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浜松市史 三
(掛塚街道)
掛塚
街道 ③
掛塚
街道 屈折が多く狭いので関係町村が協力して工費を負担し、路線も浜松駅南から龍禅寺・芳川,・河輪を経て
掛塚
へ通ずる計画であった。,県道となって浜松
掛塚
線といった。旧
掛塚
街道より、ずっと南である。 /
掛塚
街道
浜松市史 三
(掛塚灯台)
掛塚
灯台 遠州灘では、その逆波に苦しんだ
掛塚
港(袖浦村駒場(こまば)に東西四四メートル、南北二二メートル,士族、明治四十四年没)が明治十三年私費をもって建造した木造高灯籠式灯台(改心灯といった)が、新式公認の
掛塚
燈台,として落成したのは三十年三月であった(立石博『
掛塚
港』『ふるさと竜洋』)。 /
掛塚
灯台
浜松市史 三
(浜松掛塚線)
浜松
掛塚
線 ④浜松・
掛塚
間 大正十三年創立の
掛塚
自動車株式会社(本社磐田郡
掛塚
町、現竜洋町)があった / 浜松
掛塚
線
浜松市史 ニ
(掛塚領有案)
掛塚
領有案 ところで水野藩は文政三年(一八二〇)に天竜川の河口の
掛塚
・鶴見・芋瀬(いもせ)の三輪中(,その目的は「浜松之儀航路無之」ため
掛塚
湊を外港として「荷物水揚岸場」を確保するとともに、これらの漁村から,では「御普請が手薄」となるし、それに漁猟運上がかかっては生活困窮者には家職のさしつかえとなる、ことに
掛塚
湊,【廻船問屋の反対】すると水野藩は藩船を
掛塚
湊に常置し、出帆の順序を無視して優先的に江戸へ諸荷物を輸送しようとしたが /
掛塚
領有案
浜松市史 ニ
(掛塚湊と浜松)
掛塚
湊と浜松 中でも
掛塚
湊は天竜川の川口にあるので「深浅時ニ相替リ」好天にめぐまれ「風波穏成日和ならでは,この時は
掛塚
湊を利用したらしい。,後宝暦十二年(一七六二)に五右衛門家は浜松藩主(井上氏)から年貢米の江戸廻送御用を命ぜられたので、新居・
掛塚
/
掛塚
湊と浜松
浜松市史 ニ
(掛塚湊と榑木)
掛塚
湊と榑木 しかし、
掛塚
湊の積出しでもっとも特徴のあるものは榑木(くれき)で、これは米のかわりに納,くだなが)しによって天竜川を下り、船明・日明両岸で一旦集積され、ここで材木を筏に編み、筏送りによって川口の
掛塚
湊 /
掛塚
湊と榑木
浜松市史 ニ
(水野藩と掛塚湊)
水野藩と
掛塚
湊 市野村では津出し米は一色(天竜川畔)から舟で
掛塚
湊まで運び、目減りは湊で補ったという,天保六年(一八三五)浜松藩水野家は「お手船」四百五十石積一艘を
掛塚
湊に繋留していたが「屋敷ノ諸荷物」を / 水野藩と
掛塚
湊
浜松市史 三
(東支川締切工事計画 掛塚住民の反対)
東支川締切工事計画
掛塚
住民の反対 六年二月、明善は前の役を免ぜられ県から「天竜川通普請ニ付格別奇特之取計有之,これは当時天竜川は
掛塚
付近において東西に分流し、西が本流をなし東が支流をなしていたのを、明善のいわゆる,しかしこれは
掛塚
港への水路を絶つことになるので、
掛塚
村民のあげて反対するところであった。,そのため県がこの案を採用し実地検分使の派遣を決すると聞くや、激昻した
掛塚
村民は金原家の襲撃の計画をするに / 東支川締切工事計画
掛塚
住民の反対
浜松市史 三
