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天竜川と東海道:わがまち文化誌
(浜松市立天竜公民館『天竜川と東海道:わが町文化誌』 目次)
天竜川
と東海道:わがまち文化誌 / 目次 『
天竜川
と東海道:わがまち文化誌』 浜松市立天竜公民館 平成6年(1994年),の渡船 江戸時代の船橋 旧東海道の
天竜川
木橋 池田橋
天竜川
橋 新
天竜川
橋 安間川にかかる橋 4 ,東海道の交通 96 "東海道線の開通と
天竜川
駅 天竜運輸会社と半場線 現在の
天竜川
駅 東海道,のうつりかわり 109 麁玉川 天宝堤 広瀬川
天竜川
彦助堤 2 あばれ
天竜川
115 洪水年表, 水防体制 大水の時の様子 3
天竜川
の治水事業 120 金原明善の治水事業 治河協力社の事業 / 浜松市立天竜公民館『
天竜川
と東海道:わが町文化誌』 目次
浜松市史 一
(天竜川)
天竜川
天竜川
には渡船がある。,【
天竜川
の架橋 関銭は称名寺の収入】正中元年(一三二西)八月幕府は、武蔵金沢(横浜市)の称名寺に対し、,遠江国
天竜川
などの架橋を指令した(『金沢文庫文書』)。 /
天竜川
浜松市史 一
(天竜川)
天竜川
浜松市の東を画する
天竜川
は、広い川原の中を網状に流れて遠州灘に注ぐ。 /
天竜川
浜松市史 一
(天竜川の氾濫)
天竜川
の氾濫 【麁玉河】これに加えて、遠江では
天竜川
の氾濫による水害があった。,麁玉河とはすなわち
天竜川
である。,また、神亀三年(七二六)にも、遠江国の五郡が水害を受けたとみえることも、
天竜川
に関係するものであろう。,浜北市天宝堤図(静岡県史による)小林字堤外総長二百五十五間地積二段八畝十六歩(原野) 以上の
天竜川
,そして天宝堤の位置からみても、当時は
天竜川
は、今日の河流よりもかなり西を流れていたわけであって、浜松市域 /
天竜川
の氾濫
浜松市史 三
(天竜川停車場)
天竜川
停車場 【金原明善】金原明善は、
天竜川
流域の木材輸送のため購入した蒸気船「千代丸」が明治二十一年三月,すると、鉄道輸送に変更を決意し、平野又十郎(掛塚商船会社総代)・小松正一(東京野口組代表)らと語らい、
天竜川
,【全国七位】貨物取扱量が増加すると三十一年七月一日
天竜川
停車場に昇格し一般の運輸営業が開始され、三十五年一月及,ちなみに浜松駅は第八位であった(『金原明善、佐々木茂『古文書から見た
天竜川
駅沿革史』)。,なお四十五年一年間の
天竜川
駅の乗客四万一千七百四十八人、降客四万七千六百五十七人、着荷一万二千三百八トン /
天竜川
停車場
浜松市史 一
(天竜川と馬込川)
天竜川
と馬込川
天竜川
と馬込川は、ともに大きな河川である。 ,それが中世の末までに大きく変化する(
天竜川
本流の変遷については、谷岡武雄「
天竜川
下流域における松尾神社領池田荘,いまの
天竜川
(『吾妻鏡』承久三年五月廿八日の条にも「天竜河」とある)のことである。,「大天」はいまの
天竜川
である。,中世では
天竜川
がこの三つ以上の流にわかれていた。 /
天竜川
と馬込川
浜松市史 ニ
(天竜川と浜松)
天竜川
と浜松
天竜川
とともに生活してきた、それが浜松地方の歴史であったともいえるだろう。 ,山神社・天神社・八王子社・六所社(六柱の神をまつる社のこと、水神をふくむものが多い)・白山社などと、
天竜川
両岸 /
天竜川
と浜松
浜松市史 一
(天竜川の渡船)
天竜川
の渡船 なお、この駅路に関して、浜名橋のほかのもう一つの障害として、
天竜川
が考えられよう。,広瀬河は
天竜川
