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浜松市史 五
(奥山線)
奥山線
【気賀口─奥山間廃止】
奥山線
は、合併後も赤字路線から脱出できないまま累積債務が増大し続,【
奥山線
廃止】 それからわずか五カ月後の同年十月には、
奥山線
廃止の方針が決定され、十二月には浜松市,、引佐町、細江町に
奥山線
営業廃止を申し入れるとともに、名古屋陸運局に営業廃止の申請を行った。,昭和三十九年一月には労働組合、四月には細江町と引佐町、六月には浜松市の同意を得て、同年十月三十一日限りで、
奥山線
,この結果、それまで
奥山線
が担ってきた輸送は、全面的にバス輸送に切り替えられることになった。 /
奥山線
浜松市史 四
([奥山線の転機])
[
奥山線
の転機] 【併行バス路線の新設】 これより前の昭和三十一年末には『静岡新聞』(昭和三十一年十二月十三日付,)は、
奥山線
東田町駅の改造に触れる一方で、「西遠交通界にとつて劃期的事業」として、次のように報じた。, 遠鉄では現在の
奥山線
に併行してさらに地元利用者の利便のために気賀から奥山までバス路線,これが実現の暁は
奥山線
軌道車(気動車)と併行して走ることになるが、利用度の実効があり、地元民がバス路線,そして、
奥山線
廃止は先のことになるが、特に乗降客の少ない都田口─奥山間の列車の運転を一時休止する計画を / [
奥山線
の転機]
浜松市史 四
([奥山線の電化とディーゼル化])
[
奥山線
の電化とディーゼル化] 【
奥山線
の電化 ディーゼル動車 ラッキョ軽便】 昭和二十四年以降,、
奥山線
の近代化を図るための計画が立案され、実施に移されていった。,
奥山線
の蒸気機関車の完全な引退は昭和三十一年六月であった。 / [
奥山線
の電化とディーゼル化]
浜松市史 四
([利用客の動向と能力の限界])
[利用客の動向と能力の限界]
奥山線
では、電化とディーゼル化による新車両の導入を進める一方、表3-26,こうして、
奥山線
の利用者数は、二十六年度に二百六十万人を突破した。,既述のように、同年に
奥山線
の起点である東田町駅と二俣電車線の遠州浜松駅とが遠鉄浜松駅に統合され、バスの,とはいえ、それ以降、二俣電車線の利用者数が一貫して伸びたのに対して、
奥山線
は再び減少に転じた。 ,表3-26 二俣電車線と
奥山線
の停留場新設・駅名変更・駅舎改築等 年月日 二俣電車線
奥山線
昭和26
浜松市史 四
([乗降客の変遷])
[乗降客の変遷] 【二俣電車線
奥山線
】 二俣電車線による輸送人員は、昭和二十年度に千五十七万人,
奥山線
は電化以後利用者が急増したが、ピークは昭和三十五年度の二百八十五万人で、それ以後は伸び悩んだ。,二俣電車線と
奥山線
を合計すると同期間では八百万人後半から九百万人台で推移した。
浜松市史 四
([遠州鉄道への合併])
[遠州鉄道への合併] 【浜松鉄道解散 遠州鉄道
奥山線
】 戦災や設備の老朽化なども重なって、経営困難状態,この結果、浜松鉄道は遠州鉄道
奥山線
となり、遠州鉄道の営業路線は四十四・四キロメートルとなった。
浜松市史 四
([戦災被害と復興])
なお、『浜松商工会議所六十年史』(昭和二十九年)によれば、昭和十四年の
奥山線
の乗降客数は約六十五万人で,表2-38 遠州鉄道(株)鉄道線旅客輸送人数の推移 年度 二俣電車線
奥山線
合計 人 人 人 昭和
しいの森はぎの原:わが町文化誌
(浜松市立北部公民館『しいの森はぎの原:わが町文化誌』 目次)
艦砲射撃】 74 面会に行った日―ふささんが語ったこと― 【静岡連隊 出征 平田踏切】 77
奥山線
, コッペル型 ラッキョウ軽便】 79 【駅名 銭取 小豆餅 線路図 脱線事故 故障 愛され続けた
奥山線
,】 80 【戦時下の
奥山線
飛行連隊前 特別臨時急行列車 やがて廃線】 84 本田技研葵工場―,星ふる夜に 【暗闇 星座 すばる 頭巾落とし】 161 夜学の帰り道 【浜松北高等学校
奥山線
