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いろはの「イ」:城北地区わが町文化誌
(浜松市立西部公民館『いろはの「イ」:城北地区わが町文化誌』 目次)
私の川 【普済寺 うなぎ】 63 四、マムシとり 【宗源院】 64 五、三遠牧場 【
広沢
町, 伊与田周次 乳牛】 65 六、松田農園 【
広沢
町】 67 七、三謡公園のあたり(岸たちさんの,(くらしのことなど) 一、肥街道 【女学生 松城町 汲み取り】 73 二、亀澤温泉 【
広沢
町, 銭湯 普済寺 演芸 娯楽】 75 三、庚申講について 【
広沢
町 娯楽】 77 四、消防第三分団,【沢の金魚屋 龍舌蘭】 86 八、人の行き交う風景 【遠州鉄道奥山線 軽便鉄道 普済寺口駅
広沢
駅
浜松市史 四
([罹災した寺院])
大聖寺(板屋町)、仙林寺(野口町)、万福寺(八幡町)、広厳寺(船越町)、天林寺(下池川町)、浄土寺(
広沢
町,)、普済寺(
広沢
町)、西来院(
広沢
町)、瑞生寺(東伊場町)、光雲寺(東伊場町)、円通寺(植松町)、本誠寺
浜松市史 三
(彫刻工)
【
広沢
詫助】また元魚町の
広沢
詫助は篆刻(てんこく)の名手で、報国隊の印章を製作したという。
浜松市史 四
([幼稚園])
・松城(松城町)・昭和(向宿町)・青葉(栄町)・馬込(野口町)・朝田(浅田町)・天林寺(下地川町)・
広沢
,(
広沢
町)・寺島(寺島町)の十園で、園児の総数は二千三十二人であった(『浜松市勢要覧』昭和十八年版)。
浜松市史 三
(定形俳句の励奨)
浜松在住の馬酔木同人には相生垣瓜人(あいおいがきかじん)(貫二、兵庫県生、当市
広沢
二丁目、句集『微茫集,』)・和田祥子(当市
広沢
一丁目、句集『燈心草』)がある。
浜松市史 三
(常盤幼稚園 葵幼稚園)
私立朝田幼稚園 浅田町 6 132 68 64 私立天林寺幼稚園 下池川町 5 160 72 88 私立
広沢
幼稚園,
広沢
町 5 152 68 84 私立寺島幼稚園 寺島町 5 183 89 94
浜松市史 一
(臨済禅)
臨済禅 【方広寺】臨済禅は、京都から三河に入り
広沢
寺を、さらに遠江で奥山朝藤の帰依をうけて方広寺を開
浜松市史 ニ
(藤原姓を称す)
【普済寺】天正十年八月、普済寺(当市
広沢
)の客殿を再興した棟札に「藤原家康」とあるのが(後述。,徳川家康普済寺客殿再興棟札 部分 (浜松市
広沢
普済寺蔵) 徳川家康判物(浜松市倉松町 寿福寺蔵
浜松市史 ニ
(普済寺客殿再営)
普済寺客殿再営 この多忙のときにあたって、家康は甲州に滞在中の天正十年八月に、普済寺(当市
広沢
)の客殿
浜松市史 三
(凧揚組の増加)
本格的な凧揚げ広場で、このころになると砂山・寺島・鴨江・中山・追分・元浜・山下・相生・木戸・佐藤・尾張・
広沢
浜松市史 四
([道路延長の急伸と街路計画の進展])
7 伊場可美線 西伊場・可美 20 Ⅰ. 3. 4 伝馬雄踏線 伝馬・入野 25 Ⅱ. 1. 8
広沢
入野線,
広沢
・入野 20 Ⅰ. 3. 5 旭伊場線 旭・西伊場 27 Ⅱ. 1. 9 和合富塚線 和合・富塚,1.18 白羽線 白羽地内 20 Ⅰ. 3.15 助信宮竹線 助信・宮竹 25 Ⅱ. 3. 1 池川
広沢
線,上池川・
広沢
12 Ⅰ. 3.16 松江曳馬線 松江・曳馬 27 Ⅱ. 3. 2 伊場亀山線 東伊場
浜松市史 四
([情操(生活)教育の開始])
道徳の退廃は学校内にも及び、
広沢
小学校の鈴木良校長は昭和二十二年四月二十九日の「教育残念記」に
広沢
小学校,らばらうが、戸が開いていようが、大きな石ころがころがっていようがかまはぬ子供」など十二もの問題行動を挙げ、「
広沢
浜松市史 三
(市営バスの誕生)
)浜松市営乗合自動車運行状況 路線名 経由地 距離 回数 km 1日 西廻線 浜松駅 鴨江
広沢
