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浜松市史 三
(新町火事)
新町
火事 【四十三年】三回日は四十三年三月十一日の
新町
の火事。,午前一時三十分に
新町
六六番地より出火。午前三時ごろ消防組の努力によって鎮火した。,道路が狭くてポンプは東海道筋しか使用ができず、全焼三十二戸(板屋町三、
新町
二九)、火元の家族の内焼死者四名 /
新町
火事
浜松市史 三
(新町名の町)
新町
名の町 【菅原町 三組町 常盤町 元城町】戸数や人口の少ない侍屋敷をはじめ従来の町々を合併し、
新町
名 /
新町
名の町
浜松市史 三
(大字制度 新町名)
大字制度
新町
名 地籍整理も都市計画実施のために欠かせない事業であった。,東田・新・板屋の各町へ編入 東田町 ひがしたまち 新設 田・北馬込・本馬込・八幡・常盤の各一部
新町
/ 大字制度
新町
名
浜松市史 ニ
(町屋)
上
新町
(かみしんまち)・七軒町(しちけんちょう) 街道の中で、東海道往還の西端に新しく発達したのが上
新町
,
新町
(しんまち)・板屋町(いたやまち) 東海道往還の東端にできたのが
新町
と板屋町で、
新町
はもと、かや屋町,(やまち)といい、上
新町
に対し下
新町
(しもしんまち)ともいった。
浜松市史 ニ
(町名の変化)
町名の変化 まず東海道往還通であるが、町数において上
新町
の一か町がふえ十一か町となり、そのため町通の,【尾張町 榎町】町数は全部で二十四か町であることは変わりはないが、尾張町・榎町が姿を消し新しく上
新町
・,上
新町
は宿の西はずれの東海道に、名残町は浜松より気賀に通ずる街道筋に添って発達した町である。
浜松市史 ニ
(天神社)
天神社 天神社 上
新町
(当市菅原町)に在った。,明治十五年(一八八二)に七軒町と上
新町
が合併したとき菅原町と名づけたのは、祭神菅原道真にちなんだためという
浜松市史 三
(東海道通)
【上
新町
】それに隣る上
新町
は堀留運河の開航によってお茶屋・料理屋・すし屋・煮売屋から風呂屋までが並び車力,【板屋町
新町
】板屋町・
新町
は、田町に続く宿の東はずれの町々であるが、ここは農村地帯に近接しているので
浜松市史 三
(堀留運河)
堀留運河 【上
新町
船溜】さて、浜松では伝馬所の廃止によって伝馬町は交通の中心地としての地位を失ったが,、その代わりに堀留運河の開通によって浜松の新しい玄関口の観を呈するにいたったのが運河の始発点の上
新町
であった,上
新町
は明治八年十一月には火災があって十七、八軒焼失したこともあったが、川島屋とか大海屋という茶店や(
浜松市史 ニ
(各町の長短)
各町の長短 町の長さが二百間以上あるのは伝馬町・田町・板屋町・
新町
の東海道通町道の四町で、板屋町の二百十四間,が最長、百間未満は旅籠町・塩町・成子坂町・上
新町
・神明町・早馬町・平田町・本魚町・大工町・利町・清水町
浜松市史 ニ
(無役町の人足割)
その後、文政九年(一八二六)に、無役町のうち下
新町
・成子坂町・神明町・板屋町にさらに七軒町・
新町
を加えて,(表)無役町の人足割 無役町 人足 早馬町 2 人 板屋町 16 本魚町 6 紺屋町 12 下
新町
浜松市史 ニ
(戸口の増減)
これを町別でみると、戸数百軒以上を数えるのは田町が一か町のみであったのに伝馬町・肴町・板屋町・
新町
・大工町,・下垂町・池町・鍛冶町・平田町・本魚町・利町・清水谷・猿屋町と十四か町だったのに旅籠町・成子坂町・上
新町
,また、二十五軒以上の増加は、御役六町では塩町があるばかりでその他は七軒町・板屋町・
新町
・早馬町・下垂町
浜松市史 ニ
(町幅)
町幅 また四間以上の町幅の町は連尺町・伝馬町・塩町・神明町・板屋町・
新町
・池町の七か町で、池町以外は,三間は旅籠町・田町・七軒町・上
新町
・下垂町、三間未満は肴町・成子坂町・早馬町・鍛冶町・平田町・本魚町・
浜松市史 三
(開掘仕様案)
開掘仕様案 「仕様書」によると、上
新町
(七軒町の隣町)を起点として、その長さ八百五十四間(一五四五メートル,入野川に合流するというもので、掘割の間に水門一か所(悪水堀入口高汐防止用)と土橋六か所を設け、起点の上
新町
浜松市史 三
(青物市場)
【
新町
市場】このとき浜松の商人側は
新町
の北裏に三反歩の土地を購入して浜松宿内に市場を誘致しようとし、生産者側,木戸市場と
新町
