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浜松市立中央図書館/浜松市文化遺産デジタルアーカイブ

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浜松市史 五 ([道路の改良・舗装と国道昇格])

[道路の改良・舗装と国道昇格] 浜松市の道路延長は、国道、県道、市道を合計すると昭和三十六年の約二千五百七十,キロメートルから同四十七年には約三千十キロメートルへ増加し、同期間に国道は二十五キロメートルから五十八,市町村合併による市域の拡大(昭和三十五年湖東村、同三十六年篠原村、同四十年庄内村など)と、また県道から国道,【舗装】  国道・県道の舗装化率は、昭和三十六年には、一級国道(国道一号線)百%、二級国道(一五〇号線,%、他の国道(一五〇号線、一五二号線、二五七号線)九十八・五%、主要地方道九十二・八%、その他県道六十二 / [道路の改良・舗装と国道昇格]
浜松市史 四 ([都市計画道路の舗装と国道の改良])

[都市計画道路の舗装と国道の改良] 【道路の舗装】  都市計画道路のうち市役所の南を東西に通る東田町追分線,これまでの国道の拡幅は立ち退き家屋が多すぎることから、市と国が協議して市の都市計画路線に合わせて新国道,『広報はままつ』には「中野町子安町間 新国道開通 整然とした市の東玄関」と紹介された。  ,ここは昭和二十八年から建設省が国道の南側に新国道を造るべく測量を開始したが、田畑を失うことになる地主が,篠原村の新国道の建設と従来の一号線の舗装は昭和三十四年度以降になるのである。 / [都市計画道路の舗装と国道の改良]
浜松市史 五 ([国一バイパスの完成])

の実現と国道一号線のバイパス建設が急務と考えられた。,国道一号線浜松バイパスの開設を国に働き掛けるため、昭和三十六年三月に県知事を会長とする国道一号線バイパス,バイパスの開通は国道一号線の交通量を予想以上に緩和させる役割を果たした。,なお、昭和四十八年四月から浜松バイパスは国道一号に格上げされ、旧国道一号は国道一五二号や同二五七号になった,図2-41 国道バイパス構想図
浜松市史 三 (東海道)

東海道 東海道(国道一号線)もようやく松並木がすたれ、ことに市の西はずれは森田(安政年間に引佐郡井伊谷村出身,【天竜川国道橋】昭和八年七月には天竜川に国道橋が架設せられ、十三年には馬込橋がはじめてコンクリート橋となった
浜松市史 五 ([主要道路の建設と道路整備])

三方原方面では、平成三年三月に国道二五七バイパス浜松環状線と国道二五七号が交差する三方原町交差点から東,また、浜松雄踏線交差点から国道一号までの区間は、後述するように花博開幕までに工事が完了した。  ,までの区間(二・四キロメートル)については、県が昭和五十九年度から国道二五七号バイパスとして整備を進めた,【国道一五〇号バイパス】  遠州大橋完成後は、同橋の利用促進と掛塚橋付近の渋滞解消のため、国道一五〇,号バイパスの国道一号への接続、浅羽町区間のルート決定と早期の事業着手が要望されていた。
浜松市史 五 ([横断歩道(歩道橋・地下道)の整備])

【歩道橋】  昭和三十八年十二月、可美村立可美中学校前の国道一号線に村費負担による通学用歩道橋が完成,これは浜松地方の一級国道では初めての歩道橋であった。,なお、同年三月可美村の可美小学校前の国道一号線にも国費で歩道橋が建設されることになった。  ,昭和四十一年三月には、地元や浜松市交通事故防止対策会議の陳情により、国道一号線の森田町と子安町に歩道橋,同年には、三月に塩町の国道一号線に歩道橋を架設することが決定、同年七月には元城小学校前と中部中学校前の
浜松市史 五 (橋)

以下では市内の国道および主要な都市計画街路の整備状況を見てみよう。  ,国道一号線に関しては、中野町─子安町(植松町)間の一号線の付け替え(昭和三十四年四月十六日開通)に続く,市内国道一号線の道路改良、そして篠原村新国道の建設(可美村─舞阪町間の付け替え、同三十六年三月二十八日開通,に昇格し、国道二五七号線となった。  ,とはいえ、これら昇格国道といえども整備は不十分であった。
浜松市史 五 ([国一バイパス])

