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浜松市立中央図書館/浜松市文化遺産デジタルアーカイブ

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浜松市史 一 ([古墳と古墳文化])

[古墳と古墳文化] 古噴とは古墳墓、つまり古いお墓という意味であるから、墓と名のつくものはほとんど古墳,ということになろうが、考古学上「古墳」という場合は、ある限られた時代の特定の墓を指している。,古墳の代表として常にあげられるのは、応神・仁徳両天皇陵で、これはエジプトのピラミッドや秦の始皇帝陵をしのぐ,世界最大のお墓であるが、このように大規模な古墳は天皇陵以外にはほとんどみられない。,むしろ、どこにでもみられるという意味での代表的な古墳は、径一〇メートル余、高さ一メートル未満の小規模なものである / [古墳と古墳文化]
浜松市史 一 (古墳時代)

古墳時代 さて、西暦四世紀代から七世紀代にいたる、ほぼ四百年間は、こうした各種の古墳が全国的に相ついで,巨大な墳丘に矮小な埋葬施設、豊富な副葬品、展望のきく立地、そうした古墳のあり方自体が、古墳を生み出した,そこでこの前後四百年間を古墳時代と呼んでいるわけである。,しかしながら古墳によって特色づけられる時代であったといっても、古墳時代の人間がすべて古墳に葬られたというのではなかった,むしろ古墳は、ごく限られた個人のためにだけ作られたともいえるのであって、他の多くの人々は、その埋葬された / 古墳時代
浜松市史 一 (入野古墳)

入野古墳 浜松市内には、干人塚古墳の他にもいくつかの中期古墳が存在している。,まず第一に入野古墳をあげなければならない。,古墳からは、三方原台地南方一帯の水田地帯を望見することができる。,円墳としては千人塚古墳につぐ大きさである。 / 入野古墳
浜松市史 一 (亀塚古墳)

亀塚古墳 これらの古墳の中には、前方後円墳が一基含まれている。,呉松町地内にある亀塚古墳で、現状では全長二一メートル、後円部径九・六メートル、高さ二・五メートル、前方部幅八,この古墳には埴輪円筒がめぐっていたらしく、破片が散乱しているので、少なくとも六世紀中葉以後へはくだらない,古墳としてよい。 / 亀塚古墳
浜松市史 一 (経塚古墳)

経塚古墳 ②磐田市連城寺・経塚古墳 この古墳は東海道本線の工事中に発見され、その完成とともに消滅したので,松林山古墳の東側の丘陵の先端にあってやはり太田川流域を望む場所にある(『静岡県史』第一巻)。 / 経塚古墳
浜松市史 一 (赤門上古墳)

赤門上古墳 ③浜北市内野・赤門上古墳 全長五六・三メートルの前方後円墳である。,内部主体は、古墳の長軸に平行して割竹形木棺が直葬されていたらしく、長さ五・二五メートル、幅六〇センチ、,この古墳は、天竜川の平野を見下ろす丘陵の先端に立地し、平野へ側面をみせている(下津谷達男他『遠江赤門上古墳,以上三基のうちで、松林山古墳はあらゆる点で畿内の代表的な前期古墳の特徴を具備しており、副葬品も優れているのに,反し、経塚古墳と赤門上古墳は、立派な鏡(いずれも、これと同型の鏡が畿内の古墳から発見されている)が目立 / 赤門上古墳
浜松市史 一 (古墳の規模)

古墳の規模 各古墳の規模を、円墳については基底径、前方後円墳については全長によって表示すれば第10表,【分布】つぎに三方原古墳支群一五八基に、その後発見した五基を加えた古墳の分布状態を、第30図に示しておこう,【内容】以上の一六三基中、正式な調査が行なわれたのは、千人塚古墳と瓢簞塚の二基を除くと、つぎの二〇基にすぎない,さらにその中で年代の判定できる古墳となると、わずかに九基という数になってしまう。 / 古墳の規模
浜松市史 一 (古墳の外形)

