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浜松市史 一
(弁天島遺跡)
弁天島
遺跡 その二は、
弁天島
遺跡であって、いわゆる裏弁天と呼ばれる一帯の東端にある。, 7・8 〃 新居町一里田遺跡出土(新居町教育委員会蔵) 9~17 〃 舞阪町
弁天島
遺跡出土 /
弁天島
遺跡
浜松市史 一
(今切と弁天島)
今切と
弁天島
平安時代の東海道はこの砂州の上を通っていたので、浜名川には五十六丈(じょう)の長橋が架,これが
弁天島
である。浜名川も埋没し、現在の小川にその跡を示すに過ぎない。 / 今切と
弁天島
浜松市史 三
(中田島 米津海岸 弁天島)
中田島 米津海岸
弁天島
【丑浜】浜遊びには中田島の魚釣と米津海岸の丑浜(土用の丑の日に海水を浴びて,身体を潔める行事)があったが、海水浴場として
弁天島
の名が知られるようになってきた。,けられると賑わいは増すばかりで、三十九年七月から夏季のあいだ仮駅が設けられ、大正五年九月にはこの仮駅も
弁天島
駅 / 中田島 米津海岸
弁天島
浜松市史 四
([弁天島と舘山寺の観光開発])
[
弁天島
と舘山寺の観光開発] 【
弁天島
舞阪町観光協会 浜名湖競艇場
弁天島
水族館】 昭和二十五年五月,に県立公園となった浜名湖の観光の中心地は、昭和三十年代の前半までは
弁天島
であった。,
弁天島
は海水浴や潮干狩りの好適地で、鉄道の便が良かった。,昭和二十年代後半には舞阪町観光協会が町内の旅館や土産物店などによって設立され、
弁天島
の観光宣伝に努めた,が調査した管内の旅館の料理飲食税の納付額上位五傑は丸文・松月・遊船家・高砂・米久、この内上位の三つは
弁天島
/ [
弁天島
と舘山寺の観光開発]
浜松市史 三
(子規浜名の橋句碑と弁天島句会)
子規浜名の橋句碑と
弁天島
句会 【虚子】かねて恩師子規の句碑を浜松地方に建立したいと考えていた雪腸が浜名郡
弁天島
/ 子規浜名の橋句碑と
弁天島
句会
浜松市史 三
(遊園地)
【
弁天島
楽園】大正十一年七月になると浜名湖
弁天島
(西野島)に
弁天島
土地株式会社経営の客席・ステージ・プール・,食堂・浴場等を備えた本格的な
弁天島
楽園(入場料二〇銭、七月十日から八月三十一日まで)ができ、軽演劇などの,実演や仕掛(しかけ)花火の催しもあって賑わった(
弁天島
仮停車場が常設駅となったのは大正五年九月であった,佐鳴湖巡航商会ができ小藪・入野・堀留まで舟が入り、入野から
弁天島
まで四十銭であった。
浜松市史 三
(行楽地)
牡丹(ぼたん)(天林寺公園) 躑躅(つつじ)(鹿谷園・和地山・三方原) 藤花(西来院) 潮干狩り(
弁天島
, 夏 蓮花(平田の蓮池・浅田の蓮池) 螢狩(浅田その他近郊) 船遊(中田島・浜名湖) 海水浴(
弁天島
,(浜名湖) 茸狩(三方原・舘山寺・都田山) 冬 雪見(五社公園・八幡公園・天守閣) 避寒(
弁天島
浜松市史 四
([母子福祉施設の開所])
[母子福祉施設の開所] 【
弁天島
同胞寮 山形春人 長谷川力 雨宮恵 浜松母子福祉苑浅田ホーム 母子寮,先述のように長谷川保らは県に母子寮の建設を働き掛けたが、これにより県は
弁天島
にあった元中島飛行機の工員寮,と土地を買収し、
弁天島
同胞寮という母子寮を建設、昭和二十一年十二月二十五日に開所した。,、各種のスポーツやキャンプ、雨宮をはじめとするキリスト教関係者による礼拝やクリスマス会などが行われ、
弁天島
同胞寮,昭和二十六年に恩賜財団同胞援護会の解散後、財団法人
弁天島