(渡船 船越一色村 天竜川船橋 天竜橋 船越一色村の困窮 池田橋 豊田橋 渡船場 掛塚橋)
渡船 船越一色村 天竜川船橋 天竜橋 船越一色村の困窮 池田橋 豊田橋 渡船場
掛塚
橋 水上交通では,なお
掛塚
橋(延長四八〇間、幅九尺)が有料橋として開通をみたのは明治三十九年十二月であった。 / 渡船 船越一色村 天竜川船橋 天竜橋 船越一色村の困窮 池田橋 豊田橋 渡船場
掛塚
橋
浜松市史 五
([遠州大橋の完成])
とりわけ企業進出が目覚ましい天竜川東岸地域と浜松市を結ぶ
掛塚
橋の渋滞は深刻で、新たな長大橋(仮称新
掛塚
橋,また、この計画には新
掛塚
橋の架橋も含まれていた。 ,こうした同盟会の運動が実を結んで、昭和六十年七月、県はようやく新
掛塚
橋を含むバイパス建設を昭和六十一年度,本来、
掛塚
橋をはじめとする国道一五〇号線の渋滞解消を目的としていたが、遠州大橋が有料であったことや計画,平成十三年十月にようやく浜松市福塚町から磐田市大中瀬まで(
掛塚
バイパス)が全通した。
浜松市史 三
(天竜木材株式会社)
天竜製材株式会社 【製材業と
掛塚
】浜松地方の近代的製材業は
掛塚
港を中心にして発達した。,九年に
掛塚
港の大束屋・川島平次郎が、十一年には
掛塚
港の中文および松下文治郎がつづき、合本興業社の設立となったのである
浜松市史 三
(西遠銀行)
【平野又十郎】資本金は十万円、初代頭取は平野又十郎(嘉永六年十二月
掛塚
村林家に生れる、貴布祢村平野氏へ,東海道線開通以後経営も順調に
掛塚
支店を合わせ、三十二年には資本金も五十万円に増資した。,戦災焼失)の三階の洋風建築は人の目をそばだたしめ、市内に東(馬込)・南(菅原)、郡部に新居・鷲津・中野町・
掛塚
浜松市史 三
(銀行類似会社の全盛)
明治十一年一月には和地村に隆永社、十二年九月舞坂宿に荷質社、十四年三月に笠井村に笠井銀行、同年八月に
掛塚
村,に
掛塚
銀行、十五年市野村に消海社、十六年一月貴布祢村に永世社、同年龍禅寺に共栄社の設立をみて、その流行
浜松市史 三
(新県道)
大正十五年十一月には新県道として浜松・舘山寺線、中ノ町・市野線、市野・気賀線、笠井・宮口線、気賀・雄踏線、
掛塚
,【都市計画線】また都市計画線(停車場線、旭・上島線、伝馬・
掛塚
線、成子・若林線を中心に)も予算の不足に
浜松市史 四
([橋梁の鉄筋コンクリート化])
【
掛塚
橋】 なお、天竜川に架かる日本一長い木橋の
掛塚
橋は、延長八百七十六メートル、,しかし、間もなく関係市町村から県道浜松
掛塚
線(二十八年五月から二級国道)の道路改修及び舗装と並行して鉄筋,この結果、二十八年三月十八日に
掛塚
橋の起工式が行われ、三十年三月三日に延長八百七十七メートル、幅員六メートル,13/54 24/74 1184/1970出典:『浜松市勢要覧』各年より作成 図3-56 木製の
掛塚
橋,と鉄筋コンクリートの新
掛塚
橋
浜松市史 三
(浜松と近郊間の馬車)
【宇布見
掛塚
】このほかに金指・入野・宇布見・
掛塚
・二俣方面へも乗合馬車が運行されるようになった。
浜松市史 四
(東洋ピアノ製造)
東洋ピアノ製造 【石川隆己 アポロ】 東洋ピアノ製造株式会社の起源は、昭和九年
掛塚
町(現磐田市),創業者は石川隆己で、