古墳の外形 また、古墳といえばただちにその具体的な姿が頭に浮かんでくるというほど規格性のあるものではない,そこで、古墳について若干の説明をしておく必要がある。,【周濠】古墳の外周には濠のめぐるのを整った例とする。これを周濠と呼び、周湟または周堀とも称する。,また周濠を欠く例も新しい古墳には多い。,さらに墳丘には、埴輪と呼ぶ土管状の焼き物をたて並べた古墳もある。 / 古墳の外形
浜松市史 一 (古墳の特色)

古墳の特色 では、古墳とはなにかということをひとくちで定義することは、実は大変むずかしいのである。,古墳の特色として、第一に巨大な外形に比して遺体埋葬の施設はきわめて小さいこと、第二に当時としてはなかなか,しかし、このような特色にあてはまらない古墳もまたたいへん多いことも事実である。,とはいえ、年代的に溯る古墳ほどこの特色を強く出しているということは、古墳が内容よりも外見が重視されていたということを / 古墳の特色
浜松市史 一 (瓢簞塚古墳)

瓢簞塚古墳 つぎに、千人塚古墳と同じく三方原学園の中に存在する瓢簞塚古墳をあげよう。,この古墳の年代は中期としても終わりに近く、五世紀代後半と推定される(山口欣二・市川和男「三方原瓢簞塚古墳発掘概報,第28図 有玉西町瓢簞塚古墳と出土の鏡板(国学院大学蔵) / 瓢簞塚古墳
浜松市史 一 (狐塚古墳)

狐塚古墳 富塚町安座(あんざ)には、幅八メートルの周濠をめぐらした、基底径二一メートル、高さ一・七メートル,の狐塚古墳がある。 / 狐塚古墳
浜松市史 一 ([千人塚古墳])

[千人塚古墳] 遠江地方全体の中期古墳のあり方は、磐田原台地東南部と、西縁部を中心舞台として展開している,代表的な古墳は、磐田市御厨の堂山古墳(全長一〇五メートルの前方後円墳であったが削平された)・同市寺谷銚子塚古墳,(全長一一二メートル)・天竜市山東光明山古墳(全長八二メートル)・磐田市見付兜塚古墳(基底径八〇メートル,)・同市新貝高根山古墳(基底径八〇メートル)などである。,そして浜松市域に古墳が築造され始めたのは、こうした古墳時代中期になってからのことであった。 / [千人塚古墳]
浜松市史 一 (古墳群の構造)

古墳群の構造 こうした関係を念頭において、浜松市史という立場で以上述べてきたところを整理してみると、,第一に古墳群の構造という観点から、つぎのようなことがいえるようである。,古墳時代を通じてこの地域には都田・敷智北・敷智南・三方原という四つの小さな勢力圏があった。,このうち都田支群は大きく引佐古墳群として別の勢力に入っていた。,しかしもし古墳のあり方を重視するとすれば、より古くから、より充実した存在といえる④の遠淡海古墳群地帯をもって / 古墳群の構造
浜松市史 一 (松林山古墳)

松林山古墳 ①磐田市新貝・松林山古墳 全長一一六・四メートルの前方後円墳で、後円部径六五メートル、高,主体部の主軸は、古墳の長軸と直交している。,その立地からみて、松林山古墳は太田川流域に基盤をもっていた首長の墓と考えられる(後藤守一他『松林山古墳発掘調査報告書 / 松林山古墳
浜松市史 一 (後期古墳の特色)

後期古墳の特色 中期の後半ごろからとくに天皇陵は急に規模を縮小し始めた。,天皇陵に限らず各地の古墳も急速に小形化してきた。,その反面古墳の数は後期になると飛躍的に増加し、またそれまで古墳の営まれなかったような山間島嶼にも新しく,古墳が築造されるようになった。,したがって前段に述べたような、規模の急激な縮小化、小規模古墳の飛躍的増大などの事象は、古墳が権威を誇示 / 後期古墳の特色
浜松市史 一 (中期古墳の特色)

