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浜松市史 三
(新町名の町)
新
町
名の
町
【菅原
町
三組
町
常盤
町
元城
町
】戸数や人口の少ない侍屋敷をはじめ従来の
町
々を合併し、
新
町
名,をもって呼ぶようになったのはこのときからで、浜松平田
町
・浜松成子
町
・浜松菅原
町
・浜松三組
町
・浜松常盤
町
,・浜松元城
町
・浜松松城
町
・浜松栄
町
・浜松八幡地村(砂山村改称)は、その例である。,しかし、これも明治二十二年四月の
町
制施行までのわずかの間であった。 /
新
町
名の
町
浜松市史 三
(田町新道)
田
町
新
道 【二十四年】②田
町
新
道 田
町
(東海道通り)の角から駅へ出る
新
道(長さ一四六間、幅三間ないし,のちにこの
新
道が北へ延長されるとこの道は田
町
南(裏)
新
道といわれ(明治二十九年)、延長された道の田
町
北,(裏)
新
道と区別されるようになった。 / 田
町
新
道
浜松市史 三
(新町火事)
新
町
火事 【四十三年】三回日は四十三年三月十一日の
新
町
の火事。,午前一時三十分に
新
町
六六番地より出火。午前三時ごろ消防組の努力によって鎮火した。,道路が狭くてポンプは東海道筋しか使用ができず、全焼三十二戸(板屋
町
三、
新
町
二九)、火元の家族の内焼死者四名 /
新
町
火事
浜松市史 三
(板屋町新道)
板屋
町
新
道 【三十年】③板屋
町
新
道 板屋
町
より駅へ通ずる
新
道(長さ一一八間、幅三間)で、明治三十年七月竣工,板屋(
町
)南(裏)
新
道ともいい、板屋
町
の渥美久四郎他五名の所有土地の寄付によってできた道であった(明治三十三年記念碑建立 / 板屋
町
新
道
浜松市史 三
(大字制度 新町名)
大字制度
新
町
名 地籍整理も都市計画実施のために欠かせない事業であった。,しかし
新
しくできた
町
名もあるが、尾張
町
(おわりちょう)(大字下垂の改称)・千歳
町
(ちとせちょう)(大字後道,各一部 一部を東田・
新
・板屋の各
町
へ編入 東田
町
ひがしたまち
新
設 田・北馬込・本馬込・八幡・常盤,の各一部
新
町
しんまち
町
をつける
新
本馬込・田の一部 一部を松江・板屋・北寺島の各
町
へ編入 板屋
町
,
新
設 (寺島) 北馬込・
新
・浜松寺島・浜松八幡地・肴・紺屋の各一部 肴
町
さかなまち
町
をつける / 大字制度
新
町
名
浜松市史 三
(旭町駅新設 宮口線 旭町駅改築と本社移転)
旭
町
駅
新
設 宮口線 旭
町
駅改築と本社移転 大正十三年二月には鹿島線の起点の板屋
町
駅から馬込川西岸(現馬込駅,の付近)まで拡幅路線が
新
設され、昭和二年九月には旭
町
駅が
新
設されてここまで路線が延長された。,旭
町
駅は東海道線浜松駅の目前にあるため浜松駅から板屋
町
駅までの徒歩連絡の不便もなくなり、貨車も東海道線,昭和四年旭
町
駅は近代的な三階の鉄筋建物に改築され、本社もここに移された。,改築された遠州電気鉄道旭
町
駅 / 旭
町
駅
新
設 宮口線 旭
町
駅改築と本社移転
浜松市史 三
(町立で創立 新校舎 良妻賢母主義)
町
立で創立
新
校舎 良妻賢母主義 浜松商業学校についで、日清戦争後に女子教育への関心が高まると(三十二年高等女学校令,)、県下では沼津・三島とならびいちはやく
町
立で創設されたのが浜松高等女学校(七月より
町
立を冠す)であった,【馬冷】三学級編成の百五十名・三十七年七月に大字松城の馬冷(うまびやし)(旧浜松城内)の
新