の異名であり、一時、官の手によって船四艘が置かれていたことが知られよう。,もっとも
天竜川
も、後の例によってみれば、時によっては徒渉も可能であったらしい。 /
天竜川
の渡船
浜松市史 ニ
(天竜川視察)
天竜川
視察 ではこの危機にあたって浜松藩はどのように海防体制を整備していったか、それについて述べよう /
天竜川
視察
浜松市史 三
(天竜川貨物取扱所)
天竜川
貨物取扱所 【二十五年】
天竜川
の西岸へ木材専用引込線敷設の計画はすでに明治二十四年中村忠七・辻総平,(鶴見)・林弥十郎の着想があったが、じっさいには、金原明善らの請願により二十五年九月に
天竜川
貨物取扱所 /
天竜川
貨物取扱所
浜松市史 ニ
(諏訪信仰と天竜川)
諏訪信仰と
天竜川
つぎに豊田郡から長上郡へかけて諏訪社の多いのが目立っている。,その由緒は往古
天竜川
出水のとき信州から諏訪明神の神札が漂着したのを祀ったとするものが大部分である。,これは
天竜川
の水利にあずかるとともに水厄からも免れたいとする庶民の祈りが、諏訪大明神の信仰となって現れたとみるべきであろう / 諏訪信仰と
天竜川
浜松市史 ニ
(天竜川の出水)
天竜川
の出水 つぎにそのおもなものをあげよう。,【元禄期】元禄十一年(一六九八)七月二十六日には川越嶋地先の堤防が切れて
天竜川
の濁流が中野町屋・萱場・,この夜貴平村の村役人は万斛村へ移り志都呂役所(旗本松平氏)へ
天竜川
子刻切込み床上二尺から三尺におよび「,
天竜川
堤防の修理には「公儀普請」と「自普請」の二種があり、前者は幕府(中泉代官所)の直轄工事になり後者 /
天竜川
の出水
浜松市史 三
(天竜川出水)
天竜川
出水 五月に入ると雨続きで十九日にはついに大出水となった。 /
天竜川
出水
浜松市史 一
(信長と天竜川)
信長と
天竜川
織田信長は天正十年(一五八二)三月、宿敵武田勝頼父子を滅し、徳川家康の歓待をうけながら,四月十六日池田宿から
天竜川
につく。【舟橋】家康は大天竜に舟橋を架けた。 / 信長と
天竜川
浜松市史 五
([天竜川下流用水事業])
[
天竜川
下流用水事業] 【
天竜川
下流地区土地改良事業】 昭和四十二年、天竜東三河特定地域総合開発計画,の一環として、国営
天竜川
下流用水事業が着手された。,これは
天竜川
下流地域の農業用水・上水道・工業用水を確保するのが目的で計画された。,
天竜川
下流地域において①ダムの建設や砂利の採取等により
天竜川
の河床が低下し取水が不安定になってきたこと,によって、
天竜川
下流地区土地改良事業を実施することになった。 / [
天竜川
下流用水事業]
浜松市史 一
(天竜川流域の弥生文化)
天竜川
流域の弥生文化 この関係を
天竜川
流域と浜松市周辺地域においてみるために、まず遺跡の分布図(第21,しかしさらに注目されるのは、
天竜川
平野部への遺跡の進出という現象である。,しかし同時に
天竜川
の水を制御し得るような灌漑技術が発達していたことを想定しておかねばならない。,
天竜川
平野部の開発はこうした社会的条件を基礎として実現したものに違いない。,こうして不毛に等しかった
天竜川
の河原に、農業にいそしむ人々の動きがみられるようになったのである。 /
天竜川
流域の弥生文化
浜松市史 一
(東は天竜川西は浜名湖)
東は
天竜川
西は浜名湖 このように浜松は周辺の村々を合併してその面積を拡張させているが、このひろがる面積,を自然環境の立場からみれば、東は
天竜川
、西は浜名湖という河湖に制約され、直接間接にこの河湖がいつでも強 / 東は
天竜川
西は浜名湖
浜松市史 一
(遠江駿河渡の船 天竜川橋銭)
遠江駿河渡の船
天竜川