中期古墳の特色 中期古墳の特色は、前期古墳にみられたような内部施設よりも外観を誇示しようとする意欲を,古墳の規模は最大に達し仁徳陵のように墳丘だけでも全長四八六メートルという大墳丘をなすものが作られた。,天皇陵をはじめ主要な中期古墳は前方後円墳であるが、円墳や帆立貝式古墳なども増加している。,内部主体は、変化に富み天皇陵級では長持形石棺を石室で囲む例が多く、通常の古墳では粘土槨や石棺直葬などが / 中期古墳の特色
浜松市史 一 ([都田古墳支群])

[都田古墳支群] 都田町の須部・吉影・横尾・谷上・中津・一色などの丘陵上にも、後期の古墳が群をなしている,これらを一括して都田古墳支群と呼ぶ。    ,【規模】古墳の規模は、三方原古墳支群について認められたと同様に、基底径一五メートル以下の古墳が、ほぼ九四,【吉影古墳】これに若干遅れて吉影古墳が作られていた。,第31図 都田古墳支群(右上)と敷智古墳支群の分布 / [都田古墳支群]
浜松市史 一 (前期古墳の特色)

前期古墳の特色 前期の古墳とされているものには、前方後円墳が多い。,このために古墳はその発生時において前方後円形という特殊な形に作られたといわれるのである。,天皇陵と治定された古墳の中では、崇神陵と景行陵などが前期に入れられる。,前期古墳は一般に小高い丘の上や丘陵の先端に築かれており、規模は比較的大きい。 / 前期古墳の特色
浜松市史 一 ([敷智古墳支群])

[敷智古墳支群] 【分布】三方原台地の西部から南部にかけての丘陵地帯には、二、三基ずつの単位群が散在,また、深萩町から呉松町へかけての根本山一帯には、昭和五年当時一五〇余基の古墳が密集していたと、『静岡県史,敷智古墳支群と呼ぶ。,【規模】これらの古墳の多くは後世変形を受けているので、正確な規模がわからない。,このうち不明としたのは、いずれも小規模古墳と推定されるものであるから、基底径一五メートル以下の古墳は、 / [敷智古墳支群]
浜松市史 一 ([三方原古墳支群])

[三方原古墳支群] 五世紀中葉に千人塚古墳が築造されてより、七世紀にいたるほぼ二世紀間にわたり、三方原台地,の東縁、半田町から元城町にかけて総数一六三基の古墳が作られた。,二世紀間とはいっても、五世紀代の古墳は三基にすぎず、六世紀前半に降っても一〇基に満たない。,したがって大部分の古墳は六世紀後半から七世紀にかけて築造されたことになるのである。,これらの古墳を一括して三方原古墳支群と呼ぶ。 / [三方原古墳支群]
浜松市史 一 (その他の中期古墳)

その他の中期古墳 以上の他にも、中期に位置づけられそうな古墳が若干あるが、そのほとんどが盗掘を受けていたり,そこで外観だけから判断してほぼ中期で間違いなかろうと思われる古墳は、都田町一色の恩塚山山頂にある将軍塚古墳 / その他の中期古墳
浜松市史 一 ([「遠淡海」古墳群])

[「遠淡海」古墳群] 浜松市域に分布する古墳を「群」としてまとめながら整理すると、以上のとおりである,細江支群と都田支群をあわせて、「引佐(いなさ)古墳群」と呼ぶことにしよう。,をあわせて、「敷智古墳群」と呼ぶ。,これを少し大きいが「遠淡海古墳群」としてまとめることができる。,(表)第14表 遠江西部の古墳群 第35図 西遠地区の古墳群 / [「遠淡海」古墳群]
浜松市史 一 (中期古墳の成立過程)

