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浜松市立中央図書館/浜松市文化遺産デジタルアーカイブ

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浜松市史 三 (市場)

市場 【繭市場 青物市場】また市場には繭市場・魚市場・青物市場・果物市場があった。,繭市場は大正十五年五月には野口(現在の八幡町)に移り、大正十五年には繭糸販売購売利用組合が設立された。,青物市場は中島町(鉄道線路以南)・佐藤町(同以北)。開市は昭和三年であった。,繭市場(昭和初期) / 市場
浜松市史 一 (市場)

【管理】市場の管理は、はじめは市場の収益をとるその所在地を知行している人であるが、のち市場商人の親方にうつる,大名は、特定市場に来往する商人を歓迎し、市場税などを免除した。,かっては市場税をとるために市場を建設したのである。,【小売商人 問屋】商品のでまわるにつれて、京都では穀物市場・海産物市場・家畜市場などの市場ができ、ここから,問屋と特殊市場が、都市の商業の中心になった。     / 市場
浜松市史 三 (青物市場)

青物市場 【木戸市場】青物市場 浜松宿の東はづれの向宿村木戸(現在当市木戸町)にあった。,定設市場の議がもちあがったのは、明治三十九年十一月であった。,【新町市場】このとき浜松の商人側は新町の北裏に三反歩の土地を購入して浜松宿内に市場を誘致しようとし、生産者側,は出荷に便な木戸市場の継続を主張し、かえって市場拡張の挙に出てこれに対抗した。,木戸市場と新町市場との紛争は一か年にわたったが、浜名郡長・浜松警察署長の仲裁で、市場は従前通り木戸におくこととして / 青物市場
浜松市史 三 (魚市場)

魚市場 【肴町 十四年】魚市場 明治十四年十一月に浜松肴町に設立。, 八幡地】しかし町が発展し魚類の需要が増してくると四十四年には旅籠町に浜松水産株式会社が設立されて魚市場 / 魚市場
浜松市史 三 (果物市場)

果物市場 【駅前】果物市場 果実の移入が他地方より多くなると運輸の関係上、浜松駅前に市場を設ける必要 / 果物市場
浜松市史 一 (市場商人は名主)

市場商人は名主 市場商人は、市場の付近に耕地をもっていて、自分で耕作するか、作人に耕作させた名主であった,【市場税】市場は自然にたてられたこともあるが、鎌倉中期になると、荘園領主が市津料(市場税)などをとるために,市場を建設するようになる。,市場税は市場にかける公事銭(くじせん)と駄銭(だせん)、つまり商品搬入税、座銭または貸屋敷(市庭の在家,このため領主は市場を保護し、取り締まり、市場からの収益をふやすことにつとめた。   / 市場商人は名主
浜松市史 三 (浜松市公設市場)

浜松市公設市場 【伝馬 三組 砂山】浜松市公設市場 「一般市民特に中産以下の者に対し日用品を廉価に供給,する必要から、市内大字伝馬に市直営の日用品販売所を設け廉売を行なったのが最初で、十一年三月一日常盤公設市場,(常盤町九〇、九一、九二番地)、同年四月一日三組公設市場(三組町一五八番地)、同年七月四日砂山公設市場,なお、この中で砂山市場の売上げ増加が特に著しく全体の約五十%を占めている。,砂山市場は大正十四年田町新川端に移転、昭和二年七月には松江町にも開設された。 / 浜松市公設市場
浜松市史 三 ([市場の発達])

[市場の発達] 商工業の発達にともなって物資の動きも活発となり、魚市場・青物市場などとそれぞれ専門の,市場も開設されるようになった。 / [市場の発達]
浜松市史 五 ([浜松市中央卸売市場の開設])

[浜松市中央卸売市場の開設] 【浜松市中央卸売市場】  わが国の生鮮食料品の流通を秩序付けてきたのは,、大正十二年(一九二三)に制定・公布された中央卸売市場法である。,これにより公設の市場が各地に設置されていった。,卸売市場法が制定され、七月に施行された。,昭和四十七年二月、浜松市は国の中央卸売市場開設都市の指定を受け、開設準備を本格化させた。 / [浜松市中央卸売市場の開設]
浜松市史 三 (浜松繭市場 繭生糸仲買業組合)