掛塚
の船大工の家の出身である。
浜松市史 三
(天竜川停車場)
購入した蒸気船「千代丸」が明治二十一年三月に初航海で難破すると、鉄道輸送に変更を決意し、平野又十郎(
掛塚
商船会社総代,【
掛塚
港】このため
掛塚
は東海道線の開通によって所属船舶も十九年百六十九隻、二十四年百九十三隻に対し三十一年五十九隻
浜松市史 三
(天竜運輸会社)
天竜川の「木材其他ノ貨物鉄道便ヲ以テ迅速安全」に運輸営業の目的をもって、発起人金原明善・野口組小松正一・
掛塚
村
掛塚
商船会社平野又十郎
浜松市史 三
(浜松商友会 浜松商業会議所)
立てられ、ついで浜松実業家の大会において満場一致をもって設立の手続を議決、浜松の経済圏に属する笠井・
掛塚
,銀行役員 気賀半十郎 〃 畳表商 気賀鷹四郎 金指町 畳表商 中村利平治 〃 醤油製造業 鈴木八平
掛塚
村
掛塚
浜松市史 ニ
(茅野新田)
茅野新田 【弥助新田】また茅野(かやの)新田は寛文五年
掛塚
村庄屋が開発を中泉代官所へ願い出ており、弥助新田
浜松市史 一
(安政の被害)
【
掛塚
湊】
掛塚
湊では家屋の潰れ二百軒、また潰れ同様に破損した家三百軒という大被害があり、ここでも所々から
水と光と緑のデルタ:わが町文化誌
(浜松市立南陽公民館『水と光と緑のデルタ:わが町文化誌』 目次)
洪水 41 昭和の大洪水 42 水防の歴史 54 消防 55 第二章 道 ~
掛塚
街道,から浜松バイパスへ~ 57 第一節 街道 59 街道の歴史 59
掛塚
街道と浜松バイパス,大浜通りと主な市道 70 第二節 交通機関 75 乗物の移り変り 75 乗合馬車と
掛塚
自動車,大橋タクシーと国民車(輪タク) 79 車社会の到来 81 第三節 橋 83
掛塚
橋
浜松市史 ニ
(天竜材の需要)
江戸駿府はもちろんのこと、遠く東の方日光へ十万挺、西の方三河滝山廻り十一万千二百四十挺というように、
掛塚
湊,とにかく近世の
掛塚
湊は米の津出し、榑木の積出湊として特色があり、これは明治時代までつづいたが、東海道線
浜松市史 ニ
(米の津出湊)
海上江戸迄七拾里」また、「米の津出し、篠原村・新居湊江凡弐里、海上江戸迄九拾里余」とあって、浜松宿から東方の村々は
掛塚
湊
浜松市史 ニ
(測量術)
このため二俣(天竜市)・
掛塚
(磐田郡竜洋町)では木材や物資の集散が増して便益を得た。
浜松市史 一
(海上輸送)
遠江頭陀寺荘から、持明院のを遠江国初倉荘から船で運上したのは、現在の榛原郡相良湊と、浜松市白羽港か、磐田郡
掛塚
湊
浜松市史 一
(今川義元の過所)
天文十年(一五四一)十月今川義元は、遠江笠原荘高松社に対し、造営材木を天竜川上から懸塚湊(磐田郡竜洋町
掛塚
浜松市史 三
(道路)
道路 道路も大正八年道路法の施行により、国道・県道(気賀線・笠井線・
掛塚
線・二俣線・村櫛線・鎮玉線・
浜松市史 ニ
(卓池の来遊)
【天林寺風流九家会】卓池が西遠を訪れた記録は、文化七年(舘山寺方面)・天保十年(
掛塚
方面)のほか同十二年
浜松市史 三
(小村の合併)
)・有玉村(下・畑屋・町田・上瀬・松木島・新・欠下村合併)・都田村(上都田・下都田村合併)・三新村(
掛塚
村,町田村 有玉村 上瀬村 松木島村 新村 欠下村 引佐郡 上都田村 下都田村 都田村 豊田郡