橋銭 応永九年(一四〇二)五月二十六日、前将軍義満は、遠江・駿河両国守護今川上総入道法高,(泰範)にたいし両国の渡し、橋本並びに
天竜川
・大井川・富士川(その関銭は鎌倉極楽寺領)・黄瀬川(関銭は,
天竜川
の橋銭(関銭)は称名寺(第二章第五節参照)の収入源であったろう。 / 遠江駿河渡の船
天竜川
橋銭
浜松市史 ニ
(天竜川安間川流域)
天竜川
安間川流域 【老間村】
天竜川
・安間川流域では、寛保元年(一七四一)に上流にあたる東金折村の悪水,しかし、以上のように半場・竜光両村を経由した安間川からの引水は水量その他に不都合が多かったので、この年に
天竜川
,寛延三年下飯田村
天竜川
境目朱引絵図(浜松市飯田町 大杉繁男氏蔵) (表)文政2年井組高内訳表 ( /
天竜川
安間川流域
浜松市史 三
([天竜川の治水])
[
天竜川
の治水] 金原明善は天保三年(一八三二)六月七日(明治以前の記録には八月二十六日)、長上(ながかみ / [
天竜川
の治水]
浜松市史 五
([天竜川西縁水防組合の解散と浜松市水防団の誕生])
[
天竜川
西縁水防組合の解散と浜松市水防団の誕生] 【
天竜川
西縁水防組合】 昭和二十七年(一九五二,)八月一日かつての河輪村外十五ケ町村水防組合は、
天竜川
西縁水防組合と改称された(『浜松市水防団のあゆみ,静岡県主催の昭和三十四年度
天竜川
連合水防演習が七月二十八日磐田郡豊田村池田地内の
天竜川
左岸堤防で行われた,【浜松市水防団】 前述の
天竜川
西縁水防組合は、昭和三十八年三月三十一日に発展的に解散、同四月一日に,笠井・中ノ町・飯田・芳川・河輪の各分団は地区内の
天竜川
およびその支流、五島分団は地区内の
天竜川
・芳川・ / [
天竜川
西縁水防組合の解散と浜松市水防団の誕生]
浜松市史 三
(天竜川通堤防会社 治河協力社 沿岸住民の反対)
天竜川
通堤防会社 治河協力社 沿岸住民の反対 明善はこのような状勢にかんがみて、わが抱負を実現させるためには,同志の共同事業によるしかないと考え、明治七年六月県の許可を得て
天竜川
通堤防会社を創立し、自らその社長に,さて
天竜川
通堤防会社はまもなく内務省の指示によって治河協力社と改称した。,八年】明善は明治八年三月浜松県へ改称願を出すとともに翌年四月には治河協力社総裁専務に任命され、さらに
天竜川
堤防取締役 /
天竜川
通堤防会社 治河協力社 沿岸住民の反対
浜松市史 一
([天竜川平野部の開発])
[
天竜川
平野部の開発] 弥生時代後期の後半に入ると、この地方の弥生文化遺跡は飛躍的に増加した。 / [
天竜川
平野部の開発]
浜松市史 三
(渡船 船越一色村 天竜川船橋 天竜橋 船越一色村の困窮 池田橋 豊田橋 渡船場 掛塚橋)
渡船 船越一色村
天竜川
船橋 天竜橋 船越一色村の困窮 池田橋 豊田橋 渡船場 掛塚橋 水上交通では,
天竜川
には明治元年十月御東幸のさいに船橋が架けられたが、このとき船橋の架設権の行方は、江戸時代を通じ
天竜川
,明治二十七年頌徳碑建立)・萱場村鈴木謙一郎等による
天竜川
船橋架橋の出願となった。,その後、明治九年九月洪水で流失し架け替えられた(『
天龍川
池田の渡船』)。,
天竜川
の木橋 豊田橋 / 渡船 船越一色村
天竜川
船橋 天竜橋 船越一色村の困窮 池田橋 豊田橋 渡船場 掛塚橋
浜松市史 三
(遠州灘海岸平野 天竜川平野 三方原台地)
遠州灘海岸平野
天竜川
平野 三方原台地 一般に地盤の若い①遠州灘海岸平野地域②
天竜川
沖積平野地域に被害,
天竜川
原に立つ送電鉄塔南に傾斜 和田村 14 20 天竜兵器工場倒潰し死亡2人,傷者1人(動員学徒),江戸時代の旧
天竜川