市場との紛争は一か年にわたったが、浜名郡長・浜松警察署長の仲裁で、市場は従前通り木戸におくこととして
浜松市史 三
(内田乾隈)
)は敷知郡野口村内田七郎右衛門の四男で名は正辰、長上郡平口村足立氏の養子となり、江戸で医を学び、浜松
新町
,乾隈は塩谷宕陰に学び、眼科の大家土生氏の門に入り浜松
新町
に開業し、蘭法治療家としても知られた。
浜松市史 ニ
(町の意義)
『遠州浜松各町書上』に、「往還通り西端の七軒町・上
新町
は古来近村の伊場村・東鴨江村・浅田村の百姓の「名敷地,【板屋町村
新町
村】その後、寛文四年(一六六四)の印知状では浜松領分の村々のうちに田町村・板屋町村・
新町
村,【塩町村】そののちの『元禄高帳』をみると、田町三十二石余・板屋町三十石余・
新町
十六石余・塩町四百二十石余,宝永年間の「浜松宿略絵図」(二二〇・二二一ページ)では田町・板屋町・
新町
の町屋の裏方は田畑となっている
浜松市史 三
(木綿商人密集地域)
【名残町 七軒町 板屋町
新町
】そのうち①宿の北部の名残町に多いのは庄内地方の綿作地帯に、②七軒町・成子坂町方面,に多いのは西南部地域(篠原・若林・入野等)の綿作地帯に、③また板屋町・
新町
方面に目立って多いのは東南部地域
浜松市史 三
(各町消防組 連合消防組)
連合消防組 【七年十月】しかるに明治七年の小野組大火によって、各町は消防組設置の必要を感じ、同年十月に
新町
,・田町・肴町・連尺町・伝馬町・塩町・成子町・七軒町上
新町
・紺屋町・利町・大工町・元魚町・下垂町・旅籠町
浜松市史 三
(福紗人形)
福紗人形 浜松
新町
にも町民の玉清(中村清三郎ともいう、昭和二十年没、九十七歳)を座長とする人形芝居,があったという(菅沼才平『
新町
育ちの思出』)。
浜松市史 ニ
(宿の根幹表筋町)
そこが
新町
で板屋町・田町・神明町とつづく。,【元禄期十一か町】それが元禄期には上
新町
が加わり表筋町十一か町になるのである。
浜松市史 三
(ホトトギス)
ホトトギス またホトトギス句会があり同人には豊田泰淳(当市安
新町
、昭和五十二年六月没、七十四歳)および
浜松市史 三
(大きな町)
大きな町 百戸以上の町人町には伝馬町・田町・肴町・板屋町・
新町
・紺屋町があったが、この時代になると下垂町,16 1 5 1 69 8 七軒町 2 51 53 2 2 11 35 4 1 51 9 上
新町
,24 11 板屋町 7 126 133 7 7 27 47 15 1 4 32 126 12
新町
浜松市史 三
(明倫学校)
明倫学校 【東部地域】明倫学校 九年九月浜松
新町
(庚申堂北裏)に設置。
浜松市史 一
(火災)
一、上
新町
七軒町火事、元禄七甲戌年(一六九四)十一月二十九日朝、火元は七軒町より出申候、此節両町不残類火仕候,時過より暮迄、紺屋町立町通、袋町入口の向土橋際南側より出火、立町不残、連尺町・神明町・田町・板屋町・
新町
木戸外不残
浜松市史 ニ
(天保期の一里塚)
〃 66里 東若林7 東若林9 篠原 〃 67里 篠原3916 篠原12028 舞坂 〃 68里
新町
,2663
新町
2664 新居 〃 69里 西町368 西町369 白須賀 〃 70里 元町477 宅地
浜松市史 三
(内田正)
子正(旧名正太郎、嘉永二年三月生、昭和四年一月没、八十一歳)は藩校克明館に学び、陸軍軍医正となり、のち
新町
浜松市史 ニ
(茅野新田)
が開発を中泉代官所へ願い出ており、弥助新田は延享(えんきょう)元年(一七四四)開かれたものである(三
新町
浜松市史 三
(吉田冠三)
冠三は江戸末期の人形遣い、大阪彦六座長辰五郎の実子で放浪のあげく、浜松
新町
八四の朝比奈善八方の控家に住
浜松市史 ニ
(巡礼)
天保十四年には、浜松周辺の寺々による新四国八十八か所まいりがあったし(別表参照『新四国札所村順控』三
新町
鈴木文書,「七軒町・上
新町
(いずれも当市菅原町)同行男女十六人」とあって、享保八年(一七二三)八月の日付がある(,臨川寺 18 東大瀬村 堂 62 富屋敷 □成寺 19 田尻村 法正寺 63 下前嶋 清心寺 20
新町
浜松市史 三
(小屋掛興行)
また浜松
新町
庚申(こうしん)堂北裏の空地で同六年春女角力(すもう)の一座が興行し飛入を歓迎したので満員,の盛況であったという(菅沼才平『
新町
育ちの思出』)。
浜松市史 三
(寺島村 和地山)
浜松成子町 板屋町 93 310 3 3 0 成子坂町 浜松菅原町 七軒町 117 428 6 3 上
新町
