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浜松市史 三
(小村の合併)
小村の
合併
明治九年八月、浜松県が静岡県に
合併
されると、旧浜松県庁内に出張事務取扱(八月二十七日布達,・西・細田・上田村
合併
)・人見村(大人見・古人見村
合併
)・和合村(馬生・馬船・寸田ケ谷・富新屋・不遣村
合併
,)・両追分村(西追分・東追分村
合併
)・都盛村(頭陀寺・参野・恩地・石原・本郷・西恩地・安松・弥十村
合併
,
合併
)・蜆塚村(入野村へ
合併
)・谷上村(佐浜村へ
合併
)・片草村(西鴨江村へ
合併
)・小籔村(富塚村へ
合併
,浜松支庁設置の布達 村の
合併
(明治9年7月~8月) 郡名
合併
前の宿村名
合併
後の宿村名 名称 / 小村の
合併
浜松市史 三
(小村の合併)
小村の
合併
【富塚村の内沢村 名残村 寺島村】また村の
合併
もこのころ行なわれ、「富塚村ノ内沢村ト唱候分明治九年二月同大区壱小区江引渡,第一大区一小区)に編入され(『明治九年六月壱村限戸数人口取調書 第一大区十九小区』)、つづいて名残村・寺島村等も
合併
,によって浜松宿と呼ぶようになった(その他の
合併
については第三項に記す)。 / 小村の
合併
浜松市史 四
([町村合併])
【町村
合併
浜名湖港 明神野・東明神野の
合併
】 浜松県構想は消えたが市は将来の発展,浜松では戦前の横光市長時代に可美村との
合併
がご破算となり、藤岡前市長も
合併
には慎重な姿勢を崩さず、在任中,は一カ町村との
合併
も出来なかった。,これを受けて入野村は昭和二十四年三月に蜆塚の浜松への
合併
を承認し、浜松市に
合併
を陳情した。,このうち可美村と入野村は村の財政が豊かで
合併
には反対、芳川村は村長と議会が対立して村政が停滞、
合併
どころではなかった / [町村
合併
]
浜松市史 五
([湖東村の合併])
様々な開発計画が出るなかで、両村は
合併
による自治体の強化と財政の確立を図ろうと
合併
に乗り出し、昭和三十一年九月,に至って
合併
促進協議会を開き、同年九月三十日に両村は
合併
し、浜名郡湖東村となった。,市はこれを受けて湖東村との
合併
に乗り出したが、同年四月の段階では湖東・庄内の二村を対象に
合併
準備を急ぐことになった,しかし、庄内村は
合併
に向けた村内の世論調整に手間取るとの観測から五月に至って湖東一村に絞り、
合併
に向けた,
合併
に向けた協議がまとまり、同年六月二十日に浜松市議会と湖東村議会で十月一日に
合併
することが決議された / [湖東村の
合併
]
浜松市史 五
([篠原村の合併])
[篠原村の
合併
] 【篠原村】 湖東村との
合併
がほぼ決まった後の同年七月、浜松市は次の
合併
町村として,このうち、篠原村は
合併
気運が低調であったが、部落懇談会の開催や村民が入野や湖東村を回って、浜松市との
合併
,に対して取られた両地区の経過を打診するなど
合併
に向けて様々な活動がなされていった。,八月には町村
合併
を促進してきた県の施策を受けて、浜松市と篠原村、雄踏町、舞阪町、新居町、庄内村との
合併
,村民の世論が浜松市への
合併
に落ち着き始めると、同村は
合併
に当たって要望条件を提示するに至った。 / [篠原村の
合併
]
浜松市史 五
([可美村の合併])
[可美村の
合併
] 【可美村】 新市町村建設促進法の
合併
条項が昭和三十六年六月二十九日で失効となるため,これにより平成元年五月三十日に可美村村議会に
合併
問題調査研究特別委員会が設置され、
合併
に向けて本格的な,
合併
を考える」を連載、
合併
の是非を村民に周知することに努めた。,平成二年七月に可美村は九回にわたって
合併
問題住民懇談会を開催、
合併
への理解と協力を求めた。,これ以前の
合併
においては
合併
町村の広報紙が無かったり、ページ数が少なく、わずかに新聞報道で
合併
の経緯を / [可美村の
合併
]
浜松市史 五
([平成の大合併])
[平成の大
合併
] 【平成の大
合併
】 平成七年四月一日に改正
合併
特例法が施行され、自主的な市町村
合併
,の推進や住民が
合併
