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浜松市立中央図書館/浜松市文化遺産デジタルアーカイブ

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浜松市史 ニ (名残口)

名残口 名残口(なぐり)(名栗口)は作左曲輪の付近にある。,組屋敷から成る名残から名残町(現在鹿谷町)を経て三方原(みかたがはら)方面への通路で、二重の木戸があり / 名残口
浜松市史 ニ (名残地域)

名残地域 ③名残地域(なぐりちいき) 二百三十六軒。家中屋敷総軒数の四三%を占めている。,城郭の西北部にあたる名残地域(現在の鹿谷町交番付近から松林寺付近までの地域)は三方原方面に対する自づと,名残口の木戸番の屋敷のあったのもここであった。 / 名残地域
浜松市史 ニ (名残追分新田)

名残追分新田 【台地新田】名残追分新田 三方原台地上の新田で、犀が崖に近く今日両追分と呼んでいるところに,されているだけであるが、『変化抄』に「当村(入野村)新田蜆塚村は蜆からの大なる塚有之故の名に候処、天保十年水野様楮掛役人名残新田江楮植付候 / 名残追分新田
浜松市史 三 (市会選挙 第一回 師範学校敷地問題)

すると名残より反対運動がおきた。名残こそ敷地にふさわしいというのである。,市内の町々でも東鴨江側へ田・池・早馬(はやうま)・常盤(ときわ)等が賛成し、はしなくも東鴨江と名残の誘致争,にもなりかねないと事態を憂慮した市当局がその解決を市会の最大勢力であった政友会に依頼するに及び、こんどは名残,を支持する政友会と、東鴨江を主張する非政友会派との争いとなり、ようやく翌二年十一月に多数決によって名残
浜松市史 四 ([住宅建設])

昭和23年度 第1種 木造平家建瓦葺2戸建 200戸 10坪 2間 105,648円 和地山町90戸名残町,110戸 昭和24年度 第1種 木造平家建瓦葺1戸建 75戸 10坪 2間 165,492円 名残町45,寺脇町4戸 昭和25年度 第1種 木造平家建瓦葺1戸建 70戸 10.5坪 3間 204,471円 名残町,10戸 〃 第1種 鉄筋コンクリート造24戸建 48戸 12坪 3間 444,920円 松城町24戸名残町,24戸 〃 第1種 鉄筋コンクリート造4戸建 16戸 12坪 3間 424,071円 名残町16戸 昭和
浜松市史 四 ([公営住宅])

和地山町(108),助信町(10), 鴨江町(8)、龍禅寺町(4) 126 0 130 23 名残町,和地山町(90) 寺脇町[転用住宅](4),利町 [付属住宅](1) 205 0 205 24 名残町,45),東伊場町(15), 浅田町(15) 75 松城町(24) 24 99 25 上池川町(8),名残町,(60), 下池川町(10) 78 名残町(32),松城町(24) 56 134 26 0 亀山町,(48) 48 48 計 和地山町(272),名残町(215), 鴨江町(62),東伊場町(15),
浜松市史 三 (小村の合併)

小村の合併 【富塚村の内沢村 名残村 寺島村】また村の合併もこのころ行なわれ、「富塚村ノ内沢村ト唱候分明治九年二月同大区壱小区江引渡,浜松宿(第一大区一小区)に編入され(『明治九年六月壱村限戸数人口取調書 第一大区十九小区』)、つづいて名残村
浜松市史 ニ (町名の変化)

尾張町 榎町】町数は全部で二十四か町であることは変わりはないが、尾張町・榎町が姿を消し新しく上新町・名残町,上新町は宿の西はずれの東海道に、名残町は浜松より気賀に通ずる街道筋に添って発達した町である。
浜松市史 ニ (真宗)

松林寺(名残)もと天台宗という。松林寺と称したのは元亀三年という。,善正寺(紺屋町)名残町から移って善正寺と称したのは元亀二年という。
浜松市史 三 (金城学校)

金城学校 また小学校高等科修了者のために浜松名残には竹下荘一郎の金城学校(もとは大字松城にあった)があった,15 ― 15 私立浜松栩木産婆学校 元城町 1 2 2 14 ― 14 私立浜松博愛看護婦学校 名残町
浜松市史 三 (石川倉次)

浜松名残組屋敷(亀山町七五、士族伊藤脩一の居となる)に生まれ、藩主の国替で明治元年十歳のとき上総(鶴舞,名残の家は街道の西側にあって、近くの白和屋という居酒屋へ祖母に連れられ湯豆腐を食べにいったり、佐鳴湖(
浜松市史 三 (木綿商人密集地域)

【名残町 七軒町 板屋町 新町】そのうち①宿の北部の名残町に多いのは庄内地方の綿作地帯に、②七軒町・成子坂町方面
浜松市史 ニ (しいと祭)

これをしいと祭といっているが、田遊行事の名残りであろう。
浜松市史 ニ (新田の種類)

