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浜松市立中央図書館/浜松市文化遺産デジタルアーカイブ

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浜松市史 一 (引馬野浜松説)

引馬野浜松説 引馬野といえば、直ちに浜松の古名、引馬を思い起こすであろう。,だから賀茂真淵以来、この引馬野は当然遠江の浜松の野、すなわち三方ヶ原の辺であろうとされ、つぎの安礼の崎 / 引馬野浜松説
浜松市史 一 ([引馬野の歌])

[引馬野の歌] 『万葉集』巻一に収められた引馬野の歌は、つぎのようなものである。,「二年壬寅、太上天皇の参河国にいでましし時の歌  引馬野(ひくまの)ににほふ榛原(はりはら)入り乱り,奥麿の歌は、  (旅行の記念に、引馬野に色づいている榛(はり)の原に入って、榛を乱して衣に美しい色をうつし,漕ぎめぐっていったあの小舟は、今ごろはどこに船泊りしていることだろうか) との意であるが、前者には引馬野 / [引馬野の歌]
浜松市史 一 (三河説)

三河説 ところが、昭和の初年以来、引馬野も安礼の崎も遠江でなく、三河の地名だという説が用いられるようになった,宝飯郡御津(ほいぐんみと)町御馬(おんば)は、旧名引馬村であるというのであって、郷社の引馬神社もあり、引馬野,たしかに、この歌は持統上皇三河国御幸の時の歌であるから、引馬野も安礼の崎も、三河にあるとする方が自然であるに,だから引馬野が三河ならば何も問題は起こらないが、ただ、古来、引馬の名を一貫して用い、有名になっているのは
浜松市史 ニ (浜松滞在)

【引馬野 天竜川】このとき天神町村(当市天神町)より馬乗して浜松宿に入り十六日は引馬野(三方原)を見学
浜松市史 一 (長期の三河滞留)

黒人の歌の安礼の崎までは保証しないが、奥麿の歌の引馬野は、大勢からみて、やはり遠江の引馬野、すなわち浜松辺
浜松市史 一 ([万葉集])

いうまでもなく、それは巻一に収める引馬野を詠み込んだ歌、巻七の吾跡川楊をうたった施頭歌(せどうか)、巻十四
浜松市史 一 (実暁記)

1350~52) 僧宗久 たかし山 二むら山 さやの中山 富士紀行 永享4年 (1432) 飛鳥井雅世 引馬野,富士歴覧記 明応8年 (1499) 飛鳥井雅康 わしづ 本興寺 うぶみの渡 いなさ細江 引馬の宿 引馬野,ひくま野 あまがた 懸川 小夜の中山 菊川の宿 東国紀行 天文13年 (1544) 宗牧 井伊 都田 引馬野
しいの森はぎの原:わが町文化誌 (浜松市立北部公民館『しいの森はぎの原:わが町文化誌』 目次)

   次 ページ 画像 序章 ―わが町文化誌― 6 第一章 はぎの原―ひくまのはるか― 9 引馬野,ににほふ榛原 【古代交通図 万葉集 長忌寸奥麻呂】 11 【引馬野三河説 大岡信 折々の歌 賀茂真淵, 万葉考】  13 【萩の花考 万葉集 小豆餅 萩町】  14 【引馬野と飛鳥を結ぶもの 夏目隆文,  37 岡村山開墾―黙之助が開いた四ツ池― 【岡村義理 飯尾治右衛門 飯尾家 油屋】 40 引馬野吟行
浜松市史 五 ([市の木・市の花・市の鳥の制定])

「大宮人の旅衣入りみだれけむ萩原」は、万葉集中の一首「引馬野ににほふ榛原入り乱れ衣にほはせ旅のしるしに,この歌の「引馬野」については浜松説と三河説とがあって、定説はないが真淵は浜松説である。
浜松市史 一 (古代編)

       式内社  寺院   第二節 万葉集                 三三〇        引馬野
馬込川が流れるまち:曳馬地区わが町文化誌 (浜松市立曳馬公民館『馬込川が流れるまち:曳馬地区わが町文化誌』 目次)

電車通り】 57 第四章 地域のあゆみ 一 阿弥陀遺跡 【上島小学校】 61 二 引馬野
浜松市史 五 ([賀茂真淵の顕彰と寺田泰政])

引馬野爾  仁保布榛原  入亂  衣尓保波勢  多鼻能知師尓  (ヒクマノニ ニホフハギハラ イリミダリ
とみつか:わが町文化誌 (浜松市立冨塚公民館『とみつか:わが町文化誌』 目次)

】 288 (六)寸田ヶ谷三社神社 290 ・郷祖「長忌寸奥麻呂と万葉集」について 291 【引馬野
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