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浜松市史 三
(和地山)
和地
山 【
和地
村
共有地】浜名郡
和地
村
外四か
村
地付字
和地
山(一、反別一二二一町二反七畝二六歩、内畑反別一,一、現今御料地に編入されている
和地
の御料林は往古から
和地
村
共有の山林であったことは元文(一七三六‐一七四,山林は
和地
山として明治初年まで全く
和地
村
の所有に帰した。,】ところが、明治五年、浜松県庁から「誰持」の名称のない土地はすべて官地にする旨の布達があり、役場で「
和地
村
共有
和地
山,一、
和地
山が御料地に編入になったことは「全
村
ノ名誉ニシテ私共一同満足」すべきことであるとは思うが、当
村
/
和地
山
浜松市史 三
(寺島村 和地山)
寺島
村
和地
山 寺島
村
(全戸四五戸のうち三五戸が農)と寺島
村
八幡地(全戸二一戸のうち農一五戸、ここはのちに,砂山町の主体となったところである)はほとんどが農で、寺島
村
には水鉄砲職(一戸)があった。,また
和地
山(五六戸のうち士族四九戸)には江戸から移住の士族が住んでいた。 ,1 3 浜松鍛冶町 75 291 5 3 0 浜松平田町 平田町 93 338 4 0 1 平田
村
,27 115 47 9 5 浜松寺島
村
46 230 24 2 9 浜松八幡地
村
29 126 20 / 寺島
村
和地
山
浜松市史 三
(浜松和地山戸長役場)
浜松
和地
山戸長役場 このとき浜松宿は
和地
山
村
と連合し、浜松宿
和地
山
村
戸長役場を置き、堀口勘蔵が選ばれてその,
和地
山は
和地
村
が管理していたためにその名があったが、明治初期士族の移住によって発達した新開地で、
村
名を / 浜松
和地
山戸長役場
浜松市史 ニ
(和地村牧田家)
和地
村
牧田家 牧田家に遣る文書によると、同家は当時多くの水車を経営して粉ひきのほかに各地から菜種・綿実,【笠井地方】第二に三方原の林野を越えて笠井市とその周辺の
村
々との交流も密接であった。,の砂洲地帯(舞坂・宇布見・若林
村
方面)の綿実・菜種(2)庄内の台地(大山・堀江・
村
櫛
村
方面)の綿実・大豆,これらの
村
々はそのかわりに牧田家から油を購入している。,農
村
における金肥の普及を思わせる。 /
和地
村
牧田家
和の里今むかし:わが町文化誌
(浜松市立和地公民館『和の里今むかし:わが町文化誌』 目次)
目次 『和の里今むかし:わが町文化誌』 浜松市立
和地
公民館 平成12年(2000年),目 次 ページ 画像 目次 まえがき 1
和地
地区のこのごろ 1
和地
地区のあらまし,2 2 てくてく
和地
町 3 3 てくてく大山町 31 4 てくてく和光町 57 5 てくてく,湖東町 81 6 花川をさかのぼる 109 2 大昔から今まで 1
和地
と周辺の大昔のようす,120 2 奈良・平安時代の和治(
和地
) 127 3 中世の
和地
―
村
櫛荘と大山寺 129 4 / 浜松市立
和地
公民館『和の里今むかし:わが町文化誌』 目次
浜松市史 三
(富塚村)
富塚
村
富塚
村
は明治二十二年四月一日町
村
制施行によって富塚(富塚
村
・小薮
村
の二か
村
が合併して成立)・,和合(馬生
村
・馬船
村
・寸田ヶ谷
村
・富新屋
村
・不遣
村
の五か
村
が合併して成立)・
和地
山(
村
