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浜松市立中央図書館/浜松市文化遺産デジタルアーカイブ

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浜松市史 三 (常盤幼稚園 葵幼稚園)

常盤幼稚園 葵幼稚園 私立の浜松常盤(ときわ)幼稚園は明治四十二年三月に元城町に創立されたキリスト教系,1,727 881 846 市立元城幼稚園 元城町 7 211 123 88 市立県居幼稚園 東伊場町,3 129 58 71 私立常盤幼稚園 元城町 2 54 30 24 私立葵幼稚園 高町 3 88,55 33 私立松城幼稚園 松城町 2 40 22 18 私立昭和幼稚園 向宿町 4 166 84 82,私立青葉幼稚園 栄町 9 287 147 140 私立馬込幼稚園 本園野口町 4 92 48 44 / 常盤幼稚園 葵幼稚園
浜松市史 三 (元城幼稚園 県居幼稚園)

元城幼稚園 県居幼稚園 幼稚園は市立に元城と県居(あがたい)があり、前者は浜松幼稚園(明治三十一年十月設立,)と称し大正十二年に元城と改称、後者は浜松県居校に同十二年に附設された幼稚園であった。 / 元城幼稚園 県居幼稚園
浜松市史 三 (浜松幼稚園 常盤幼稚園)

浜松幼稚園 常盤幼稚園 【二十年】つぎに幼児教育であるが、浜松に幼稚園が浜松尋常小学校に附属して創立,三十一年十月には独立して浜松幼稚園と称し、大正十二年四月市立浜松幼稚園と称した。,なおアリス・エル・コーツによって、私立浜松常盤幼稚園が元城に創立されたのは明治四十二年三月であった(定員六 / 浜松幼稚園 常盤幼稚園
浜松市史 五 ([幼稚園])

[幼稚園] 【市立幼稚園】  市立の幼稚園は戦後浜松市に合併した地域に出来た。,昭和四十九年四月には佐浜と伊左地の両幼稚園が統合して伊佐見幼稚園に、同五十七年四月に鹿島・堀江・白洲の,三幼稚園が統合されて北庄内幼稚園となった。  ,この時期、私立幼稚園ではこのような都市化の進んだ地区へ進出する園もあり、昭和五十二年に天王幼稚園(天王町,)、篠ケ瀬幼稚園(篠ケ瀬町)、追分幼稚園(葵町)、同五十三年に旭ヶ丘幼稚園(初生町)、同五十五年に佐鳴台幼稚園 / [幼稚園]
浜松市史 五 ([幼稚園])

[幼稚園] 【二年保育 三年保育】  昭和三十八年一月に可美村立可美幼稚園の二年保育実施の要望書(,同幼稚園は一年保育のため、二年、三年の保育を希望する家庭は私立幼稚園に入園せざるを得ないこと、一年保育,開始、蒲幼稚園は昭和四十一年から三年保育を始め、中には四年保育を始めた幼稚園もあった。,浜松市立の幼稚園では中ノ町幼稚園が昭和三十二年から二年保育を開始、同三十四年には橋爪幼稚園がこれに続いた,【私立幼稚園】  昭和三十四年五月から同四十七年までに設置された市立の幼稚園は和地幼稚園(これ以前に / [幼稚園]
浜松市史 四 ([幼稚園])

[幼稚園] 【幼稚園】  浜松の幼稚園の歴史は古く、明治二十年(一八八七)四月に浜松尋常小学校付属幼稚園,その後、主として私立の幼稚園が市内各地に設立されていった。,太平洋戦争中の昭和十八年四月、市内にあった幼稚園は十二園、市立は元城と県居の二園、私立は常盤(元城町),これらの幼稚園は空襲の激化によって休園に追い込まれたり、戦災で焼失したりした。,戦後になると、市は小中学校の復興を優先したため、公立幼稚園の復興は出来ず、市内では主に私立幼稚園の開園 / [幼稚園]
浜松市史 四 ([村立幼稚園の開園])