中期古墳の成立過程 こうした中期古墳の成立過程については、二つの解釈が行なわれている。,四世紀末ごろからの朝廷の東国への支配が強まった結果、朝廷との服属関係が生じ、新しく五世紀代になってから古墳,、天竜川流域はおろか、広く西遠地方一帯に君臨していたが、生産力の発展につれて社会的な階層分化が進み、古墳,ところで、五世紀代に内野地区・積志地区・寺谷地区、それに都田川流域とそれぞれ古墳群の核になるような、小,後期の群集墳形成の下地はこうして中期古墳時代に準備されていたのを知ることができる。 / 中期古墳の成立過程
浜松市史 一 (前期古墳時代の社会)

前期古墳時代の社会 このような前期古墳の特徴は、各地の古墳にかなり斉一的に認められるのであって、そこに,前期古墳は各地に分布するとはいえ、その数はひじょうに少ないのであって、各地における階層分化がまだ十分進,また、前期古墳は、その外形が大きいにもかかわらず、内部の設備は実に簡素であり、墳丘も大部分自然の丘を利用,そこには、古墳を無理やり大きくみせようとする意識が感ぜられるのであって、弥生時代以来の共同体の規制を突,すなわち前期古墳時代は、ふるい共同体的関係の中に、大和朝廷を中核とした新しい専制的な支配を確立しようとする / 前期古墳時代の社会
浜松市史 一 (浜松周辺の中期古墳)

浜松周辺の中期古墳 こうした浜松市内の中期古墳を考えるためには、若干地域を広くとって、中期古墳のあり / 浜松周辺の中期古墳
浜松市史 一 ([古墳支群と「郡」])

[古墳支群と「郡」] 古墳時代後期中ごろ(六世紀後半)に成立した群集墳が、河川流域や谷あいを基盤として,、古墳支群を、さらに大きく古墳群を形作っている点について、第四節に詳述した。,そしてそれら支群や古墳群の成立が各地域の地方的勢力を反映していたことを推定したのである。  ,A、湖西支群と三ケ日支群==浜名古墳群……………浜名郡   天平十二年(七四〇)初見 B、細江支群と,都田支群===引佐古墳群……………引佐郡   万葉集巻十四初見 C、敷智北支群と同南支群==敷智古墳群 / [古墳支群と「郡」]
浜松市史 一 (古式古墳の分布状態)

古式古墳の分布状態 以上の三基についで古いと考えられる古墳は、十数基知られているが、そのほとんどは平野部,にもおよんできたときに、いち早くその傘下に入り、朝廷の威をかりて首長の座を占めたのは天竜川平野部に勢力を得た内野赤門上古墳,の被葬者と、太田川流域を基盤とした松林山・経塚両古墳の被葬者であった。 / 古式古墳の分布状態
浜松市史 一 ([浜松地方の中期古墳文化])

[浜松地方の中期古墳文化] 古墳時代中期に入ると、天竜川下流域の台地縁辺部と、都田川流域に新たに古墳,として、赤門上古墳の周辺(内野地区)・千人塚古墳とその周辺(積志地区)・磐田市銚子塚古墳とその周辺(寺谷地区,また、独立的な古墳としては、天竜市光明山古墳・浜北市於呂古墳・浜松市入野古墳などが築造されたし、都田川流域,には新しく中期前半に引佐町馬場平古墳が、単独墳として成立し、中期後半には細江町陣座ヶ谷古墳・浜松市将軍塚古墳,・都田山古墳などが、都田川流域の古墳群の核として形成されたのである。 / [浜松地方の中期古墳文化]
浜松市史 一 (中期古墳時代の社会)

中期古墳時代の社会 こうした古墳の変化は、第一に共同体的な体制の枠を破って成長した首長の力が、武力を,第二に、最大級の古墳をしかも全部盛土で築きあげるような大勢の労働力を、総動員できるほどの専制的な権力が / 中期古墳時代の社会
浜松市史 一 (前期古墳時代の遺跡)

