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浜松市立中央図書館/浜松市文化遺産デジタルアーカイブ

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浜松市史 三 (堀留運河)

堀留運河 【上新町 船溜】さて、浜松では伝馬所の廃止によって伝馬町は交通の中心地としての地位を失ったが,、その代わりに堀留運河の開通によって浜松の新しい玄関口の観を呈するにいたったのが運河の始発点の上新町であった, 生憎十五橋頭水 纔送郎来又送帰」(宮原廉『浜松雑詠』)とうたわれるほど趣きがあった(第二節第一項「堀留運河 / 堀留運河
浜松市史 三 (堀留運河の衰退)

堀留運河の衰退 しかし、このような浜松・新所間の通船事業も浜名社によって舞坂・新居間に架橋の議がおこり,浜松は新所ほどではなかったが、やはりその影響は免かれがたく、十五年には堀留運河を延長して天竜川と結ぶ計画,その起死再生策として三十六年浜松商業会議所は浜松停車場より堀留運河に達する開鑿(かいさく)方を浜松町長 / 堀留運河の衰退
浜松市史 三 (堀留運河の計画)

堀留運河の計画 【気賀林献策】明治初年の士族授産につながる堀留運河の開掘も、このような運河開鑿(かいさく / 堀留運河の計画
浜松市史 三 (浜名湖佐鳴湖の船運)

浜名湖佐鳴湖の船運 堀留運河の開通によって、新所ばかりでなく浜名湖や佐鳴湖などからも上新町の堀留船溜,堀留運河鑑札(表) 堀留運河鑑札(裏)
浜松市史 三 (堀留荷物取扱所)

井上・田村両名の名にちなんで井ノ田川と名づけられたが、一般には堀留運河とか簡単に堀留とか、新川の称をもって,堀留運河(明治44年撮影)
浜松市史 ニ (工事の進行)

が完成し、七月二十八日より七軒町から新所村(湖西町)まで船が通うようになったが、この新川とよぶ運河(堀留運河,とすれば慶応年間の掘割が、現存する堀留運河ほどに立派でなくとも、助郷惣代庄屋たちの熱意と農民たちの努力
浜松市史 三 (井上八郎)

多くの移住士族が離散するうちに政商気賀林などと結んで堀留運河を経営、第二十八国立銀行の頭取に就任(後述,彦坂良平「伊藤安七郎と日の岡港」『湖西の文化第十二号』、佐々木忠夫「浜松の交通運輸」『遠州産業文化史』、『堀留運河資料
浜松市史 三 (運河開掘の諸計画)

運河開掘の諸計画 三方原開拓とともに士族授産につながる事業に堀留運河の開掘があった。,【文久三年案】浜松城下より浜名湖を経て遠州灘に舟を通じ、商品流通の拡大をはかる計画はすでに存したが、堀留運河
浜松市史 三 (浜名橋)

堀留運河の開通によってこの渡船は衰えたが、十四年十二月に浜名社(豊田郡井通村、熊谷三郎馬、大正二年十月没
浜松市史 三 (東海道線)

しかし、これも明治十一年になると、東京・熱田間の全区間が馬車を主とする方式に改善された(下表参照、堀留運河
浜松市史 三 (訴訟と敗訴)

そして堀留運河はまったく井上個人の純然たる営利事業として認められることになった。
浜松市史 三 (堀留会社)

堀留運河の名称もこの会社の名をとったものである。
浜松市史 三 (開掘計画案)

明治24年(1891)堀留運河(上新町時代)
浜松市史 三 (東海道通)

【上新町】それに隣る上新町は堀留運河の開航によってお茶屋・料理屋・すし屋・煮売屋から風呂屋までが並び車力
浜松市史 三 (写真・図版目次)

坂本柳次氏蔵) 四二 井上延陵                           六〇 明治二十四年堀留運河図,(上新町時代)             六一 堀留運河断面図                        ,六二 堀留運河(明治四十四年撮影)                 六五 堀留運河鑑札(表・裏)      
浜松市史 四 ([浜名港と豊浜運河])

一方、豊橋港を起点として梅田川をさかのぼって新所村を通り、入出村から浜名湖に入り、さらに雄踏町から堀留運河
浜松市史 五 ([浜松市開発公社の誕生])

この土地開発公社の初仕事が堀留運河の買収であった。
浜松市史 三 ([近代総説])

現代の浜松市域はおよそ東は天竜川から西は浜名湖にわたっているが、明治初年には堀留運河が建設されてその舟運
浜松市史 三 (女工の生活)

帰らないものは浜名湖を舟で堀留運河を通り、浜松で芝居見学をさせてもらった。
汽笛・ステンショ・まちこうば:わが町文化誌 (浜松市立南部公民館『汽笛・ステンショ・まちこうば:わが町文化誌』 目次)

まとめ 44 三 東海道線あれこれ 46 (一)浜松「ステンショ」への道標 【寺島町公会堂 堀留運河,糸車 日本楽器 寺島町 戦争 藍綬褒章】  92 (五)西浅田の牡蠣殼屋の話 【思い出 武道館 堀留運河
学びの里祈りの丘:わが町文化誌 (浜松市立県居公民館『学びの里祈りの丘:わが町文化誌』 目次)

鈴木孫右衛門商店 釣堀 菅原町】 129 【根上り松・十九番の川 鴨江寺 天然記念物 月見山】 129 【堀留運河, スカウト】 287 【菅原町の由来 七軒町 上新町 菅原町東 宿外 砂糖屋 権田本家 西菅原町 堀留運河
浜松市史 三 (遠州灘海岸平野 天竜川平野 三方原台地)

では東伊場町・西伊場町・森田町方面に若干の被害があり、県居小学枚では屋根瓦が雪崩を打って落ち、校庭の堀留運河埋立跡
とみつか:わが町文化誌 (浜松市立冨塚公民館『とみつか:わが町文化誌』 目次)

青木製油所 舞阪宿 問屋場 永代控】 132 【水車業者 善右衛門 弥七 兵蔵 小籔仁三郎】 133 【堀留運河
浜松市史 三 (目次)

政治思想の浸透           政党のおこり   第二節 殖産興業と地域の開発    第一項 堀留運河
解説「浜松の明治以降の資料」 (解説「浜松の明治以降の資料」)

この浜松県の役人たちもその多くは旧幕臣や士族たちであったが、士族授産のため堀留運河の開削や三方原の開拓
浜松中心街の今昔:わがまち文化誌 (浜松市立中部公民館『浜松中心街の今昔:わが町文化誌』 目次)

と浜松宿の交通 105 (二)明治時代の浜松の交通 106 【井上八郎 田村弘蔵 井ノ田川疏水 堀留運河
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