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浜松市史 ニ
(問屋場と問屋役人)
問屋
場と
問屋
役人 天保年間における
問屋
場は一軒であるがこれには経緯があった。,【
問屋
会所】慶長六年(一六〇一)伝馬町にできた
問屋
会所は間口二間、奥行四間の小さい建物であった。,【
問屋
役】
問屋
には宿役人が勤めていたが、
問屋
役は杉浦助右衛門家であった。,【人馬
問屋
会所 御継飛脚 会所】「当宿之義ハ、人馬
問屋
会所弐ヶ所、別ニ御継飛脚会所壱ヶ所右三ヶ所ニて,所、庄屋
問屋
十一人ニて壱ヶ月之内半月馬
問屋
、半月人足
問屋
相勤申候、別会所ニて御継飛脚御用半月相勤申候」 /
問屋
場と
問屋
役人
浜松市史 一
(問屋)
問屋
【引馬宿の
問屋
】為替業務は遠隔地の取引をしている
問屋
が行なった。,遠江国のばあい引馬宿の
問屋
が京都に送ったのであろう。,引馬宿をたずねる京都商人の定宿の商人(
問屋
)が京都にゆき、また京都の商人が引馬の定宿にきたとき決済がなされたのであろう /
問屋
浜松市史 一
(問屋)
問屋
荘園領主は、年貢などを輸送するため、水上の要地に問(とい)(問丸)をおいた。,これが
問屋
である。 /
問屋
浜松市史 ニ
(問屋場)
問屋
場
問屋
場は伝馬町中番所のかたわらにあった。 ,女3032人 戸数 1622軒 本陣 6軒 旅籠屋 94軒 地子免許 31597坪 21700坪
問屋
給米,7石 継飛脚給米 42石3斗7升 天竜川渡船入用 7石9升4合 宿高札場 1か所
問屋
場 1か所 宿立人馬 /
問屋
場
浜松市史 三
(遠州五大問屋)
遠州五大
問屋
それのみでなく木俣千代八・外山吉十郎のような笠井商人の中からも浜松へ移るものも現われ、,外山商店(浜松板屋、外山商事株式会社、創立明治三十四年)、加藤伊久蔵・清七兄弟の丸加商店は遠州の五大
問屋
/ 遠州五大
問屋
浜松市史 四
([浜松駅前繊維問屋街の誕生])
[浜松駅前繊維
問屋
街の誕生] 【駅前繊維
問屋
街】 戦後、遠州織物の
問屋
は浜松駅前の旭町(浜松駅前繊維
問屋
連盟,)や板屋町(板屋中通り繊維
問屋
連盟)に集中して設置され、駅前繊維
問屋
街を形成した。,これは京浜方面を中心に、東北や九州からも
問屋
が汽車で浜松に来るため、交通の便の良い駅前に集中したのである,板屋町中通り繊維
問屋
連盟が設立されたのは昭和二十四年で、浜松駅前繊維
問屋
連盟は昭和二十八年に設立された,この
問屋
街では店頭から道路まで商品がはみ出し、車はもちろん人もまっすぐには歩けないほどであった。 / [浜松駅前繊維
問屋
街の誕生]
浜松市史 三
(中心街板屋町 問屋街の形成)
中心街板屋町
問屋
街の形成 板屋町は天保十四年(一八四三)「板屋町町内諸職并渡世向人御改帳」(『浜松市史二,木綿商(太物商)はこのうちから生まれ、やがて木綿
問屋
と成長していくのであった。,そして、この表をみるとすでにこの時代に後日ここに
問屋
街が成長する萌芽の現われが看取できる。 / 中心街板屋町
問屋
街の形成
浜松市史 一
(伝馬の制度)
【宿駅と聚落
問屋
】この宿駅を維持するためには聚落が必要である。,この伝馬営業の組織化されたのが
問屋
(といや)である。,
問屋
は、支配下に数軒から十軒ほどの伝馬屋敷をもつ集団の伝馬業者と、散在している伝馬業者をもっている。,【
問屋
の権利と業務】
問屋
は、彼らを指揮し、領主の伝馬役をつとめる。,【商人宿】往来する行商人は、すべて
問屋
の商人宿に泊る。
浜松市史 三
(販売業)
【
問屋
街の形成】そしてこれも東部および南部工業地帯に近接する馬込川西岸の田町・板屋町に集中し、ここに
問屋
街
浜松市史 一
(市場商人は名主)
【
問屋
】このため多額の資本を要するので、
問屋
が発生した。,しかし鎌倉時代では貨物を大量に集中し、卸売する
問屋
と消費者をつなぐ専門の小売商がなかった。,それは
問屋