同四十八年四月には国道一号線に格上げされた。,【潮見バイパス】  浜名バイパス終点から豊橋市東細谷町の国道一号線に至る潮見バイパス(五・九キロメートル,【国道一号新天竜川橋】  国道一号新天竜川橋の深刻な渋滞を解消するため、平成六年に建設省は国道一号の,【国一四バイパスの無料化】  平成十五年九月、国土交通省は日本道路公団の民営化に向け、県内の国道一号有料四
浜松市史 四 ([進まぬ舗装])

#160; 【舗装延長】  しかし、浜松市の道路状況は、『浜松市勢要覧』(昭和三十五年版)によれば、国道,昭和三十四年末の国道延長二十九キロのうち舗装延長二十五キロ(八十六%)に対して、県道及び市道延長がそれぞれ,このため、市内の国道一号線といえども、後述のような自動車交通の急増と相まって、拡幅舗装工事が行われる以前,例えば、植松町地内の国道一号線(六百三十メートル)は、三十二年初めまでは「最も狭い所で約五メートル、平均七,図3-53 浜松市内国道の舗装・未舗装延長 出典:『浜松市勢要覧』各年、『遠州産業文化史』より作成
浜松市史 五 ([進むバイパスと環状線の建設])

[進むバイパスと環状線の建設] 【国道一五二号線バイパス】  国道一五二号線の浜松中心部と北遠を結,これにより国道一五二号線の交通混雑は大幅に緩和された。  ,【安新町交差点】  国道一号線と国道一五二号線が交差する安新町交差点の交通渋滞を解消するため、一号線,められ、昭和五十六年には伊佐地川付近から県道磐田細江線(姫街道)までと、浜松インターチェンジ付近から国道一号線,これを受け継いで、当初計画通り、南は国道一号線に結ぶ一方、東は笠井町まで延長するとともに、同町から南下
浜松市史 五 (浜名バイパス)

浜名バイパス 昭和四十七年七月、国道一号線の渋滞とそれによる騒音と排ガスを緩和し、浜名湖周辺の観光開発,の一環としての国道一号線浜名バイパスの路線が決定した。,一日三万台が走る国道一号線の交通量を確保しながら、一号線の中央にインターを造る工事や着工早々石油危機による,国道一号線沿線住民の渋滞や騒音公害の緩和という点ではほとんど効果がなかった。
浜松市史 五 ([遠州大橋の完成])

同期成同盟会は、国道一五〇号線の慢性的な渋滞の緩和、御前崎港の利用とその搬出ルートとしての浜松―御前崎海岸道,しかし、浜岡原発が着工した(昭和四十六年)ことで小笠郡大須賀町から榛原郡相良町まで国道一五〇号線バイパス,昭和五十七年度の計画では、福塚町の国道一号線を起点に磐田郡竜洋町、同福田町の海岸寄りを経て大須賀町までの,本来、掛塚橋をはじめとする国道一五〇号線の渋滞解消を目的としていたが、遠州大橋が有料であったことや計画
浜松市史 五 ([郵便番号導入と東郵便局の誕生])

【浜松東郵便局】  市域の拡大や国道一号線和田国道や東名高速道路の開通により、市東部の急速な発展による
浜松市史 五 ([道路舗装率百%へ])

[道路舗装率百%へ] 【舗装率】  市内の国道、県道、市道の舗装率の推移を『市勢要覧』・『浜松市統計書,』で見ると、延長約五十七キロメートルの市内国道の舗装率は昭和四十七年度までに百%を達成していた。
浜松市史 五 ([第二東名の工事開始])

第二東名のインターチェンジ(本線、引佐連絡路を含む)は、浜北市と引佐町に建設されることになったが、それぞれ国道一五二号,と国道二五七号を連絡道路とし、関連道路を整備することとなった。,例えば、国道二五七号については平成五年十月に国道二五七号浜松・引佐間整備促進期成同盟会が結成され、第二東名
浜松市史 三 (市内道路の改良)

市内道路の改良 市内で初めてアスファルトの舗装工事が行なわれたのは昭和二年の国道田町の百メートルで、,こうして九、十年ごろへかけて市内の主要路線三万メートル(国道一万メートル、飛行隊道一万メートル、二俣街道一万,(表)道路改良・舗装表 年次 内容 長さ 幅員 昭和2 1 国道田町舗装(最初の舗装) 100m
浜松市史 五 (東海道本線高架化事業)

これに先立って、昭和四十九年十月から工事の支障になる国道一五〇号線から芳川までと、大厳寺踏切から終点の,【浜松こ線橋】  高架橋工事を進めていく過程で問題となったのは、国道二五七号線(旧国道一号線)が東海道線,高架橋の開通直前の約三十時間をかけて国道二五七号線を通行止めにし、仮こ線橋を取り壊し、その下の高架橋部分,この間、道路の能力の低下を補うために市内を通過するだけの車両は国道一号線に流し、市内交通の車両は鴨江─
浜松市史 三 ([駅へ集まる市内道路])