名を公称としたのは,明治以後)・両追分(西追分
村
・東追分
村
の二か
村
が合併して成立)・浜松沢(沢
村
と称した)の五か
村
を大字として,自治
村
となった。,戸数一二二、人口六一〇)・浜松沢(地積五五町歩、戸数七五、人口三七五)・
和地
山及び和合の一部分(地積一八四町歩 / 富塚
村
浜松市史 三
(蒲村)
蒲
村
蒲
村
は町
村
制施行により神立・将監・西塚・丸塚・上新屋・上西(明治二十年七月上之郷
村
・西在所
村
が,昭和十四年七月一日全
村
が浜松市へ編入されて蒲
村
の名称はなくなった。 ,(表)町
村
合併表 順位 合併年月日 町
村
名 大字名 1 大正元.10.1 富塚
村
のうち 両追分
和地
山,上池川 3 〃10.4.1 天神町
村
のうち 馬込(北馬込) 天神町
村
天神町 上中島 向宿 馬込(木戸,富塚 和合 段子川 白脇
村
寺脇 福塚 中田島 白羽 瓜内 三島 楊子 蒲
村
神立 将監名 西塚 上西 / 蒲
村
浜松市史 四
([町村合併の推進])
十五カ町
村
とは芳川・飯田・和田・長上・三方原・可美・入野・吉野・
和地
・神久呂・中ノ町・伊佐見・篠原・舞阪,の三
村
に加え、
和地
村
と伊佐見
村
も加わった合併促進研究会が南庄内公民館で開かれた。, *以上の十カ
村
は浜松市へ編入 △南庄内
村
北庄内
村
村
櫛
村
和地
村
伊佐見
村
*五カ
村
合併, 【
和地
村
伊佐見
村
】 当初は庄内三
村
と伊佐見
村
との五カ
村
合併を考えていた
和地
村
では,の時点では
和地
村
との合併は困難とした。 / [町
村
合併の推進]
浜松市史 三
(浜名湖高潮)
浜名湖高潮 大正元年九月二十二日 浜名湖高潮・浸潮区域、
和地
・佐浜・伊左地・大人見・古人見・白洲・平松,大正七年九月二十四日
和地
村
では浸潮区域二十三町歩、浜名湖の高潮(海嘯)は老人さえも五十年来という七尺,に達した(『
和地
村
沿革誌』)。
浜松市史 五
([湖東村の合併])
[湖東
村
の合併] 【湖東
村
】 『浜松市史』四 第三章で述べたように、浜名郡
和地
村
と伊佐見
村
は浜松市,新
村
名は公募し、その中より合併促進協議会で湖東・東庄内・浜西の三
村
名を選び、知事に一任したところ、湖東
村
,新
村
建設に向けて各種事業が進展する中、昭和三十五年三月になって湖東
村
の
村
長と議長が浜松市役所を訪れ、浜松市,しかし、庄内
村
は合併に向けた
村
内の世論調整に手間取るとの観測から五月に至って湖東一
村
に絞り、合併に向けた,こうして、昭和三十一年(一九五六)九月三十日に旧
和地
・伊佐見の両
村
の合併で発足した湖東
村
は丸四年の
村
政 / [湖東
村
の合併]
浜松市史 一
(大山寺)
大山寺 【
村
櫛庄
和地
村
永憲】旧
和地
村
(当市大山町)の大山寺は、真言宗の名刹として、信仰と研学の一中心, 金剛仏子玄覚 三七歳云々、 交合畢、 于時元弘二年壬申正月十日、於遠州
村
櫛庄
和地
村
御坊,元弘二年(一三三二)正月十日に、永憲が遠州
村
櫛荘
和地
村
御坊すなわち大山寺で「権大僧都の本」を受けて〓法密記,大山寺旧跡(浜松市大山町) 〓法密記奥書部分
村
櫛庄
和地
村
御坊永憲書写(横浜市 金沢文庫蔵)
浜松市史 三
(伊左地川)
伊左地川 【紡績】伊左地川・花川流域 伊佐見
村
谷上では山下金三郎が水車を動力にして紡績をはじめ、生産額一日,に約五貫だったという(『伊佐見