校舎に移転した,【父兄状況】明治三十八年在校生出身地別調によると在校生百九十七名のうち浜松
町
が四十四%、浜名郡が三十四,浜松高等女学校(松城
町
馬冷所在当時) 同校第十五回校内運動会 /
町
立で創立
新
校舎 良妻賢母主義
舞阪町史 中巻
(舞阪町史 中巻 目次)
舞阪
町
史 中巻 / 第六章 第七章 終章 目次 ページ 画像 第四編 近現代Ⅰ 第一章 明治維
新
と,舞阪 第一節 近代への道程 1 前近代の舞阪 幕末期の諸情勢 明治維
新
第二節 廃藩置県後の舞坂 25,第三節 明治十年代の舞坂 38 第二章 舞阪
町
の誕生と
町
の発展 第一節 舞阪
町
の成立と
町
の,475 遠州灘の漁業 浜名湖内・湖岸養殖漁業 造船業 第二節 漁業をとりまく社会状況 513 「
新
津高射砲射撃場,665 漁業の状況と漁船の徴用 第二弁天地域の開発と弁天島
新
居
町
地域地籍変更 国道(東海道)拡幅工事 / 舞阪
町
史 中巻 目次
引佐町史 下巻
(引佐町史 下巻 目次)
引佐
町
史 下巻 / 明治維
新
第一節 遠州報国隊始末 3 (一)引佐
町
の報国隊員 3 (二)報国隊員の横顔 9 1 ,2 日本国憲法と地方自治法の公布 713 (二)
町
村政治の民主化 716 1
新
しい指導者の選出,2
新
生教育委員会の活動 792 第七章 引佐
町
の発展と二十一世紀への展望 第一節 高度成長時代,から「地方の時代」へ 797 (一)高度成長期の
町
制 797 1
新
制引佐
町
の課題と
新
野
町
政 797,2 「引佐
町
新
町
建設計画」の策定 802 3 高井
町
長の積極行政 807 4 前島
町
長と開発計画 / 引佐
町
史 下巻 目次
潮かおる浜の里:わが町文化誌
(浜松市立新津公民館『潮かおる浜の里:わが町文化誌』 目次)
潮かおる浜の里:わが
町
文化誌 / 『潮かおる浜の里:わが
町
文化誌』 浜松市立
新
津公民館活動推進委員会 平成7年(1995,2 第一章 あゆみ 一 あけぼの 6 (一)海の底から陸上へ 6 (二)
新
津,の里に人が住みついたころ 8 二 鎌倉・室
町
のころ 12 (一)史実にあらわれた郷名 12,(一)戦後の改革 55 (二)農地改革 56 (三)浜松市との合併 58 (四)
新
しい,
町
(自治会)の誕生 60 第二章 海と堤防と砂浜 一 堤防の上に並んだ集落 64 / 浜松市立
新
津公民館『潮かおる浜の里:わが
町
文化誌』 目次
水窪町史 上
(水窪町史 上 目次)
水窪
町
史 上 / 通史(日本の歴史と水窪) はじめに 一二七 一 無土器時代(旧石器時代) 一二九 二 縄文時代(
新
石器時代,榑木役 三五四 二十四 明治時代 三六八 (一)大政奉還と王政復古 三六九 (二)五箇条のご誓文と
新
政府,国家総動員法制定 四〇七 5 張鼓峰及びノモンハン事件 四〇八 (四)第二次世界大戦 四〇八 (五)
新
体制運動,四一九 (八)廃虚の底から 四二〇 1 生活の窮乏 四二一 2 天皇の人間宣言 四二三 3
新
憲法公布,6 農地改革と開拓事業 四二五 7 農業会から農協へ 四二六 8 民生事業の充実 四二六 9
新
円切替 / 水窪
町
史 上 目次
舞阪町史 下巻
(舞阪町史 下巻 目次)
舞阪
町
史 下巻 / 目次 『舞阪
町
史 下巻』 舞阪
町
平成十一年 【第五編】 第一章 ,25 人口 面積 職業構成 舞阪
町
行政機構の変遷
町
村合併問題 浜名湖競艇場の設立と
新
居
町
への移転,干拓・埋立計画の策定 干拓・埋立反対運動の推移 事態解決への対応 舞阪漁民の干拓反対運動の理由
新