[村立幼稚園の開園] 【幼稚園】  市内外に幼稚園の設置が進み、特に周辺部の町村で公立幼稚園が誕生,に笠井東幼稚園が開園した。,同年五月には吉野村に吉野幼稚園、二十九年五月に三方原村に三方原幼稚園、積志村に積志東と積志西の二幼稚園,北庄内村の若葉幼稚園は舘山寺や鹿島に分園を設立するなど大いに発展したが、三十二年に堀江幼稚園が、翌年には,可美村でも戦後いち早く地蔵院や観照寺に幼稚園が出来たが、村立の可美幼稚園が誕生したのは昭和三十三年四月 / [村立幼稚園の開園]
浜松市史 五 ([少子化と幼稚園])

[少子化と幼稚園] 【少子化 私立幼稚園 市立幼稚園 三年保育 保育園】  少子化の言葉が出始めたのは,県内の幼稚園では昭和五十四年から園児の減少傾向が出始め、静岡県私立幼稚園振興協会は昭和五十七年に幼児減少対策特別委員会,浜松市の私立幼稚園のほとんどが入っている浜松市私立幼稚園協会加盟の幼稚園の数は昭和五十七年度は四十六園,一方、市立幼稚園では多くの父母が望んでいた三年保育の実施が遅れ、平成三年の時点でも合併した可美幼稚園以外,幼稚園とよく比較されるのが保育園である。 / [少子化と幼稚園]
浜松市史 四 ([私立幼稚園の復興])

[私立幼稚園の復興] 【私立幼稚園】  空襲などの被害を受けず戦後を迎えた幼稚園としては、向宿町の,昭和幼稚園、浅田町の朝田幼稚園・野口町の馬込幼稚園を挙げることが出来る。,昭和幼稚園は空襲の激化により昭和二十年三月に休園し、朝田幼稚園は軍の施設となるなど、終戦直前や直後も閉園,キリスト教系幼稚園はこの松城と市内最古の歴史を誇る常盤幼稚園の二つ、仏教系は朝田・赤門・天林寺の各幼稚園,)の各幼稚園で、二十六年には日本文教幼稚園が開園した。 / [私立幼稚園の復興]
浜松市史 四 ([周辺町村の幼稚園])

[周辺町村の幼稚園] 【町村の幼稚園】  戦後、昭和二十二年三月に公布された学校教育法により四月から,幼稚園が新しい学制に位置付けられたことが各地の幼稚園の設立につながった。,浜松市内には先述のように私立幼稚園が開園したが、市外でも赤門・入野・しのはら・河輪幼稚園など寺院を母体,公立の幼稚園として最も早い時期に開園したのは町立笠井幼稚園であろう。,この幼稚園は、大正十四年に私立幼稚園として発足、昭和二十二年十月に笠井町立笠井幼稚園となった。 / [周辺町村の幼稚園]
浜松市史 五 ([浜松商科短期大学の幼児教育科と付属幼稚園])

[浜松商科短期大学の幼児教育科と付属幼稚園] 【浜松商科短期大学 幼稚園教員養成所 浜松短期大学】,畠山は学園の長期計画を策定する中で、これまでの短大や大学であまり顧みられなかった幼稚園の教員養成の必要性,そして、昭和四十年四月に同短大内に幼稚園教員養成所(二年制)を開設、翌年にはこれまでの高林町の校舎から,同四十八年には短大付属住吉幼稚園を設置、幼児教育科と密接な関連のもとに保育の向上にも努めた。,興誠学園の創立五十周年記念として刊行された『興誠』には、幼稚園教員養成所二部の第一回卒業生の宮澤徳子が / [浜松商科短期大学の幼児教育科と付属幼稚園]
浜松市史 五 (防音校舎)