村
誌』)。,また
和地
村
では花川の水車で米をついたという(『
和地
村
誌』)。
浜松市史 一
(村櫛荘)
村
櫛荘 【領家氏
村
櫛氏 今川領 大沢氏】
村
櫛荘 玉子郷と領家方がある。領家という豪族もいた。,室町時代のはじめに
村
櫛荘本家年貢を押領したのは、
和地
・伊左地を吉良氏の代官、西郷分を肥田兵庫允、領家方半済分,を代官の安西中務丞・高橋太郎左衛門尉・後藤次郎左衛門尉・深谷某であり、さらに
村
櫛九郎があり、なお惣代官,すでに
村
櫛荘は解体し、その土地は今川氏の領土になっている。,天文四年五月、氏輝は
村
櫛荘領家方と尾奈郷の棟別銭を免除し、警戒をきびしくさせる。 /
村
櫛荘
浜松市史 ニ
(元和の野論)
〇)中泉代官所(天領)の奉行中野七蔵が遠江の知行割をしたとき、三方原に野米二十七石を課しこれを地元の
和地
,
和地
村
は浜松領、祝田・都田両
村
は井伊谷近藤領であったからである。,そこで地元
村
では、従前からの入会
村
百三十余か
村
に対し山札を発行し札米を徴収しようとした。,そこで浜松領主高力摂津守は一旦課した野米を消滅してはならないとして幕府に乞うてこれを高に結び、
和地
村
の,このようにして原野はのちに境界が定められて入会地となるのであるが、林地は
和地
山・祝田山・都田山等となるので
浜松市史 四
([村立幼稚園の開園])
[
村
立幼稚園の開園] 【幼稚園】 市内外に幼稚園の設置が進み、特に周辺部の町
村
で公立幼稚園が誕生,同年五月には吉野
村
に吉野幼稚園、二十九年五月に三方原
村
に三方原幼稚園、積志
村
に積志東と積志西の二幼稚園,伊佐見
村
の場合は昭和二十七年四月に伊左地の清水貫一が個人経営でいさみ幼稚園を開設、その後
村
当局から公立,に移管したいとの要請を受け、二十九年に
村
立の伊左地隣保保育園となり、翌三十年四月に伊佐見
村
立伊左地幼稚園,
和地
村
では昭和三十年四月に明徳寺に私立の
和地
幼稚園が設立されたが、これは後に湖東
村
に移管される。 / [
村
立幼稚園の開園]
浜松市史 三
(庄内街道)
庄内街道 ⑤庄内街道
村
櫛街道ともいった。,いわゆる浜松都筑線といい富塚・伊左地・
和地
・北庄内
村
へ至る道路で、道幅がせまいばかりか三方原丘陵の周辺,【三十六年】明治三十三年浜松町ほか五か
村
が組合会を組織し改修工事を行ない三十六年竣工した(『
和地
村
誌』,富塚
村
に朝日橋・弥生橋ができたのもこのときであった(『富塚
村
沿革誌』)。
浜松市史 三
(真宗謝恩会)
真宗謝恩会 布教活動では明治の末に、
和地
村
を中心とした真言宗信仰者によって組織された真宗謝徳会は庄内地方,『東西本願寺御歴代記全』(編集
和地
中
村
作太郎・堀江 高柳和三郎)は明治四十三年七月同会によって発刊され
台地と水と輝き:わが町文化誌
(浜松市立高台公民館『台地と水と輝き:わが町文化誌』 目次)
大柴原
和地
山本区 中
村
慶重】 18 【幸 曳馬
村
高林 島之郷 上島 一本杉 大芝原 曳馬町
和地
山区,内山家所蔵文書】 24 【
和地
山
和地
村
入会山 徳川家康 御馬場 歩兵第六十七連隊 練兵場 市営住宅,
和地
山神社 身代わりの松】 164 【幸神明神社 幸三丁目 和泉神社 泉二丁目 白山神社 乃木神社,
和地
山三丁目】 171 (二)寺院 172 【真道山大聖寺 幸四丁目 天林寺 板屋町 林泉寺 ,
和地