補償案,昭和五十年代以降の観光業 591 第七章 土地改良事業 第一節 土地改良への契機 601 国道一号線
新
設,戦後舞阪の保育園 第五節 社会教育 1160 昭和二十年以前の社会教育団体 昭和二十年以前の青年教育
新
生舞阪
町
青年団 / 舞阪
町
史 下巻 目次
佐久間町史 下巻
(佐久間町史 下巻 目次)
佐久間
町
史 下巻 / 村の成立と発展 161 第一節 近代日本の地方自治と佐久間 163 (1)地方三
新
法と区
町
村会 163,)浦川村・佐久間村の
新
生と部落 176 (2)山香村・城西村の
新
生と部落 180 第三節
新
しい村,整備 831 (4)警察と消防 834 第二節
新
教育の発足 839 (1)
新
教育の理念と六・三制義務教育,)「
町
村合併促進法」の制定 1244 第二節 佐久間
町
誕生への歩み 1250 (1)合併序曲 水窪
町
,1320 (3)解村(
町
)式そして
新
しい
町
へ 1349 第四節 佐久間
町
の歩み 成立とその発展 / 佐久間
町
史 下巻 目次
舞阪町史 上巻
(舞阪町史 上巻 目次)
舞阪
町
史 上巻 / 目次 『舞阪
町
史 上巻』 舞阪
町
平成元年 【序章】 【第一編,第三節 承久の乱 149 第四節 執権政治 156 第四章 武家社会の成熟 第一節 建武の
新
政,171 第二節 守護領国制と室
町
幕府 181 第五章 戦国の動乱 第一節 今川氏の西進 201,第一節 宿囲の造営 333 第二節
新
田開発 342 第三節 弁天島の沿革 355 第四章,の舞坂宿 第一節 宿財政の破綻 633 宿助成の貸付金 幕末期の宿財政 第二節
新
しい動き 665 / 舞阪
町
史 上巻 目次
三ヶ日町史 下巻
(三ヶ日町史 下巻 目次)
三ヶ日
町
史 下巻 / 年表 資料 目次 ページ 画像 第一章 明治前期 一 第一節 明治維
新
,二三九 二、米騒動と普選運動 二四二 三、恐慌ペスト 二四六 第五節 教育の拡充 二四八 一、
新
しい,二、生活の窮乏 四六三 第二節 改革と復興 四七一 一、行政の民主化とその進展 四七一 二、
新
警察制度及,四九八 五、戦後における旧軍事関係団体並びに行事 五一一 第三節 目覚しき発展 五一五 一、
新
三, 第六章 三ヶ日
町
の文学及び方言 六四七 第一節 三ヶ日
町
の文学 六四七 第二節 三ヶ日
町
/ 三ヶ日
町
史 下巻 目次
浜松市史 一
(新居郷)
新
居郷
新
居郷の最初の総計部分は、つぎのような内容である。 ,「
新
居郷官戸壱伯壱拾伍拾郷戸、陸拾房戸、 口陸伯漆拾漆人参伯弐拾弐人、男、弐人、奴 参伯伍拾壱人、,壱拾漆
町
参伯参拾陸歩、得、 伍拾参
町
、損四分以下半輸壱拾陸
町
伍段、損、参拾陸
町
伍段、得、 ,陸
町
陸段壱拾参歩、全得」 すなわち、この
新
居郷の戸は一一〇戸、人口は六七七人であるが、この戸,浜名郡輸祖帳
新
居郷首部(正倉院文書) /
新
居郷
浜松市史 三
(浜松新聞 浜松読売新聞)
浜松
新
聞 浜松読売
新
聞 つぎに『浜松
新
聞』(明治九年十月、十七号現存)は浜松袋
町
鈴木宗甫によって紺屋
町
明九社,また『浜松読売
新
聞』は編集鈴木重陰、浜松紺屋
町
進盛社発刊、毎月五日、月十回、一枚一銭、一か月八銭で、明治十年六月,しかし明治十六年の関口元老院議官地方巡察復命書によると、その当時浜松で発行する
新
聞はないと報告されているから,、これらの
新
聞も間もなく廃刊となったのであろう。,浜松
新
聞 第十七号 / 浜松
新
聞 浜松読売
新
聞
浜松市史 三
(新川橋)
新
川橋 つぎに橋梁であるが、駅前
