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浜松市立中央図書館/浜松市文化遺産デジタルアーカイブ

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検索結果 : 42件
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浜松市史 一 (宿駅)

宿駅 律令制による駅制(えきせい)が、平安中期にくずれてくると、宿駅(しゅくえき)ができる。,宿駅の所在する聚落が宿(しゅく)である。   / 宿駅
浜松市史 ニ (宿駅制度の目的)

宿駅制度の目的 江戸時代の宿駅制度は、公用(公儀御用)の旅行者・貨物の通行運輸休泊や通信を確実に(一定数 / 宿駅制度の目的
浜松市史 ニ (宿駅の困窮と余荷)

宿駅の困窮と余荷 つぎに余荷(よない)がある。,これは宿駅が困窮した場合に、増助郷村がその宿駅の人馬を補助するのである。 / 宿駅の困窮と余荷
舞阪町史 上巻 (舞阪町史 上巻 目次)

徳川氏 第一節 今川氏の滅亡 225 第二節 徳川家康の支配 231    第三編 近世編 第一章 宿駅,の成立と発展 第一節 舞坂宿の成立 363 舞坂宿の設置 幕藩制の確立過程と交通 宿駅人馬の補充 第二節, 宿駅制度の展開 388 道中奉行の創設前後 十七世紀後半の宿駅政策 元禄政治と宿駅・助郷政策 第三節,と舞坂宿の変容 第一節 正徳の宿駅改革 457 宝永の大地震 新井白石の構想 宿高札と元賃銭 朝鮮・, 天明の飢饉と名主市左衛門 第四節 寛政・文政の宿駅改革 561 寛政改革 改革政治の狭間 文政の宿駅改革
浜松市史 ニ (幕府の助成)

幕府の助成 【拝借金】幕府は万治二年、道中奉行を創設し、翌三年には東海道各宿駅に拝借金を出したが、その,際御料の宿駅へは金五百両、私領内の宿駅へは三百両と差別をつけた。,これは、私領内の宿駅の維持運営に関する責任を藩主に分担させようとする幕府の意図を示すものと思われる。
浜松市史 ニ (退転馬の増加)

退転馬の増加 前にもふれたように(第三章第三節)宿駅制の主目的は公用の通行・通信を確実に低廉に行なうことにあったので,、幕府や藩は宿駅に対して保護助成をした。,しかし、増大する交通量に対する人馬役は宿駅住民の負担能力をこえる場合が多く、宿駅財政は苦しかった。
浜松市史 一 (戦時の宿場)

戦時の宿場 戦時でも、宿駅の伝馬業者とか少数の交通労働者は、徴用を除外される。,戦時に宿駅は機能のすべてをあげて、軍隊と物資の輸送にあたる。宿民は避難することができない。
浜松市史 一 (伝馬の制度)

【宿駅と聚落 問屋】この宿駅を維持するためには聚落が必要である。,この宿駅は、交通路がふえたため、にわかに発達した商業聚落であって、分国経済の確立にかくことができない。,永禄二年三月、今川氏は駿河・遠江・三河の宿駅に対し、伝馬一疋をださせた(『屋代本文書』)。
浜松市史 一 (今川氏の伝馬手形)

宿駅に対し伝馬二疋を仕立てさせた手形だが、無賃ではないようである。,無賃でなければ、この手形により、各宿駅に対し、伝馬を仕立てさせる優先権を与えられたことになる(相田二郎
浜松市史 ニ (宿の財政と助成)

その後、万治・寛文・延宝年間には困窮はなはだしく、幕府や藩から米・金銭などを拝借拝領することによって宿駅,ところで、このような宿駅に対する助成は誰からどのように行なわれたものであろうか。
浜松市史 一 (新宿の増加 守護の責任 ひきま)

ひきま 建久五年(一一九四)十一月八日に幕府は、宿を大小にわけ、早馬と御物のための馬と人夫の数をきめ、宿駅,高貴の人の宿駅での食事や設営は、守護が地頭・御家人を使って責任を果たしていた。  
浜松市史 ニ (算盤)

算盤 元和年間(一六一五-一六二三)以後東海道の宿駅は整備され、また寛永十二年(一六三五)参勤交代が
浜松市史 一 (宿の長者)

宿の長者 宿駅は、宿(しゅく)の長者の個人経営で、宿泊と給食の準備があり、長者の女という遊女が旅行者
浜松市史 一 (遊女の教養)

遊女の教養 鎌倉時代の池田宿は、古くからの宿駅で、旅人の往復は繁く、長者のもとに多くの遊女がいた。
浜松市史 ニ (船賃配分)

これは宿駅の助郷制に相当するものであるが、その起源は明らかでない。
浜松市史 一 (戦国大名の経済流通政策)

戦国大名の経済流通政策 戦国大名は、農業生産力の向上、手工業の統制、宿駅・港湾の整備による交通網の維持
浜松市史 一 (都市のなりたち)