,浜松神明町 34 132 6 4 浜松板屋町 152 597 9 1 6 浜松
新町
143
浜松市史 三
(遠州軌道株式会社 遠州電気鉄道株式会社)
開通区間 距離 開通年月日 馬込―中ノ町 5.2km 明治42. 3. 3 馬込―南
新町
0.5 〃 ,42.12. 6 板屋町―鹿島 17.7 〃 42.12. 6 板屋町―南
新町
0.5 〃 43. 3.18
浜松市史 ニ
(水野藩と掛塚湊)
屋敷ノ諸荷物」を輸送しようとし「御廻米並御用荷物」でないものの「番抜出帆」は困ると拒絶されている(三
新町
浜松市史 三
(連合制の発達 浜松宿二十六か町村連合会 地方自治制の出発 浜松宿議会)
下垂町) 熊野俊治 酒井吉重 (旅籠町) 大庭作平 武田勘平 (寺島村) 樋口林治郎 伊東宗作 (上
新町
,(連尺町) 樋口弥一郎 谷野治平 (肴町) 伊藤重平 内藤彦十郎 (沢村) 水島敬四郎 松本半蔵 (
新町
浜松市史 ニ
(寺院の配置)
そのほか小さな仏堂として
新町
に庚申堂、塩町裏に十王堂、七軒町に薬師堂などがあった。
浜松市史 ニ
(職人町と屋敷)
大工役 119軒 木挽役 37軒 上島村 1軒 神明町 1軒 江川村 4軒
新町
4軒 大工頭 1 ,紺屋町 3 池町 1 伝馬町 1 瓦師頭 1 紺屋町 1 利町 2 水役 18
新町
浜松市史 三
(堀留荷物取扱所)
「浜松郡方役所回状」『岩井宜徳伝自書』・『松坂春英雑記』)、荷物の運漕、乗客の扱いなどの通船事務は上
新町
浜松市史 三
(足立双松 賀古鶴所)
その子良斎(のちに衛と改名、明治三十八年十二月没、七十九歳)は双松と号し、浜松
新町
父の業をついで蘭法医
浜松市史 ニ
(寛永期)
抱き「村中之小百姓をかたらい」安間(あんま)新田村七郎左衛門と紛擾(ふんじょう)をおこしているが(安
新町
浜松市史 三
(浜松の学区)
このとき支枝は
新町
・下垂町・成子町等に設けられたというが定かでなく、本校となったのが一番の浜松最初の小学校
浜松市史 三
(タクシー全盛)
浜松構内タクシー ホワイト自動車商会(伝馬町) ハヤイタクシ-(自動車弘業株式会社) 平和自動車商会
新町
,タクシー(
新町
) 浜松西遠自動車商会(田町) 御園自動車商会(海老塚町) 金時タクシー(栄町) たかさご
浜松市史 ニ
(各町の夫役)
【東番所役】馬込御番所(東木戸)修覆役
新町
と馬込村の一部。 ,ただし七軒町・上
新町
は勅額通行のときはじめて助人足を出したことがある。 ,天神町火事 貞享 3.2 (1686) 下垂町年行事屋敷火事 元禄 4.1.15 (1691) 下
新町
火事,城内家中屋敷火事火元石川監物宅 〃 6.9.11 板屋町火事4軒焼失 〃 7.11.29 上
新町
七軒町全焼
浜松市史 三
(角見山)
をいのって踊りあるいて子供をよろこばせ、浜松の名物として知られた(会田文彬『浜松風土記』、菅沼才平『
新町
育
浜松市史 五
([国一バイパスの完成])
それによれば、バイパスは、延長十六・六〇五キロメートル、和田地区の安
新町
から南下して飯田、芳川、白脇、,同年十月二十七日、開通式が安
新町
の一号線東側取付口で行われ、午前十一時四十五分の打ち上げ花火を合図に一般車両,その後もバイパスの交通量は増え、昭和四十五年浜松市は第二期工事としてバイパスの拡幅と安
新町
や篠原町の国道一号線
浜松市史 ニ
(東海道往還通)
茶 西71 8 七軒町● 75 11 6 3 1 北97 3 有 火 南114 9 上
新町
,11 板屋町● 123 50 12 13 1 北205 4.3 馬 火 茶 南214 12
新町
浜松市史 三
(浜名湖佐鳴湖の船運)
浜名湖佐鳴湖の船運 堀留運河の開通によって、新所ばかりでなく浜名湖や佐鳴湖などからも上
新町
の堀留船溜
浜松市史 ニ
(浜松の職業)
浜松宿
新町
町並図(浜松市立図書館蔵)
浜松市史 ニ
(念仏)
安間新田(当市安
新町
)普伝院の千体仏をまつる堂では、元禄のころに一千日の念仏を行なったが、その収益は拾壱両
浜松市史 三
(教科書)
『生徒心得』、三宅均『忠経大全』『神武天皇ノ御伝記』(連尺町伊勢屋権平・積志屋清七・伊勢屋太右衛門・
新町
積徳堂健次郎発行
浜松市史 三
(遠江二葉会)
】大正から昭和へかけて日曜日に仏教童話や映画会を助信の善信寺をはじめ玄忠寺・法林寺・教興寺・万福寺・
新町
庚申堂
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