,38 中田島線 浜松駅 中田島(夏季6か月季節運転) 4.9 5 佐鳴湖線 浜松駅 中山町 高町
広沢
浜松市史 三
(陶工)
【曳馬焼】大正二、三年に
広沢
の普済寺門前で茶器を焼き曳馬焼(ひくまやき)と称して販売したが、原料の関係
浜松市史 三
(浜松市営住宅)
浜松市営住宅 「主として中産以下の者の住宅難を緩和せんとする」ことを目的として、大正十二年十月大字浜松沢(
広沢
町
浜松市史 五
(寺院の郊外移転)
同寺は、
廣澤
山普済寺(曹洞宗・
広沢
一丁目)の開創・華蔵義曇和尚の閑栖所・隨縁寺〔正長元年(一四二八)〕
浜松市史 五
([普済寺の五百五十回忌])
[普済寺の五百五十回忌] 【普済寺】 平成十六年十月二十五日付記事では、普済寺(曹洞宗・
広沢
一丁目
浜松市史 三
(一月の空襲)
14戸 半壊17戸,小破135戸,全焼769戸,半焼44戸 8 20.2.16 機銃掃射 爆弾
広沢
町,1,201戸 全焼702戸,半焼55戸 15 20.5.24 6ポンド焼夷弾 鴨江町 栄町 元魚町
広沢
町,536箇 2.35 死者2人,重傷者1,軽傷者3人 全焼243戸,半焼9戸 16 20.5.25 〃
広沢
町,全市各所 (P51)約25機 14.20 死者1人,軽傷者1人 23 20.7.24 小型爆弾及び銃撃
広沢
町
浜松市史 四
([諸寺の復興])
寿量院(向宿町)・大円寺(浜名郡入野村)、同二十三年には光雲寺(浜名郡篠原村)、同二十四年には普済寺(
広沢
町,例では、子供会を組織した広厳寺(船越町、めぐみ会)や長福寺(恒武町、恒武明朗子供会)があり、西来院(
広沢
町
浜松市史 一
(紀行文)
遠州灘より今切・浜名湖を望む 掛塚港跡(磐田郡竜洋町) 普済寺(大正時代)(浜松市
広沢
町
浜松市史 ニ
(築山殿殺される)
メートルで蜆塚の台地となるが、その台地の下(御前谷(ごぜんだに)という)で築山殿は殺され、西来院(当市
広沢
浜松市史 三
(罹災学校)
#215; 廃校 ● 全焼 ×● 元城校 6.18空襲で全焼,7.1分散授業開始(追分校・
広沢
校焼跡残存建物使用,),11.1
広沢
校に合併し廃校となる ×● 西校 6.18全焼,7.1鴨江観音境内にて野外授業, 追分 21 18 613 佐藤 21 12 385 高砂 18 12 215
広沢
浜松市史 四
([電灯の復旧と電灯引き込み料金])
昭和二十年十月三日までに野口、佐藤、植松、向宿、中島、北寺島、砂山、寺島、楊子、浅田、海老塚、森田、
広沢
浜松市史 三
(市街電車)
【浜鉄案】これに対し浜鉄出願路線の第一次案(大正十五年十二月)は遠電との連絡路線を設けるとともに、
広沢
普済寺前
浜松市史 三
(中学入学希望者激増 第二中学校の創立)
職員数 学級数 生徒数 年 人 人 総数 2 ― 67 33 1,743 県立浜松第一中学校
広沢
町
浜松市史 ニ
(杉浦真崎)
墓所
広沢
西来院。法号蓮池院殿清純香大姉。
浜松市史 五
([中央地区で難航の住居表示])
以後、中心部からやや離れた鴨江、
広沢
、伊場、蜆塚、住吉などは昭和四十年代に、幸、佐鳴台、萩丘、小豆餅、
浜松市史 四
([浜松中央・東・北警察署の設置])
管轄区域は中心部の田町・旭町など、馬込川より西側の町、また、
広沢
町・蜆塚町や西南部の町など五十三町と浜名郡, 市内砂山町・菅原町・新町・尾張町・亀山町、署所在地 計六カ所 巡査駐在所 市内東伊場町・
広沢
町
浜松市史 五
([神谷昌志の著作活動])
伝説』 ・『浜松歴史年表』 ・『開運ご利益ガイド―遠州88番』 その後の著書としては、『
廣澤
山普済寺六百年史,』(曹洞宗
廣澤
山普済寺、平成二十年刊)・『写真集 懐かしの浜松』(羽衣出版、平成二十四年刊)がある。
浜松市史 三
(時局教育 浜師時習寮 大久保教育)
478 455 昭4 浜松市高砂国民学校 龍禅寺町 20 18 1,132 575 557 昭6 浜松市
