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浜松市立中央図書館/浜松市文化遺産デジタルアーカイブ

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浜松市史 三 (新川橋)

新川橋 つぎに橋梁であるが、駅前新道の新川(法雲寺付近の字名を新堂と称し、新川の名はこれによって生じたともいわれる,)に新しく橋が架せられることになり、これを新川橋といった。,そのころは新川も水がきれいで魚の影が見られたという。,新川橋は前後五回に亘って架替が行なわれ、幅も四十メートル近くなった。,田町新道 新川橋 [図] / 新川橋
浜松市史 三 (新川出水)

新川出水 【三十一年】三十一年九月は、六日風害が甚しく、新川は出水し田・板屋・常盤・早馬・池・下垂に / 新川出水
浜松市史 三 (新川出水)

新川出水 【三十年】ことに明治三十年九月九日の出水は近世未曾有の洪水といわれ、その出水は明治元年の大出水,に比して高いこと一尺余、新川筋を中心に田・板屋・早馬・常盤・池の各字最も甚しく浸水戸数九百九十戸に達し / 新川出水
浜松市史 三 (馬込川新川出水)

馬込川新川出水 【四十四年】四十四年八月は、四日の正午ごろ新川・馬込川の両川が氾濫し、「下町」方面は,このように馬込川・新川の出水は、東海道の神明坂下まで浸水するのを常とし、そのたびごとに町民を悩ませたが,明治38.9.28) 降水量 344mm (明治43.9.9)   (表)明治期における馬込川・新川,の氾濫状況 年月日 川 浸水区域 浸水戸数 風害 30.9.8~9 最低気圧 962.5mb 新川, 新 元城 (元目) 990戸 日降水量 222mm 31.9.5~7 最低気圧 958.7mb 新川 / 馬込川新川出水
浜松市史 三 (新川馬込川出水)

新川馬込川出水 昭和十年九月四日 降雨量二百四十七ミリ、浸水地域は砂山・寺島・龍禅寺・北寺島・海老塚,昭和十六年七月十二日 降雨は十一日の夕刻に一旦止んだが十二日より再び降り出し、午前七時には台風の眼に入り、新川 / 新川馬込川出水
浜松市史 三 (馬込川新川出水)

馬込川新川出水 【四十三年】四十三年八月には四日間(七日~一〇日)で浜松の降水量六百四十三ミリメートル,に達し、馬込川・新川が氾濫し、いわゆる「下町(したまち)」方面全域(馬込・新・板屋・田・下垂・常盤・元目 / 馬込川新川出水
浜松市史 三 ([馬込川・新川の氾濫])

[馬込川・新川の氾濫] 西遠地方はしばしば台風が通過し被害がおきているが、なかでも天竜川の堤防の決壊,による損害はいつも甚大であり、市内ではしばしば新川・馬込川の氾濫があり、被害を出した。 / [馬込川・新川の氾濫]
浜松市史 三 (明治二十二年度)

【駅前整備】浜松停車場前の道路の拡巾修理、駅通風致木の植込が始まり、新川橋の塗装、街灯の設置、新川橋西,【古川 新川】古川とは新川に対する川の名で、肴町新小路を流れ、新川に注いだ川で、この頃その一部が残っていたのであった
浜松市史 ニ (工事の進行)

工事の進行 慶応元年より三年にかかる時期の新川の掘立工事は、はたしてどれだけできたものであろうか、明治四年,入野村へ通じる掘割が完成し、七月二十八日より七軒町から新所村(湖西町)まで船が通うようになったが、この新川,【新川】経費と労働力の節約の上からも、既存の水路を利用するのが当然であるが、明治四年に成った掘割が、はじめ,新川といい(「松坂春英雑記」『浜松市史史料編五』)、慶応三年の掘割と同じ名称で呼ばれていることも、もとの
浜松市史 五 (駐車場)

【新川駐車場】  そのため、全国でも初めてのケースとして中心部を流れる新川に蓋をして収容台数百八十台,の新川駐車場を建設し、昭和三十九年六月二十日に営業を開始した。,また、昭和四十四年度からは、新川下流の駅南地域に収容台数八十二台の新川南駐車場を建設し、昭和四十五年二月十六日
浜松市史 ニ (農民の反対)

【協力決定】議定書では第一に新川の掘立てが、公辺御願済みの上はいまさら中止できない命令である、というので,新川掘立ての費用は千二百八十九両三分一朱余にのぼっている。,慶応元年九月一般農民は、新川掘立てについて疑義をいだき助郷惣代庄屋に対して談判したが、その後、助郷惣代,の庄屋らが新川掘立ての費用を出金しているというので、一般農民は何か不正があるのではないかと問題にした。
浜松市史 ニ (水の手)