前期古墳時代の遺跡 浜松市内には前期古墳が発見されていない。,遠江地方全体の前期古墳のあり方が、上述したごとくであったとすると、浜松の地はおそらく浜北市赤門上古墳の,その大半(第25図13~16)は後述する古墳時代中期の資料であるが、若干前期の資料が含まれているようである,小楠清太郎氏が、自分の畑で発見した一括資料を、市立郷土博物館へ寄贈されたが、それらはこの地方の前期古墳時代 / 前期古墳時代の遺跡
浜松市史 一 ([蛭子(えびす)森古墳])

[蛭子(えびす)森古墳] 以上の支群にはいらないが、特殊な立地を示す古墳に豊町の蛭子森古墳がある。,これらの内須恵器には、少なくとも三型式にわたるものがあり、古墳が二、三世代にわたって使われたことが推定,【年代】そして石室の構造、全体の規模、副葬品などから総合して、蛭子森古墳の築造年代は六世紀中葉と考えられる,第34図 豊町蛭子森古墳の主な副葬品(浜松市立郷土博物館蔵) / [蛭子(えびす)森古墳]
浜松市史 一 ([前期古墳時代のあらまし])

[前期古墳時代のあらまし] 古墳文化の発展過程は、古墳の変遷過程の中に端的に示されているといわれる。,一般に古墳の変遷過程は、応神・仁徳・履中・反正・允恭各天皇陵などに代表されるような段階を中に挾んで、前期 / [前期古墳時代のあらまし]
浜松市史 一 ([遠江地方の前期古墳])

[遠江地方の前期古墳] 国家統一事業は、まず西日本で進められ前期後半になってから、東日本各地もその動,遠江地方で前期古墳と呼べるものの数は、せいぜい三基知られているにすぎない。 / [遠江地方の前期古墳]
浜松市史 一 (古代編)

 時代のあらまし             一八五        古墳と古墳文化  国家統一と古墳の発生,  遠江地方の前期古墳  浜松地方の前期古墳文化   第三節 浜松地方の中期古墳文化         ,一九六        中期古墳時代のあらまし  千人塚古墳  その他の中期古墳  浜松地方の中期古墳文化,  都田古墳支群  敷智古墳支群  蛭子森古墳  遠淡海古墳群   第五節 後期古墳時代の遺跡           ,二二五        古墳支群と郡  古墳の終末 第三章 大化改新の前後   第一節 大化前代の
浜松市史 一 (薄葬令の効果 仏教の伝来)

七世紀中葉の古墳もすでに数は急激に減じている。,、古墳築造の意味は一層薄れてきたという考えも出されている。  ,いずれが直接的な契機として意味をもっていたにしても、古墳自体が歴史的な産物である限り、古墳を生み出した,古墳によって特色づけられた時代、古墳時代はこうして七世紀をもって幕を閉じるのである。,(表)年表4 古墳時代
浜松市史 一 (立地の特殊性)

この古墳から磐田原台地への最短距離は三キロで、そこには磐田市寺谷の銚子塚古墳(中期初頭の前方後円墳)が,逆に三方原台地への最短距離は五キロで、ここには浜北市内野の赤門上古墳(前期の前方後円墳)がある。,距離の遠近のみを根拠とするわけではないが、蛭子森古墳は、磐田原台地西縁に連なる古墳群(岩田古墳支群)の,中に含めるべきだと考える(向坂鋼二・鈴木謹一『蛭子森古墳』)。
浜松市史 一 (群の構成)

