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浜松市史 ニ
(引馬城の築城)
引馬城
の築城 『浜松御在城記』に「馬込(まごめ)ヨリ御城近辺、惣而引間ト申ト相見申候。,飯尾豊前守被居候引間城モ、今ノ古城ナルヘシ」とあるように、古城とは
引馬城
の跡をさしていったのだろう。,しかし
引馬城
の築城年代や築城者は明らかでない。,
引馬城
は永禄十一年(一五六八)四月十五日に「引間領之内入野郷(当市入野町)」の住民が「引間城内之塀弐拾五間 /
引馬城
の築城
浜松市史 一
(引馬城の飯尾氏)
引馬城
の飯尾氏 遠江国の戦国大名今川氏親の時代がこれからはじまる。,【飯尾賢連】飯尾賢連は、吉良氏から浜松荘の代官に任命されて
引馬城
に入り、のち引馬は飯尾氏の居所となった,
引馬城
跡(昭和33年撮影 浜松市元城町) /
引馬城
の飯尾氏
浜松市史 ニ
(引馬城の内紛)
引馬城
の内紛
引馬城
は、飯尾連竜の老臣江馬安芸守泰顕・同加賀守時成らが守っていた。 /
引馬城
の内紛
浜松市史 ニ
(引馬城氏真に降伏)
引馬城
氏真に降伏
引馬城
に対する氏真の圧迫がましてくる。,
引馬城
の江馬泰顕・時成は人質をだしてまた氏真に降伏した。四月二十一日付で氏真は両人に所領を保証した。 /
引馬城
氏真に降伏
浜松市史 ニ
(家康引馬城入城)
家康
引馬城
入城 【懸川城を包囲】十二月十八日、家康は
引馬城
に入り、二十七日小笠郡不入斗(いりやまず) / 家康
引馬城
入城
浜松市史 ニ
(引馬城主飯尾連竜の離反)
引馬城
主飯尾連竜の離反
引馬城
主飯尾連竜・嵩山(すせ)(豊橋市)城主奥山修理などが信長と家康に内通し,永禄六年に氏真は
引馬城
を攻撃したが(『蠧簡集残篇』)成功せずに中止した。,【頭陀寺城 氏真
引馬城
を攻撃】氏真はふたたび引馬坡を攻撃し、頭陀寺(ずだじ)城(当市頭陀寺町)は戦火にかかった,った家康の家臣渡辺庄右衛門の起請文、同年二月十日付の加賀守あての家康の所領安堵状、また永禄九年正月六日
引馬城
代江馬泰顕 /
引馬城
主飯尾連竜の離反
浜松城下のうつりかわり
(解説)
解説 【中世】浜松城の前身である
引馬城
は、現在の東照宮付近一帯の小規模な丘陵地に位置する。,また、
引馬城
の東側には中世東海道の宿場町として引馬宿が栄えていた。,
引馬城
築城時の城主は不明であるが、16世紀前半には今川氏配下の飯尾氏が城主を務めていた。,元亀元(1570)年に徳川家康が岡崎城から
引馬城
に移ると、城域を西側の段丘へと拡張して浜松城と改称したとされる,:「浜松城跡10」発行/浜松市教育委員会 浜松城跡の周辺地形 →今川氏配下による
引馬城
浜松市史 一
(大河内氏)
大河内氏 【
引馬城
】大河内氏 三河の大河内氏の同族。,貞綱は浜松荘領家吉良氏の代官であり、
引馬城
に住み、遠江守護斯波義達とともに今川氏親に抗戦して遂に敗死した
浜松市史 一
(飯尾氏)
飯尾氏 【
引馬城
】飯尾氏 今川氏に招かれてきた飯尾氏は、大河内氏のあと賢連が
引馬城
主となり、豊前守乗連
浜松市史 一
(浜松荘 入野木寺宮領)
【
引馬城
主飯尾乗連】
引馬城
主飯尾乗連は、天文十年(一五四一)三月、授竜庵領を検地した出目(でめ)の一町九段,【今川氏領 引馬】永禄九年(一五六六)四月今川氏真は、前年
引馬城
の飯尾連竜を処断した時に身命を捨てて協力
浜松市史 ニ
(古城)
その名は
引馬城
の跡といわれたためであろう。,
引馬城
は飯尾氏の居城で、家康が浜松城を築くにあたって、新城のうちへ含めたのだという。
浜松市史 ニ
(浜松城の築城)
そして
引馬城
が「前後四曲輪アリ。,惣廻リ石垣、其上長屋立テラル」(『当代記』)とあるように、
引馬城
をふくめて、その西南の丘陵に新城を築いた