広沢
国民学校,
広沢
町 15 12 590 285 305 昭10 浜松市八幡国民学校 新津町 39 33 1,818
浜松市史 三
(神社の統合)
なお八幡宮(中沢町字勝坂下)は常楽寺の、六社神社(入野町本所)は龍雲寺の、日枝神社(元
広沢
町字古新)は
浜松市史 ニ
(和泉屋の永代帳)
和泉屋永代帳(浜松市
広沢
木俣博雅氏蔵)
浜松市史 ニ
(森繁子)
墓所
広沢
西来院、法号宝勝院殿蓮台清香大姉。
浜松市史 四
([学校の校地])
[学校の校地] 【浜松工業専門学校】 浜松市
広沢
町にあった浜松工業専門学校は、昭和二十年五月十九日
浜松市史 四
([町村合併])
【蜆塚の合併】 浜松市
広沢
町に隣接する浜名郡入野村の蜆塚地区は、村の小学校までの道,
広沢
小学校が昭和十年に開校すると入野小学校に通学せず、ごく近い
広沢
小学校に行く子どもが出始めた。,戦後になり、蜆塚の住民が増え始めると、
広沢
小学校への通学児童が増え、これ以来浜松市への合併を望む住民が
浜松市史 三
(乗合バス 浜松循環自動車会社)
【東廻り 西廻り 北廻り】大循環線(下池川・追分・名残・
広沢
・鴨江・鍛冶・浜松駅・砂山・龍禅寺・北寺島
浜松市史 三
([市政を荷なった人々])
昭和二十一年五月没、七十九歳)・間渕栄一郎(当選四回、肴町住、昭和十一年九月没、五十七歳)・天野千代丸(当選四回、
広沢
町住
浜松市史 三
(最初の夜間空襲)
五月二十四日ははじめての夜間攻撃で全焼二百四十三戸、死者二人、二十五日は
広沢
町・中沢町方面に、二十九日
浜松市史 ニ
(信康自害の真相)
徳川信康廟(天竜市清滝寺) 築山御前墓(浜松市
広沢
西来院) 前田本 安土日記
浜松市史 五
(テレビ)
広沢
小学校では昭和三十二年と三十四年に寄贈を受けた二台のテレビを主に社会科と理科の授業で取り入れ、子供
浜松市史 五
([木造校舎から鉄筋コンクリートの校舎へ])
同三十四年度には十一校中、萩丘・浅間・
広沢
の三小学校が木造のほか、八校が鉄筋校舎となり、以後鉄筋校舎の
浜松市史 ニ
(家康江戸に移る)
【普済寺】また、浜松普済寺(当市
広沢
)に下した制札があるのでつぎに掲げておく。
浜松市史 四
([戦災学校とその復興])
この筆者は当時
広沢
国民学校の教頭であったが、この日記の最後に「堪へ難きを堪へ忍び難きを忍ぶ力、これこそ,元城国民学校は二学期以降、青空教室という状態だったが、しばらくして
広沢
国民学校に併合され、十一月三十日
浜松市史 一
(普済寺十三派)
浜松市下池川町) 常光寺 三州渥美郡 堀切村 12 月窓派 (月窓義運) 西来院 遠州富塚村 (浜松市
広沢
町
浜松市史 ニ
(流行の仏たち)
西来院(当市
広沢
)門前の六地蔵は早世した子どもの菩提を弔うために建立したもので、このような例も少なくなかった
浜松市史 三
(救護活動 戦災対策本部)
高射砲第1聯隊 和地山町 ⑦ 浜松警防団第1分団 伝馬町 ⑧ 〃第2分団 板屋町 ⑨ 〃第3分団
広沢
町
浜松市史 四
([敗戦と神社])
(利町)・県居神社(東伊場町)・松尾神社(元魚町)・秋葉神社(三組町)・東照宮(元城町)・日枝神社(
広沢
町
浜松市史 ニ
(写真・図版目次)
徳川家康起請文(江馬文書) 一〇 徳川家康普済寺客殿再興棟札 部分 (浜松市
広沢
, 三一 徳川信康廟(天竜市清滝寺) 三八 築山御前墓(浜松市
広沢
,宇布見村村櫛村藻草海上境裁許絵図 二七九 和泉屋永代帳 (浜松市
広沢
浜松市史 五
(福祉活動)
これは、地区社会福祉協議会として、平成五年三月二十四日に
広沢
地区社会福祉協議会、同二十五日に富塚地区社会福祉協議会
浜松市史 三
(作左山移転)
現在の地(
広沢
一丁目)に移るのは戦後である。
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