流路跡に倒家 掘抜井戸は富屋敷で40間以上 五島村 42 86 寺院・神社は全部半潰 / 遠州灘海岸平野
天竜川
平野 三方原台地
浜松市史 三
(遠江の報徳 与平治力伝 天竜川の氾濫と報徳 西遠農学社)
遠江の報徳 与平治力伝
天竜川
の氾濫と報徳 西遠農学社 【下石田報徳社】これを静岡県でみると、遠江地方,森之の時代は
天竜川
の水害につづく天保の飢饉の直後であり、森時および正信(力伝)のころも
天竜川
の出水が続 / 遠江の報徳 与平治力伝
天竜川
の氾濫と報徳 西遠農学社
浜松市史 三
(治河協力社解散)
結果、治河協力社への地元寄付金二千七百余円および天竜橋の管理権を沿岸諸村へ譲渡するという約定をもって
天竜川
沿岸二百三十六,こうして
天竜川
は「明善の
天竜川
」より「沿岸二百三十六か村の
天竜川
」にもどり、
天竜川
第一次改修工事も内務省,によって明治十八年より十か年計画をもって実施の運びとなった(
天竜川
第二次改修工事は大正十二年より十か年,の継続計画で実施され、昭和二年には中ノ町に
天竜川
改修事務所ができた)。
浜松市史 ニ
(有玉伝説)
有玉伝説
天竜川
といえば、坂上田村麻呂にちなむ有玉伝説は浜松地方における伝説の代表的なもので、玉を投,じたために
天竜川
が干上り陸地が出現したことを説いているのであるが、有玉(ありたま)村の八幡宮(当市有玉神社,がもとはその玉を斎く社であったと伝えているのも(『遠江国風土記伝』中道朔爾『遠江積志村民俗誌』)、やはり
天竜川
,式内社の津毛利神社は
天竜川
の渡頭に、邑瀬神社は
天竜川
の砂洲にまつった神社で、その由来をたずねるといずれも,
天竜川
の流路に縁のある神社であったという(内田旭「社寺の郷土史的説明」『郷友』第二号)。
浜松市史 一
(海底谷)
海底谷 海底地形をみると、
天竜川
の沖に海底谷が存在し、この部分で陸棚はいちじるしく狭まる。,水深二〇メートル以浅の海底の幅は、
天竜川
の河口およびその東側にかけて狭く、
天竜川
西岸において広くなっている
浜松市史 三
(天皇陛下に拝謁)
天皇陛下に拝謁 十一年十一月一日、明善は妻玉城とともに
天竜川
堤上の治河協力社に於て北陸東海巡幸途次の,
天竜川
治水に尽力する篤行を賞せられたのであった。,これより「
天竜川
の義人」金原明善の名はいよいよ天下に知られるようになった。
浜松市史 一
(天竜河道の変遷)
おそらく
天竜川
の河流が一定せず、変遷を重ねたためであろう。,
天竜川
といえば、池田庄の四至の中に、「東は天竜河を限る」としてあり、池田庄は
天竜川
の西岸にあったことを,しかし、池田庄の庄域は、後述するように、今日の
天竜川
の東岸にもおよんでいたことは明らかであって、
天竜川
浜松市史 三
(東支川締切工事計画 掛塚住民の反対)
東支川締切工事計画 掛塚住民の反対 六年二月、明善は前の役を免ぜられ県から「
天竜川
通普請ニ付格別奇特之取計有之,ニ付」「水利堤防之義ニ付見込之趣有之候ハ、堤防掛江可申立」として
天竜川
通総取締を命ぜられた。,このときかねての持論である
天竜川
東支川の締切り工事計画を県へ提案した。,これは当時
天竜川
は掛塚付近において東西に分流し、西が本流をなし東が支流をなしていたのを、明善のいわゆる,このためにこの計画は中止されたが、このような明善の治水計画には長年
天竜川
沿岸に住む住民の利害得失と相容
浜松市史 ニ
(小天竜と彦助堤)
小天竜と彦助堤 近世初期の小
天竜川
は二俣鹿島の下から浜松馬籠へ流通していたが、この川筋は降雨の際洪水,(一六五〇ごろ)に行なわれたが、完成は延宝三年(一六七五)であるとみられる(『浜北村誌資料第二輯』―