)町とか寺内(じない)町、港津関係の大津(大津市)・博多(福岡市)・堺(堺市)・兵庫(神戸市)など、宿駅関係
浜松市史 ニ (城下町で宿場町)

城下町で宿場町 近世都市としての浜松は、浜松藩の城下町の中に東海道の宿駅を包むかたちで成立し発展したところに
浜松市史 ニ (信玄の計画)

見付は東海道の宿駅であり、引馬と懸川を遮断する中間地であるから、これは駿遠分割の契約にもそむき、家康を
浜松市史 一 (引馬宿は浜松市の原型)

引馬宿は浜松市の原型 【伝馬町 連尺町】宿駅関係の都市は、街路にそい、長方形に展開する。
浜松市史 ニ (幕府と藩の二重支配)

幕府と藩の二重支配 江戸幕府は当初、年番・代官・関東奉行などに宿駅を支配させたが、万治二年(一六五九,ところで、浜松宿は浜松領内にあったので浜松藩主も宿駅の維持に関係をもち、宿場をめぐる幕府と浜松藩の権限
浜松市史 ニ (和蘭人参礼)

【負担金】これは朝鮮人賀使や琉球人使節のように優遇はうけないので、それだけに沿道の宿駅の負担は軽かった
浜松市史 一 (平山城と城下町)

交通線にそって宿駅ができる。これが新宿(しんしゅく)である。
浜松市史 三 (開拓の延期)

その理由は「三方原開拓之儀、自然宿駅之姿を為し候而ハ往々本海道より故障申出候様可相成哉も難計候間」それでは
浜松市史 ニ (本陣)

本陣 前にも述べたように本陣は宿駅における大名・公卿等の宿泊する高等旅館であり、天保十四年ごろには本陣
浜松市史 ニ ([領国経営])

にみられるような伝馬制(『浜松市史史料編一』)を継承して、天正十五年から同十八年にかけて駿府・岡崎間の東海道の各宿駅
浜松市史 一 (徳川家康の伝馬手形)

この印判は、慶長六年(一六〇一)正月に東海道五十三次の宿駅ができるまで、伝馬手形専用として使用された(
浜松市史 ニ (人馬持立金の下付)

この場合、とくに注目すべき点は、従来の百五十五疋の数がまったく無視されて、東海道筋の宿駅一般の定馬百疋
浜松市史 ニ (御役町と無役町)

御役町と無役町 武家屋敷に対して、町屋敷(町地)は浜松宿駅の伝馬役・人足役を負担する御役町(次節参照
浜松市史 一 (守護の職務)

幕府から御家人への法令や命令を伝え、御家人から幕府への願いでをとどけ、国内の大社寺の造営や修理、道路・宿駅
浜松市史 三 (気賀林の三方原開発案)

なお年貢を仰付けられたい、というのが要旨で、つまり浜松と気賀との中間の往還通り(姫街道)に沿って市街(宿駅
浜松市史 一 (浜松のばあい)

浜松のばあい 【発展の条件】当市は、政治・宿駅・市場など都市成立の条件を早くから多くかね備えて発展をつづけてきた
浜松市史 ニ (検地帳名請人)

者   3 主作地のみをもつ者 24 22 合計 32 45(三浦俊明「浜松藩領域の形成と宿駅助成金
浜松市史 ニ (御役六町)

備考 人足数 駄賃伝馬数 慶長6 伝馬町 36疋     杉浦助右衛門 東海辺宿駅伝馬制創始
浜松市史 ニ (浜松町奉行)

藩制のうち、領民にもっとも関係の深いものは、町場では町奉行と宿駅に関する朱印改役(高力摂津守時代)・問屋出役
浜松市史 ニ (旅籠屋)

【寛永期 宝暦期】『浜松宿御役町由来記』によると、元和の末から寛永にかけて宿駅も繁昌し、家居もたくさんでき
浜松市史 ニ (旅行記に現われた宿の繁昌)

(表)東海道遠江9宿駅一覧表(天保14年) 宿番   戸数 人口 本陣数 脇本陣数 旅籠屋数
浜松市史 一 (市場)

ことに交通路線を整備したとき、街道の要所に宿駅をつくり、人馬をおいた。
浜松市史 四 ([『浜松発展史』の刊行])

    宿駅、城下町時代   地方小商業都市及び織物工業揺藍(籃)時代   地方商業都市及
浜松市史 ニ (問屋場と問屋役人)

【問屋場の任務】問屋場は宿駅の中枢的機能である人馬継立の重要事務を実際に処理してゆく場所であり、中期では
浜松市史 ニ (目次)

       町と村の別   第三節 御役町の成立                   九六        宿駅制度
学びの里祈りの丘:わが町文化誌 (浜松市立県居公民館『学びの里祈りの丘:わが町文化誌』 目次)

にぎわう東海道 【宿場 表筋町 裏町通筋 横町】 7 【浜松名産「忍冬酒」 神谷家】 9 【東海道宿駅制度
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