)の,中に含めるべきだと考える(向坂鋼二・鈴木謹一『蛭子森
古墳
』)。
浜松市史 一
(群の構成)
群の構成 三方原
古墳
支群は、南北約七キロのあいだに帯状に分布するが、とくに千人塚
古墳
の付近に密集する,
古墳
は三~四基とか、十数基とかが小さな群をなしている。これを単位群と呼ぶ。,単位群はさらにいくつか集合して小支群を形成することがあるが、こうした単位群や小支群の集合体として、三方原
古墳
支群,単位群や小支群の中には、立地する場所も規模も優位な
古墳
が含まれている。これを主墳と呼ぶ。,(表)第10表 三方原
古墳
支群の規模 規模 円墳 前方後円墳 49(m) 1 45 1 29~
浜松市史 一
(年代的変遷)
年代的変遷 以上の二基は、入野
古墳
につぐ時期に入るもので、古いグループに属する。,これに対して、東名高速道路建設のため、事前調査した根本山南麓の小形
古墳
は、根本山から運んだと推定される,発見された副葬品は、須恵器・土師器・鉄鏃・刀子・金環・勾玉などで、後期
古墳
通有のものであった。,横穴式石室は、堀江の舘山寺裏山にある弘法穴
古墳
・村櫛の御山塚
古墳
・宇布見の白山神社境内
古墳
などにもある,御山塚
古墳
では、五鈴鏡・直刀・耳環・須恵器などが出土しており、やや古い時期を示しているが、残余の小規模
古墳
浜松市史 一
(群集墳の成立)
群集墳の成立 第二にすこし観点を変えて、
古墳
の群集化という問題を取り上げてみよう。,
古墳
時代後期のいちじるしい特色として、
古墳
規模の縮小化と数の急増化、横穴式石室の採用と馬具・金環・須恵器,これは浜松市の後期
古墳
についてもいえることであった。,については、第10表と第12表と第13表を集計してみればわかることであるが、基底径一五メートル以下の
古墳
,そこで後期
古墳
のあり方として、群集墳の成立というとらえ方が必要なのである。
浜北市史 通史 上巻
(浜北市史 通史 上巻 目次)
と
古墳
文化 241 第一節
古墳
と豪族 243 1
古墳
と
古墳
時代 243
古墳
と墳墓 243,の
古墳
267 浜名湖、都田川流域の
古墳
268 天龍川流域の
古墳
(西) 271 天龍川流域の
古墳
,(東) 280 第二節 浜北市の
古墳
289 1 赤門上
古墳
と内野
古墳
群 289 市内の考古学的調査,内野
古墳
群の成立過程 332 3 渡来人と積石塚
古墳
333 積石塚
古墳
とその分布 334,と浜北市北麓
古墳
群 348 北麓
古墳
群 349 宮口興覚寺後
古墳
355 高根山
古墳
362
浜松市史 一
(古代編)
古代編 浜松市内出土
古墳
時代前・中期の土器類(浜松市立郷土博物館・松下福治郎氏・田辺寛司氏・藤田勝治氏蔵,) 一九五 千人塚
古墳
墳丘実測図 一九八 有玉西町千人塚
古墳
と造出部,の出土品(浜松市立郷土博物館蔵) 二〇〇 有玉西町瓢簞塚
古墳
と出土の鏡板(国学院大学蔵) 二〇二,二〇八 都田
古墳
支群と敷智
古墳
支群の分布図 二一二 都田町恩塚山B群7号墳 石室実測図,の主な副葬品(浜松市立郷土博物館蔵) 二一六 西遠地区の
古墳
群図
浜松市史 一
(統一への過程 大和朝廷)
そしてちょうどそのころ、畿内以西の地域に
古墳
が出現するのである。,
古墳
発生の具体的な過程については、まだ充分な解明がされてはいないのであるが、
古墳
はその後大和朝廷の勢力,このことは、
古墳
の発生が大和朝廷による国家統一の過程を反映していると解される。,また畿内地方以東での
古墳
の発生とその発展過程は、たえず畿内勢力との関連性のもとに理解しなくてはならない,以上の点を念頭において浜松地方の
古墳
文化を展望することとする。
浜松市史 一
(半田山C群)
一、二号墳は中期的な
古墳
であるが、他は後期に通有のものと思われる(向坂鋼二他「浜松市地蔵平B
古墳