【新川】なお外濠の水は二つの細流となって、一つは下垂町・池町・田町(いずれも低湿地)方面へ、他は神明町,(しんめいちょう)の神明坂下から肴町大安寺坂下方面へ流れ、いずれも新川にそそいでいた。,新川はその下流で浜松宿の東境を流れる馬込川に合流し、遠州灘にそそいでいる。
浜松市史 五 (遠州鉄道高架化事業)

国鉄浜松駅前の新浜松駅から遠州馬込駅でスイッチバックして遠鉄浜松駅に至る区間を廃止し、新しい国鉄浜松駅から新川,したもので、市側が早期着工を要請したのに対し、住民の一部は駅前の自家用車利用者のための乗降スペースの拡大、新川,同五十八年五月には最難関工事といわれた万年橋と新川橋の橋梁工事が終わった。
浜松市史 三 (道路)

変化もなかったが、さすが文明開化の時代で近距離用の交通機関として人力車や馬車が用いられるようになると、新川
浜松市史 ニ (侍屋敷)

分器(ぶんぎ)(分木) 新川のほとりにある。地境の榜示のあったところであろう。,船蔵(ふなぐら) 新川の岸にある。かつて船蔵のあったところという(常盤町)。  
浜松市史 三 (駅前新道)

なお、これによって鍛冶町から新川に架したやなぎ橋を渡り法雲寺へ出るむかしからの道は裏道となった。
浜松市史 三 (浜松駅)

よりはるか南方の田圃(龍禅寺付近)の中へ最初予定されたが、浜松町民の再三にわたる浜松近傍への変更運動の結果、新川
浜松市史 ニ (早馬地域)

ここを流れる新川(しんかわ)の西岸には広大な藩の下屋敷と樹木屋敷があった。
浜松市史 三 (堀留荷物取扱所)

井上・田村両名の名にちなんで井ノ田川と名づけられたが、一般には堀留運河とか簡単に堀留とか、新川の称をもって
浜松市史 三 ([市内を暴れる群衆])

最初はこの年の七月二十三日に、富山県新川郡魚津町の漁村の婦人たちが米の県外積出しを阻止しようと海岸に集
浜松市史 五 (佐鳴湖の浄化)

平成六年度末までに目標の五十万トンに対し、半分以下の二十二万トンに過ぎず、流域の下水道の普及率は六十%、まだ、新川,図4-6 ヘドロの除去作業を伝える新聞記事  こうした折の平成十二年七月七日には待望の新川(佐鳴湖,は都田川水系の新川の一部)放水路の通水が始まった。,これまで佐鳴湖からは、湖の南西岸から新川によって湖水が流れ出ていたが、新たに北西岸(佐鳴湖漕艇場付近),雨水浸透設備の設置、農地での窒素やリンの施肥量の削減、湖岸の水生植物の保全を進めるとし、県も佐鳴湖下流の新川
浜松市史 ニ (議定内容)

この場合、第一の最大の難問題である一般農民の新川掘立ての協力が決まったのは、以上のような経過で、第二以下,一般農民の新川掘立てへの協力は、社会の発展を積極的にすすめるものであり、下男・下女・馬士・子供などにいたる
浜松市史 四 (公園)

昭和二十六年度から新川西岸の新川緑地、市役所の移転などにより誕生した五社公園などの整備も進んでいった。
浜松市史 三 (浜松繭市場 繭生糸仲買業組合)

浜松繭市場 繭生糸仲買業組合 養蚕の発達によって、生産された繭は浜松付近では浜松駅前の新川橋付近に開設
浜松市史 ニ (式内社)

神社は長い年月のあいだに、祭神や社名にも変化があり、とくに天竜川水系(天竜川・安間川・芳川・馬込川・新川
浜松市史 三 (駅前広場 大安寺新道 踏切 地下道)

このほかに肴町大安寺下から田町の玄忠寺裏を経て新川へ架けた橋を渡り前記の板屋町新道へ出る道路(本章第一節第二項参照
浜松市史 三 (浜松市公設市場)

砂山市場は大正十四年田町新川端に移転、昭和二年七月には松江町にも開設された。
浜松市史 五 (遠鉄高架化事業)

遠鉄浜松駅付近までは都市計画街路曳馬中田島線の中央分離帯上空、その先の遠鉄浜松駅から新しく出来る新浜松駅までは新川上空,なお、市民の要望で新川上の高架下に駐車場の一部を残すことになった。  
浜松市史 三 (天皇行幸 全国産業博)

、本節第三項)・鍛冶町通り等の道路拡幅(記念のプラタナス植樹の一本は戦火にも焼けず「市民の木」として新川端
浜松市史 三 (電話開通)

一日に平均市内三万二千回、市外発着三千四百回を算し、その利用度は静岡を凌駕するにいたり、大正四年四月に新川沿
浜松市史 三 (浜松の名所)