卸売業者の手代(てだい)があたっている。
浜松市史 ニ
(助郷村との紛争)
このように浜松宿が困窮し、通行の多い時など、
問屋
場には馬が一匹も残っておらず、から明きになることがしばしばあった,そこで天明末年には
問屋
会所を一か所に定めることになった。
浜松市史 ニ
(伝馬町の成立)
【
問屋
役 伝馬役】「十王町」時代の実績(『浜松市史一』および本巻前章)により、慶長六年に東海道の伝馬制,が定められた時、十王町を伝馬町と改称して伝馬役町となり、伝馬三十六疋を備え、
問屋
役を助右衛門が勤め、伝馬役
浜松市史 ニ
(雇馬と雇人足)
「一御伝馬退転仕り候ニ付、役人共三十人ツヽ両
問屋
に六十人之者共、其上庄屋共立会、日々各番ニ相勤申候、惣役人二百二十四人,より日々代物取集め
問屋
に積み置き、村々ニて馬を雇い、不断往還御役相勤申候 一雇馬一疋之御役金
浜松市史 ニ
(製塩業者との紛争)
そこで塩町の塩
問屋
としては、なるべく安価に仕入れたいことから製塩業者との間に紛争を生ずることがあった。,正徳三年(一七一三)の訴訟は塩
問屋
側が、古来塩一俵の正量は四斗入が規定であるのに、近来宇布見・山崎両村,その結果、道中奉行の裁決となって、浜松塩
問屋
は毎月一日・十一日・二十一日の三回吉田塩の相場通知をうけ、
浜松市史 一
(市場)
【小売商人
問屋
】商品のでまわるにつれて、京都では穀物市場・海産物市場・家畜市場などの市場ができ、ここから,特殊市場に商品を移入したのは問丸(といまる)、のちの
問屋
である。,
問屋
と特殊市場が、都市の商業の中心になった。
浜松市史 ニ
(市野宿の衰退)
東海道浜松宿最寄、本坂往還、気賀・見付宿前後四里宛之場所」で宝永・正徳のころまで「市野宿」ととなえ本陣
問屋
,そしてその後は帳元
問屋
を置き「宿場に准シ候村方」として人馬継立役を負担してきたというのである。
浜松市史 ニ
(掛塚領有案)
【廻船
問屋
の反対】すると水野藩は藩船を掛塚湊に常置し、出帆の順序を無視して優先的に江戸へ諸荷物を輸送しようとしたが,、これも廻船
問屋
の猛反対にあって断念せざるを得なかったことは前に述べたとおりである(第五章第二節)。
浜松市史 ニ
(植物仕法)
生産圏は中国・四国筋から中部地方にまで拡大され、文化年間(一八〇四―一八一七)大坂には蠟
問屋
仲間三十軒,、蠟絞り屋・晒蠟屋各五十軒、仲買百軒、荷着
問屋
仲間および回荷
問屋
仲間それぞれ三十軒を数えるほどの盛況にあったことが
浜松市史 三
(配給制 食糧営団)
配給制 食糧営団 生産力が減り必需物資に統制が加わり配給制が実施されるようになると、物資販売の卸
問屋
浜松市史 一
(高利貸資本家 借上)
高利貸資本家 借上
問屋
とならび中世の社会に大きな姿をあらわしたのは、酒屋と土倉で代表される高利貸資本家
浜松市史 ニ
(藍の移入)
舞坂宿の
問屋
場の記録「永代控」によると、天保十五年から嘉永四年までの八年間に入野村又兵衛は八十二駄、志都呂村治右衛門
浜松市史 ニ
(伝馬役二町方)
海道筋の交通量増加にともない、元和二年(一六一六)には伝馬数は七十五疋に増され、寛永八年(一六三一)には
問屋
役
浜松市史 三
(運河開掘の諸計画)
開掘もこれに繋がるもので、文久三年(一八六三)「近年街道筋御通行別而多く人馬御継立出来兼」ていた浜松宿
問屋
,および同宿助郷村々が、
問屋
源左衛門・忠兵衛をはじめ助郷惣代下堀村(現在当市天王町)庄屋平左衛門などを代表
浜松市史 一
(引馬宿は浜松市の原型)
当市の発展の原型は引馬宿であり、宿内の伝馬町には、伝馬
問屋
もおかれた交通の要地だった。
浜松市史 一
(徳川氏の烽火制)
同西一言坂上に一か所ずつ烽火をあげさせて、浜松城に急報させる制度を定めた(延宝弐年寅ノ七月付、遠州見付町
問屋
太郎兵衛等連署見付町田畑定納由緒書上控
浜松市史 ニ
(民政関係の職種)
家老二・年寄三・町奉行二・目付五・吟味奉行五・宗旨方奉行二・代官五・調方四・町郡手代四・宗旨手代二・
問屋
出役三
浜松市史 ニ
(天保二年 天保三年)
