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浜松市史 ニ
(柳瀬方塾)
柳瀬方
塾
【隠口先生】「はつせ路や初音聞まく尋ねてもまだこもりくの山ほととぎす」の和歌をよみ、京都において,名歌として評判になり「隠口(こもりく)先生」とよばれ、自らも隠口の翁(おきな)と称したという柳瀬方
塾
は,方
塾
は国頭中心の歌会には毎回出席し、また自宅でも数回歌会を催し、国頭の門人中主要な一人であった。,(柳瀬方
塾
墓碑銘)。,柳瀬方
塾
筆懐紙(浜松市鴨江 渥美静一氏蔵) / 柳瀬方
塾
浜松市史 三
(竹下塾)
竹下
塾
なお、明治三十五年におきた教科書事件のため退職した元浜松中学校長竹下荘一郎の経営にかかる竹下
塾
/ 竹下
塾
浜松市史 三
(私塾寺子屋)
私
塾
寺子屋 私
塾
や寺子屋も各所にあった。,前の表は明治初期の浜松を中心とした私
塾
で、教師には士族で隠居が多く、手跡の教授が多い。,郷学校といい私
塾
といい、学制頒布前の庶民にとって、たいせつな教育機関であった。 / 私
塾
寺子屋
浜松市史 ニ
(浜松宿内と周辺の私塾寺子屋)
浜松宿内と周辺の私
塾
寺子屋 私
塾
・寺子屋は江戸時代にもっとも普及した民間の教育施設であった。,)にひらいた
塾
であるという。,つぎに浜松および周辺の私
塾
・寺子屋について記してみよう。 ,飯田村新貝(当市新貝町)に辻俊吉の開いた
塾
がある。,
塾
主 住所 流
塾
生概数 相曾小次平 後道 不明 5.60人 野沢夏左衛門 白山下 〃 3.40人 竹山佐平 / 浜松宿内と周辺の私
塾
寺子屋
浜松市史 三
([いろいろの学校と私塾])
[いろいろの学校と私
塾
] このほかに各種学校と称するいろいろの学校があった。 / [いろいろの学校と私
塾
]
浜松市史 三
(その他の裁縫学校 金原裁縫技芸学校)
その他の裁縫学校 金原裁縫技芸学校 なお、この他に古沢裁縫義
塾
・浜松裁縫義
塾
や金原裁縫技芸学校などがあった,古沢裁縫義
塾
は大字後道(現在千歳町)にあって古沢某女の経営、浜松裁縫義
塾
は馬渕しん(元士族)の経営で大字松城
浜松市史 ニ
(金原清興)
これらの歌会はいずれも前記月並歌会と同じく、国頭・方
塾
が主となって協力している。 ,出席者は国頭・方
塾
・吉斉・吉次・実栄・日沾・清兼・安連・通泰・吉興・政成(真渕)である。 ,(詠草は中村清氏 蔵)この日国頭・清興・実栄・清兼・政成・方
塾
・安連・保庵・通泰らが出席している。,(詠草は三浦巌氏蔵)この日の出席者には国頭・方
塾
・茂則・富丸・春栖(真渕)・久章・茂則・在中の名が見える,【青楓亭】ついで享保十九年三月十二日、鎌田(磐田市)江塚吉年家の青楓亭に蒙庵・国頭をはじめ暉昌・方
塾
・
浜松市史 四
([各種学校の盛衰])
[各種学校の盛衰] 【英語
塾
鴨江洋裁学園 建部快運 洋裁学校 ファッションショー】 進駐軍の来日,浜松でも進駐軍の姿を見かけるころには大小二十五カ所の寺子屋程度の英語
塾
(学校)が生まれ、猫も杓子も英語,、英語と
塾
に通ったという。,また、齋藤英語
塾
のように特色ある授業をしていたところもあった。 ,戦前の
塾
として数が多かったのは珠算と和裁、このうち珠算は戦後になっても数多くの
塾
や学校が再開した。
浜松市史 三
(長尾学校 女紅場)
長尾学校 女紅場 私
塾
も県の認可を要することになったが、浜松には長尾学校・浜松女紅場・不如学舎・浜松英学校,のち早馬に移り夫景福(かげとみ)の
塾
を助けた。浜松学校教員勤務ののち長尾学校を開いた。,文久二年江戸生、昭和十九年没、八十三歳)は浜松学校勤務、夫に先だたれ板屋町の南能庵(大聖寺)で明治二十年ごろ
塾
を
浜松市史 ニ
(内田乾隈)
年十九、江戸に出て朝川善庵の門に入り、さらに塩谷宕陰にも学び、推されて宕陰
塾
の
塾
頭となった。
浜松市史 ニ
(渡辺蒙庵)
渡辺蒙庵 真渕は当時若宮小路(当市大工町)に
塾