同胞寮となり、事業を継承、その後社会福祉法人に
浜松市史 五
([水産試験場浜名湖分場の新築とウォット])
明治四十三年に新居町の養殖部は廃止されたが、昭和九年には浜名郡舞阪町の
弁天島
蓬莱園に静岡県水産試験場浜名湖分場,その後同四十年に
弁天島
乙女園に新築移転した。,さらに三十五年後、庁舎や施設が老朽化し業務に支障をきたすようになったため、平成十二年には
弁天島
渚園に新築移転
浜松市史 四
(公園)
【浜名湖県立公園
弁天島
水族館】 浜松近郊の浜名湖は浜松市民の行楽地であり、
弁天島
,静岡県は舞阪町に県営
弁天島
水族館を昭和二十九年九月十一日に開館させた。,龍宮城を模した階上展望台と立体水族館、円形水族館、遊園地などがあり、当時は
弁天島
が浜名湖で最もにぎやかな
舞阪町史 中巻
(舞阪町史 中巻 目次)
第二章 舞阪町の誕生と町の発展 第一節 舞阪町の成立と町の推移 61 明治大正期の町の動向 第二節
弁天島
海水浴場,販路拡大 静岡県水産試験場分場舞阪町設置 漁村疲弊救済と漁村金融問題 戦時経済統制の強化 第三節
弁天島
開発,と町民の生活 582 浜名湖国道橋架設
弁天島
観光開発 第四節 人物誌と文芸 622 人物誌 文学碑,戦時下の舞阪 第一節 翼賛体制下の町民生活 665 漁業の状況と漁船の徴用 第二弁天地域の開発と
弁天島
新居町地域地籍変更
浜松市史 三
(水泳の振興 浜名湾遊泳協会)
【学友会
弁天島
】これはわが国における最初の水泳団体であって、その源は遠く明治三十三年創立された遠州学友会,桑原虎雄・柴田善三郎等)が浜松や掛川中学校(のちに浜松商業学校も参加)の卒業生や在校生をまじえて、浜名湖
弁天島
浜松市史 四
([生活保護法による施設の設置])
生活保護法による施設の設置] 【浜松市鴨江救護所 西山園 浜松市立慈照園 聖隷保養農園 長谷川保
弁天島
同胞寮,また、県などにより、翌月には
弁天島
に母子世帯のための
弁天島
同胞寮が設立されたが、この同胞寮の設立に大きな
浜松市史 五
([舘山寺の観光と新幹線・東名高速道路の開通])
[舘山寺の観光と新幹線・東名高速道路の開通] 【
弁天島
舘山寺】 戦前から市民が浜名湖に遊びに行,くと言えば
弁天島
を指していた。,戦後もしばらくは
弁天島
の優位は動かなかったが、昭和三十一年に、遠鉄が出資する舘山寺観光開発が発足し、遠鉄,観光客の集客力ではこれまで浜名湖観光の首位にあった
弁天島
と舘山寺の地位は逆転し、『浜松民報』昭和三十四年五月二十二日付,の見出しには「新興勢力舘山寺、
弁天島
をはね落とす」とあった(『新編史料編六』 七社会 史料88)。
浜松市史 三
(競泳時代 競泳大会 名選手の輩出 浜一中全国制覇 浜商全国制覇)
クロール泳法を導入するとともにプールの必要性を痛感し、大正十年に協会員長谷川鉄雄(前述)の尽力により浜名湖
弁天島
,協会主催で、同年八月に
弁天島
で第一回浜名湾全国大会を開催、それ以後昭和にいたるまで毎年回を重ね、日本水泳史
浜松市史 五
(浜名湖周遊道路)
浜名湖周遊道路 【浜名湖大橋】 浜名湖周遊道路の第二期工事として、昭和四十二年六月に
弁天島
─村櫛間,舘山寺・
弁天島
間は約五十分から約十五分に短縮され、浜名湖の観光面に大きな役割を果たすことになった。
浜松市史 四
([観光協会の設立と浜名湖の観光])
灯籠流し、新居の関所まつり等の多彩な行事で、これに対し、遠州鉄道は船車連絡回遊券を発行し、舘山寺や鷲津、
弁天島
行,昭和二十四年には弁天神社祭礼の余興として花火の打ち上げが再開され、