浜松繭市場 繭生糸仲買業組合 養蚕の発達によって、生産された繭は浜松付近では浜松駅前の新川橋付近に開設,された市場で取引きされた。 / 浜松繭市場 繭生糸仲買業組合
浜松市史 三 (鉄道開通と笠井市 浜松市場の勃興)

鉄道開通と笠井市 浜松市場の勃興 ここに於てはしなくも笠井商人と浜松商人が激しい競争を演することになったが,遠陽市場   (表)遠陽市場商店 職業 戸数 主要商店 太物商 8 鈴木初蔵 紙商 6 棒幸 / 鉄道開通と笠井市 浜松市場の勃興
浜松市史 三 (良質の綿産地 綿布業の発達 浜松市場の発達)

良質の綿産地 綿布業の発達 浜松市場の発達 遠州の天竜川西岸の平野(西遠平野ともいう)は江戸時代から,市場の中心も笠井市(かさいいち)より浜松へ移り、浜松市の生産額は昭和十一年には三千八百十五万円と遠州全産額 / 良質の綿産地 綿布業の発達 浜松市場の発達
浜松市史 一 (分国経済のありかた)

分国経済のありかた 【統制と保護】近江(滋賀県)の六角氏は、領内の座商人の紛争を裁決する権利と、市場,また領内の都市や市場に対して寺院・小領主のもつ支配権をとめて、今川氏がおさえた。,市場は、農民の生活にとっても領主の経済にとってもかくことができない。,市場の保護と新市を開くのが、領主の重要な政策になる。    ,市場税を撤廃し、自由通商を許し楽市(らくいち)とした。
浜松市史 一 (商業)

【市場と領主】市場は所在地の領主がひらく。,領主にとって、市場税が重要な財源になってきたからである。    ,市場は特定の商品を売る販売座席をもつように進んでいる。
浜松市史 一 (市庭)

市庭 【引馬宿市】地方農村でも平安の末(七九四-一一八〇)になると、交換取引の市場(市庭)ができ、しだいに,嘉吉(かきつ)三年(一四四三)に、浜松荘の引馬宿市は長禄元年(一四五七)に(『東大寺文書』四ノ二十九)市場,これらの市場のあいだには、横の連絡があったらしく、市場をめぐってあるく行商人があった。,備前国福岡庄の市場 一遍上人絵伝 部分(京都 歓喜光寺蔵)
浜松市史 一 (土倉)

定期市場の開かれた場所には、市場の倉がつくられ、商品の保管と市場の金融にあたった。
浜松市史 五 ([金融ビッグバンと金融業界の再編])

平成八年十一月「我が国金融システムの改革~二〇〇一年東京市場の再生に向けて~」と題する改革案が提案された,、①次世代の成長産業へ資金供給を行う場合、一千二百兆円の個人貯蓄の活用が不可欠である、②わが国の金融市場,をニューヨーク、ロンドンに匹敵する国際金融市場に再生する必要があると述べ、金融市場の構造改革を成し遂げなければならないとした,改革の基本原則を①市場原理が働く自由な市場(Free)、②ルールの透明化・明確化・投資家保護(Fair,)、③グローバル化に対応した法制度・会計制度、監督体制の整備(Global)の三つを掲げ、市場原理を基軸
笠井:わが町文化誌 (浜松市立笠井公民館『笠井:わが町文化誌』 目次)

章 あゆみ 7 1 なりたち 2 村のあけぼの 3 明治・大正・昭和時代 第2章 笠井市場,45 1 笠井市場 2 遠陽市場 3 町屋 4 交通運輸 第3章 くらし 65
浜松市史 一 (都市のなりたち)

大津(大津市)・博多(福岡市)・堺(堺市)・兵庫(神戸市)など、宿駅関係の遠江引馬宿・同見付宿など、市場関係,で定期市場から町に進展した三日町・六日町・十日町などもあるが、その成立にはいろいろの要素がからみあっている
浜松市史 三 (浜松商人の進出)

浜松商人の進出 【遠陽市場】この笠井市(いち)へ、浜松商人たちが進出をしたのは明治二十三年十月であった,東側に二十四戸、西側に十六戸の合計四十戸、これを遠陽(えんよう)市場と名づけた。
浜松市史 五 (花き)

