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浜松市史 五
(市議会)
市議会
昭和三十四年四月の
市議会
議員選挙後初めて開かれた五月の浜松
市議会
で議長になったのは立石健であった,
市議会
ではこれまで十日会、月曜会、火曜会、弥生会などの会派があり、政策的な争いより派閥争いに明け暮れていたことから,これにより
市議会
では五年ぶりに会派制が復活、しかし、議長選では松和会内部で三派に分かれて泥仕合となり、,保守が結集した松和会が発足早々に見せた派閥抗争は
市議会
の運営に影を投げかけた。,【常任委員会 特別委員会】 浜松
市議会
には常任委員会と特別委員会が設けられている。 /
市議会
浜松市史 四
([浜松市議会])
[浜松
市議会
] 【浜松
市議会
林ひで】 地方自治法が昭和二十二年五月三日に新憲法と同時に施行された,地方議会の名称は県議会、
市議会
などと呼称するようになった。,同年五月二十八日に初めての
市議会
を開き、議長に木全大孝、副議長に徳田由太郎を選んだ。,
市議会
の議員は社会党や共産党など政党に所属する議員もいたが、大半は無所属議員であった。,これにより浜松
市議会
議員三十五名中、二十五人が入党し、以後
市議会
で絶対多数を占めるに至った。 / [浜松
市議会
]
浜松市史 四
([市議会の動向])
[
市議会
の動向] 【
市議会
】
市議会
議員選挙も市長選と同じ日に行われたが、定員四十人に対して九十人,この時、
市議会
の勢力分野は十日会二十五、月曜会八、革新系六、中立一であった。, 【
市議会
各派の対立】 五月十五日に開かれた
市議会
では各派の対立が深刻となり、元議長,これについて『静岡新聞』は「大林議長辞意を表明 荒れるか浜松
市議会
」の大見出しの下、後任議長をめぐる争,』は「…醜いまでの議長争いを展開した最大の原因は、議長は
市議会
の代表という本質的な公的な意味を忘れて、 / [
市議会
の動向]
浜松市史 四
([メンバー一新の市議会])
[メンバー一新の
市議会
] 【
市議会
議員選挙】 浜松市長選挙と同時に実施された
市議会
議員選挙では、 / [メンバー一新の
市議会
]
浜松市史 五
([浜松市議会と定数問題])
[浜松
市議会
と定数問題] 【新政会 議長一年交代】 自民党と保守系議員による松和会は昭和三十九年,これ以後、
市議会
の常任・特別委員会の正副委員長のポストの割り振りで混乱が続いた。,
市議会
では昭和三十九年の会派制導入以来最大会派の松和会(新政会の前身)と新政会が正副議長を独占してきたが,このほか、これより前の平成七年一月五日号の「
市議会
だより」より発言者の会派名(平成十一年十月二十日号から,【浜松
市議会
の定数】 浜松
市議会
の定数は昭和三十八年に四十八人となって以来変更はなかった。 / [浜松
市議会
と定数問題]
浜松市史 五
([市議会への請願・陳情・要望])
[
市議会
への請願・陳情・要望] 【請願 陳情 要望】 地方自治においては住民は選挙権、被選挙権をはじめ,これに代わって
市議会
への請願や陳情、要望の制度がしばしば使われた。,このうち、請願は議員の紹介により、記名押印された文書を
市議会
議長に提出することになっている。,浜松
市議会
の議事録によると、昭和四十年からの同四十一年までの請願とその採択状況は次の通りである。,一方、
市議会
は国や県、市の執行機関に対し、重要な課題について審議を行い、意見や決議、宣言などを行っていた / [
市議会
への請願・陳情・要望]
浜松市史 四
([競馬場の設置と反対運動])
昭和二十七年一月十日、徳田
市議会
議長は県の要請を受けて地元選出の県議会議員、浜松商工会議所の正・副会頭,、岩崎市長らの参集を求めて
市議会
競馬場設置特別委員会の委員らと懇談会を開き、
市議会
側の設置理由と静岡大学側,は昭和二十八年一月二十日に打開策を協議し、翌日の
市議会
全員協議会では「県営浜松競馬場は市として直接手を,これにより、
市議会