天竜川
沿革考,甲陽軍鑑の
天竜川
絵図 遠江国風土記伝 正保図牒の
天竜川
絵図 遠江国風土記伝
浜松市史 一
(流水量)
流水量 浜松市域の東境をなしている
天竜川
は、その源を長野県の諏訪湖に発し、伊那谷を南流して天竜峡以南,
天竜川
の本支流四か所について一〇〇平方キロあたり平均流量を示すと第3表のごとくである。,このようにしてえた
天竜川
の推定渇水量は七一・七八㎥/秒、また推定年平均流量は一九五・七八㎥/秒であるが,ちなみに
天竜川
左岸の伏流水賦存量は三〇〇千㎥/日といわれている。,(表)第3表
天竜川
本支流100k㎡あたり平均流量
天竜川
本支流(測水地) 最大 豊水 平水 低水
浜松市史 一
(第一海進期 第二海進期 第三海進期 第四海進期)
こういった立場から三方原の生い立ちを考えてみると、最初の海進期に
天竜川
は東鴨江累層を堆積させ、つぎの海退期,には
天竜川
は浜名湖付近に谷を刻み、さきの堆積物の東鴨江累層を扇状地として残し、またこれをいちじるしく侵蝕,【古浜名湖】そして浜名湖付近には小河川の流入しかなかったために、かつての
天竜川
の開析谷に入江が生じていた,しかし引きつづく海面の上昇のため、水位の上がった
天竜川
はついにそれまで障壁となっていた東鴨江累層を乗り,このころ、
天竜川
地区では、谷を埋めて小野口礫層が生成した。
浜松市史 三
(天竜運輸会社)
この会社は二十五年九月に、
天竜川
の「木材其他ノ貨物鉄道便ヲ以テ迅速安全」に運輸営業の目的をもって、発起人金原明善,三十一年七月一日
天竜川
駅が開業すると駅前(和田村橋羽)へ移った。,木材のみならず
天竜川
上流の鉱石(古河鉱業久根鉱山)・洋紙(王子製紙の気田、中部分工場)の輸送にもあたり,【日通支店】昭和二十年に一駅一店の国策によって日本通運株式会社に合併され日通
天竜川
支店となって現在にいたっている
浜松市史 ニ
(市の商圏)
【市の保護】また笠井市の関係者も、たとえば
天竜川
以東の商人には
天竜川
の渡船賃を大豆・麦によって池田の渡船業者,ところが文化年間に
天竜川
西の村々の者が「地船」で
天竜川
を渡り、川東の旧方の村々や森・山梨の月例市場へ畑作物,【横越渡船】これに対し
天竜川
渡船の独占的特権を持っていた池田村はこれを新規の「横越渡船」として抗議し、
浜松市史 ニ
(馬籠渡船)
馬籠渡船 近世の東海道筋
天竜川
には橋がなく、渡河は船渡しであった(将軍・朝鮮人・琉球人来朝など特別の,【船越村 天竜渡船 池田村】近世の交通制度の多くが戦国大名の施策に始まったように、
天竜川
の渡船制度も家康,【
天竜川
の流路の変遷】これは
天竜川
の河道の変遷がいちじるしく、その名称もさまざまに変化し、そのことが文献,の
天竜川
は二俣近辺から東西に分かれ、西が「小てんりう」、東が「大てんりう」となっている。,これを正保の図と比べると、近世初期の
天竜川
の流路・名称がわかる。
浜松市史 一
(夏の出水)
夏の出水 台風の進路が遠州灘から北上して浜松付近を直進する場合、暴風雨が浜松を襲い、
天竜川
が氾濫する,いま近世を例として風水害の状況をみると、つぎのように、七、八月(陰暦)のころに多く、しかも
天竜川
洪涵原,耕地に浸水して農作物に多大の被害をおよぼし、時には東海道まで出水があって、交通が杜絶することさえあり、
天竜川
,『浜松市史史料編一』の平右衛門記録によると、 【彦助堤】(1)寛永十三年(一六三六)
天竜川
満水,【中野町村】(4)元禄十一年(一六九八)七月 大雨、中野町村付近の川越島村堤切れ、
天竜川
の水押し入り、
浜松市史 ニ
(馬籠渡船の廃絶と船越村)