新
道の
新
川(法雲寺付近の字名を
新
堂と称し、
新
川の名はこれによって生じたともいわれる,)に
新
しく橋が架せられることになり、これを
新
川橋といった。,そのころは
新
川も水がきれいで魚の影が見られたという。,四十四年十二月の架替落成式には名残
町
の田中
新
平家の三夫婦が渡り初めをしている。,田
町
新
道
新
川橋 [図] /
新
川橋
水窪町史 下
(水窪町史 下 目次)
水窪
町
史 下 / 目次 『水窪
町
史 下』 水窪
町
昭和五十八年 【Ⅳ】 【Ⅴ】 【,職業別人口 八 二 農業 九 (一)変遷 九 1 焼畑と暮らし 九 2 田畑と暮らし 一〇 3
新
田畑開発,三八一 十 青年学校 三八二 (一)水窪
町
立青年学校 三八三 (二)水窪
町
・城西村組合立青年学校,四三五 (六)水窪
町
文化協会の発足 四三七 十四 水窪
町
の文化財 四四一 1 埋蔵文化財 四四一,寺社庵地供養塚等書上 四六一 2 領家村寺社堂書上 四六四 3 領家村神社書上帳控 四六七 四 明治維
新
から / 水窪
町
史 下 目次
浜松市史 ニ
(奈川新田)
奈川
新
田 【川沿
新
田】奈川
新
田 浜松肴
町
御用達川上三郎兵衛が馬込川左岸(当市中島
町
)に開発した
新
田で,弘化四年(一八四七)十二月十二日紺屋
町
から火が出て肴
町
におよんだとき、川上家はその難にあい、この
新
田を,手放すにいたった(「奈川
新
田書留」『浜松市史史料編五』)。 / 奈川
新
田
浜松市史 三
(駅前新道)
駅前
新
道 【二十一年】①駅前
新
道 鍛冶
町
の東端(後道及び肴
新
小路入口)から駅へ至る
新
道(長さ一四五間,このとき鍛冶
町
の道幅(一間ないし二間)も拡巾され、駅へ出るために最も利用される道路となった。,なお、これによって鍛冶
町
から
新
川に架したやなぎ橋を渡り法雲寺へ出るむかしからの道は裏道となった。 / 駅前
新
道
春野町史 通史編 下巻
(春野町史 通史編 下巻 目次)
春野
町
史 通史編 下巻 / 目次 ページ 画像 目次 口絵 序 凡例 第一編 近代の春野 第一章 明治維
新
と,春野 3 第一節 戊辰戦争と維
新
期の社会変革 3 一 お札下りと春野 3 二 遠州報国隊と戊辰戦争,721 二 配給制度 725 三 消防制度 727 第二節 戦後の諸改革と農地改革 729 一
新
憲法,二 林業の隆盛と地域社会 750 第四節 戦後の教育と文化 762 一 六・三・三制の発足と
新
制中学校,周智農林高校犬居分校の発足と歩み 785 三 教育委員会の発足 797 四 青年学級 801 五
新
制 / 春野
町
史 通史編 下巻 目次
浜松市史 ニ
(新羅明神)
新
羅明神 なお
新
田開墾のさい守護神として迎えた五嶋
新
田(当市江之島
町
)の
新
羅大明神についてはすでに述,べた(『
新
羅大明神祠記』福島
町
『山田家文書』『五島村史』内田旭「社寺の郷土史的説明」『郷友』第二号)。 /
新
羅明神
浜松市史 ニ
(倉松新田)
倉松
新
田 【海沿
新
田】倉松
新
田 遠州灘沿岸の砂丘地帯にあって海沿
新
田の好例である。,【親村 子村 孫村】一口に倉松
新
田というが、これは浜蔵
新
田・野分
新
田・沖
新
田・沖
新
新
田の総称で、その関係,は倉松が親村、沖
新
田は子村、沖
新
新
田は孫村で、浜蔵・野分
新
田は沖
新
田の姉妹村である。,倉松では本田から
新
田が派生したため両者の関係はとくに密接で、山村・中村・水野・下位の各姓では本田・
新
田,本田
新
田 田 畑 計 反別 石高 反別 石高 反別 石高