弁天島
は多くの見物客でにぎわった。,また、七、八月は鷲津港から舘山寺港行と
弁天島
と舘山寺を結ぶ航路も開設された。,戦前の昭和十一年(一九三六)、外国人観光客を目当てに
弁天島
に建設された豪華な浜名湖ホテルは戦争の拡大に
浜松市史 三
(タクシー全盛)
【円タク】運賃も昭和三年には市内一円均一となると「円タク」の愛称で親しまれ
弁天島
へ三円、気賀へ五円、時間賃一時間三円,ると市内を三十銭で走る業者も現われるようになり、これに対抗して「暑中お伺」として市内を二十五銭均一で、
弁天島
浜松市史 一
(浜松付近の中期弥生文化)
中期中葉の遺跡としては前述した
弁天島
遺跡(同図D)をあげることができるが、浜北市於呂の芝本第Ⅰ遺跡(同図,中期後半にはやや遺跡が増加し、引佐郡下では前述した岡ノ平遺跡(第17図5)、浜名郡下では舞阪町白石山遺跡と
弁天島
遺跡
浜松市史 三
(高塚駅)
超特急車「燕(つばめ)」の停車方の陳情問題(昭和七年)、
弁天島
花火大会時の臨時列車運行(昭和三年)、駅
浜松市史 三
(市街電車)
単線電車で結ぶ案であったが、第二次案(昭和二年七月)は市内木戸町から市内を横断し入野・篠原の両村を経由して
弁天島
浜松市史 三
(調停失敗)
鈴木茂三郎・石黒悦一郎が来浜し、地元有志で東邦電力の増田二郎・三井会社の株主山本粂太郎らは舟をくり出して
弁天島
舞阪町史 上巻
(舞阪町史 上巻 目次)
縄文文化と地域差 28 第二章 弥生文化 第一節 弥生文化の渡来と波及 37 第二節 大山遺跡と
弁天島
遺跡, 第三章 宿囲の造営と新田開発 第一節 宿囲の造営 333 第二節 新田開発 342 第三節
弁天島
浜松市史 一
(伊場式土器の分布)
周辺に目を向けると、浜名郡舞阪町
弁天島
遺跡(同図34)、雄踏町宇布見の鹿小路遺跡(同図19)、引佐郡細江町岡
浜松市史 三
(少年団)
し、その数の多い分団を表彰する行事)などをして気勢をあげたが、最後まで残った行事は毎年七月末に浜名湖
弁天島
浜松市史 一
(水深と湖底)
鉄道北側の本湖には、
弁天島
前に大瀬と呼ばれる四五〇万平方メートルにおよぶ湖内最大の浅瀬を有しており、また
浜松市史 四
([製塩と地引網])
昭和二十一年には
弁天島
の北方の湖面を埋め立て(現在の渚園)、雄踏町ほか二十一カ町村の共同経営による大規模
浜松市史 三
(その他の路線)
【舘山寺 銀バス】路線は浜松を中心に笠井・舘山寺・宇布見・
弁天島
・倉松・鶴見と幅広く、銀バスの「浜自」
浜松市史 五
([和太鼓の団体の活躍])
財団法人浜松コンベンションビューロー発行)平成五年度版の「アトラクション一覧表」(浜松地区・舘山寺地区・
弁天島
地区
浜松市史 五
(浜名湖周遊道路)
舘山寺航路など)のほかに、遠州鉄道も昭和三十六年に遠鉄観光汽船(株)を設立、村櫛汽船を譲り受けて航路(村櫛・
弁天島
浜松市史 四
([遠足と修学旅行])
庄内半島や浜名郡北部の小中学校ではトンコ船に乗って新居や
弁天島
まで行き、潮干狩りや砂遊びを楽しんだ。,
弁天島
より西に行ったことがない生徒がほとんどで、竹島で先生が撮影した写真はもちろん白黒、その大きさは縦
浜松市史 三
(落葉松短歌会 遠江短歌大会)
ついで翌十三年十一月三日遠江短歌大会(
弁天島
白砂亭)を開催し気勢をあげた。
浜松市史 五
([マンションの建設])
続いて同社は同四十七年に浜名郡舞阪町
弁天島
に同じく鉄筋コンクリート五階建てのマンションを建設、これも完成
浜松市史 四
([行事の復活と修学旅行])