,大山祇神社 夜店】 209 おばあさんから聞いた話 【昔話 伝説】 210 小豆餅と銭取 【
奥山線
浜松市史 四
([自動踏切警報装置と遮断機])
警報機や遮断機の設置は、三十三年までの四年間に二俣電車線と
奥山線
を合わせて二十七カ所に及んだ。
浜松市史 三
(市街電車)
至る案であったが、第二次案は板屋町駅から浜松駅前に出て鴨江裁判所・高等工業学校・名残・高射砲隊を経て
奥山線
浜松市史 三
(浜松鉄道株式会社)
【
奥山線
】終点の奥山までの全長二十五・八キロメートルの全線開通をみたのは大正十二年四月であった(なお、,
奥山線
◎駅 ○停留所
いろはの「イ」:城北地区わが町文化誌
(浜松市立西部公民館『いろはの「イ」:城北地区わが町文化誌』 目次)
】 77 四、消防第三分団 【ポンプ小屋 火の見櫓】 79 五、亀山トンネル 【遠州鉄道
奥山線
,84 七、金魚屋の思い出 【沢の金魚屋 龍舌蘭】 86 八、人の行き交う風景 【遠州鉄道
奥山線
浜松市史 三
(浜松被害工場 浜松交通関係被害)
遠州鉄道株式会社経営の西鹿島線は浜松駅前と助信間二・五キロメートルが不通となり、浜松鉄道株式会社(市内元城町)経営の
奥山線
浜松市史 四
([交通の拠点・遠鉄浜松駅])
同駅は、それまで百メートル以上離れていた二俣電車線遠州浜松駅と
奥山線
の起点である東田町駅を統合したもので
台地と水と輝き:わが町文化誌
(浜松市立高台公民館『台地と水と輝き:わが町文化誌』 目次)
の発達と現状 84 【浜松市営バス 遠州鉄道のバス 高台地区のバス路線】 84 (四)軽便鉄道
奥山線
,の変遷 86 【浜松軽便鉄道設立から浜松鉄道へ 連隊前 銭取 小豆餅】 86 【
奥山線
近代化への,努力 軌道自動車の導入 ガソリンカー レールカー 通学 お花見列車】 88 【遠州鉄道
奥山線
の発足と,178 【四ツ池公園 幸三丁目 紙すき場 櫨 三椏 サギ草 モウセンゴケ ホタル 野鳥】 179 【
奥山線
銭取停留場跡
浜松市史 四
([新車の導入と郊外路線の開設])
二俣電車線と
奥山線
、そして浜松から気賀までのバス路線を持つ遠州鉄道側からの反対があったが、その後の調整
浜松市史 三
(買物圏の拡大 近代化する商店 百貨店開業)
買物圏の拡大 近代化する商店 百貨店開業 このような傾向は郊外交通(二俣線・
奥山線
の開通。
浜松市史 四
(目次)
みもなく運転続行 史上最多の利用客 全線復旧と新車の導入 二
奥山線
, 二八七 戦災被害と復興 遠州鉄道への合併
奥山線
,自動踏切警報装置と遮断機 乗降客の変遷 交通の拠点・遠鉄浜松駅 二
奥山線
,とその限界 七〇三 利用客の動向と能力の限界
奥山線
浜松市史 四
([第一回浜松まつりの実施])
なお、まつり開始直前の四月二十六日に
奥山線
の東田町―曳馬野間の電化が完成し、凧揚げ会場最寄りの上池川駅
浜松市史 三
(写真・図版目次)
トンネル(七十九メートル) (高槻市 桜井静馬氏提供) 四九七
奥山線
引佐町史 下巻
(引佐町史 下巻 目次)
進展 870 1 低福祉水準の克服 870 2 幸せな生活を築くために 876 (三)遠州鉄道
奥山線
,と自動車交通 878 1
奥山線
の廃止へ 878 2 バス交通と道路事情 882 3 道路補修に
浜松市史 四
([現代総説(上)])
遠州鉄道二俣電車線は、昭和二十二年六月に旭町─遠州浜松間を復旧して全線運行を実現し、以後、
奥山線
とともに
浜松中心街の今昔:わがまち文化誌
(浜松市立中部公民館『浜松中心街の今昔:わが町文化誌』 目次)
317 【山下町 本田技研工業 瑞泉庵 アート商会浜松支店 六間道路】 317 (四)軽便鉄道
奥山線
浜松市史 五
(目次)
二三四 二俣電車線の輸送量増強
奥山線
浜松市史 四
(図・表一覧)
日本国有鉄道経理局『鉄道統計年報』第1編運輸 昭和25年~31年度 国立国会図書館 3-26 二俣電車線と
奥山線
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