幼稚園での防音工事は昭和四十六年度に中ノ町・和地の両幼稚園で行われたのが始まりで、この後多くの幼稚園でも,これらの一連の防音工事は昭和四十七年度までに小学校十八校と二分校、中学校十校、幼稚園三園、保育園二園で
浜松市史 四 ([浜松市母子の会による授産事業と市の授産所])

[浜松市母子の会による授産事業と市の授産所] 【浜松市母子の会 西川熊三郎 布橋幼稚園 飯尾哲爾 栩木淑子,子どもが足手まといになることから、子どもたちを預かる事業を名残町の宗円堂で開始、それが翌年二月に布橋幼稚園,同幼稚園は母子の会の経営で、園長には近くの追分小学校長で、『土のいろ』で有名な飯尾哲爾が就任した。,ただ、実質的には会員の栩木淑子が幼稚園の経営や保育に当たった。,栩木は二十七年に会員としては初めて会長となり、会の発展と幼稚園教育に尽力した。
浜松市史 三 (罹災学校)

6.18全焼,富塚町寄宿舎に移り,終戦後元陸軍高射砲隊へ移転した   (表)3.青年学校・幼稚園,より高砂校にて授業継続した 東部青年学校 4.30被弾したが残存校舎にて授業継続した 備考 1.元城幼稚園,他の幼稚園も6.18全焼し,昭和20年当時は自然廃園の状態であった 2.浜松聾唖学校も6.18全焼した,備考 1.元城幼稚園は4.30全焼し,8.31廃園となる。,他の幼稚園も6.18全焼し,昭和20年当時は自然廃園の状態であった    2.浜松盲啞学校も6.18
浜松市史 ニ (城地内に町ができる)

この元城に東照宮の建立されたのが(古城趾)明治十九年、つづいて翌二十年には幼稚園(のちの浜松元城幼稚園
浜松市史 四 ([浜松市仏教会の活動])

戦後の諸寺復興再建策として、幼稚園を経営する寺院例はすでに述べたが、昭和二十九年の時点での傘下の寺院では,、宗教教育の一環として全寺院の十%が幼稚園経営を行い、洋裁学校・託児所・語学塾・参禅会等を企画運営する
浜松市史 三 (教育費)

約五十%を占め、教育費のうち千七百三円は小学校教員給料で七十八%、その余は校費百九十八円雑給百二十五円幼稚園百四十一円,二十五年より幼稚園保育料(一七一円)が歳入となるが、ほぼ同様な傾向が続く。,歳入七千九百十四円のうち雑収入として三千八百九十八円(尋常小学校授業料一一七七円、高等小学校授業料二四四三円、幼稚園保育料一九二円
浜松市史 五 ([ファミリー・サポート・センターの開設])

仲介役の市を通して、保育園や幼稚園の開始前や学校の放課後など「預かってほしい人(おねがい会員)」が、「
浜松市史 五 (相互応援協定)

同六十一年度には、私立幼稚園三十一園、一万一千五百三名、指導者七十六名により、花火教室の開催および消防署
浜松市史 五 ([新しい教育の開始])

しい教育の開始] 【生活科 家庭科の男子必修 ゆとり教育 総合的な学習の時間】  平成元年三月に幼稚園,そして、平成十年十二月に幼稚園教育要領、小・中学校の学習指導要領、翌年に高校などの学習指導要領が改訂された
浜松市史 四 ([諸寺の復興])

[諸寺の復興] 【幼稚園 寺院開放 西来院 正福寺】  先に見た罹災寺院を含めて、昭和二十年代前半,右のほかに寺院復興再建策の一環として、境内を利用した幼稚園・保育園の経営例がある。
太陽と潮風五島遠州浜:わが町文化誌 (浜松市立五島公民館『太陽と潮風 五島遠州浜:わが町文化誌』 目次)