協議会設置の直接請求をすることが出来ることなどが決まり、全国各地で平成の大
合併
が始まることになった,湖西市の離脱により
合併
協議会の名称は天竜川・浜名湖地域
合併
協議会となった。,
合併
協議会は平成十五年十月六日に第一回が開催され、新市建設計画の策定、
合併
の方式、新市の名称、
合併
の期日,平成十六年二月十日に開かれた第五回
合併
協議会では
合併
の方式を浜松市への編入
合併
とすることが決まった。 / [平成の大
合併
]
浜松市史 四
([町村合併の推進])
[町村
合併
の推進] 【町村
合併
促進法 静岡県町村
合併
促進大綱】 行政合理化のため弱小町村を
合併
させようとする,静岡県はこの法律の成立を予想し、同年七月から各地で
合併
研究会を開催、
合併
への関心を高めていった。,昭和二十九年六月に行った
合併
世論調査では、浜松市への
合併
を希望する者が全体の五十二%、引佐町との
合併
を,
合併
が先行し、昭和三十年二月下旬に三村が
合併
を決議、村名を庄内村とすることを決めた。,ただ、東部の五部落は分村して浜松市への
合併
に動き再三市へ
合併
を申し入れた。 / [町村
合併
の推進]
浜松市史 五
([庄内村の合併])
[庄内村の
合併
] 【庄内村】 昭和三十五年十月に湖東村が浜松市に
合併
したが、当初庄内村も同調するものと,への通学は遠距離になるとして反対運動を起こし、平松地区の住民は昭和三十六年四月に、分村して浜松市への
合併
,そして、昭和四十年三月には
合併
交渉が妥結、同月九日に浜松市と庄内村の両議会でともに
合併
を議決、七月一日,の
合併
が決まった。,この庄内村の
合併
により浜松市の人口は三十九万五千三百人余となった。 / [庄内村の
合併
]
浜松市史 五
([農協合併の推進])
[農協
合併
の推進] 従来、農業協同組合は単協(単位農協)・県連・全国連の連携の下に事業活動を推進してきたが,【農協
合併
】 浜松市における農協
合併
は、昭和四十年六月、新津・浜松市神久呂・同入野・篠原・可美村・,組合員は四千百三十二名の規模で、浜松西農協に次ぐ大型
合併
であった。,農協広域
合併
構想を打ち出した。,この構想(二十二農協広域
合併
構想)によると、浜松は、現在ある十農協を
合併
させ三農協に集約するというものであった / [農協
合併
の推進]
浜松市史 四
([遠州鉄道への合併])
[遠州鉄道への
合併
] 【浜松鉄道解散 遠州鉄道奥山線】 戦災や設備の老朽化なども重なって、経営困難状態,こうしたなか、名古屋鉄道局からの
合併
の勧奨もあり、翌年十一月七日に遠州鉄道と浜松鉄道は
合併
契約書に調印,なお、
合併
に対する処遇に満足しなかった浜松鉄道の従業員が労働組合を結成してこれに対抗したため、予定されていた,
合併
日程に多少遅れが出た。,しかし、昭和二十二年三月二十四日に両社の
合併
が認可され、五月一日に
合併
が実現した。 / [遠州鉄道への
合併
]
浜松市史 三
(タクシー会社合併)
タクシー会社
合併
それに当時のタクシー業者の殆どは小資本の個人経営であったが、昭和十一年十一月には一部,の業者の
合併
による法人としての浜松タクシー株式会社(本社伝馬町、社長青葉延太郎)が誕生、さらに十六年三月 / タクシー会社
合併
浜松市史 三
([町村合併の進行])
[町村
合併
の進行] 浜松の発展にともない市街地が急激に膨張拡大してくると、隣接町村との行政的な境界線,は意味をもたなくなり、町村
合併
の声があがるようになった。,市は大正九年市域拡張調査委員会を設置し、これに備うるところがあったが具体的には町村
合併
が実施をみたのは / [町村
合併
の進行]
浜松市史 五
([入野村と積志村の合併])
果たした岩崎市長は周辺町村との
合併
を進める方針を打ち出し、市議会も昭和三十一年五月に市町村
合併
特別委員会,を設置し、入野・積志・可美三村と
合併
に向けた話し合いを持った。,に議会で
合併
を決議し、同年三月三十一日をもって入野村の
合併
が実施された。,同年六月に開かれた市議会定例会で
合併
を満場一致で可決、こうして昭和三十二年十月一日に積志村は浜松市に
合併
,平山市長就任後の昭和三十五年一月八日には市議会に
合併