群の構成 三方原古墳支群は、南北約七キロのあいだに帯状に分布するが、とくに千人塚古墳の付近に密集する,古墳は三~四基とか、十数基とかが小さな群をなしている。これを単位群と呼ぶ。,単位群はさらにいくつか集合して小支群を形成することがあるが、こうした単位群や小支群の集合体として、三方原古墳支群,単位群や小支群の中には、立地する場所も規模も優位な古墳が含まれている。これを主墳と呼ぶ。,(表)第10表 三方原古墳支群の規模 規模 円墳 前方後円墳 49(m) 1 45 1 29~
浜松市史 一 (年代的変遷)

年代的変遷 以上の二基は、入野古墳につぐ時期に入るもので、古いグループに属する。,これに対して、東名高速道路建設のため、事前調査した根本山南麓の小形古墳は、根本山から運んだと推定される,発見された副葬品は、須恵器・土師器・鉄鏃・刀子・金環・勾玉などで、後期古墳通有のものであった。,横穴式石室は、堀江の舘山寺裏山にある弘法穴古墳・村櫛の御山塚古墳・宇布見の白山神社境内古墳などにもある,御山塚古墳では、五鈴鏡・直刀・耳環・須恵器などが出土しており、やや古い時期を示しているが、残余の小規模古墳
浜松市史 一 (群集墳の成立)

群集墳の成立 第二にすこし観点を変えて、古墳の群集化という問題を取り上げてみよう。,古墳時代後期のいちじるしい特色として、古墳規模の縮小化と数の急増化、横穴式石室の採用と馬具・金環・須恵器,これは浜松市の後期古墳についてもいえることであった。,については、第10表と第12表と第13表を集計してみればわかることであるが、基底径一五メートル以下の古墳,そこで後期古墳のあり方として、群集墳の成立というとらえ方が必要なのである。  
浜北市史 通史 上巻 (浜北市史 通史 上巻 目次)

と古墳文化 241 第一節 古墳と豪族 243 1 古墳と古墳時代 243 古墳と墳墓 243,の古墳 267 浜名湖、都田川流域の古墳 268 天龍川流域の古墳(西) 271 天龍川流域の古墳,(東) 280 第二節 浜北市の古墳 289 1 赤門上古墳と内野古墳群 289 市内の考古学的調査,内野古墳群の成立過程 332 3 渡来人と積石塚古墳 333 積石塚古墳とその分布 334,と浜北市北麓古墳群 348 北麓古墳群 349 宮口興覚寺後古墳 355 高根山古墳 362
浜松市史 一 (古代編)

古代編 浜松市内出土古墳時代前・中期の土器類(浜松市立郷土博物館・松下福治郎氏・田辺寛司氏・藤田勝治氏蔵,) 一九五 千人塚古墳墳丘実測図                一九八 有玉西町千人塚古墳と造出部,の出土品(浜松市立郷土博物館蔵) 二〇〇 有玉西町瓢簞塚古墳と出土の鏡板(国学院大学蔵)   二〇二,二〇八 都田古墳支群と敷智古墳支群の分布図         二一二 都田町恩塚山B群7号墳 石室実測図,の主な副葬品(浜松市立郷土博物館蔵)  二一六 西遠地区の古墳群図                 
浜松市史 一 (統一への過程 大和朝廷)

そしてちょうどそのころ、畿内以西の地域に古墳が出現するのである。,古墳発生の具体的な過程については、まだ充分な解明がされてはいないのであるが、古墳はその後大和朝廷の勢力,このことは、古墳の発生が大和朝廷による国家統一の過程を反映していると解される。,また畿内地方以東での古墳の発生とその発展過程は、たえず畿内勢力との関連性のもとに理解しなくてはならない,以上の点を念頭において浜松地方の古墳文化を展望することとする。
浜松市史 一 (半田山C群)