(五)県立浜松養護学校 240 (六)県立浜松江之島高等学校 241 (七)五島幼稚園,242 (八)学校法人あすなろ幼稚園 243 (九)学校法人あそか学園遠州浜幼稚園 243
学びの里祈りの丘:わが町文化誌 (浜松市立県居公民館『学びの里祈りの丘:わが町文化誌』 目次)

山葉風琴製造所 ヤマハ】 59 (五)町名にもなった森下レンガエ場 【鴨江森下町 住吉町 浜松駅 鴨江幼稚園,浜松歯科衛生士専門学校】 82 【浜松市医師会看護高等専修学校】 83 【友クッキングスクール】 84 (五)幼稚園,【成子幼稚園】 85 【青葉幼稚園】 86 【緑ヶ丘幼稚園 鴨江幼稚園】 87 (六)保育園,【中の寺 天林寺 鉄道院浜松工場】 230 (八)鶴枩山光雲寺 【東の寺 天林寺 緑ヶ丘幼稚園
浜松市史 五 ([特殊学級と交流教育])

この教室の対象児童は幼稚園・保育園児と小学校の六年生までで、普段は通常の幼稚園・保育園・学校に通い、週一
浜松市史 五 ([学校規模適正化への取り組み])

としては、小学校は一学年二学級以上で四学級を超えない範囲、中学校は同じく四学級以上八学級を超えない範囲、幼稚園,村櫛の十小学校と中部・八幡の二中学校、また、全校で二十五学級以上となる大規模校は白脇・蒲など九小学校、幼稚園
浜松市史 五 (佐鳴湖東岸土地区画整理事業)

ここには小・中学校や幼稚園、公園などを設置し、県営住宅の建設や市道の整備も計画された。,以後、警察官派出所や郵便局、幼稚園、佐鳴台中学校などができ、一帯は中心街に近く人気の住宅地域として発展
浜松市史 五 ([かわな野外活動センター])

幼稚園・保育園の園児から学校の児童・生徒、子供会、また各種団体などの利用が多かったが、家族でも参加できる
浜松市史 四 ([ミッションスクールの誕生])

とりわけ幼児教育の重要性を強調することから、同年五月には浜松海の星幼稚園を併設している。
浜松市史 五 ([『浜松教会百年史』の完成])

大正五年の浜松教会の建設や松城町の所有地を提供した松城幼稚園(大正十五年十月開園)の設立などに尽力している
浜松市史 四 ([泉松山法林寺])

この文章には、「第三十五条 この法人は、済生利民の教旨に基き浜松第一幼稚園を経営する」とある。,そのような状況を補うべく、先述のように寺社では境内に保育園や幼稚園を設け、はたまた駐車場などを経営する
台地と水と輝き:わが町文化誌 (浜松市立高台公民館『台地と水と輝き:わが町文化誌』 目次)

第五章 教育文化の普及 201 一 学校教育の移り変わり  202   年表 (一)幼稚園,  207 【萩丘幼稚園 泉二丁目】 208 【浜松葵幼稚園 幸四丁目】 209 【浜松短期大学附属幼稚園, 住吉一丁目 住吉幼稚園】 210 (二)小学校  211 【曳馬小学校 富塚小学校 追分小学校】
浜松市史 五 ([浜松婦人懇話会の活動])

当初の会員は十九人、二十五歳から四十五歳までの幅で、大部分は家庭の主婦だが、教員、幼稚園長などの職業を,これは、戦後、間もない頃の戦争未亡人たちによるパン工場の経営や幼稚園の設立などの起業にも匹敵する積極的
浜松市史 五 ([看護学校])

時代により変わるものだが、昭和五十九年頃は県西部浜松医療センターなどの病院のほか、浜松市保健所、富塚幼稚園
浜松市史 五 ([齢松寺の移転])

戦後の昭和二十四年、浜松市の都市計画で浜松城一帯が都市計画公園に指定されたのを機に、寺院とその附属幼稚園
浜松市史 三 (スペイン風邪流行 浜一中大福餅事件)