研究特別委員会が設置され、大同
合併
に乗り出した。 / [入野村と積志村の
合併
]
浜松市史 四
(五島・新津・河輪三村の浜松市合併)
十月に入ると浜松市と五島村は
合併
協議に入り、五島村は十カ条に上る
合併
条件を出した。,昭和二十六年一月になると、新津村が
合併
に意欲を出し、河輪村は隣接の芳川村と同時
合併
を期待していたが、芳川村,こうして五島・新津・河輪三村の
合併
は昭和二十六年三月二十三日に行われ、同日浜松市公会堂で
合併
祝賀式が挙行,
合併
による新町名の決定で多少の問題はあったが、
合併
の話し合いは急速に進み、昭和二十六年二月二十七日に
合併
,このほか、当初は笠井町に
合併
しようとしていた浜名郡竜池村は同郡北浜村との
合併
に傾き、中ノ町村と和田村、 / 五島・新津・河輪三村の浜松市
合併
浜松市史 五
([漁協の合併と構造改善])
[漁協の
合併
と構造改善] 【浜名漁業協同組合】 この時期の漁業は、浜名湖における湖面漁業・採貝漁業,そこで県水産課は一挙に十七漁協を
合併
させ、組合員二千人、年間水揚高三億円余のマンモス漁協をつくるよう指導,これにより地元では
合併
促進委員会を結成し一本化へ動き出した。,の財産の処分や区画漁業権の大小の調整などの問題で難航したものの、昭和四十年に十七の漁業協同組合が大同
合併
/ [漁協の
合併
と構造改善]
浜松市史 三
(廃寺と合併 上知令)
廃寺と
合併
上知令 このような離檀運動に、さらに拍車を駆けたのが四年と八年(地租改正の一環として遂行,そして明治六年前後には無檀無住の寺院の
合併
が続出した。このとき寺院数は約三分の一を減じたという。 / 廃寺と
合併
上知令
浜松市史 三
(小野組支店)
明治26.1 資産銀行と改称 明治26.1 資産 浜名郡浜松町 大正9.6 西遠銀行(第一次)と
合併
,遠州銀行を設立 明治11.1 浜松第二十八国立 敷知郡浜松駅 明治22.1 静岡第三十五国立銀行へ
合併
,明治11.1 隆栄会社 浜名郡和地村 明治31.6 気賀銀行へ
合併
明治12.3 二俣第百三十八,明治31.3 西遠銀行(第一次)へ
合併
明治15.2 金指 引佐郡金指村 大正15.2 遠州銀行に,15.9 遠州銀行へ
合併
昭和3.7 市野・浜名・朝日・新津・天富の五行
合併
西遠(第二次) 浜松市
続三ヶ日町史
(続 三ヶ日町史 目次)
第一章 第二章 第三章 第四章 目次 ページ 画像 第一章 昭和五四年から平成
合併
,395 第一節 天竜川・浜名湖地域
合併
へ 395 一、三ヶ日町
合併
の歴史 395 二、三遠南信地域交流,402 第二節 天竜川・浜名湖地域
合併
協議会設置 409 一、
合併
協議会の構成と規定 409,二、
合併
協議会の記録 411 三、広域行政推進室の設置 433 四、町議会
合併
問題特別委員会設置,435 五、町民の意思表示 440 第三節
合併
調印・閉町 444 一、
合併
協議会参加から
合併
協定調印議決
浜松市史 五
([とぴあ浜松農業協同組合の誕生])
を目指し、
合併
作業を進めていった。,この十五農協の
合併
構想について、各農協単位で組合員の話し合いが持たれた。,平成五年八月、三ヶ日町農協は
合併
への参加を見送ることを正式に決定した。,同年三月には十四農協の
合併
予備契約調印式が行われ、八月にはそれぞれの農協において、臨時総会が開かれ
合併
,図4-29 14農協の
合併
によるJAとぴあ浜松と三ヶ日町農協
浜松市史 三
(養鶏)
264 134 119 224 計 1556 1244 1233 1733 備考 天神町村
合併
,曳馬町
合併
富塚村
合併
白脇村
合併
蒲村
合併
(大正15年発行『浜松市史』・昭和15年版『
浜松市史 三
(蒲村)
蒲村 蒲村は町村制施行により神立・将監・西塚・丸塚・上新屋・上西(明治二十年七月上之郷村・西在所村が
合併
,して成立)・植松・大蒲・下・宮竹の十か村を大字として
合併
し成立。,(表)町村
合併
表 順位
合併
年月日 町村名 大字名 1 大正元.10.1 富塚村のうち 両追分 和地山
浜松市史 三
(浜松県政)
8.6.9 32 23 26 81 〃8.7.15 31 23 26 80 第一大区7小区は他区へ