山三丁目 歩兵第六十七連隊 高射砲第一連隊 行幸 親閲の記念碑 凧揚げ】 181 【高台の坂道
浜松市史 三
(郷学校)
【内野】内野郷学校は明治三年内野
村
に同
村
外十一か
村
を範囲として創立、旧幕臣岩月鑑吉が教えた(『浜北のあゆみ,●渡辺宗蔵 〃 浜松名残 ●石川黙翁 〃 浜松文喜 ●田中久太郎 〃 浜松文喜 ●鈴木半蔵 〃 浜松
和地
山,●佐野直吉 〃 浜松
和地
山 ●滝本直次郎 浜松
和地
山 ●滝本たけ 龍禅寺
村
●大石福太郎 浅田
村
,,花 下堀
村
片岡伊六郎 漢学 神ヶ谷
村
宮下竜軒 大久保
村
馬渕綾左衛門 算筆,花,弓 大久保
村
,次代馬儀作 〃 志都呂
村
高部千別 〃
和地
村
牧田伊兵衛 漢学,剣術 呉松
村
宮本岩根
村
櫛
村
袴田巽
浜松市史 三
(浜松宿 三十二か町村独立)
浜松宿 三十二か町
村
独立 【十五年九月】右の願いに対し、明治十五年(一八八二)九月十三日許可の指令があり,、各町
村
分立して大区小区以前の行政に復した。,【二十九戸長役場】ここに於て
和地
山
村
との連合は解かれ、浜松宿三十二か町
村
各独立の姿をなして、その町
村
名,の上に「浜松」の二字を冠し浜松何町または浜松何
村
と称することになり、元城町・常盤町・元名残町の連合と、,高町・三組町の連合とを除き他町
村
は各々独立戸長を置いて結局浜松宿は三十二か町
村
、二十九名の戸長及び役場 / 浜松宿 三十二か町
村
独立
浜松市史 一
(村櫛荘)
村
櫛荘 【伊佐知郷】
村
櫛荘 市内、旧庄内
村
を中心とし旧湖東
村
伊左地・
和地
(永正十六年正月十一日今川氏親判物,【
村
櫛荘の開発】
村
櫛荘も開発した豪族が寄付して最勝光院領になったと思われる。,
村
櫛荘の年貢は米百石と綾被物一重(あやのかずけものひとかさね)であるが、正中元年ころには、六十石となっている,
村
櫛荘が、東寺に寄進されるまでは、後宇多上皇などの本家と陸奥守重時などの領家があった(『東寺百合文書』 /
村
櫛荘
浜松市史 ニ
(助郷村の困窮)
・渋河
村
・別所
村
・田沢
村
・伊平
村
・川名
村
・滝沢
村
・鷲沢
村
・三嶽
村
・黒渕
村
・白岩
村
・栃窪
村
・田畑
村
・狩宿
村
,・谷沢
村
・黒田
村
・的場
村
・金指
村
・瀬戸
村
・石岡
村
・井伊谷
村
・神宮寺
村
・横尾
村
・奥山
村
・小野
村
・広岡
村
・,大谷
村
敷智 都筑
村
・佐浜
村
・
和地
村
・西大山
村
・東大山
村
・佐久米
村
・大崎
村
・津々崎
村
・野地
村
・只木
村
・,摩訶耶
村
・伊佐地
村
・大人見
村
長上 松嶋
村
・下前嶋
村
・富屋舗
村
・西
村
・油一色
村
・北嶋
村
・打上
村
三州八名,吉川
村
ほか15か
村
三州宝飯 江
村
ほか1か
村
三州設楽 石田
村
ほか9か
村
計 104か
村
/ 助郷
村
の困窮
浜松市史 三
(茶業組合 共同組合)
功労者に気賀林・横田保をはじめ前記樋口林治郎・織田利三郎(浜松田町)・中
村
吉太郎(
和地
村
和地
)などがあった,0.5 市野
村
4.0 積志
村
7.0 笠井町 1.0 北浜
村
7.0 小野口
村
10.0 赤佐
村
,23.0 中瀬
村
0.5 豊西
村
0.2 中ノ町
村
0.3 曳馬
村
28.0 三方原
村
90.0 白脇
村
,1.1 可美
村
0.5 新津
村
0.1 篠原
村
0.2 吉津
村
0.1 新所
村