花き 【浜松生花市場】  昭和五十九年二月、花き園芸農家待望の浜松生花市場が湖東町に完成した。,県西部地方は全国でも有数の花き産地で、菊、バラ、カーネーションなどを栽培していたが、その拠点となるような市場,浜松生花市場が開設されたのは昭和二十一年で、市内の生花業者ら約三百人が参加して田町に店舗を開いた。,その後、高林町に移転したが、取扱高の七割は地場物で占めるという典型的な産地市場としての歴史を歩んできた,完成した生花市場は五千六百平方メートルの面積で、鉄骨製のセリ場には、セリ落とされた切り花が即座に配送できるように
浜松市史 ニ (六斎市)

六斎市 【上市 中市 下市】笠井市は五、十の六斎市(ろくさいいち)で、市場は上市(かみいち)・中市(,【市の支配 役門】市場の支配権は「役門(やくかど)」と称して領主役を負担していた七十二軒の「古屋敷(ふるやしき
浜松市史 三 (戦後対策)

【市場調査 技術研究】これに応え遠江織物同業組合は海外市場調査(大正七年満州中国方面、大正八年から昭和九年
浜松市史 四 (三方原のバレイショ)

昭和二十五、六年までは個人出荷が主流で、バレイショをリヤカーに積んで浜松の市場まで持って行った。,その後、三方原台地の酸性の赤土と豊富な日照量で育った三方原バレイショは、きめ細やかな味で市場評価を高める
浜松市史 三 (笠井市とボデー 笠井の新興商人)

商圏も現在の周智郡森町から引佐郡三ヶ日町付近までの地方的の市場であったが、こうした笠井市に仲買商として,笠井市場跡(昭和41年撮影)
浜松市史 三 (商業の発展 市況の概況)

そして内地向の六割の内一部は市内商店の販売品となって市場を賑わし、他地方へ運送するものはその代価はまた,浜松市場に回収されて諸方面活動の原資となり、復製品となり、循環して市場の盛況を現出している。,【市街の繁華】また浜松市の工業の発展にともない、その従業員は浜松市場の好華客として市街の繁華を招来している
浜松市史 一 (年貢の銭納)

彼らはこの貨幣を村落の高利貸に借りるか、市場で農産物を売ってととのえねばならない。,地方農村の定期市場の機能は、いっそう強化される。
浜松市史 三 (蔬菜類)

に従前の養蚕から白菜(中国の山東省から種子輸入)への作物転換をはかったが、これが第二次世界大戦後全国市場,その際に種子の配布・作付反別の割当・栽培法の指導・販売市場の調査・出荷方法の調査・等級制による価格の払戻,【富塚大根】市内富塚地区でも特産の大根を東西市場に共同販売した。,【青果】また、園芸農産物は浜松市街地に対しては直接小売のほか市内の青果市場や夜間青果即売場(田町・神明町,・伝馬町)や浜松生花市場(田町)を通して販売された。
浜松市史 ニ (笠井市の由来)

これが笠井市の始まりで、人出が増すにつれ市場も拡張し上(かみ)・中(なか)・下(しも)の三か所とし市日,嘉永二年笠井市場出入文書(浜松市笠井町 川島光治郎氏蔵)
浜松市史 三 (中小企業整備令 軍需工場転換)

中小企業整備令 軍需工場転換 以上は織物業の推移であるが他の産業もこれと同様であった(昭和十五年九月魚市場,が統合し浜松魚市場会社の設立となった)。
浜松市史 五 ([食糧法と新農基法の成立])

などを導入することによって生産者の自由度を広げること、③米価の形成は、より需給を反映させることによって市場原理,に委ねること、④米の集荷から小売りまでの流通規制を緩和し新規参入を進めることなど全体として管理から市場,生産面においては、次々に新品種が登場し二百種を超える品種が市場に出回っていると言われている。,多様な販売先や販売方法が模索され、フードチェーンなどの外食産業が米市場で大きな力を持つようになってきた,農業とは集落・土地・自然との共生による総合産業であり、基本的に市場経済と相いれない側面を多く持っている
浜松市史 一 (酒造業)

貨幣経済の進みと、商人の台頭で市場が拡大したため、地方紙の生産量はふえ、種目は多くなる。,地方紙は、商人の手で中央市場に搬入された。
浜松市史 三 (笠井縞時代)

そこには浜松を中心として新時代にふさわしい動きが見られはしたが、まだ笠井市場(いちば)が中心であった。
浜松市史 ニ (市の商圏)