競馬場設置特別委員会の委員が関東と近畿の民営競馬場を視察し、会社との間で契約交渉に入,十月十二日に行われた
市議会
競馬場設置特別委員会ではこれまでの民営化路線を放棄し市営で行うことと、上島町
浜松市史 五
([入野村と積志村の合併])
昭和三十年(一九五五)四月の市長選で再選を果たした岩崎市長は周辺町村との合併を進める方針を打ち出し、
市議会
,同年六月に開かれた
市議会
定例会で合併を満場一致で可決、こうして昭和三十二年十月一日に積志村は浜松市に合併,平山市長就任後の昭和三十五年一月八日には
市議会
に合併研究特別委員会が設置され、大同合併に乗り出した。,同三十五年一月以降、市の幹部や
市議会
の代表者が浜北町を訪れて合併に向けた話し合いを求めていた。
浜松市史 五
([名誉市民の制度])
浜松市は郷土の文化興隆や市勢の発展に尽くした功労者をたたえるための名誉市民条例を昭和三十五年三月の
市議会
,この条例によると、名誉市民は市長が
市議会
の同意を得て推挙し、その事績を公表することにした。,初の名誉市民には同年六月二十日の
市議会
で、元参議院議員、日本楽器製造株式会社(今のヤマハ)の会長を務めていた
浜松市史 五
([中核市の指定])
これを受けて同年三月四日、栗原浜松市長は
市議会
本会議の施政方針演説で国が検討している中核市に対応していくことを,市だけでなく、民間の市民フォーラム、
市議会
の新政会も中核市制度の勉強会を開始し、官民一体で指定に向けた,これを受けて九月二十日に
市議会
は指定への議決を行い、県議会の議決や県の同意を得て十月三十日に国へ指定を
浜松市史 五
([東海道線高架化促進運動])
昭和三十八年十月には、
市議会
にも国鉄現線高架化促進特別委員会が設置され、運動が強化された。 ,昭和四十二年一月までの三カ月間に十八万余人に及ぶ署名が集められ、同年二月に期成同盟会、
市議会
代表、地元選出国会議員
浜松市史 三
([郡会議員の選挙])
中村藤吉の計三名が当選した(衆議院議員・県会議員・郡会議員名は『静岡県議会百年史』、浜松市会議員名は浜松
市議会
発行
浜松市史 五
([篠原村の合併])
市は同年十一月二十八日に
市議会
合併特別委員会を開き、同村の要望事項を受け入れることを決めた。,これを受けて浜松
市議会
と篠原村議会は昭和三十六年二月二十七日に六月二十日を合併期日とする議案を可決した
浜松市史 四
([佐久間線、調査線から建設線へ])
[佐久間線、調査線から建設線へ] 【二俣─佐久間線敷設期成同盟会】 昭和二十八年九月以降、浜松
市議会
及,なお、浜松
市議会
を中心とする期成同盟会は発展的に解消することになった。
浜松市史 四
([町村合併の推進])
一方の浜松市は九月十五日、
市議会
の市町村合併特別委員会を開催した。,この後、
市議会
と市当局はこれらの町村に対し、様々な働き掛けを始めた。,和田・長上両村の合併決議を受け、浜松市は二月十五日に緊急
市議会
を開き、浜名郡和田村と長上村の合併を満場一致,四カ町村の合併を実現した浜松市は四月十二日と十三日に市長をはじめ幹部職員と
市議会
議員全員で合併四地区の,昭和二十九年四月二十一日、三方原村の村長と議長が
市議会
の市町村合併特別委員会の正副委員長を訪ね、合併を
浜松市史 三
(翼賛市会議員選挙)
含む二十六名で争ったが、浜松市を含む第三区では浜松市出身の加藤七郎(明治二十二年生、当市上池川町住、
市議会
議員三回
浜松市史 四
([佐久間線の建設と期成同盟会])
またこれを契機に、浜松
市議会
は特別委員会を設置、北遠の各町村議会等と協力して遠信鉄道促進期成同盟会(会長徳田
市議会
議長
浜松市史 四
([土地の接収、高射砲大隊移駐反対の運動])
岩崎浜松市長と徳田
市議会
議長は浜松移駐の真偽を確かめるべく上京して保安庁を訪れたところ、浜松移駐はすでに,これにより浜松市と浜松
市議会
は「反対する理由なし」という方針を固めたが、当地の労働組合の連合団体であった,そして
市議会