0.7 知波田
村
1.0,入出
村
0.3
和地
村
13.0 吉野
村
14.5 雄踏
村
0.9 神久呂
村
34.5 伊佐見
村
15.5
浜松市史 ニ
(白輅)
天明六年六月田中約我に、寛政十年正月
和地
村
(当市
和地
町)の自笑庵橋夢(牧田伊兵衛)に連歌の秘伝を記した,【白烏】明和・安永年間(一七六四-一七八〇)には遠江各地に佐久間柳居系の同好者があり、金谷の西
村
白烏(,浜松薬師の一和、松嶋の白兎も柳居の高弟古川太蕪の門人であろう(
村
田長兵衛「煙霞綺談の著者西
村
白烏」『静岡県郷土研究
浜松市史 三
(町制施行 敷知郡浜松町 大字制度)
(表)町
村
制施行当時の町
村
名(明治22年4月1日) 町
村
名 大字名 役場位置 敷知郡(26か町
村
), 篠原
村
馬郡 坪井 篠原 篠原 舞坂町 舞坂 長十受新田 舞坂
和地
村
和地
東大山 西大山,
和地
須ノ木沢
村
須ノ木沢 段子川 (明24.7.16吉野
村
と改称)
和地
北庄内
村
堀江 深萩 ,白洲 呉松 平松 白洲 南庄内
村
和田 庄内内山 協和 庄内内山
村
櫛
村
村
櫛
村
櫛 雄踏
村
宇布見,伊左地 入野
村
入野 西鴨江 高塚 入野 富塚
村
富塚 和合 西追分
和地
山 浜松沢 (浜松沢は浜松宿
浜松市史 三
(村櫛村勝訴 採藻場境界の確立 和解内容)
村
櫛
村
勝訴 採藻場境界の確立 和解内容 【十六年】こうして明治十四年六月にはじまった訴訟の結果、
村
櫛
村
,【三十六年】境界案は関係町
村
長が作製して提示、各町
村
ほとんど異議なく、はじめ原案に難色を示した
和地
村
と,伊佐見
村
も同年十二月には賛同したが、雄踏
村
と
村
櫛
村
とは両者意見を固執してゆずらず浜名郡長・浜松警察署長,とし、それ以西をもって
村
櫛
村
の採藻場とする。,②
村
櫛
村
に属する採藻場の中の湖面反別二十町歩は、篠原
村
が貸与料を出して
村
櫛
村
より貸与をうける。 /
村
櫛
村
勝訴 採藻場境界の確立 和解内容
浜松市史 ニ
(検地の実施)
和地
・宇布見 遠州総検地 11 安間新田 16 北嶋・安間新田・大窪(大久保)・貴平 &, 検地条例(幕府) 5 安間新田 新田検地 承応2 馬込・早出・恒武・笠井・新津・有玉・
和地
,7 福嶋・中田・松小池・松嶋 8 西在所・上ノ郷・西塚・佐藤 新田のみ(前半) 9
和地
,・中野嶋・蝋燭・上嶋・上小嶋・新 (中瀬以下) 野・三家・上神増 12
和地
,新田のみ 延宝元 永嶋・三家 〃〃 2 恒武 〃〃 3 薬師・有玉下・伊場 4 橋羽・
和地
浜松市史 四
([公立私立の保育園の増設])
都市部の工場や商店の多い地域だけではなく、農
村
部でも増加している(表3-37)。,これまで農
村
部では季節託児所が各地で設けられていたが、これは保育園の設置により徐々に減っていった。,農
村
部 24 海老塚保育園(海老塚町) 25 26 馬込保育園(馬込町) 27,浜松児童福祉園(
和地
山町) 和光保育園(
和地
村
) 瑞雲保育所(佐藤町) 28 鴨江保育園(鴨江町,) 中ノ町保育園(中ノ町
村
) 新津保育所(新橋町) 神田原保育園(神久呂
村
) 29 吉野保育園(吉野
村
浜松市史 四
([市営バスの発展・充実期])
への連絡の便を図るため、昭和二十九年三月に、市役所北廻線と市役所南廻線の二路線の運行を開始したほか、町
村