合併
,小区とし,以下順次繰上げ改称 ② 8年6月の第二大区減の内訳 第二大区9小区は第三大区8小区へ
合併
,第一大区減の内訳 1.第一大区7小区のうち新橋村 堤村 倉松村 小沢渡村の4か村は同大区8小区へ
合併
, 2.第一大区7小区のうち浅田村 東明神野村 明神野村 法枝村 米津村の5か村は同大区1小区へ
合併
,げ改称 ④ 9年浜松県は静岡県へ
合併
,第三大区は第十大区,第二大区は第十一大区,第一大区は第十二大区
浜松市史 三
(金融機関 一県一行主義 静岡銀行の誕生)
金融機関 一県一行主義 静岡銀行の誕生 銀行も銀行法に基づき整理
合併
が励行された。,西遠銀行は大正九年に遠州銀行へ
合併
されたが、その遠州銀行は静岡三十五銀行(静岡市)と昭和十八年三月に政府,の一県一行主義の勧奨により
合併
、新しく静岡銀行(静岡市)の出発となった。,続いて浜松銀行は同年六月に、浜松貯蓄銀行も同年十二月に、いずれも静岡銀行へ
合併
となった。
浜松市史 三
(富塚村)
富塚村 富塚村は明治二十二年四月一日町村制施行によって富塚(富塚村・小薮村の二か村が
合併
して成立)・,和合(馬生村・馬船村・寸田ヶ谷村・富新屋村・不遣村の五か村が
合併
して成立)・和地山(村名を公称としたのは,明治以後)・両追分(西追分村・東追分村の二か村が
合併
して成立)・浜松沢(沢村と称した)の五か村を大字として
浜松市史 三
(浜松県廃止)
これは額田県が愛知県に
合併
されたためにおきた噂で、県は「無根之流説」で「当県ニ於テ決而右様廃合之御沙汰可有之儀,全国的に県の分合が行なわれた明治九年(一八七六)の八月二十一日に浜松県は廃止となり、遠江国は静岡県に
合併
浜松市史 四
([浜松市警察署の改革])
浜松市中央警察署 浜松市東警察署】 浜松市は昭和二十六年(一九五一)に新津村・五島村・河輪村を
合併
,、同二十九年三月には笠井町、長上村・和田村・中ノ町村を
合併
した。,
合併
町村のうち笠井町・和田村・中ノ町村は以前は自治体警察署を持ち、そのほかは国家地方警察の東浜名地区警察署,三月末日に
合併
する笠井町、長上村・中ノ町村・和田村は浜松市東警察署の管轄に入ることになった。
浜松市史 三
(浜松銀行)
浜松銀行 ③浜松銀行(旧芳川銀行が大正八年改称)は積極的な経営をもって、しきりに他の銀行を
合併
し、遠州銀行,浜松銀行 【豊国銀行支店】④豊国銀行浜松支店は、明治四十一年に浜松信用銀行を買収
合併
して支店としたもので
浜松市史 三
([農業地域の都市化])
浜松市域変遷図(大正・昭和前期) (区域内の数字は
合併
順位) ,
合併
の歩み 1 大正元.10 富塚村一部
浜松市史 四
([笠井聖観世音奉賛会])
笠井聖観世音奉賛会] 【笠井聖観世音】 近世以来の地域住民の信仰を集め尊崇されてきた笠井聖観世音は、浜松市と
合併
,
合併
後の笠井地域の住民が抱く閉塞感や退勢を挽回させるべく、その中核に据えたのが笠井聖観世音であった。
浜松市史 三
(資産銀行 遠州銀行)
【大正九年】三十一年二月笠井銀行を、さらに和田銀行を
合併
、業務の拡張にともなって浜松鍛冶町二四一番地に,西遠銀行と並ぶ銀行となったが、浜松発展のためにも二行の対立は無用との議がおこり、大正九年六月には遠州銀行と
合併
浜松市史 四
([図書館と移動文化館])
【巡回文庫】 浜松市は昭和二十六年三月に五島村・河輪村・新津村の三カ村を
合併
した。, 【自動車図書館 移動文化館】 昭和二十八年九月に町村
合併
促進法が公布されると、全国,で大規模な町村
合併
が行われた。,浜松市では昭和二十九年から同三十二年三月までに周辺の十一カ町村を
合併
し、市域はこれまでの二・六倍にもなった
浜松市史 ニ
(天神社)
明治十五年(一八八二)に七軒町と上新町が
合併
したとき菅原町と名づけたのは、祭神菅原道真にちなんだためという
浜松市史 三
(農業労働力)
農業労働力 浜松市のこの時期における農家戸数は隣接町村
合併
による暫時の増加はみられたが、実質的には年々減少,1786 1826 1962 1886 1818 1884 5060 4922 4847 7102 備考
合併
町村