浜松市史 一
(遠江今川氏の分国となる)
遠江今川氏の分国となる 【
引馬城
を包囲】このために貞綱は、斯波義達・巨海(おおみ)新左衛門とともに勢力,をもりかえし、
引馬城
により、信濃の国人もあわせて、天竜川の近くまで進んだ。
浜松市史 ニ
(浜名湖の水路確保)
氏真の三回にわたる
引馬城
の攻撃と講和は、今川氏の無力と統制力の弛緩を示す事実である。
浜松市史 ニ
(起源)
しいが、江戸時代に書かれたという酒井真邑の『浜松城記』(大正十五年発行『浜松市史』)によると、永禄年間
引馬城
主飯尾豊前守
浜松市史 ニ
(浜松築城の意図)
そして元亀元年六月
引馬城
に移り、工事をいそがせる。
浜松市史 ニ
(本陣)
その先祖助右衛門が十王町(のちの伝馬町)の名主で、天文二十二年(一五五三)
引馬城
主飯尾豊前守の命をうけて
浜松市史 一
(吾妻鏡 以後の文献 十六夜日記)
の禅僧万里集九(ばんりしゅうく)の詩文集『梅花無尽蔵(ばいかむじんぞう)』にもみえ、そして浜松古城の
引馬城
浜松市史 ニ
(湖西の守備)
湖西の守備 【佐久城 日比沢城】三遠国境南部の今川氏の守備線は、引佐(いなさ)郡で佐久城に浜名頼広(
引馬城
主飯尾連竜
浜松市史 ニ
(浜松入城)
引馬城
もとりいれ、その西方の高地に本丸以下惣廻(そうまわ)りの石垣、長屋などをつくり、三河・遠江の武士
浜松市史 ニ
(家臣団の配置)
ちなみに
引馬城
主飯尾豊前守の重臣江馬加賀守の屋敷は江馬殿小路(当市連尺町と肴町を通ずる小路、沼殿小路ともいったという
浜松市史 ニ
(浜松滞在)
翌十二年正月には上京の途次杉浦本陣に休憩し、また二月に下向、二十二日に着城し「きさらぎばかり
引馬城
に来
浜松市史 一
(浜松のばあい)
【
引馬城
】引馬の古城は、吉良氏の家臣巨海(おおみ)新左衛門尉が築いたようである。
浜松市史 一
(普済寺十三派)
【華蔵】応永の末、肥後(熊本県)大慈寺からきた華蔵義曇(けぞうぎどん)(一三七五-一四五五)は、
引馬城
主吉良氏
浜松市史 ニ
(杉浦国頭)
杉浦家は十三代目の直信が三河から浜松へ移り、その弟信定があとを継ぎ、永禄十一年十二月、徳川家康が
引馬城
浜松市史 一
(遠江の戦乱の二)
大河内備中守貞綱は信濃・三河・尾張の兵を味方にし(「天野文書」『遠江国風土記伝』所収)、義達の援助で
引馬城
浜松市史 一
(繁田氏)
将昌は
引馬城
飯尾乗連の代官。なお野末藤左衛門尉らの一族。忠内信秀の名がみえる。
浜松市史 一
(中世編)
浜松市村櫛町) 六〇〇 大菩薩山城跡 (浜松市有玉西町) 六〇一
引馬城
跡
天竜市史 上巻
(天竜市史 上巻 目次)
動向 第二節 二俣城主 二五七 二俣城主の性格 瀬名一秀 朝比奈時茂 二俣昌長 松井貞宗 第三節
引馬城
主
解説「浜松城絵図と城下絵図」
(解説「浜松城絵図と城下絵図」)
年10月 佐野一夫(元浜松市文化財課長) 1.浜松城絵図 元亀元年(1570)に岡崎城から
引馬城
,ここが浜松城の前身、
引馬城
にあたる部分である。絵図作成時には侍屋敷や蔵屋敷として使われたようだ。,建物がある程度詳しく描かれているのは、浜松古城(
引馬城
)区域である。,古城(旧
引馬城
)区域には楕円形の4つの曲輪が残されている。,旧
引馬城
区域には楕円形の4つの曲輪が描かれる。
浜松中心街の今昔:わがまち文化誌
(浜松市立中部公民館『浜松中心街の今昔:わが町文化誌』 目次)
【徳川家康 三方ケ原合戦 大久保忠世 岡部政定】 195 ○ 椿姫観音(元浜町) 196 【
引馬城
,五社神社 諏訪神社 利町 徳川家康 徳川秀忠 徳川家光 中島町】 204 【東照宮 元城町 井上八郎
引馬城
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