渡船に依存度の強かった船越村は、先規格式を以って「二里」もはなれた
天竜川
渡船に加入することを幕府に歎願,当時、平常時の
天竜川
は中央の川原をはさんで東西に分流し、浜松側を西川、小
天竜川
などと呼んだ。,【渡船位置】また
天竜川
の渡船場の位置であるが明暦・万治のころまでは(道中記その他)、東は池田の下手(しもて,
天竜川
渡船場図 青山御領分絵図 部分
浜松市史 三
(直流岩積式工法)
直流岩積式工法 この行幸が終ると
天竜川
の治水は忘れさられた状態になり、静岡藩もそれをかえりみる余裕もなかったが,、ようやく明治四年になっては藩役人水利郡方御頭福岡久に命じて
天竜川
治水策を講ずることになった。,これは
天竜川
下流の鹿島(かじま)と掛塚(かけつか)間七里の河巾を定め直流化させるとともに、両岸を岩石でもってたたむという,
天竜川
の治水策が本格的に始まったのは、このときといってよいであろう。
浜松市史 一
(家康の渡舟規定)
家康の渡舟規定 【
天竜川
】徳川家康は天正元年(一五七三)十一月、
天竜川
の渡船の規定をつくった(『水野文書,また
天竜川
沿岸の池田の行興寺もその渡船に関係している。,家康は、天正二年(一五七四)
天竜川
とまったく同じ規定をし、この渡場の経営を土地の船頭にまかせながら、強
浜松市史 一
(日蓮宗)
】日蓮宗は、東海地方で伊豆・駿河を中心としたが、遠江では、外護者金原左近によって開かれた妙恩寺(当市
天竜川
町,妙恩寺(浜松市
天竜川
町)
浜松市史 一
([後期弥生文化の地域圏])
[後期弥生文化の地域圏]
天竜川
以西の後期後半の土器群は、相互に驚くほどよく一致した特徴を示している,ところが、
天竜川
以東のものと比べると、同じく遠江地方でありながらすでにかなり相違点がみられている。,
天竜川
以東は大井川流域にいたるまでの地域内で、顕著な共通性が存するようであり、それは静岡平野のものとは,こうしてみると、浜松の地域は
天竜川
以東との結びつきよりも、愛知県下との関係の方が強かったことがわかるのである
浜松市史 一
(自然環境編)
二七 海岸線と海底地形 沿岸低地の特色と成因 第四節
天竜川
,と沖積平地 三〇
天竜川
沖積平地 第五節 北部山地と,第四章 自然災害 第一節 風水害 五五
天竜川
浜松市史 一
(立地の特殊性)
立地の特殊性 ところで、本墳は
天竜川
平野の中央に立地し、現
天竜川
はその東一キロの所を流れている。,当時の
天竜川
がどこを流れていたか判然とはしないけれども、たえず洪水の危険性にさらされていたわけである。
浜松市史 ニ
(水神)
水神 水神社 稲作地帯のいたるところにあったが、とりわけ
天竜川
をはじめ馬込川(まごめがわ)・芳川(ほうがわ,なお椎ケ脇(しいがわき)社(天竜市)は
天竜川
畔にあり由緒ある水神社として知られていた。,
天竜川
の渡船を業とした船越(ふなこし)一色村(当市船越町)ではこの社に灯籠の寄進をしている。
浜松市史 ニ
(馬伏塚築城)
九月勝頼は、
天竜川
まで進撃する。,家康は小
天竜川
に陣してこれにそなえたが、両軍の衝突はなく勝頼は帰国した。
浜松市史 ニ
(位置)
位置 浜松城は三方原(みかたがはら)洪積台地の東南端が、台地の東にひろがる
天竜川
の沖積平野へ移る河岸段丘,の傾斜面に築いたもので、
天竜川
・遠州灘海岸へおのおの五・五キロ、また一二キロで浜名湖東岸に達し、西北方一帯
浜松市史 ニ
(船賃配分)
ここで、臨時大通り(重き通行)の際の
天竜川
渡船定助役と大助役とについてふれておく。,宝永四年の
天竜川
高札には「よせ船」のことが強調されているから、それ以前のことであろう。
/ 8ページ