合併,市営バス路線図 出典:『広報はままつ』昭和28年3月15日号 【車庫・事務所の
和地
山移転,こうしたなか、上池川町の車庫や事務所が手狭になったため、三十一年十二月二十六日に
和地
山町に車庫や事務所,図3-49
和地
山車庫 【経営内容の悪化】 しかし、路線バスの事業区域が市内
浜松市史 ニ
(領国経営の方針)
五か国総検地とほぼ並行して家康は諸郷
村
に七か条の定書を下付した。 ,十八年二月まで、頒布された地域はほぼ五か国にわたるが、残存状態としては駿河六十通、遠江六十四通が多い(中
村
孝也,【
和地
村
】つぎに敷智郡
和地
村
(当市
和地
町)に伝存された七か条定書を引いてみよう。 , 天正十七己丑年 八月廿四日 倉橋長右衛門 花押」 みたけ
村
検地帳,の一部分 徳川家七か条定書(
和地
村
旧蔵 浜松市立郷土博物館蔵) 気賀
村
検地帳の一部分
浜松市史 三
(作業経過 等級制)
等級は土地一筆ごとに
村
内・小区内・大区内・遠州一国内と順次(聯環)に比較して決定された。,浜松県第一大区十六小区(10か
村
)田畑等級表 (浜松市
和地
『中
村
家文書』)
村
名 田 畑 区内協議,による等級 十六小区 内の
村
位 等級 気賀出張 所管内
村
位等級 備考 収穫平均 反米 収穫平均, 升 石 斗 升 円 呉松 1 4 0 1 6 0 上の上等 中 等 一 等 一 等 50
和地
浜松市史 三
(報徳家)
三遠農学社に入り、
村
に報徳社を創め、養蚕の私立伝習所を開く。③三輪孫平 芳川
村
都盛。,④鈴木勝十郎(文久三年生)飯田
村
上飯田。飯田
村
報徳社々長。教員。明治二十二年同
村
々長。,
村
社周囲の荒地に松杉の植樹。⑧宮本良作(大正九年没、六十五歳、大正十二年頌徳碑建立)
和地
村
。,【中
村
陸平】そのほかに⑨富田林太郎は都田
村
谷上、⑩杉浦勘三郎は領家、⑪中
村
陸平は天神町、⑫杉浦藤一郎は,は老間(天竜川堤防修築、大正四年頌徳碑建立)などがあった(呉松鹿島神社境内には明治二十七年四月、
和地
・
浜松市史 三
(浜松宿)
浜松宿は①旧侍屋敷(一九)と旧町人町(二五)より成る旧地域と②明治になって宿へ編入された新地域(寺島
村
・,八幡地・
和地
山
村
)から成立しており、全戸数二千九百九十戸、そのうち旧地域は二千八百六十八戸であった。
浜松市史 ニ
(運輸方法)
【馬 舟運】牧田家のある
和地
村
は浜名湖と三方原林野とにはさまれた谷あいにあって、笠井・浜松方面へは馬で
浜松市史 三
(浜松地方決戦作戦 軍民一体の撃退訓練)
そして食糧を補うための農耕部隊(赤佐
村
、現浜北市)も駐屯していた。,15 昭和 16 昭和 17 昭和 18 昭和 19 昭和 20 高射砲第1連隊 浜松市
和地
山町,連隊 浜松市葵町 ○ 飛行第1連隊 同 ○ ○ ○ 中部第72部隊 浜松市
和地
山町,○ ○ 中部第94部隊 浜松市葵町 ○ ○ 千葉防空学校浜松分教場 浜松市
和地
山町,○ 浜松飛行学校 浜名郡神久呂
村
○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ 三方原飛行部隊 浜名郡三方原
村
浜松市史 三
(山林原野等)
明治八年改租の際に民有の証拠不明との理由で官有地第三種に繰り入れられたが、その後一部は旧によって入会
村
(,御料地】ところが二十二年九月、何れも御料地に編入され帝室財産となり、ついで拝借も停められたので、入会
村
は,明治三十一年頃と推定される