新田の種類 寛政期(『遠江国風土記伝』による)における浜松周辺の新田をあげると、十軒新田・名残追分新田,【台地新田 湖沿新田】第三に三方原上の台地新田として名残追分新田があり第四に浜名湖岸に佐浜新田などがある
浜松市史 三 (第四回 市議員選)

・伊場・東鴨江・菅原) 第四区 定員三名(元城・上池川・下池川・浜松沢・松城・三組・和地山・両追分・名残,・元名残・高) 第五区 定員二名(旧天神町村全部) 第六区 定員三名(船越一色・新・板屋・八幡地・馬込
浜松市史 五 ([住居表示の実施])

次いで西伊場町と南伊場町が同四十一年二月一日に、四番目は同年五月一日に上池川・追分・名残(一部)の三町,上池川町は城北一・二丁目、布橋一丁目、和地山一丁目に、追分町は布橋一・二丁目、城北二・三丁目に、名残町,この住居表示により古くから親しまれた追分・上池川・名残(一部)の町名が消えた。,同四十三年に誕生した鹿谷町はこれまでの亀山町と名残町などを合わせてつくったため、これまた亀山・名残という
浜松市史 三 (屠殺場)

屠殺場 【四十二年】町営の屠殺場は元名残にあったが(明治二十七年屠殺数牛一七、馬九、豚七頭)、明治四十二年龍禅寺町
浜松市史 三 (学校増加と教員不足)

学校増加と教員不足 学校の増加とともに教員の不足が叫ばれ、浜松市大字名残(現在の布橋三丁目)に県立浜松師範学校,浜松市内の師範学枚 校名 所在地 卒業年限 職員数 学級数 生徒数 総数 男 女 県立浜松師範学校 名残町
浜松市史 ニ (武家屋敷の人口)

浜松御城下略絵図 名残組屋敷(部分) 後道侍屋敷 (表)井上藩家中勤役柄(嘉永,早馬 桜井久右衛門 同所 小池曾平 下垂 飯島五左衛門 船蔵 森斧蔵 北高町 浅村太兵衛 道方奉行 名残,元助 後道 林邑太 同所 諸星順蔵 同上手代 文木 宮山専五兵衛 後道 高林善次 東早馬 中村芳蔵 名残
浜松市史 三 (大きな町)

があったが、この時代になると下垂町(しもだれちょう)・元魚(もとうお)町の二町と三方原方面の発展につながる名残町,また侍屋敷町では高町・早馬・御組(おくみ)町(名残)が百戸以上となっている。  ,48 22 紺屋町 21 121 142 21 21 50 47 11 9 4 121 23 名残町
浜松市史 三 (新川出水)

なお高・名残・元城・松城・後道・菅原は風害が甚しかった。
浜松市史 ニ (粟飯祭)

この粟飯をいただくと厄病よけになるといわれている(『名残三社の由来』)。
浜松市史 三 (竹下塾)

最初松城町(半僧坊裏)に、のちに名残町に移った。
浜松市史 三 (横町通)

【名残町】名残町には傘・鍛冶・鋳物・水嚢(四戸)竹籠職などが住んでいた。
浜松市史 四 (引揚者)

26年度引揚者住宅 小沢渡町 24 118 昭和27/3/31 『市勢要覧』昭和27年版 引揚者住宅 名残町,16世帯57人)、 26年度住宅小沢渡町(24世帯118人) 28 5世帯 12人 27年度住宅名残町,(5世帯12人) *この人数は27年度開設の名残町住宅分のみか。,29 57世帯233人 鴨江町(26世帯112人)、小沢渡町(24世帯98人)、名残町(6世帯22人),中善地(1世帯2人) 30 59世帯242人 鴨江町(25世帯107人)、小沢渡町(25世帯105人)、名残町
浜松市史 三 ([新しい生活])

新しい生活] 『浜松漫録』にも見られるように、明治維新直後の浜松の人々の生活・習俗には、江戸時代の名残
浜松市史 三 (浜松三戸長役場)

紺屋町外十一ケ町村戸長役場 浜松紺屋町 浜松連尺町 浜松利町 浜松肴町 浜松神明町 浜松元城町 浜松名残町, 浜松元名残町 浜松高町 浜松三組町 浜松松城町 浜松沢村 以上十二ケ町村 戸長久保田轍  
浜松市史 三 (寺島村 和地山)

464 4 8 5 浜松利町 61 206 2 8 4 浜松紺屋町 145 519 5 2 1 浜松名残町,135 565 6 7 9 浜松常盤町 早馬 121 470 10 3 3 分器 舟蔵 百軒 浜松元名残町
浜松市史 ニ (現存の一里塚)

また、その名残りをとどめて東海道では篠原に、本坂道では小池に、一里山という地名が残っている。
浜松市史 ニ (町役人)

1 池 1 2 鍛冶 1 1 平田 1 2 本魚 1 2 大工 1 2 利 1 2 紺屋 2 2 名残
浜松市史 三 (公衆便所)

