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浜松市史 四
(引揚者)
引揚者
【
引揚者
住宅 県外地
引揚者
互助会西遠支部 シベリア抑留者 鈴木八郎 『間島捕虜収容所』 民生委員,市は表2-48のように
引揚者
住宅を建設し、収容していった。,この表によると
引揚者
住宅に収容できた世帯数は昭和二十七年あたりまでが多い。,注:『浜松市勢要覧』昭和35年版からは、
引揚者
住宅についての記述がなくなる。 ,
引揚者
二千人のうち、地元出身者は浜松市三名、浜名郡五名であった。 /
引揚者
浜松市史 四
([引揚者と復員者への援護])
[
引揚者
と復員者への援護] 【
引揚者
】 終戦を海外で迎えた日本人は六百四十万人とも六百六十万人ともいわれるほどの,浜松市では昭和二十一年九月に葵町に、同二十二年には龍禅寺町にそれぞれ
引揚者
の収容所を建設している。,一方、浜松市社会課では国庫補助を受けて昭和二十五年度に
引揚者
住宅を十戸建設し(完成は翌年三月)、格安の,なお、このころ龍禅寺町には龍南荘という
引揚者
収容施設があり、十七世帯が入居していた。,この
引揚者
住宅は岩崎市政下でも数多く建てられることになる。 / [
引揚者
と復員者への援護]
浜松市史 四
([引き揚げの終息と戦争犠牲者への援護])
[引き揚げの終息と戦争犠牲者への援護] 【
引揚者
】 中国からの引き揚げは昭和二十年から始まり、その,中国やソ連からの
引揚者
は西遠地方(浜松市・浜名郡・引佐郡)で三十九世帯・六十四人(昭和三十年四月まで), 【静岡県
引揚者
団体西部連合会】 ちなみに静岡県
引揚者
団体西部連合会が昭和三十二年三月現在,でまとめた『
引揚者
名簿』によると戦後の
引揚者
の世帯数は表3-36のようになっていた。 ,表3-36
引揚者
の市(地区)町村別世帯数 市(地区)町村 世帯 市(地区)町村 世帯 浜松市
浜松市史 四
(臨時無料診療所 戦災援護会)
臨時無料診療所 戦災援護会 他方、戦災者や
引揚者
のための臨時の診療所も開設されている(上村家文書「重要通知書綴,戦災によって医療施設が壊滅状態に近くなったなかでの、戦災者・
引揚者
に対して、罹災証明書持参の上で外科・
浜松市史 四
([地域医療の第一歩])
主として罹災者や海外
引揚者
、無医村が当面の対象である。,他方、天然痘のような伝染病は、昭和十二年以来、発生を見なかったのであるが、敗戦による海外
引揚者
の中に保菌者,昭和二十一年七月には、国立浜松病院が無料診察班を組織し、主として復員者、
引揚者
、戦災者を巡回して診察した,昭和二十一年十二月二十二日から二十六日まで、
引揚者
の越冬援護の事業として、無料の巡回診療が国立病院の担当
浜松市史 四
([生活保護施設と質屋])
慈悲庵は宿所提供施設で、戦災者や
引揚者
など百三十名余が暮らしていたが、男性の多くは日雇労働者であった。,ちなみに、質物は衣類が最も多く、遺族債券や
引揚者
債券、装身具などもあった。
浜松市史 四
([敬神生活の意味])
それは戦後、海外からの
引揚者
などが入植した葵町の旧飛行隊跡地には三百七十八戸、千八百七十六人の手で開拓,まさに農業生活を支える信仰心の根元を示しているものであり、三方原開拓という戦後
引揚者
などの苦闘を昇華させる
浜松市史 四
([社会運動の再開])
再開] 【社会運動 浜松戦災者同盟 人民大会 浜松人民解放連盟 『建設者』 浜松文化同盟 三木芒
引揚者
連絡所,なお、浜松市は昭和二十年十二月、浜松駅前に復員者や外地からの
引揚者
のために
引揚者
連絡所を設けていた。
浜松市史 四
([青年団・青年会の運動の再出発])
この会は社会事業団体として相互扶助の道義に基づき、生活困窮者・遺族・傷兵・戦災者・外地
引揚者
などが独立自営,浜松工業専門学校の学生は在外父兄救恤学生同盟を組織し、戦災者や
引揚者
への援護資金の募集を始めた(『静岡新聞,在外父兄救恤学生同盟員や市民生活擁護同盟員、市内の男女青年団員は浜松駅構内と駅前に作られた浜松市案内所で復員兵や