和地
村
の静岡県知事宛の請願書(浜松市
和地
『中
村
家文書』)の要旨を次に紹介して
浜松市史 三
(煙草)
品種は明治十五、六年のころ龍池
村
永島(現浜北市)の伊藤喜重によって知られた永島種が一般に耕地されたが、,二十九年葉煙草専売法公布されると耕作者が増加して各町
村
に普及し、なかでも芳川・河輪・北浜・龍池の各
村
が,
和地
村
には煙草の集荷所があった。,二四二頁表は天王
村
・篠原
村
の農業生産の推移である(『大正二年各
村
誌』)。
浜松市史 四
([青年学級の開設])
【
和地
村
青年学級】 浜名郡
和地
村
の青年学級は昭和二十五年に誕生し、活発な活動をしていたので,このころ、
和地
村
の中学校卒業者のうち、進学は約三十三%、就職が四十一%、残りの二十六%が家事従事であった,
和地
村
青年学級の具体的目標は、理想の郷土を建設するため情熱を傾ける、陋習(ろうしゅう)「を打破し、民主社会,表3-10
和地
村
青年学級の教科課程表 出典:『青年学級のあゆみ』 【入野
村
青年学級,農
村
建設に努めていったことは注目に値する。
浜松市史 ニ
(黙之助と植物仕法)
黙之助と植物仕法 岡
村
黙之助はすでに安政二年(一八五五)九月「御為筋申上げ覚書」(『岡
村
父祖水蹟』),植物仕法は岡
村
のいう樹芸が実現された一つの姿であるといってよいであろう。 ,【楮・三椏】『岡
村
父祖事蹟』によれば岡
村
黙之助は養蚕を盛んにするため、良種の桑樹数万株を陸奥・出羽などから,【
和地
村
島の郷 四ツ池】黙之助は安政二年のころ率先して
和地
村
の原野五十町、島の郷字四ツ池の二十余町の,【三方原】このような記述を考慮にいれると、岡
村
が建白書を提出した安政二年のころ、岡
村
による三方原の開拓植樹
浜松市史 三
(銀行類似会社の全盛)
の全盛 【十二年 笠井銀行】以上は浜松における銀行類似会社であるが、浜松付近でも明治十一年一月には
和地
村
,に隆永社、十二年九月舞坂宿に荷質社、十四年三月に笠井
村
に笠井銀行、同年八月に掛塚
村
に掛塚銀行、十五年市野
村
,に消海社、十六年一月貴布祢
村
に永世社、同年龍禅寺に共栄社の設立をみて、その流行は目を見張るものがあった
浜松市史 三
(丸山教)
にかけて遠州地方(豊田・敷知・引佐郡)に教線を伸ばし、明治十七年には庄内地方一帯に深く浸透し、ついに
村
櫛
村
,家業を怠る者さえ現われ、警察がこれを尋問し先達十余名を抱留するという事態が起こり、そればかりか近隣の
村
々,【
和地
】そして同年十一月には、
村
櫛呉松地区の信者たちの集会を抑圧しようとした
和地
の戸長役場との間に騒擾,①庄内地方の
村
々に流行する丸山講(丸山教)の信徒は近頃盛んになった借金党と同じような動きを示し「其筋にても
浜松市史 ニ
(在郷商人の台頭)
在郷商人の台頭
和地
村
の牧田太兵衛家(初代太兵衛は天明三年死去)は農業のかたわら商取引(棒手ふり)に
浜松市史 ニ
(庄内地方の藻刈)
庄内地方の藻刈 東海別二十七か
村
のうち、小人見・大人見・伊左地・佐浜・
和地
・平松・白須・神田・
村
櫛などの,諸
村
は赤地や痩地のため藻を刈って耕地を養っていたことは『遠江国風土記伝』に説くとおりであるが、ことに庄内地方,は浜名湖畔で藻草利用がもっともさかんなところで、しばしば藻草取場の採藻権紛争が関係
村
々(主として大沢領,ここで藻草の
村
ともいうべき
村
櫛