このうち田町の夜見世は、南新道が中心で、金魚屋や虫売りなどが店をひろげ、新川橋のたもとの柳のかげでは演歌師
浜松市史 五 ([大交番制度])

浜松中央署は犯罪のスピード化や広域化に備えて、その後も交番の集中化(大交番化)を進め、昭和三十九年三月に新川交番
浜松市史 五 ([佐鳴湖西岸土地区画整理事業])

佐鳴湖からの新川放水路は新川の治水と佐鳴湖の浄化のため、また宅地開発による水害防止などのために県が建設
浜松市史 五 (公害問題)

この傾向は中田橋付近まで続き、さらに、都市下水や機械油などによって汚濁された新川の水が加わって河口に流,また、新川の元浜橋付近ではCOD値三十五・八~八十九・〇PPM、DO値は一・二~八・〇PPMと馬込川水域
浜松市史 五 ([戦災と市民の木])

新川橋を渡った富士銀行前の道の真中に夏になると枝葉を繁らせて緑陰をつくってくれるあのプラタヌスの大木である,木はまず昭和四十二年、地下横断歩道工事のためにすぐ近くの新川公園(現浜松郵便局の西側)に移され、次いで
浜松市史 五 ([花博に向けた道路整備])

また、平成十四年には浜松環状線の志都呂町─坪井町間と同区間の新川大橋(とびうお大橋、三百八十六メートル
浜松市史 四 ([永久橋の建設])

芳川に架かる西塚橋と新川最下流の浅田橋が鉄筋コンクリート化されたのは昭和三十四年四月、このころ、学校も
浜松市史 三 (三川排水改善期成同盟会 浜名用排水幹線改良事業)

な電力を供給され諸工業の躍進を見るべく、③さらに分水された天竜の浄水により汚水の停滞になやむ馬込川・新川
浜松市史 三 (統制の強化 配給制 体力検定と国民服 紀元二千六百年祭 板屋町火事)

そのようなうちに十六年四月十六日には浜松市板屋町に四十七戸焼失という火災が発生し、七月十二日より大風雨で新川
浜松市史 三 (浜松裁縫女学校 家政女学校 信愛女学校)

【常盤の女学校】新川に架かる分器(ぶんぎ)橋(分木橋とも書く)のほとり、二階建の水田や畑にかこまれた新校舎
浜松市史 ニ (黙之助の通舟案)

岡村黙之助の意見と、助郷惣代らの新川掘立ての意図、あるいは御仕法掛の建白書の内容とが、改革の基本的な方向
浜松市史 五 ([ホームレスの出現と自立支援活動])

パトロール】  なお、市内には平成六年二月から、毎週水曜日夜、市中心部の遠鉄高架下やJR浜松駅南の新川沿,その後、平成十年には新川南駐車場下で外国人を含むホームレスが増加していたことから、海老塚自治会とグルッポ・エスペランサ
浜松市史 ニ (各町の夫役)

新道土橋は柳橋(やなぎばし)といい新川(しんかわ)に架けられた橋のこと。,たとえば、高欄橋(新川にかかり万年橋ともいう)は田町・板屋町で、鯉沢橋は大工町・本魚町という具合であった
とみつか:わが町文化誌 (浜松市立冨塚公民館『とみつか:わが町文化誌』 目次)

木造聖観世音菩薩立像 両光寺】 【神殿松】 【佐鳴湖小藪の湖岸風景 清水みのる】 【秘境「新川,」の暫定供用開始 108 三章 富塚の産業 109 【段子川 段子川村 中途川 富新屋村 新川,291 【引馬野 持統天皇】 291 (七)寸田ヶ谷巖島神社 292 【長忌寸奥麻呂 不遣水源地 新川
浜松市史 ニ (浜松藩の新田開発)

かんぶん)年間に河川から堰・圦樋によって引水して新田を開いている、すなわち「小池より古川新田ニ見立、新川
浜松市史 五 (下水道)

この区域の南東部は特に排水の悪い低地帯であったため、馬込川や新川へ放水するポンプ場を二つ建設した。
浜松市史 四 (戦災都市)

の構成については、緑地や公園がほとんどないため、画期的考え方でこれらの施設を充実したいとし、馬込川と新川両岸
浜松市史 五 (公害)

水質汚濁では、馬込川や市中心部を流れる新川などで昭和三十年代から年ごとに汚れが目立ってきていた。
いろはの「イ」:城北地区わが町文化誌 (浜松市立西部公民館『いろはの「イ」:城北地区わが町文化誌』 目次)

移りかわり 【入野村 広沢小学校 昭和11年、32年、44年、58年の蜆塚】 99 三、池川(新川
浜松市史 五 ([高度経済成長期の予算])

建設整備 市民会館の建設 コンポストの建設 中小企業への金融措置 町を住みよくする会補助 新川
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