町
反畝歩 石
町
反畝歩 石
町
反畝歩 / 倉松
新
田
三ヶ日町史 上巻
(三ヶ日町史 上巻 目次)
三ヶ日
町
史 上巻 / 目次 『三ケ日
町
史 上巻』 三ヶ日
町
昭和51年 序章 第一章 ,第二章 第三章 第四章 年表 あとがき 目次 ページ 画像 序章 三ヶ日
町
の,二、三ヶ日人 五一 第二節 縄文時代 五九 一、縄文文化と遠州地方の縄文遺跡 五九 二、三ヶ日
町
における,弥生文化 六七 第四節 古墳時代 八一 一、古墳文化と引佐郡の古墳 八一 二、三ヶ日
町
の古墳 八三,浜名総社神明宮と県氏 九七 三、神社と神領 一〇〇 第二節 奈良時代の三ヶ日 一〇三 一、大化改
新
と / 三ヶ日
町
史 上巻 目次
浜松市史 三
(浜松新聞)
浜松
新
聞 【相佐
新
次郎】『浜松
新
聞』は明治二十八年に、浜松の有力者を発起人として相佐
新
次郎(修、敷知郡瓜内村生,、鍛冶
町
、大正十五年十二月没、六十三歳)の経営になる浜松堂より発刊された最初の日刊
新
聞である。,浜松
新
聞の紙名は明治九年すでにあり(前述、第二章第四節第七項)、これを襲名したものであった。,再び浜松
新
聞社(昭和二年四月)と変わり、位置も田
町
南
新
道などへ移ったりして、しばしば変動があったが、昭和七年,まで発刊をしている(昭和十六年二月一日静岡
新
聞に合併された)。 / 浜松
新
聞
浜松市史 ニ
(新田の検地)
新
田の検地 なお五嶋地区の
新
田検地のあらましは、寛保元年(五嶋
新
田高七石余)・天明元年(浜通
新
田反別三反三畝余,)・天明五年(同三
町
二反一畝余)・天保四年(旧源太夫堀
新
田反別二反四畝余)・天明五年(太郎右衛門
新
田田三反九畝,、畑二
町
二反七畝余)であった。,
新
源太夫堀と
新
羅神社遠望(浜松市江之島
町
) /
新
田の検地
浜松市史 三
(新川出水)
新
川出水 【三十年】ことに明治三十年九月九日の出水は近世未曾有の洪水といわれ、その出水は明治元年の大出水,に比して高いこと一尺余、
新
川筋を中心に田・板屋・早馬・常盤・池の各字最も甚しく浸水戸数九百九十戸に達し,、その三分の一は床上二、三寸ないし一尺に達し、浸水耕地も六十七
町
二畝歩(田三一
町
一反四畝歩、畑三五
町
八反八畝歩 /
新
川出水
浜松市史 三
(新県道)
新
県道 こうして大正十五年十一月には
新
県道として浜松・舘山寺線、中ノ
町
・市野線、市野・気賀線、笠井・,宮口線、気賀・雄踏線、掛塚・舞阪線、都田停車場・根洗松線、池田線の九線が
新
しく県道に指定された。 /
新
県道
浜松市史 ニ
(茅野新田)
茅野
新
田 【弥助
新
田】また茅野(かやの)
新
田は寛文五年掛塚村庄屋が開発を中泉代官所へ願い出ており、弥助
新
田,は延享(えんきょう)元年(一七四四)開かれたものである(三
新
町
『松山家文書』)。 ,いずれも天竜川口の西岸に
新
生した
新
田である。 / 茅野
新
田
浜松市史 ニ
(町屋)
塩
町
(しおまち)・肴
町
(さかなまち)
町
名の商人が居住し、本魚
町
はもと肴
町
があった
町
である。 ,大工
町
(だいくまち)・紺屋
町
(こうやまち)・鍛冶
町
(かじまち)・利
町
(とぎまち)
町
名の職人が多く住み,上
新
町
(かみしんまち)・七軒
町
(しちけんちょう) 街道の中で、東海道往還の西端に
新
しく発達したのが上
新
町
,
新
町
(しんまち)・板屋
町
(いたやまち) 東海道往還の東端にできたのが
新
町
と板屋
町
で、
新
町
はもと、かや屋
町
,(やまち)といい、上
新
町
に対し下
新
町