を設けて門弟の教育にあたっていた渡辺蒙庵について漢学を,(蒙庵については第七章第三節漢学の項参照) 【家
塾
】蒙庵と真渕との関係を知るには、まず蒙庵がいかに,篠原村馬郡(当市馬郡町)の藤田伊勢松、真渕の門人内山真竜、真渕の子真滋も蒙庵の家
塾
に学んだ(小山正『賀茂真渕伝
浜松市史 ニ
(岡村義昌)
一八四六)十七歳のとき、父義理のすすめによりオランダ語を学ぶため、大坂に出て緒方洪庵(おがたこうあん)の適
塾
(,義昌は緒方
塾
在学ののち、嘉永元年か二年ごろ兄の道章とともに長崎を目的として、九州地方へ遊学した。
浜松市史 ニ
(藩校の発達)
藩校の発達 江戸時代における教育機関として武士階級にはおもに藩校・郷校があり、庶民には私
塾
・寺小屋があった,また私
塾
は享保以降に、寺子屋は天明・寛政以降にいちじるしく増加して、しだいに庶民階級にまで学問が普及された
浜松市史 三
(不如学舎 英学校)
不如学舎 英学校 不如学舎は浜松田町(分器稲荷の西、
塾
長市川安吉)に、また浜松英学校(明治十八年創立
浜松市史 三
(女子高等技芸学校 淑徳女学校)
【浜松女
塾
】明治二十五年三月岡本欣によって開かれた裁縫及び手芸を授ける「浜松女
塾
」がその前身であった。
浜松市史 五
([高校進学と進路指導])
[高校進学と進路指導] 【高校進学率
塾
予備校】 浜松市の中学校卒業生の高校進学率は昭和五十二年三月,ただ、普通科への進学者が増え、いわゆる進学校への志望者は多く、このための準備として
塾
や予備校などに通う,これまであった
塾
は○○学院、○○教室、○○ゼミなどの名称を名乗るものもあり、大きな所は各地に系列校をつくるまでになった
浜松市史 ニ
(和歌会留書)
しなけさは霞も空にみつやまと島根の春もしられて 賀茂政藤 享保十一丙午年八月和歌会 方
塾
雑餉,秋寒からぬ浪の上の月 保庵 秋のよの月の氷にかち人の渡りや思ふよはのうみづら 方
塾
,この和歌会では国頭・方
塾
をはじめとして、清兼・真崎・其阿・清興・光治が主な歌人で、これにつづくものは保庵,歌会出席回数 歌数 国頭 4 4 4 8 169 232 方
塾
浜松市史 五
([学園・教室・学院])
また、
塾
や予備校は系列化が進み、その教室は鉄筋コンクリートの建物となった。
浜松市史 ニ
(西洋兵学)
西洋兵学 のち義昌は大坂で西洋兵学および砲術の
塾
を開いた。時に門人千人といわれている。
浜松市史 ニ
(渡辺蒙庵)
徂徠学は太宰春台(だざいしゅんだい)らによってひろめられていったが、その門人渡辺蒙庵は浜松に漢学
塾
を開
浜松市史 三
(郷学校)
(表)私
塾
所在地
塾
主 教育内容 浜松伝馬町 ●斎藤英吉 手跡 浜松板屋町 ●久保田行哉 〃
浜松市史 五
([子供の遊び場])
また、そろばん
塾
や学習
塾
、音楽教室などの習い事に通う子供も増えたが、この時期には市内の路地や神社・寺院
浜松市史 ニ
(春満の来浜)
そして春満の来遊により浜松の柳瀬方
塾
(やなせみちいえ)も岡部衛士(えじ)(のちの賀茂真渕)もその門人となった
浜松市史 三
(藩校)
藩校 維新の当時には教育機関として藩校・郷学校・私
塾
・寺子屋などがあった。
浜松市史 五
(各種学校)
浜松朝鮮初中級学校 東海学院】 浜松の珠算教育は明治以降大変盛んで、戦後になっても市内各所に出来た珠算
塾
に,珠算
塾
で学ぶと算数・数学が得意になる、金融機関に就職するには珠算の習得が必須、また、
塾
によってはしつけもしてくれるということで,浜松の珠算
塾
としては明治末期に出来た尾崎速算学会が有名で、戦後は各種学校にまで発展した。,また、市内には表2―12のように十余の珠算学校があったが、各種学校ではない小規模な珠算
塾
が多数あった。
浜松市史 ニ
(克明館校則)
これらの人は私
塾
で読み書きを習得したのち藩校にはいり、武士の子弟同様学館の必修科目である武道を学んでいる
浜松市史 三
(静岡事件と浜松)
そのうちで浜松関係について述べると、一味の中野二郎三郎が浜松(浜松板屋町法雲寺付近)へ移ってきて鳳離舎という
塾
を
浜松市史 ニ