夏には富士登山や
弁天島
での水泳訓練が復活した。
浜松市史 三
(文芸誌)
また文芸誌では昭和六年に伊達鎮二などによる『文化の隅』(『不屈のあゆみ』)、七年には『涛声』(浜名郡
弁天島
斎藤愛子方涛声社
舞阪町史 下巻
(舞阪町史 下巻 目次)
第五章 交通・運輸・通信 第一節 交通・運輸 495 村櫛渡船の経過と廃止 東海道本線の変化と
弁天島
駅,町民生活の変化 959 居住区域の拡大と住居構造の変化 生活様式の変化 第三節 福祉制度 986
弁天島
同胞寮
浜松市史 四
([女性運動の展開])
文化講座や家庭経済研究会などでの学習や食生活改善講習会や物価引下げ日用品廉売会などの実践、国立病院や
弁天島
同胞寮,・引揚者母子収容の
弁天島
同胞寮や仏教養護院母子寮等の戦争未亡人となった困窮者や伊場遺跡発掘隊を慰問。
浜松市史 三
(原田浜人の俳歴 すその時代 みづうみ時代)
【句碑】句碑には浜名湖
弁天島
埋立地に「鴨すでに一連とぶやそこの空」(昭和十六年建立)、浜名湖舘山寺大草山
浜松市史 三
(士族授産所 浜松産業所)
なお、塩田は明治三年五月に浜松勤番組が、
弁天島
北浦(浜名郡舞阪町)に開発しようとする計画があったが、舞坂宿
浜松市史 四
([職場環境の改善運動と労働組合])
国鉄当局は同年十月三十日に職場代表の二十五人と
弁天島
の八紘荘で懇談会を持ったが、この二十五人の中には待遇改善委員会
浜松市史 五
([庄内村の合併])
その中には浜名湖を渡る村櫛・
弁天島
間、白洲・古人見間の架橋、東名高速道路舘山寺ICの設置、北庄内小学校
浜松市史 四
(病院・診療所の再開)
内科小児科耳鼻咽喉科)、四月十一日付で山下町宅間医院(内科小児科レントゲン科)、六月九日付で美甘医院(眼科)の舞阪町
弁天島
浜松市史 三
(再建運動 自力で設立 組合立静岡県尋常中学校浜松分校 静岡県立浜松中学校)
い野球部(二十九年創立)の静岡中学との対校試合や発火演習(三十一年以降)は浜松の行事の一つともなり、
弁天島
浜松市史 五
([文学散歩と文学碑])
事業は五十三年度から始められ、
弁天島
から三ヶ日まで全長四十八キロメートル、幅員三メートル、同五十七年度末
浜松市史 三
(機関庫 列車運転回数)
金谷 明治26.7.1 天竜川 明治31.7.1 明治25年9月20日天竜川貨物取扱所として発足
弁天島
浜松市史 四
(五島・新津・河輪三村の浜松市合併)
五島・新津・河輪三村の浜松市合併 市長は理想的な大浜松を建設するには、西は
弁天島
から東は天竜川西岸までを
浜松市史 五
([詩歌界の動き])
遠く懐しく(八編) ○私の青写真―サイクリング・ロードへの夢―(六編) 集の初め数頁には、
弁天島
夜景
浜松市史 四
([国体誘致と施設の整備])
このため、役員は
弁天島
の旅館に泊め、選手は六十余軒の家庭に宿泊させることになり、部屋の畳替えやふとんの
浜松市史 五
([石油危機後の舘山寺温泉])
昭和五十八年には浜名湖周遊自転車道の
弁天島
・舘山寺間が完成、さらに観光客の増加に一役買ったのは動物園の
解説「国絵図」
(解説「国絵図」)
今切渡船航路付近では、
弁天島
が描かれていない。,今切渡船航路付近に
弁天島
が描かれていないのは、①図と同様である。 ,今切舟渡は「今海上一里」と記され、
弁天島
の北に航路が描かれる。,今切渡船航路付近に
弁天島
が描かれていないのは①図と同様である。
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