(しもしんまち)ともいった。 /
町
屋
引佐町史 上巻
(引佐町史 上巻 目次)
引佐
町
史 上巻 / 目次 『引佐
町
史 上巻』 引佐
町
平成三年 総説 第一章 第二章,395 (九)修験道と引佐 396 1 修験道の成立 396 2 湖北の山岳仏教 398 3
新
羅堂跡,(四)征夷大将軍となった宗良親王 475 (五)尹良親王と〝ユキヨシサマ〟 481 (六)「
新
羅堂崩,宗教活動 858 (五)実相寺と初山 865 第七章 惣山御払と金指の市 第一節 近藤貞用と
新
田村,の創出 875 (一)東久留女木
新
田村 875 (二)青砥村の立村 878 (三)背山村の創出 / 引佐
町
史 上巻 目次
浜松市史 三
(新体制)
新
体制 天皇の政治をおたすけする会ということで「大政翼賛会」ができたのは昭和十五年十月、
新
体制ともよばれた,これは一国一党化であり、首相が総裁を兼任し、県知事や市
町
村長が各支部長となった。 /
新
体制
浜松市史 一
(新補率法)
新
補率法 収入についての先例のない地頭には、十一
町
ごとに一
町
(約一ヘクタール)の田地を与え、そこからの,これを
新
補率法(しんぽのりっぽう)とよんだ。地頭は荘園内の警察権をもち、治安維持にあたる。,しかし
新
補地頭は、警察権だけに限られ、任免権や徴税権はない。 /
新
補率法
浜松市史 三
(新しい村)
新
しい村 こうしたことが縁となって『白樺』との結びつきが固くなり、やがて山本貞二郎などによる「
新
しい,村浜松支部」が結成され、大正七年九月武者小路実篤は日向の「
新
しい村」へ赴く途次に浜松へ立ちより、大字伝馬,まもなく松本長十郎も
新
しい村に参加している(篠ケ瀬
町
の松本長十郎宅には武者小路実篤の書画の収集館があった /
新
しい村
浜松市史 ニ
(町幅)
町
幅 また四間以上の
町
幅の
町
は連尺
町
・伝馬
町
・塩
町
・神明
町
・板屋
町
・
新
町
・池
町
の七か
町
で、池
町
以外は,東海道往還筋の
町
である。,中でも塩市が立つ塩
町
は五間余でもっとも広かった。,三間は旅籠
町
・田
町
・七軒
町
・上
新
町
・下垂
町
、三間未満は肴
町
・成子坂
町
・早馬
町
・鍛冶
町
・平田
町
・本魚
町
・,大工
町
・利
町
・紺屋
町
・名残
町
・清水
町
・猿屋
町
の十二
町
で、清水
町
・猿屋
町
は二間に満たない。 /
町
幅
浜松市史 ニ
(三郎五郎新田)
三郎五郎
新
田 三郎五郎
新
田 鈴木三郎五郎という者が十三人を使って西大塚の東地続きの地を開発したのがはじまりという,元禄六年・文化元年の石高四十六石で(西大塚
町
『鈴木家文書』)、延宝六年の年貢割付によると反別七
町
七反一畝余,天保十四年の「
新
田高反別小前帳」をみると、当時この
新
田の戸数十戸人口六十七人、田一反五畝で畑七
町
一反五畝二十三歩,(表)天保14年三郎五郎
新
田の田畑反別 字名 上畑 中畑 下畑 下田
町
反畝歩
町
反畝歩,
町
反畝歩
町
反畝歩 藪下 2.21 4.16 5.07 古川通 30.22 / 三郎五郎
新
田
細江町史 通史編中
(細江町史 通史編 中 目次)
細江
町
史 通史編中 / 目次 『細江
町
史 通史編中』 細江
町
平成12年 【第1編】 第1,について 170 4 家康一揆衆の真中を通過 171 5 残党七百人赦免説 173 6 気賀領主
新
田友作,と休兵坂 216 8
新
原弥左右衛門と瑞応寺 218 第2節 宿名の寺屋敷円頓寺 219 1 陣平,について 271 9 三河清水城と
新