に移駐反対決議要請書を提出したが、四対三十三で否決されたため、否決した議員のリコール運動を,するとともに実害を与えらるる問題に関しては断固として排撃するために最善の方途をつくす」との立場を表明したため、
市議会
浜松市史 五
([栗原市政から北脇市政へ])
栗原市長が六選出馬を表明したのは平成十年十二月一日の
市議会
、二十一世紀への橋渡しとして取り組んでいる駅前,これに対して
市議会
最大会派の新政会はいち早く会派として推薦を決めた。
浜松市史 五
([北線案実現に向けた交渉])
十月三日の
市議会
本会議は、市長に地元負担金についての交渉を一任したものの、十一日に至って交渉は決裂、打切,これを受けて二十日には、
市議会
の新幹線特別委員会、全員協議会、そして本会議を開いて新幹線の市街地コース・
浜松市史 五
([高校生の急増対策と二高校の新設])
このようなことを受け、浜松市PTA連絡協議会や
市議会
、市教委などは高校の定員増や県立高校の設置運動を始,昭和三十五年に入ると浜松へ県立高校を新設しようとする運動が高まり、同年三月十六日には浜松
市議会
において,この後
市議会
や教育委員会、市PTA連絡協議会と誘致について話し合いに入った。,そして、同年七月二十三日には浜松
市議会
全員協議会で日体大付属高校の誘致を全会一致で可決するといったスピード
浜松市史 五
([浜松市長選で平山博三が初当選])
同時に行われた浜松
市議会
議員選挙(定員四十四人)では新人二十人が当選、
市議会
に新風を吹き込むことになった
浜松市史 四
([オートレース場の建設])
八月になると富塚町の御前谷(今の浜松医療センター東側一帯)のうち三万坪を買収し、
市議会
商工委員会がここに,そして、九月一日にはオートレース実施のために浜松市小型自動車運転場建設特別委員会が
市議会
の中に設置された,ただ、斉藤静岡県知事は、賭博色を無くし、浜松のオートバイ産業の振興、交通事故防止(
市議会
の特別委員会の,】 オートレースを市営で行うか、民営とするか、または半官半民とするかを検討してきた浜松市は、大林
市議会
議長,明朗なレースを実施するためにも市直営がよいと思い考え…」の通り、市の直営にすることが昭和三十一年二月の
市議会
浜松市史 四
(臨時建設部)
また、浜松
市議会
も復興委員会を常設して復興に取り組むことになった。
浜松市史 四
([町内会の解散と総代会の発足])
そして、翌二十二年三月二十日に町内会長会を
市議会
議事堂で開催し、これまであった百二十一の町内会を三月三十一日限
浜松市史 四
(五島・新津・河輪三村の浜松市合併)
これに対して、
市議会
の一部からは五島村の要求は浜松市の財政負担を重くすること、五島村だけでなく芳川村や,昭和二十六年二月八日、浜松
市議会
では五島・河輪・新津の三カ村の合併を賛成多数で可決した。,坂田市長は合併が
市議会
で可決された後、「在来の都市は商工のみでもつてその整容としておつたのでございまするが
浜松市史 五
([情報公開制度])
についてその方法や時期について内部組織を設けて検討したいと述べたのは、これからはるかに遅れた平成七年九月の
市議会
,浜松市情報公開条例案がまとまり、
市議会
に提出されたのは十一月の定例会であった。
浜松市史 五
([暴力団の壊滅作戦と解散])
同年十二月六日浜松
市議会
でも暴力追放を決議する等市民の暴力追放体制も整えられてきた。,翌年一月十八日国領屋鍛冶町一家七代目組長藤田亀太郎を逮捕したが、当時彼は浜松
市議会
議員で文教厚生委員長
浜松市史 四
([市民病院建設問題])
浜松市長は公約によって調査費を昭和二十八年予算に組み込み、
市議会
でも特別委員会を設置し建設することを決定,によれば、馬込川以東(江東地区二十三町)の自治会から市民病院建設を江東地区へ誘致するという陳情四カ条が
市議会
浜松市史 五
([地域密着の歯科医師])
十月二日付記事には、資料を添えて市長に陳情するとあり、同年十二月六日に至って、浜松市自治会連合会は市と
市議会
宛,浜松市では昭和四十九年十二月、昭和六十年を目標とする第二次浜松市総合計画基本構想が浜松
市議会
の定例会で