(女子教育)
またそろばん
塾
はこれらの寺子屋とは別に設けられた場合が多く、十軒新田(当市十軒町)の小粥惣十郎も算法・
浜松市史 三
(金城学校)
その他斎藤謙三が大正十年ごろ浜松大字田にひらいた英語
塾
もあった。
浜松市史 三
(作左山移転)
卒業後に浜松裁縫義
塾
・浜松町私立裁縫女学校・古沢裁縫義
塾
に学んで裁縫の技術を修得するものもあった。
浜松市史 ニ
(下堀村吾憂社)
一八六五)下堀村(当市天王町)に開設された吾憂社では、儒者寺西易堂を招き、国書・習字・詩文などを教え、
塾
生
浜松市史 ニ
(富国強兵策)
【蘭学】また弘化三年には、十九歳の長男新三郎と十七歳の二男貞次郎を大坂の緒方洪庵(おがたこうあん)の
塾
に
浜松市史 三
(珠算 本間竹之助 加茂太市 尾崎博泰)
から昭和にかけて速算大会のような競技会も開かれて最盛期を迎えるにいたった(名倉敏克「浜松における珠算
塾
の
浜松市史 ニ
(県居神社)
四月、神立社雅会出席、效成名 八月、柳瀬方
塾
亭歌会,春栖名、国頭、方
塾
ら同席 一七 一七三二 三六 五月、父政信没す。,浜松に帰省、紀行『旅のなぐさ』(西帰)を草する 一〇月、方
塾
亭
浜松市史 四
([浜松市仏教会の活動])
の時点での傘下の寺院では、宗教教育の一環として全寺院の十%が幼稚園経営を行い、洋裁学校・託児所・語学
塾
・
浜松市史 ニ
(森繁子)
享保の終りころには歌会に出席し、国頭・方
塾
・政成(のちの真渕)の教えをうけている。
浜松市史 三
(六月の空襲)
それを憲兵が廻ってきては回収した(神経過敏となった憲兵が市内のアメリカ人牧師や英学
塾
の教師を調べている
浜松市史 五
([高校入試制度の変容])
これに対して県内の多くの
塾
(予備校)は連携して統一模試を年に数回実施して指導に当たることになった。
浜松市史 四
(内田旭)
この号は、表紙にあるとおり、浜松出身で、京や江戸で歌人として活躍し隠口翁と呼ばれた柳瀬方
塾
の著書『秋夜随筆,これは随筆とはあるが歌論であり、方
塾
研究上の重要文献である。
浜松市史 四
(清川泰次)
浜松第一中学校(現浜松北高)を四年で修了、慶應義
塾
大学経済学部に入学。昭和十九年に同大学卒業。
浜松市史 四
(佐々木松次郎)
静岡県立浜松中学校(現浜松北高)卒業後、岡田三郎助のデッサン
塾
を経て東京美術学校西洋画科に入学。
佐鳴の風:わが町文化誌
(浜松市立佐鳴台公民館『佐鳴の風:わが町文化誌』 目次)
文学 81 一 佐鳴湖を愛でた文人・学者 82 【佐鳴点描 木宮亮邦 賀茂真淵 杉浦国頭 柳瀬方
塾
,82 (一)賀茂真淵 87 【賀茂神社 縣居神社 東伊場】 87 (二)杉浦国頭・森暉昌・柳瀬方
塾
浜松市史 五
(童話)
跡見学園卒業後、郷里浜松にて寺子屋
塾
「つくしんぼ学習室」を経営。
浜松市史 四
([モラロジーの活動])
広池は豊前中津藩領内の神主家に生まれ、維新後は元杵築藩儒者小川含章(日出藩帆足万里門人)漢学
塾
で勉学した
浜松市史 四
([日本都市学会による浜松市の総合調査])
この刊行を機に同年四月二日に市役所で調査結果の報告会が開かれ、調査団長を務めた奥井復太郎慶應義
塾
大学学長
ふる里ながかみ:わが町文化誌
(浜松市立長上公民館『ふる里ながかみ:わが町文化誌』 目次)
み 明治・大正にかけて 246 昭和に入って 246 戦後の青年団活動 247 鷹森裁縫女
塾
に
浜松市史 五
(散文)
県立浜松北高校卒、慶應義
塾
大学文学部仏文科卒。
浜松市史 三
(目次)
浜松の小学校 浜松瞬養学校と浜松中学校 私
塾
, 第四項 種々の教育機関の誕生 五二一 いろいろの学校と私
塾
浜松市史 ニ
(目次)
五三六 近世の教育 浜松藩の藩校 私
塾
と
浜松市史 ニ
([浜松の和歌会])
(別表は『杉浦国頭家和歌会留書』による) 【方法】月並歌会はつねに国頭・方
塾
を指導者として催したもので
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