田氏 273 10 全得寺と知足院 274 11 喜斎の墓塔,369 気賀
町
取捌定書 369 碇役之定 370 気賀
町
方覚書 373 油田への覚書 380 / 細江
町
史 通史編 中 目次
春野町史 通史編 上巻
(春野町史 通史編 上巻 目次)
春野
町
史 通史編 上巻 / 目次 『春野
町
史 通史編 上巻』 春野
町
平成九年 【第一編】 ,埋葬・儀礼・祭り 79 第三節 縄文の集落と社会 87 一 縄文社会の基礎単位 87 二 春野
町
域,倒幕計画 260 二 鎌倉合戦 262 第二章 北遠地方と南北朝の内乱 265 第一節 建武の
新
政,265 一 後醍醐天皇の親政 265 二 当知行の安堵 268 第二節
新
政の崩壊と南北朝の内乱,第一節 天保の飢饉と御料所改革 699 第二節 村方騒動と百姓一揆 710 第三節 開国から維
新
へ / 春野
町
史 通史編 上巻 目次
浜松市史 三
(曳馬町)
曳馬
町
曳馬
町
は
町
村制施行によって上島・一本杉・早出・細島
新
田・十軒
新
田・島之郷・高林・助信・
新
津・,その後昭和九年二月十一日に
町
制をしき曳馬
町
となったが、十一年二月十一日には残る全
町
(高林・上島・一本杉,・早出・細島
新
田・十軒
新
田・島之郷・助信・
新
津・茄子一色)が浜松市へ編入され、曳馬
町
の名称はなくなった / 曳馬
町
浜松市史 三
(侍屋敷 町人町)
侍屋敷
町
人
町
全戸数のうち士族は九百七戸で三十%(同居家族も若干ある)、平民は二千八十三戸で七十%,その居住地域も士族は旧侍屋敷
町
に、平民の大部分は旧
町
人
町
に住んでおり、たいした変化はない。,旧侍屋敷
町
のうち士族のみの
町
は馬冷(うまひやし)・作左(さくざ)・船蔵(ふなぐら)・年行事(ねんぎょうじ,)(司)・下馬場(しもばば)で、士族が大部分を占めているのは御組
町
・半頭(はんこう)につづき元目・元城内,また平民が半ば以上を占めているのは繁華街に近接する後道・大堀
新
地・鴨江小路と秋葉
町
などであった。 / 侍屋敷
町
人
町
浜松市史 ニ
(新田の高入)
新
田の高入 浜松地方で開発された
新
田を領主が石高に算入する(高ニ入ルという)事例として早い時期のものに,なお、これよりさき慶長十五年の水野重仲知行目録にただ一つの例として「屋くし
新
田」高六十六石余とみえている,飯田
新
田切起手形(浜松市龍光
町
伊藤真一氏蔵) /
新
田の高入
浜松市史 三
(浜松新報)
浜松
新
報 印刷技術の進歩によって、浜松でも
新
しく
新
聞や雑誌が生まれ、その他の出版物も刊行されるようになった,【三年 伊勢屋】『浜松
新
報』は、隔月発行の木版誌で聚珍社発刊で連尺
町
伊勢屋書店伊藤権平から発売され、明治六年五月,例言に「方今県下ノ士庶
新
聞ヲ集テ諸国ノ巷説街談ヨリ政治ノ得失官吏ノ黜陟ニ至ルマテ忌憚ノ恐レナク梓行スル,浜松
新
報 第一号 / 浜松
新
報
細江町史 通史編下
(細江町史 通史編 下 目次)
細江
町
史 通史編下 / 目次 『細江
町
史 通史編下』 細江
町
平成4年 第1章 第2章 , 早戸
新
一 本書の内容について
町
史編さん委員長 木村 文雅 例言 第1章 行政 第,1節 細江
町
の沿革 3 1 明治のあけぼの 3 2 大正時代 13 3 昭和時代Ⅰ(
町
村合併前),19 4 昭和時代Ⅱ(
町
制施行以後) 28 5 戸籍の変遷 34 第2節 細江
町
の行政機構 38,339 13 細江
町
史料調査会 340 14 細江
町
姫街道歴史民俗資料館 340 第5章 / 細江
町
史 通史編 下 目次
佐久間町史 上巻