掛塚
村
浜松市史 三
(販売業)
すると浜名郡の販売業者は三十、浜松のおよそ半数で、笠井町の十一、北浜村・小野口村の各五、その他磐田郡
掛塚
町
浜松市史 三
(郡制施行)
【浜名郡】浜松市域関係では①長上郡を廃し、その区域の一部
掛塚
村を磐田郡に入れ、その余の区域内の村と②敷知郡
浜松市史 三
(明治初期の漁業税)
遠州灘沿岸漁業税 西島村 8円 松島村 9 福島村 3 江ノ島村 11 平左衛門新田 1 弥助新田 3
掛塚
村
浜松市史 三
(士族移住)
浜松より東南に
掛塚
港がある。東西の運船が入津する。
浜松市史 三
(浜松最初の自動車 郊外自動車)
郊外自動車の発達をみるのであるが、その主要な路線は①浜松・笠井間②浜松・二俣間③浜松・雄踏間④浜松・
掛塚
間
浜松市史 四
([掘り込み式の浜松港])
そのため、浜名港をはじめ、天竜川河口(
掛塚
港)、馬込川河口などにおける本格的な築港の可能性について様々
浜松市史 三
(二俣線開通と西鹿島駅 遠州鉄道株式会社)
戦局が進展した十八年十一月には他の交通機関五社(浜松自動車・遠州秋葉自動車・
掛塚
自動車・遠州乗合自動車
浜松市史 ニ
(漁民との紛争)
肴町側の言い分は六右衛門船が獲た魚を
掛塚
村へ売るので、江之嶋・福嶋・松嶋村の船もこれをみならうし、中には
浜松市史 一
(頭陀寺荘)
すなわち白羽港か
掛塚
港から運送したろう。頭陀寺荘は、河勾荘とか池田荘と隣接している。
浜松市史 一
(紀行文)
遠州灘より今切・浜名湖を望む
掛塚
港跡(磐田郡竜洋町) 普済寺(大正時代)(浜松市広沢町
浜松市史 ニ
(西嶋村と浜松肴商人)
【他売禁止】しかし文化二年(一八〇五)六月に西嶋村漁民が肴町の由緒を無視し
掛塚
村へ売ったとして肴町と訴訟事件
浜松市史 ニ
(改革の要求)
【米積出】浜松古城には藩の米倉があって、ここに収められた米が舞坂湊や
掛塚
湊から京坂へ積み出しにあたって
浜松市史 三
(士族の配置)
原川重左衛門の場合は「駿府表移住之義」がかなったのは慶応四年八月であったという)陸路で来るもの、海路で
掛塚
浜松市史 ニ
(国産品売捌)
下書ではこのほかに産物会所を三都にかぎらず、長崎・蝦夷地にもおき、
掛塚
湊(磐田郡竜洋町)・舞坂(浜名郡舞阪町
浜松市史 三
(直流岩積式工法)
これは天竜川下流の鹿島(かじま)と
掛塚
(かけつか)間七里の河巾を定め直流化させるとともに、両岸を岩石でもってたたむという
浜松市史 三
(英国政府の謝辞)
難破の船は、
掛塚
村林文吉を代表とした武州横浜万代町の村上喜代治が千五百四十円で落札し、器械等は取りはづしたが
浜松市史 三
(西遠商会 西遠銀行)
その後十四年には五万円に増資し、十五年には十万円、その間に
掛塚
(現在磐田郡竜洋町)へも支店を設け、順調
浜松市史 三
(小学区 小学校数)
木船新田 1 27 内野 3 28 大瀬 1 29 柴本 5 30 羽鳥 4 31 芋瀬川袋 1 32
掛塚
浜松市史 三
(道路網計画)
飯田 855 〃7年 松江・中田島 1,008 〃7年 松江・曳馬 387 〃7年 伝馬・
掛塚
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