単位群発掘調査概報,④中沢町常楽寺裏山曳馬野第二号墳(第11表㉚)土取り作業中白尾善義氏より通報を受け、半壊の
古墳
を調査した,そこで千人塚
古墳
を頂点として、群の構成や規模などを考慮しながら、これに年代のわかっている
古墳
を組み入れてゆくことによって,、三方原
古墳
支群の年代的変遷を推定する他はないのである。,(表)第11表 三方原
古墳
支群の変遷推定表
浜松市史 一
(古式土師器)
古式土師器 弥生時代の土器製作法を伝統的に受け継いだ
古墳
時代の土器類に対して、土師器という呼称を用いている,また前期
古墳
時代の土器に対しては、とくに古式土師器という呼び方をして区別することがあるが、その意味では,第25図 浜松市内出土
古墳
時代前・中期の土器類
浜松市史 一
(千人塚伝説)
千人塚伝説 この
古墳
には、その名が示すとおり千人もの人の霊がこもっているという伝説がある。,しかし、すでに述べてきたように千人塚は立派な五世紀代の
古墳
であって、三方原合戦の戦没者を葬った跡などまったく,武田・徳川両勢の戦いが行なわれていた時には、千人塚
古墳
はすでに千百年余の年月を経ていたのである。,第27図 有玉西町千人塚
古墳
と造出部の出土品(浜松市立郷土博物館蔵)
浜松市史 一
(社会の変質)
社会の変質 五世紀後半を境として、
古墳
が大きく変質したのは、
古墳
が社会的産物である限り当然社会自体の,
古墳
時代の前期から中期にかけての支配者たちは、こうした共同体的な関係をそのまま残し、あるいはむしろ積極的,このために、しばらく浜松市およびその周辺の
古墳
の姿を追求することとしよう。
三ヶ日町史 上巻
(三ヶ日町史 上巻 目次)
六四 一、弥生文化の変遷と西遠地方の弥生遺跡 六四 二、三ヶ日町における弥生文化 六七 第四節
古墳
時代,八一 一、
古墳
文化と引佐郡の
古墳
八一 二、三ヶ日町の
古墳
八三 第二章 古代 九一
引佐町史 上巻
(引佐町史 上巻 目次)
の
古墳
―北岡大塚
古墳
― 266 1 立地と墳丘の形態 266 2 北岡大塚
古墳
の特質と年代 268,― 291 1 谷津
古墳
の墳丘 291 2 西遠江における大型円墳 291 3 井伊谷
古墳
群と谷津
古墳
,295 (五)井伊谷
古墳
群とその性格 296 1 西遠江と井伊谷
古墳
群 296 2 北岡大塚
古墳
出現,の歴史的意義 297 3 井伊谷
古墳
群と大和王権 299 4 古代遠江における井伊谷
古墳
群の位置,出現 303 3 変革の時代へ 306 (七)後期
古墳
の展開 308 1 都田川流域の後期
古墳
しいの森はぎの原:わが町文化誌
(浜松市立北部公民館『しいの森はぎの原:わが町文化誌』 目次)
夏目隆文 万葉集遠江歌新考 檜隈 渡来人 市歌】 15 姫街道追分三辻 【二つの道 宇藤坂 千人塚
古墳
, 元城小学校】 46 第二章 むかしあったこと―わが町見聞録― 【思い出】 49
古墳
散歩,【高林町 白山神社
古墳
】 51 【旧陸軍墓地 住吉墓苑南
古墳
四ツ池
古墳
群】 52 【聾学校内
古墳
, 一本杉
古墳
群 萩町
古墳
群 三方原
古墳
群
古墳
分布図】 53 八右衛門通り 【吉野往還 徳川家康
春野町史 通史編 上巻
(春野町史 通史編 上巻 目次)
一 縄文時代から弥生時代へ 103 二 春野町域の弥生文化とその特質 109 第四章
古墳
時代,の春野 115 第一節
古墳
時代の概観 115 一
古墳
の出現とその意義 115 二 前期・中期,・後期
古墳
117 第二節 春野町域の
古墳
文化 123 一 遺跡の分布と生業 123 二 サルマ,
古墳
と仇山
古墳
群 126 第五章 律令制下の春野町域 137 第一節 律令制の導入 137
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