浜松市史 三
(八代九代市長 第八回 市議選)
十二年七月に日中戦争が勃発し翌年には国家総動員法が公布され非常時が叫ばれるうちに、同年九月三日には
市議会
議員
浜松市史 五
([県立音楽堂の挫折])
これを受けて、翌六十二年五月浜松
市議会
に県立音楽堂建設促進特別委員会が設立され、七月、市は音楽堂誘致を
浜松市史 三
(博覧会の成功 市民の協力 元浜町発展)
このように有終の美をかざり得たのは前任の中村市長をはじめとする市当局はもちろん、
市議会
・商工会議所・遠江織物同業組合
浜松市史 五
([新幹線計画のスタート])
同年五月一日に平山市政がスタートすると、六月九日に
市議会
に国鉄新幹線浜松駅設置特別委員会が設置された。
浜松市史 四
([都市計画事業])
九月に開かれた
市議会
で市当局は「街路工事着手の場合は速に立退いてもらわねばならぬ。」と答弁した。,になると田町の住民が道路の拡幅反対と換地処分に公正性を欠くとして猛烈な反対運動を展開、五月下旬には市長と
市議会
浜松市史 四
([都市計画税の新設])
浜松市は七月二十七日の臨時
市議会
で浜松市税条例の一部を改正する条例を議決し、都市計画税を市の税金として
浜松市史 五
([平山市政の開始と西田助役の就任])
昭和三十四年六月二十九日の
市議会
本会議で西田助役の就任が承認され、市政は円滑な軌道に乗ることになった。
浜松市史 三
(天皇行幸 全国産業博)
と危ぶむ声もあったが、中村市長は「それなればこそ景気を刺激し、市政に活を入れる意味でも実施したい」と
市議会
浜松市史 五
([高柳記念館の誕生])
平成十一年六月、静岡大学刊)によれば、NHKテレビの開局祝賀式(昭和三十四年十二月一日)に際して、市長や
市議会
浜松市史 三
(後任市長問題 七代市長 第七回 市議選)
なお昭和九年九月三日には
市議会
議員の改選が行なわれた。
浜松市史 五
([市の通過コース提案])
このため市側は、十一月四日に市、
市議会
、商工会議所に加えて、農業団体、土地区画整理審議会、関連する十一
浜松市史 五
(栗原市政)
ここに至って
市議会
で絶対多数を占めていた松和会は助役の後藤瑛(あきら)の擁立に動き出した。
浜松市史 四
([行政改革と『浜松市報』])
これに対し職員組合はいち早く反対を表明し、
市議会
も再検討すべきものとし、昭和二十二年十月十四日の議会で
浜松市史 四
(山内泉 平松實 山根七郎治 相生垣瓜人 三行舎)
一方で、昭和二十二年四月、彼は
市議会
議員に立候補して当選、四年間議員として活躍する。
浜松市史 五
([児童会館の閉館と浜松科学館、天文台の開館])
「市民天文台及びプラネタリウム建設要望書」が提出されており、また、その頃両者により署名活動が行われ、
市議会
議長,新たに建設される五島公民館に、天文台を付設する案が
市議会
に提出され承認されたのは昭和五十五年九月。
浜松市史 四
([様々な職場への女性の進出])
翌年の五月に行われた戦後初の浜松
市議会
議員選挙では浜松市婦人連盟常任理事の林ひでが立候補、見事当選し県下初,の女性
市議会
議員となった。
浜松市史 四
([市長選挙と庶民派市長の誕生])
昭和二十五年十一月十六日付)と言明、早くも市長候補の名乗りを上げたが、坂田以外には前副知事の岩崎豊、前
市議会
議長,の木全大孝、
市議会
議員の大石力、前市長選で惜敗した大野篁二らの名前も挙がっていた。
浜松市史 四
([深刻な食糧・衣料不足を救ったララ物資])
これに感謝して浜松
市議会
は二十三年十二月二十五日に感謝状の贈呈を満場一致で決議した。
浜松市史 五
([新幹線の開業])
ホームには平山市長、立石
市議会
議長、戸田商工会議所会頭、内田新幹線対策委員長はじめ各界代表のほか南小学校児童五百人
浜松市史 三
(第六回 昭和最初の市議選)
第六回 昭和最初の市議選 中村市政のつぎに当面したのは、不況克服を標榜にした五年の
市議会
議員の改選であった
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