引揚者
浜松市史 四
([生活保護法による施設の設置])
戦災者や
引揚者
、未亡人、孤独な老人などに住宅を提供する施設として、昭和二十五年五月に社会福祉法人慈悲庵浜松希望寮,当時はまだ防空壕で生活している人も多く、浜松希望寮では壕生活者や未亡人、
引揚者
などを数多く受け入れ、昭和二十七年
浜松市史 四
([結核予防の実践運動])
もっともこの昭和二十一年七月には市長は町内会長を介して国立病院による
引揚者
への無料治療を周知させたり、,広範囲な浜松市周辺地域に住む復員者・
引揚者
・戦災者への無料巡回診察を実施するなど、民心安定を図るための
浜松市史 四
(生活物資の確保)
【
引揚者
浜松市案内所 浜松 農業訓練所】 『浜松市戦災史資料』三によれば、終戦後一,ただ、これは疎開者以外に復員や海外からの
引揚者
も入った数字となる。,これら疎開者の帰還とともに軍隊などからの復員者、海外からの
引揚者
も続々と浜松に帰ってきた。,この案内所は翌年四月末日に閉鎖となったが、復員者や海外かわららの
引揚者
が続いたため、六月一日に再開、駅前,衣食の援助は最小限行われたようで、住宅のめどが全く立たない者には新津村の旧廠舎に、満州の浜松村からの
引揚者
浜松市史 四
(各種伝染病の発生状況)
海外
引揚者
の帰国によるものと推定されている。
浜松市史 四
([民生委員と生活保護])
表2-50 被保護世帯人員の年齢構成 年齢別 戦災者
引揚者
離職者 軍人遺族 在外者 留守家族 傷痍軍人,表2-51 被保護世帯人員の年次変化 年度 戦災者
引揚者
離職者 軍人遺族 在外者 留守家族 傷痍軍人
浜松市史 四
(金融緊急措置令)
失業問題も深刻化し、軍隊からの復員者は七百六十万人、軍需工場等からの失業者が四百万人、海外からの
引揚者
約百五十万人
浜松市史 四
([学校の校地])
また、広大な三方原と浜松爆撃場、第一航測連隊跡は開拓地となり,
引揚者
や復員者、戦災を受けた人たちが数多
浜松市史 四
([終戦後の農業と農村])
昭和二十一年に入ると、海外からの復員者、
引揚者
が急増し、その結果食糧需要が増え、食糧不足はさらに悪化し
浜松市史 四
([バラック駅舎からの出発])
バラック駅舎は、後述するように悪条件の中で急増する買い出し等を目的とする一般乗降客と復員者・
引揚者
等の
浜松市史 四
([戦後緊急開拓と浜松の開拓地])
敗戦による国土の荒廃・労働力の不足・
引揚者
の増加・植民地の喪失などが、わが国における食糧需給のバランス,敗戦に伴い軍隊からは復員者、軍需工場から失業者、爆撃による戦災者、海外からの
引揚者
等によって人口が急増,もとは県内外の資産家所有の民有地が農地解放され戦災・復員・
引揚者
と農家の二、三男の四十六戸が入植した。,十五戸の
引揚者
、戦災者、地元の二、三男が雇用農業に従事した。
浜松市史 四
([天皇巡幸])
それは同年二月より始められた全国各地への巡幸の一環で、戦後の民情視察、戦災者・
引揚者
・遺族等の慰問、産業奨励
浜松市史 四
([やみ市の衰退と商店街の復興])
えているが、出店しているのはその七分の一足らずの百四十軒前後となっていた(内訳は戦災者六十三%、海外
引揚者
十五
浜松市史 四
([終戦時の混乱と厚生事業の展開])
社会救済三原則】 終戦直後、焦土と化した浜松には戦災によって焼け出された人々、外地からの復員軍人や
引揚者
浜松市史 四
([廃墟と化した中心商業地とやみ市の発生])
されていたのは九百余軒、実際に営業していたのは百四十軒で、店を出していた人たちは戦災者が最も多く六十三%、
引揚者
浜松市史 四
([女性運動の展開])
・
引揚者
母子収容の弁天島同胞寮や仏教養護院母子寮等の戦争未亡人となった困窮者や伊場遺跡発掘隊を慰問。,・傷痍軍人慰問(国立病院) ・
引揚者
慰問(浜名寮) ・夏期婦人文化講座開催[婦人問題・法律と女性解放
浜松市史 五
([雇用の拡大と集団就職])