[駅へ集まる市内道路] 浜松駅は浜松市街からはずれた田圃の中にできたので、市街の中心道路の国道(東海道
浜松市史 四 ([浜松の交通問題])

そのうち主なものは国道一号線の市内通過問題と幹線道路の東海道本線との平面交差問題などであった。,国道一号線は東西を結ぶ幹線であるため交通量が多く、それが浜松の中心部を貫通することは交通渋滞や交通事故
浜松市史 四 ([街路計画の立案と整備])

このほかの国道・県道・市道の道路改良及び舗装の状況は表2-42の通りである。  ,表2-42 昭和24年~27年における国道・県道・市道の道路改良及び舗装状況 国道 県道 市道
浜松市史 三 (道路)

道路 道路も大正八年道路法の施行により、国道・県道(気賀線・笠井線・掛塚線・二俣線・村櫛線・鎮玉線・
浜松市史 三 (浜松子供協会)

顧問に宇波耕作(浜師教諭)、会員には本杉亮平・三輪桂作・県善三郎・水谷正義・松井多門・中道朔爾・後藤国道
浜松市史 三 (各町の道路)

各町の道路 以上は主要な県道(大正八年道路法の公布によって国道・県道・郡道・町村道の別が定められた)
浜松市史 五 ([道路計画の策定])

しかし、乗用車をはじめとする自動車台数の急増に比して国道一号線など浜松地域の幹線道路は、道幅が狭く整備,この都市計画街路によれば、内・外環状線、八本の放射状街路、国道一号線バイパス(後述)、東海道線へのこ線橋,設置など、道路幅五十メートルから十一メートルまでの幹線道路四十七本(総延長二百三十三キロメートル、うち国道二十五
浜松市史 三 (中道朔爾異礼)

また永田武之(三木露風門下)・後藤國道なども詩作をしている。
浜松市史 一 (砂堤列)

大小の砂丘が発達しており、もっとも大きいものは、北から数えて三番目の第三砂堤列であって、国鉄東海道線・国道一号線
浜松市史 三 (姫街道)

【新姫街道】しかしそののち、浜松神明で東海道国道と別れ、榎町(えのきまち)(紺屋町の一部)・紺屋・高・
浜松市史 五 ([交通事故の急増と対策])

【交通信号機】  浜松市で事故が急増したのは、国道一号線が市内中心部を貫通している、二輪車両の台数が,昭和三十四年当初は市内の交通信号機は七カ所に過ぎなかったが、同三十四年九月には国道連尺町角・姫街道追分角
浜松市史 四 ([道路延長の急伸と街路計画の進展])

また、二十八年五月十八日には県道二俣浜松停車場線など幾つかの県道が二級国道百五十二号線、県道浜松掛塚線,などが二級国道百五十号線となった。  ,この結果、『浜松市勢要覧』によれば、市内の国道延長は昭和二十二年の五・八キロメートルから二十九年には十二
浜松市史 五 ([東名高速自動車道の建設])

これに対して神奈川、静岡、愛知三県選出国会議員らは、東海道第二国道建設促進議員連盟をつくり議員立法を目指,この結果、東海道幹線自動車国道建設法は、中央自動車道の予定路線を定める法律案とともに、昭和三十五年六月十七日衆院本会議,間もなく建設省、大蔵省、日本道路公団では、東海道幹線自動車国道を三十六年度から始まる新道路五カ年計画において,政府は八月十六日の閣議で東海道幹線自動車国道建設法施行令の一部改正令を決定、これにより未決定だった静岡,公団側は一級国道に近く、用地買収も安価に済むことなどを理由に白鳥町地内を候補地としたが、市側は東に片寄
浜松市史 五 ([不採算路線の合理化])

例えば、渋滞の影響を受けていた遠鉄国道本線(袋井─鷲津間)を浜松を起点にして浜名線と浜松袋井線に分離し
舞阪町史 中巻 (舞阪町史 中巻 目次)

漁村疲弊救済と漁村金融問題 戦時経済統制の強化 第三節 弁天島開発と町民の生活 582 浜名湖国道橋架設,翼賛体制下の町民生活 665 漁業の状況と漁船の徴用 第二弁天地域の開発と弁天島新居町地域地籍変更 国道
浜松市史 三 (昭和の商店街)