(佐久間町史 上巻 目次)
佐久間
町
史 上巻 / 目次 『佐久間
町
史 上巻』 佐久間
町
役場 昭和47年 総説 第一章, 第四章 第五章 第六章 第七章 第八章 目次 ページ 画像 序 佐久間
町
長, 北井三子夫 佐久間
町
史の発刊を祝う 佐久間
町
議会議長 北村久太郎 佐久間
町
史の完成を喜ぶ 元佐久間
町
長, 山田保夫 総説 佐久間
町
の自然 一 第一節 佐久間
町
の地形概観 三 第二節 佐久間
町
の地質概要,再興と村々―山中七三ヵ村の推移と結果― 七六二 (3)十分一騒動の展開 七七四 (4)安政五年「
新
分一議定目録 / 佐久間
町
史 上巻 目次
浜松市史 ニ
(町役人)
町
役人 【庄屋】
町
奉行の支配下に、各
町
の
町
役人(庄屋と年寄)があって
町
政を担当していた。,『遠州浜松各
町
書上』によって宝暦九年(一七五九)の浜松二十四か
町
の庄屋と年寄の人数をつぎに示そう。,(表)宝暦9年浜松の
町
役人
町
名 庄屋数 年寄数 連尺 2 3 伝馬 2 6 旅籠 2 1 塩 2,3 田 4 3 肴 3 3 成子坂 2 1 七軒 1 2 上
新
1 2 神明 1 2 板屋 1 2,
新
1 2 早馬 1 1 下垂 2 1 池 1 2 鍛冶 1 1 平田 1 2 本魚 1 2 大工 1 /
町
役人
浜松市史 ニ
(町検地と町絵図)
町
検地と
町
絵図 その後、天和二年(一六八二)に、時の城主青山和泉守忠雄は浜松の
町
検地を実施し、惣
町
屋敷,(表)浜松
町
数家数間尺表
町
名 家数 通道の長(
町
間) 通筋(
新
町
から七間
町
まで),26 1 1 田 100 3 22 板屋 59 3 20
新
,81 3 15 10か
町
545 20
町
42間 裏
町
通 池 22 2 10,24か
町
1111軒
町
地高587石7斗2升2合(「浜松
町
数村数家数田地高間尺之帳」『浜松市史史料編三 /
町
検地と
町
絵図
浜松市史 三
(浜松医学校新設)
浜松医学校
新
設 【九年】なお、この附属医学教場は明治九年五月紺屋
町
心造寺の側(四三番屋敷)に
新
築開場,中川澪忠・富田玄仙(浜松塩
町
)・木村質文(浜松下垂
町
)・宮下歓哉・久野貞三(浜松伝馬
町
)・宮崎保之・渡辺謹弥,・本目経徳(浜松連尺
町
)・堀内覚斎・市野文鼎・阿形井津治・内田良斎(浜松
新
町
)等はその卒業生であった。 / 浜松医学校
新
設
浜松市史 三
(馬込川新川出水)
馬込川
新
川出水 【四十三年】四十三年八月には四日間(七日~一〇日)で浜松の降水量六百四十三ミリメートル,に達し、馬込川・
新
川が氾濫し、いわゆる「下
町
(したまち)」方面全域(馬込・
新
・板屋・田・下垂・常盤・元目,八幡地・後道・浜松八幡地)の出水となり、床上浸水千三百三十九戸、床下千二百三十八戸、浸水耕地二百十九
町
歩,(田一五五
町
歩、畑六四
町
歩)に及んだ。,浜松
町
役場では九日夜より十一日の朝まで浜松尋常高等小学校に炊事場を仮設し、堀留会社から舟三艘を借りうけ / 馬込川
新
川出水
浜松市史 三
(新しい都市へ)
新
しい都市へ 以上を通観すると、明治十年ころの浜松は浜松廃城(明治六年)や伝馬制度の廃止もあって江戸期以来,の城下
町
宿場
町
としての面目はようやく薄らぎ、明治七年の火災で中心街がほとんど全焼するという痛手にもめげず,、明治という
新
時代にふさわしい都市に生まれ変わろうとする胎動期にあったといえよう。 /
新
しい都市へ
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