一、二号墳は中期的な古墳であるが、他は後期に通有のものと思われる(向坂鋼二他「浜松市地蔵平B古墳単位群発掘調査概報,④中沢町常楽寺裏山曳馬野第二号墳(第11表㉚)土取り作業中白尾善義氏より通報を受け、半壊の古墳を調査した,そこで千人塚古墳を頂点として、群の構成や規模などを考慮しながら、これに年代のわかっている古墳を組み入れてゆくことによって,、三方原古墳支群の年代的変遷を推定する他はないのである。,(表)第11表 三方原古墳支群の変遷推定表
浜松市史 一 (古式土師器)

古式土師器 弥生時代の土器製作法を伝統的に受け継いだ古墳時代の土器類に対して、土師器という呼称を用いている,また前期古墳時代の土器に対しては、とくに古式土師器という呼び方をして区別することがあるが、その意味では,第25図 浜松市内出土古墳時代前・中期の土器類
浜松市史 一 (千人塚伝説)

千人塚伝説 この古墳には、その名が示すとおり千人もの人の霊がこもっているという伝説がある。,しかし、すでに述べてきたように千人塚は立派な五世紀代の古墳であって、三方原合戦の戦没者を葬った跡などまったく,武田・徳川両勢の戦いが行なわれていた時には、千人塚古墳はすでに千百年余の年月を経ていたのである。,第27図 有玉西町千人塚古墳と造出部の出土品(浜松市立郷土博物館蔵)
浜松市史 一 (社会の変質)

社会の変質 五世紀後半を境として、古墳が大きく変質したのは、古墳が社会的産物である限り当然社会自体の,古墳時代の前期から中期にかけての支配者たちは、こうした共同体的な関係をそのまま残し、あるいはむしろ積極的,このために、しばらく浜松市およびその周辺の古墳の姿を追求することとしよう。
三ヶ日町史 上巻 (三ヶ日町史 上巻 目次)

六四 一、弥生文化の変遷と西遠地方の弥生遺跡 六四 二、三ヶ日町における弥生文化 六七 第四節 古墳時代,八一 一、古墳文化と引佐郡の古墳 八一 二、三ヶ日町の古墳 八三    第二章 古代 九一
引佐町史 上巻 (引佐町史 上巻 目次)

の古墳 ―北岡大塚古墳― 266 1 立地と墳丘の形態 266 2 北岡大塚古墳の特質と年代 268,― 291 1 谷津古墳の墳丘 291 2 西遠江における大型円墳 291 3 井伊谷古墳群と谷津古墳,295 (五)井伊谷古墳群とその性格 296 1 西遠江と井伊谷古墳群 296 2 北岡大塚古墳出現,の歴史的意義 297 3 井伊谷古墳群と大和王権 299 4 古代遠江における井伊谷古墳群の位置,出現 303 3 変革の時代へ 306 (七)後期古墳の展開 308 1 都田川流域の後期古墳
しいの森はぎの原:わが町文化誌 (浜松市立北部公民館『しいの森はぎの原:わが町文化誌』 目次)

夏目隆文 万葉集遠江歌新考 檜隈 渡来人 市歌】  15 姫街道追分三辻 【二つの道 宇藤坂 千人塚古墳, 元城小学校】   46 第二章 むかしあったこと―わが町見聞録― 【思い出】 49 古墳散歩,【高林町 白山神社古墳】  51 【旧陸軍墓地 住吉墓苑南古墳 四ツ池古墳群】  52 【聾学校内古墳, 一本杉古墳群 萩町古墳群 三方原古墳群 古墳分布図】  53 八右衛門通り 【吉野往還 徳川家康
春野町史 通史編 上巻 (春野町史 通史編 上巻 目次)

一 縄文時代から弥生時代へ 103 二 春野町域の弥生文化とその特質 109    第四章 古墳時代,の春野 115 第一節 古墳時代の概観 115 一 古墳の出現とその意義 115 二 前期・中期,・後期古墳 117 第二節 春野町域の古墳文化 123 一 遺跡の分布と生業 123 二 サルマ,古墳と仇山古墳群 126    第五章 律令制下の春野町域 137 第一節 律令制の導入 137
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