【板屋町】ついで昭和十一年四月には都市計画事業街路国道筋の改築に伴なって板屋町・新町・松江町の商業的発達
浜松市史 五 ([街の彫刻])

⑦街角   ⑧春一番   ⑨ダフネの変身   ⑩谿声広長舌    なお、浜松市内のゆりの木通り(国道一五二号線
浜松市史 三 (道路網計画)

(表)①浜松市道路整備状況 年次 総計 市道 国道 県道 市道 市道 舗装率 舗装 未舗装 昭和
浜松市史 五 ([バスロケシステムと都市新バスシステム])

バスシステム 低床式ワイドドア車両】  遠州鉄道はまた、国からの補助を受けて、昭和六十二年十月一日から市内の国道一五二号線等
浜松市史 五 ([ごみ収集方法の切り替えと焼却場])

り替えと焼却場] 【ごみ収集 紙袋による収集】  昭和三十八年(一九六三)の建設大臣勧告に基づき国道一号線沿
浜松市史 五 ([墓苑の創設])

昭和四十七年二月十五日付の『静岡新聞』の報道にみえるのであるが、旧篠原村(昭和三十六年六月、浜松市編入)を東西に貫通する国道一号線,集落の南側、篠原中学校に近接する南側の地点では、堤の一番北側の防砂林の一部や農地、共同墓地を壊す形で国道一号線
浜松市史 五 (市議会)

常任委員会  総務企業 文教厚生 産業経済 建設消防         特別委員会  国鉄現線高架化促進 国道一号線,国道一号線バイパス建設では、過去三年間にわたる運動で国の新道路五カ年計画に編入の見通しがつき、昭和三十九年度
浜松市史 四 ([和田―水窪線の建設])

[和田―水窪線の建設] 天竜東三河特定地域総合開発計画では、道路関係として昭和二十七年以降二級国道となった
浜松市史 四 ([国鉄バスの路線拡大と遠鉄バス])

また、浜松─豊橋間には国鉄バスと遠鉄バスが相互乗り入れしていたが、国道一号線の舗装の進展により、昭和三十四年九月
浜松市史 五 ([路上駐車の禁止区域等設定])

また、同年九月一日からは、県の総合交通規制計画により、静岡県内の国道一号線を一部を除いて全面的に駐車禁止
浜松市史 四 ([火災予防])

ともなるこの事業には大きな力を入れたため、昭和三十一年四月に不燃化都市協力会が設立され、田町を中心に国道一号線,国道沿いの防火商店街の計画はその後少しは延長されたが、当初の予定通りには進まずに終わった。
浜松市史 五 ([商店街の美しい街路])

【ゆりの木通り 電線地中化工事】  田町の国道一五二号線(旧国道一号線、東海道)沿いの商店街は昭和三十二年十一月一日
浜松市史 四 ([都市計画事業])

道路幅を二十五メートルに拡幅する市の原案に対し、二十メートルの現状維持を主張して反対している国道一号線,市のこのような方針に対し、国道一号線沿いの住民は署名運動を展開、二月十三日に代表者が浜松市政刷新連盟の,当時の『静岡新聞』には「こうした尊い犠牲により国道一号線は大幅に道路が拡張され、工都浜松の面目一新も近,い将来となつた」と出ていたが、この後もしばらくは一部住民が取り壊しを渋り、移転の完了と国道一号線の舗装,  【有楽街】  有楽街は戦後間もなく新しい盛り場をつくるべく、田町の国道一号線から鍛冶町
浜松市史 五 ([花博に向けた道路整備])

道整備計画の過程で、①竜禅寺雄踏線(県道六二号、通称雄踏街道)整備とバイパスの建設、②浜松環状線の架橋と国道一号
浜松市史 四 ([永久橋の建設])

中田島橋 江之島橋 四郎五郎橋 西塚橋 浅田橋】  浜松では、昭和二十年代までの橋は市内の中心部や国道
浜松市史 四 ([三十六メートル道路の驚き])

特に伝馬池川線は、伝馬─連尺間が国道一号線と重複する路線であるとともに、元城町で東田町追分線と交差する
浜松市史 五 (浜名湖周遊道路)

図3-40 浜名湖周遊道見取図  また、昭和四十八年九月一日には、国道一号線から観月園を経て浜名湖大橋
浜松市史 五 (浜名湖周遊道路)

愛知県境の多米峠にトンネルを開鑿(かいさく)して豊橋市多米町─浜名郡湖西町大知波に有料道路を開設し、国道一号線
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