浜松市史 三
(神社の統合)
にその地域内の山野や路傍に数多く散在している神祠仏堂(例えば塞神の祠とか地蔵堂など)は、最寄の社寺へ
合併
移転,させられ、このとき
合併
移転をまぬがれた屋敷神の中で、のちにその町の氏神となったものに池川家の屋敷神であった
浜松市史 五
([政令指定都市])
そして同十二日には第一回の行政区画等審議会が開かれ、平成十六年十月の
合併
協議会で内定していた七つの行政区,政令指定都市移行のために必要となる政令の改正に向け総務省との協議や要望活動は
合併
前から行われてきた。,これら平成の大
合併
や政令指定都市になるまでの詳しい情報は『広報はままつ』にその都度掲載された。,西区 F区=北区 G区=天竜区 県庁所在地でもなく、大都市の衛星都市でもなく、大都市同士の
合併
浜松市史 一
(東は天竜川西は浜名湖)
東は天竜川西は浜名湖 このように浜松は周辺の村々を
合併
してその面積を拡張させているが、このひろがる面積
浜松市史 三
(遠江銀行)
遠州銀行の両銀行は浜松の二大銀行として互いにしのぎを削って競争をしたが、大正十五年三月遠州銀行へ買収
合併
浜松市史 三
(その他の路線)
より営業開始していた笠井・浜松市街・坂下・万歳の各自動車商会と遠州自動車株式会社の五社が不況克服のため
合併
成立,浜松電気鉄道株式会社の中ノ町線(前述)を昭和十二年四月
合併
して得た路線であった。
浜松市史 三
(都市近郊農業)
4,450 67,130 〃10 10,385 91,033 9,304 50,396 天神町村
合併
,183,605 (21%) 30,597 (4%) 194,338 (22%) 富塚村,曳馬町
合併
,491,724 (21%) 179,141 (8%) 378,479 (16%) 白脇村,蒲村
合併
浜松市史 一
(小野口礫層)
現在浜北市に
合併
)と名づけられているものであって、礫の組成は、三方原礫層や現天竜川河床礫と似ているが、
浜松市史 四
([市街化と農業])
] 戦後復興を成し遂げた産業都市浜松は、その後も着実に産業を発達させ、さらに昭和二十年代後半の町村
合併
,浜松市の就業人口の推移を表3-21で見ると、戦前は第一次産業の比率が少なかったものの、戦後周辺の町村を
合併
,254町 187町 11年 1,445戸 1,230町 479町 751町 11年2月曳馬・富塚
合併
, 17年 2,015戸 1,769町 888町 881町 14年7月白脇・蒲
合併
22年 3,050,924町 26年 5,320戸 2,757町 1,422町 1,335町 26年3月五島・河輪
合併
出典
浜松市史 三
(小学校の増加)
小学校増加図 ●明治 □大正(天神町村
合併
), ○昭和(曳馬町、富塚・蒲・白脇村
合併
) 【高等科】高等科は大正十一年に
浜松市史 三
(浜松銀行)
大正三年七月西遠銀行に
合併
された。
浜松市史 三
(銀行類似会社の衰退)
金融機関の整わない明治初期の過渡期的な存在で、やがて時勢に押されて普通銀行に姿を変えたり、また他の銀行に
合併
浜松市史 三
(耕地面積)
昭和前期の耕地面積は浜松市の耕地面積及び農業者数の推移概況を示す上表の①のように、隣接町村(前掲略地図)の
合併
分
浜松市史 四
(浜松北保健所)
浜松北保健所 町村
合併
は必然的に保健所管轄の地域と業務を広げた。
浜松市史 三
(罹災学校)
元城校 6.18空襲で全焼,7.1分散授業開始(追分校・広沢校焼跡残存建物使用),11.1広沢校に
合併
,し廃校となる ×● 西校 6.18全焼,7.1鴨江観音境内にて野外授業,9.20鴨江校と
合併
,2.15空襲で全焼,分散授業開始(鹿島神社・高砂校・龍禅寺校・県居校・西校・元城校借用)9.30高砂校に
合併
,となる ×● 東校 6.18全焼,6.25授業開始するも登校児童は23名のみ,9.30八幡校に
合併
浜松市史 三
(氷砂糖)
なお、明治時代に創立された氷糖商会と中村氷糖合資会社は大正七年
合併
して大日本氷糖株式会社となったが、十三年六月
浜松市史 四
([全線復旧と新車の導入])
後述する浜松鉄道との
合併
直後の翌年六月一日には旭町─遠州浜松間が復旧した。
/ 5ページ