村
の場合を『
村
櫛区有文書』によって述べることにする。
浜松市史 一
([自然の制約])
その間、浜名郡の篠原
村
(九・四一平方キロ)・湖東
村
(二〇・五平方キロ、旧
和地
村
・旧伊佐見
村
)・積志
村
(,一三・六五平方キロ)・入野
村
(九・二〇平方キロ)・庄内
村
(一七・六四平方キロ、旧北庄内
村
・旧南庄内
村
・,旧
村
櫛
村
)が編入されたのである。,それよりも以前に神久呂
村
(一四・四〇平方キロ)や引佐郡都田
村
(二九・二三平方キロ)が合併されていた。
浜松市史 ニ
(鹿島祭)
氏子十五か
村
(
村
櫛・内山・西
村
・神田・平松・西大山・東大山・谷上・伊左地・堀江・細田・白須・
和地
・佐浜
浜松市史 三
(明治初期の漁業税)
遠州灘沿岸漁業税 西島
村
8円 松島
村
9 福島
村
3 江ノ島
村
11 平左衛門新田 1 弥助新田 3,掛塚
村
30 大柳
村
4 鼠野
村
2 御給
村
1 四本松
村
1 三新
村
1 瓜内
村
1 寺脇
村
2,中田島
村
19 白羽
村
11 田尻
村
2 新橋
村
4 米津
村
8 堤
村
1 倉松
村
12 小沢渡
村
5,舞坂宿 136 馬郡
村
21 坪井
村
12 篠原
村
19 浜名湖東岸漁業税 佐浜
村
23
和地
村
22,呉松
村
6 平松
村
8 伊左地
村
2
村
櫛
村
42 白洲
村
33 協和
村
4 堀江
村
12 内山
村
浜松市史 三
(浜松行幸 浜松市の賑わい)
この間に浜松市長中
村
陸平は浜松市の市勢一般について奏上申しあげた。,【親閲式】ついで午後三時からご親閲が高射砲第一聯隊練兵場(
和地
山)において行なわれた。,奉迎歌を玉座に立って一々ご答礼になり、やがておこる君が代の合唱と聖寿をことほぐ万歳のうちに式は終った(
和地
山公園
浜松市史 三
(浜松地方報徳社)
25 〃 馬領家社 浜名郡天神町
村
7 〃 積志社 浜名郡積志
村
20 18年6月 天神町社 浜名郡天神町
村
,浜名郡芳川
村
156 21年11月 上飯田社 浜名郡飯田
村
21 22年6月 小池社 浜名郡市野
村
9,浜名郡吉津
村
46 25年3月 曳馬社 浜名郡曳馬
村
5 25年7月 将監名社 浜名郡蒲
村
17 26,11 28年4月 報徳遠譲社第六分社
和地
社 浜名郡
和地
村
45 28年7月 鼠野社 浜名郡芳川
村
32,浜名郡芳川
村
15 〃 立野社 浜名郡芳川
村
15 43年4月 遠江中ノ町
村
社 浜名郡中ノ町
村
58
浜松市史 三
(馬車鉄道)
①西遠馬車鉄道株式会社 明治三十年二月川口栄三郎らによって計画され、引佐郡気賀町から中川・
和地
・三方原,・吉野・曳馬
村
を経由して浜松にいたる(一〇マイル)案として、浜松町会へ道路使用願まで出したが立ち消えとなった,②浜松・二俣間馬車鉄道会社(仮称) 明治三十年浜松町中
村
忠七・曳馬
村
中
村
太郎三郎らの立案。
浜松市史 五
(防音校舎)
造の防音施設に改築する工事が始まったのは昭和三十八年度で、以後、伊佐見・上島・葵が丘・北庄内・積志・
和地
,・与進・
村
櫛の各小学校などで、中学校では高台・積志・湖東・与進などで行われた。,幼稚園での防音工事は昭和四十六年度に中ノ町・
和地
の両幼稚園で行われたのが始まりで、この後多くの幼稚園でも
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