ところが文化年間に天竜川西の村々の者が「地船」で天竜川を渡り、川東の旧方の村々や森・山梨の月例市場へ畑作物,このとき川西の村々は、近くの笠井村の「月六度之市場」へ出荷すると大きな下値になるので川東に販路を求めたのだ
浜松市史 一 (対外貿易)

一年に五隻と制限したが、その幕府自身が「御分唐船(ごぶんとうせん)」という御用貿易船を送り、直接に海外市場,中国は南海貿易の余剰品を放出する市場を日本にあてていた。    
浜松市史 五 (楽器産業)

このようにして国内の電子楽器市場は、楽器メーカーにとどまらず電機メーカーの参入によって一大市場を形成していった,他方、中小の楽器メーカーは市場からの撤退を余儀なくされたのである。,(3)事業の多角化  戦後の日本楽器の事業多角化はオートバイ市場への参入で始まった。,同年七月にはオートバイ部門を独立させヤマハ発動機株式会社を設立、本格的にオートバイ市場に参入した。,第一に、楽器は生活必需品ではないため消費市場そのものが狭隘(きょうあい)であること。
浜松市史 五 ([民活導入])

の世界的な景気低迷に対して、アメリカやイギリスは、従来の福祉国家の実現を目標にした「大きな政府」から市場経済
浜松市史 一 (問屋)

この問丸は、鎌倉時代をすぎると独立し、市場の取引にも関係するようになった。
浜松市史 一 ([貨幣])

しかし交換と市場が発展するにつれて、この代用品では満足できないようになった。
浜松市史 一 (手工業)

市場商業は行商の活躍によったが、室町時代に京都・奈良などの大都市では、商業集落に定住して、小売店舗の棚,消費者から原料品をもらい、それに加工して賃金をえた賃仕事の形から、業者は注文だけでなく、市場をめあてに
浜松市史 ニ (市の内争)

ようやく貸店その他市野からの助成で「田地を相続渡世」してきたが、新しく家作をしなければ「市場之益」が得,の進出】しかもこの家作は容易でないところへ近年は「他村」の者まで下組の「大道筋」の村境へ家作をして「市場同様
浜松市史 五 (オートバイ産業)

それは、それぞれの市場の成熟度に合わせた製品を提供することによって成し遂げられた。,国内市場に対しては女性でも乗れるオートバイを、アメリカ市場に対しては排気量が大きくかつ安全性の高いスポーツタイプ,を、ヨーロッパ市場に対しては中型クラスの高性能のスポーツタイプを、東南アジア市場に対しては小型の商用タイプ,ヤマハは世界最大の消費市場であるアメリカで日本楽器のピアノと二人三脚でヤマハオートバイの市場を拡大していった
浜松市史 五 ([貿易の自由化とその対策])

しかし、日本経済の復興・成長とともに日本の為替・輸入制限政策に批判が高まり日本経済を国際市場へ開放せざるを,八条国への移行は経常取引において為替を管理することが出来なくなり、国内市場を外国製品に開放することを意味,つまり貿易の自由化と資本の自由化により、日本経済を国際市場へ開放することになったのである。  
浜松市史 一 (町人の意味)

戦国大名は、商人とくに他国商人が国内の市場に出入するのを歓迎した。
浜松市史 一 (引馬宿は浜松市の原型)

なお二俣街道の両側には「市場」という町名も残っている。
浜松市史 一 (農村の発達)

戦乱のため、年貢を銭で納めることが多くなり、市場がひんぱんに建設される。
浜松市史 四 ([笠井聖観世音奉賛会])

笠井聖観世音】  近世以来の地域住民の信仰を集め尊崇されてきた笠井聖観世音は、浜松市と合併するまでは、笠井市場
浜松市史 三 (果実花卉類)

デラウェア・カトウバ・コンコード)などであり、これらのうち、みかん類は浜松市街地に、その他は市街地のみならず東西市場
浜松市史 一 (枡)

【市場の枡 商業枡 公定枡】しかし余剰生産物(米穀)が商品として売りだされるようになると、荘園ごととか,農村の枡は、荘園市場の枡に統一され、それは地方の商業都市の商業枡に統合されてきた。
浜松市史 一 (伝馬の制度)

新しく市場をつくるとか、市場をとくに保護する政策がとられた。
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