名残町宗円堂地域内西北端、下池川町市役所水道課敷地東南端、元城校前、海老塚町南校の敷地外北角、鴨江町鴨江観音境内東側
浜松市史 ニ (町幅)

七軒町・上新町・下垂町、三間未満は肴町・成子坂町・早馬町・鍛冶町・平田町・本魚町・大工町・利町・紺屋町・名残町
浜松市史 三 (連合制の発達 浜松宿二十六か町村連合会 地方自治制の出発 浜松宿議会)

選挙区 議員名 若森又次郎 (元魚町) 清水寅太郎 小西四郎 (神明町) 武田勘平 本田五十司 (名残町,旧城内) 田中太五郎 小野江善八 (田町) 谷野治平 鈴木忠篤 (半頭町) 武田又七 ●伊藤脩忠 (名残士族町
浜松市史 三 (明治の病院)

新)・村尾医院(常盤)・熊谷眼科医院(元城)・復明館(松城)・内田産科婦人科医院(田)・一貫堂医院(名残
浜松市史 三 (大字制度 新町名)

(大字浜松沢の改称)・追分町(おいわけちょう)(大字両追分の改称)・亀山町(かめやまちょう)(大字元名残,各一部 中沢町 なかざわまち 町をつける 中沢 野口の一部 上池川町 かみいけがわまち 〃 上池川 名残,・高林・両追分の各一部 一部を下池川・亀山・名残の各町へ編入 下池川町 しもいけがわまち 〃 下池川,松城 紺屋・元城の各一部 一部を元城・下池川・高・亀山の各町へ編入 亀山町 かめやまちょう 改称 元名残,名残・松城・上池川・下池川の各一部 名残町 なごりまち 町をつける 名残 上池川の一部 一部を上池川
浜松市史 三 (被爆地域)

それが遠州灘からの敵艦隊の艦砲射撃と分ったのは後のことだったが、報告によると最初は軍事施設のある市北部の名残,中島町浅野重工業会社工場より相生町鈴木織機工場方面③東伊場町浜松鉄道工場方面④上池川町・下池川町天林寺方面⑤名残町師範学校方面
浜松市史 三 (小村の合併)

諸制度が改められるにつれ小村の行政が困難になったのでこの年には村の合併も行なわれ、富塚村のうち沢村と名残村,宿村名 合併後の宿村名 名称の変らない宿村 新設された村 敷知郡 浜松宿 富塚村のうち(沢) 浜松宿 名残村
浜松市史 三 (再建運動 自力で設立 組合立静岡県尋常中学校浜松分校 静岡県立浜松中学校)

【名残移築】日清戦争後の中等教育充実方針により翌二十八年十一月独立して組合立の浜松尋常中学校となったが,、二十九年移転新築の議がおこり三十一年四月県に移管され大手から名残(当時は富塚村字常光、現広沢一丁目),また名残への学校設置は浜松の西北部方面が文教地区として発展する端緒ともなった。
浜松市史 ニ (後道地域)

名残地域についで家数が多いのは、町組という組屋敷(十軒が一組)が二組と普通の組屋敷(二十軒が一組)が一組
浜松市史 三 (大渕羅州)

浄瑠璃 三世五声軒(内藤耕作、碑岩水寺、大正四年没、七十七歳)・二代目豊竹和田太夫(太田嘉十、浜松名残生
浜松市史 一 ([貝塚])

第二貝塚の南側に現在墓地となっている小丘があるが、これは貝塚の名残りをとどめるものと考えている。
浜松市史 一 (原野と谷)

犀ヶ崖(浜松市布橋・名残町)
浜松市史 ニ (楮栽培)

たずねると、名残新田へ楮の植付をする肥料にするのだという。
浜松市史 三 (姫街道)

新姫街道】しかしそののち、浜松神明で東海道国道と別れ、榎町(えのきまち)(紺屋町の一部)・紺屋・高・名残
浜松市史 三 (染織講習所 浜松工業学校)

人 人 人 人 総数 9 ― 200 84 4,386 2,984 1,402 県立浜松商業学校 名残町,5 25 15 820 820 ― 県立浜松第二商業学校 名残町 4 21 4 183 183 ―
浜松市史 ニ (塩硝庫)

城の北西にあたる名残(鹿谷町)にあった(松林寺の北方、小字名保六谷)。
浜松市史 三 (曳馬萩筆)

【文明堂】現在製造しているのは文明堂のみで、明治二年川瀬為吉(大正四年没)の創業、明治七年浜松名残で発売
浜松市史 一 (徳川家康の伝馬手形)

【伝馬町】本市伝馬町は、その任務をした名残りである。 徳川氏伝馬手形 皆川文書
浜松市史 三 ([洋画])

伊東弥恵治(当市名残町、千葉大学教授、昭和三十三年没、六十六歳)は浜松中学在学当時に浜松付近の風景を鉛筆
浜松市史 ニ (作左曲輪)

かわらもんぐち)・下垂口(しもだれぐち)、北に元目口(げんもくぐち)・明光寺口(みょうこうじぐち)、西に名残口
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