④大正十四年 この年から市立小学校と幼稚園に校医がおかれた。
天竜川と東海道:わがまち文化誌 (浜松市立天竜公民館『天竜川と東海道:わが町文化誌』 目次)

昭和二十年までの学校と子供たち 第二次世界大戦後の学校と子供たち 天竜中学校の設立 和田東小学校の新設 和田幼稚園,・中ノ町幼稚園と中ノ町保育園 2 郷土の歴史に残る人々 271 安間了願 小枝粂次郎 金原明善 
浜松市史 五 ([佐鳴湖西岸土地区画整理事業])

これらにより多くの住宅が建ち始め、幼稚園(さなる幼稚園、平成十一年四月開園)、保育園(わかくさ会大平台
浜松市史 五 ([水産試験場浜名湖分場の新築とウォット])

魚介類を水槽で展示するアクアゾーン、ゲーム感覚で魚の生態などを学習できるパソコンコーナーなどが整備され、幼稚園
浜松市史 三 (町立で創立 新校舎 良妻賢母主義)

【三十四年】ときに明治三十四年四月で、最初は大字元城の浜松幼稚園舎が仮校舎(二階建、階上二教室、雨漏がしたという
浜松市史 四 ([東署の改築])

浜松東警察署から出火、火は強風にあおられて東署を全焼、隣接の浜松税務署も全焼させ、飛び火によって常盤幼稚園
浜松市史 五 ([松くい虫の被害と対策])

薬剤の飛散範囲内に民家や小学校、幼稚園があり、このままでは住民に害を及ぼすとのことであった。
しらわき 川と海に育まれて:わが町文化誌 (浜松市立白脇公民館『しらわき 川と海に育まれて:わが町文化誌』 目次)

187 (二)浜松市立江南中学校 189 三 幼児教育 191 (一)浜松市立白脇幼稚園,191 (二)中田島幼稚園 192 (三)なかよし保育園 192 四 青年教育 193
浜松市史 五 ([婦人防災クラブ、幼年消防クラブの結成])

同年十一月十二日に新橋町の私立赤門幼稚園消防クラブ(AFC)は、クラブ結成後初めての街頭広報を行い、クラブ
浜松市史 五 ([口腔保健医療センターの業務])

参加対象者は幼稚園・保育園・学校や障害児施設の関係者というように、かなり大規模なものであった。
浜松市史 五 ([テレビの普及と紙芝居の廃絶])

子供が幼稚園や学校から帰った午後三時から六時頃まで、さらに日曜・祭日は神社の境内や路地裏に紙芝居屋さんが
浜松市史 五 ([東海地震と防災対策])

整備  ④避難場所の防災資機材の整備             第一次避難場所になっている小中学校(幼稚園
浜松市史 四 ([松城官庁街の大火])

千三百八十二平方メートル)を全焼、隣接する浜松税務署の本館、書庫など三棟、そして道路を隔てて風下の常盤幼稚園
浜松市史 五 ([教育文化会館の開館と余裕教室開放])

このことから、はまホールは主に青少年の教育文化の振興のための施設とし、幼稚園の生活発表会、小中学校の合唱
浜松市史 五 ([常葉学園浜松大学の開学])

にある龍雲寺に生を受けた木宮泰彦、昭和二十一年静岡市に静岡女子高等学院を設立以来、中学、高校、短大、幼稚園
浜松中心街の今昔:わがまち文化誌 (浜松市立中部公民館『浜松中心街の今昔:わが町文化誌』 目次)

ひまわりの塔 広小路地下道 板屋町】 234 第六章 教育文化の普及・文化施設今昔 235 一 幼稚園,・保育園と学校 236 (一)幼稚園・保育園 236 【常盤幼稚園 元城町】 236 【浜松中央幼稚園, 尾張町】 237 【日本文教幼稚園 常盤町】 238 【中沢幼稚園 中沢町】 239 【天林寺保育園
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