なぜなら、戦後緊急開拓事業によって海外からの
引揚者
、軍隊からの復員者、都市失業者などが食料の確保や失業対策
浜松市史 四
([公営住宅])
この過密居住は戦災者や戦後に流入した人々(疎開先からの復帰者、
引揚者
、転入者)の場合に著しかった(『浜松発展史
浜松市史 四
([母子福祉施設の開所])
弁天島同胞寮 山形春人 長谷川力 雨宮恵 浜松母子福祉苑浅田ホーム 母子寮】 一切を無くした戦災者や
引揚者
浜松市史 五
([市議会への請願・陳情・要望])
税制改善に関する意見書 沖縄の祖国復帰に関する要請決議
引揚者
浜松市史 四
([輸送の混乱])
しかも、戦後は特殊事情として一般輸送のほかに復員・
引揚者
、疎開復帰者ならびに進駐軍の輸送によって圧迫された
浜松市史 四
(新生活運動)
[奉仕]中国ソ連
引揚者
帰還者接待。皇居勤労奉仕。[義援金]九州災害義援金。,[奉仕]中国
引揚者
接待、未帰還者家族慰安会。 [教養]勤労婦人講座。
しいの森はぎの原:わが町文化誌
(浜松市立北部公民館『しいの森はぎの原:わが町文化誌』 目次)
開成中学校郷土研究部 高丘 開拓者住宅 飛行第七連隊】 131 【入植 農林省三方原国営開拓建設事業
引揚者
,飛行第七連隊 電気】 163 おくどの贈り物 【結婚祝 レンガのかまど】 165 入植した頃 【
引揚者
浜松市史 四
([天然痘、日本脳炎と小児マヒ])
天然痘、日本脳炎と小児マヒ] 【天然痘 日本脳炎 急性灰白髄炎(ポリオ) 小児マヒ】 天然痘は外地
引揚者
浜松市史 四
([知事と市町村長選挙])
海外からの
引揚者
や復員者にも広く投票権を与えるために浜松市では臨時選挙人名簿が作成され、四千九百五十一名
浜松市史 四
(図・表一覧)
浜松市付近の婦人会の活動 浜松市婦人連盟『手をとりあって』浜松市婦人連盟史 平成6年6月発行 2-48
引揚者
住宅,の建設一覧 『浜松市勢要覧』昭和24年~30年版 2-49
引揚者
住宅収容世帯・人数の実態『浜松市勢要覧,『静岡新聞』、『遠州新聞』、浜松商工会議所『浜松商工名鑑』1951 昭和26年7月発行 3-36
引揚者
,の市(地区)町村別世帯数 静岡県
引揚者
団体西部連合会 昭和三十二年三月現在『
引揚者
名簿』昭和32年7月発行
浜松市史 四
([戦後の財政事情])
戦時中健全財政を誇った浜松市も昭和二十一年七月になると、税収入の激減や戦災復興や戦災者・
引揚者
の援護などに
浜松市史 四
(目次)
競馬場と競輪場 工場誘致、名鉄電車の浜松乗り入れ
引揚者
, 銃後奉公会から援護会へ 深刻な食糧・衣料不足を救ったララ物資 二
引揚者
,・軍人遺族・傷痍軍人への援護 三五一
引揚者
と引揚促進運動
浜松市史 四
([三方原台地と開墾])
飢ゑ凌ぐ入植者 農業会浜松支部救援に起つ 〔浜松発〕三方ケ原開墾地に鍬を握つてゐる二千余名の
引揚者
浜松市史 四
(主な参考文献)
清水書院 『教護七十年』静岡県立三方原学園 『夜もひるのように輝く』講談社 昭和三十二年三月現在『
引揚者
名簿,』静岡県
引揚者
団体西部連合会 『寂光』齋藤時雄の想ひ出 齋藤義雄 『堺女子短期大学紀要』堺女子短期大学
浜松市史 四
(農地改革の成果)
従って、農地改革は農家の零細化を阻止することが出来なかっただけでなく、敗戦による
引揚者
・復員者・戦災者
浜松市史 四
([メーデーの復活と争議の激化])
八時間労働制の徹底」「失業者に職を与へよ」「男女同権」「女子に生理休暇を」「働けるだけ食はせろ」「戦災復員
引揚者
浜松市史 四
([現代総説(上)])
、駅舎・プラットホームをはじめとする諸施設がほぼ焼失・破壊されたため、ふくれあがった一般乗客と復員・
引揚者
浜松中心街の今昔:わがまち文化誌
(浜松市立中部公民館『浜松中心街の今昔:わが町文化誌』 目次)
大工町 【職人町 若宮八幡宮】 375 十八 山下町 【終戦当時の思い出 青年団 復員
引揚者
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