には旱魃がつづき、有玉下村ではこの年の納辻七百三十一俵のうち百七十一俵余が不足となったので、十一月米
問屋
浜松市史 ニ
(議定内容)
第五に銭百貫文を
問屋
帳付に謝礼すること。,第十に一般農民が人足として
問屋
場に弁当をもって詰めておれば、荷物を運ばなくてもそれだけで歩合の銭をくれること
浜松市史 ニ
(井上氏所替)
このとき町方庄屋一同も同一歩調をとることとなり旅籠町
問屋
庄屋兼帯甚兵衛・七軒町庄屋治左平の両人も同行した
浜松市史 三
(浜松へ波及)
堀川米商襲撃 石川宅建物損壊 堀川宅屋内侵入 出兵 1000名 軍隊に反抗 16日 磐田郡笠西村 米
問屋
,に値下と寄付, 米
問屋
役員宅3戸襲撃 米
問屋
・役員宅3戸, 建物損壊 巡査抜剣 1000名 磐田郡袋井町
浜松市史 三
(浜松繭市場 繭生糸仲買業組合)
繭糸
問屋
として不二山商会(田町停車場通)などがあった。
浜松市史 ニ
(掛塚湊と浜松)
このため取締
問屋
が出帆の順序をくじ引で定めるという不自由な点があったけれども、浜松宿にはもっとも近く重要
浜松市史 三
(遠州織物の特色)
もちろんこれには組合をはじめ、その背後にあった五大
問屋
を中心とする販売業者たちの積極的な市場調査と宣伝活動
浜松市史 ニ
(無役町の人足割)
そのために宿の
問屋
場に近接した町が指定されている。右表はその割当てを示したものである。
浜松市史 ニ
(作付面積の増加)
池田村十太夫が駿州島田宿権蔵とともに「遠州壱ヶ国綿実
問屋
」を立てようと請願したのもこのころであったろう
浜松市史 ニ
(井上藩と製織技術)
そして維新前後になると、
問屋
・織屋などようやく整うようになったと伝えている。
浜松市史 ニ
(水車の企業化)
入野村・志都呂村にも牧田家と同じように商業に従事する農家が弘化ごろから幕末へかけて続出した(「舞坂宿
問屋
場永代控
浜松市史 ニ
(御役六町の増減)
(表)御役六町の家数の変化 役町 総家数 本役家数
問屋
・庄屋家数 A B A B A B 伝馬町
浜松市史 三
(東海道鉄道計画)
敷設計画の最初は焼津から駿河湾沿いに南下し、太平洋岸に沿い掛塚に出て浜松に至る線が有力であったが、廻送
問屋
浜松市史 ニ
(田尻湊)
田尻村は「往古同郡天竜川流末村方ニ而田尻湊と相唱、本高之内湊高に弐石目船役高五石四斗目」を納め「廻船
問屋
株式多分有之
浜松市史 ニ
(藩の助成)
正徳三年(一七一三)、浜松御役町の
問屋
・庄屋は連署して、近年役町は困窮しているが城主からたびたびお救いがあって
浜松市史 四
([うなぎ養殖])
浜名湖食品】 浜名湖は鰻の養殖で全国的に有名であるが、その養鰻業の創始者は服部倉治郎で、東京の魚
問屋
浜松市史 三
(篠原村)
篠原村や新津村の魚獲物は浜松肴町の魚
問屋
に送られて浜松町民の食膳をにぎわした。
浜松市史 ニ
(肴町と歩役)
三分一 旅籠町 〃 二七軒 右の割合で、伝馬役・人足役を半月替りで
問屋
場
浜松市史 ニ
(浜松町奉行)
藩制のうち、領民にもっとも関係の深いものは、町場では町奉行と宿駅に関する朱印改役(高力摂津守時代)・
問屋
出役
浜松市史 一
(分国経済のありかた)
しかし今川氏は、まず松木・友野を御用商人とし、山中氏を沼津大岡荘
問屋
とし、彼らのいままでの権利を認め、
浜松市史 ニ
(幕府と藩の二重支配)
この時、伝馬制創始の時から浜松宿の
問屋
として朱印改めを命ぜられていた伝馬町の杉浦助右衛門は「内勤」のため
浜松市史 ニ
(改革の一環)
助郷方で損をしても掘割を完成させたいと思うが、新堀は新しく財政措置をされて作られれば、その費用は商人・
問屋
浜松市史 四
([新しい養鶏へ])
卵は鶏卵
問屋
が農家を回って集めていった。
浜松市史 一
(枡)
【見付の枡座】徳川家康は永禄十一年遠州に進むと、見付の
問屋
衆十二人に枡座を結成させ、判をついた枡を遠江
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