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浜松市立中央図書館/浜松市文化遺産デジタルアーカイブ

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浜松市史 一 (臨済宗 方広寺派 曹洞宗)

臨済宗 方広寺派 曹洞宗 臨済宗の教線は、京都と鎌倉の中間部でたちきられた。,【普済寺】このために方広寺派の勢力ものびず、応永(一三九四-一四二七)の中ごろから遠江浜松荘におこった,なお、浜松荘には方広寺派の大信道及の開いた洞雲寺(当市神ケ谷町)、的伝一著(てきでんいっちゃく)の開いた / 臨済宗 方広寺派 曹洞宗
浜松市史 五 ([蒲地区方広寺派寺院の行事今昔])

[蒲地区方広寺派寺院の行事今昔] 【蒲二葉会】  平成二十年度の方広寺派の広報誌には、蒲地区の八寺院,これに参加した子供が親になって、その子を連れて参加しているという生命の連続が顕現化していること、さらに、方広寺舎利殿,には檀信徒の血縁者が納骨していることから、檀信徒の信仰と菩提寺と方広寺との結縁が強調されている。 / [蒲地区方広寺派寺院の行事今昔]
浜松市史 一 (臨済宗)

臨済宗 【方広寺】東海道地方の臨済宗の教線は、無文元選(むもんげんせん)が、応安四年(一三七一)遠江奥山,(引佐郡引佐町)に方広寺を創立するまでは、弱かった。,(林岱雲「方広寺創立年次の考証」『禅学研究』第五十三号)。,無文元選像(無文禅師語録) 方広寺(引佐郡引佐町奥山)  【平田寺】竜峯宏雲が元弘ごろ
浜松市史 三 (寺まいり)

寺まいり 【方広寺】すこし離れると岩水寺(がんすいじ)と方広寺・舘山寺(かんざんじ)などがあった。,岩水寺は桜の名所で境内の根堅(ねがた)鉱泉は浴客が年には数千にのぼり、舘山寺は江戸時代から観月で知られ、方広寺
浜松市史 ニ (東明守誓)

東明守誓 東明守哲は高塚村高蔵寺の啓岩や奥山蔵書院の竜水に学び、奥山方広寺北西の富幕山や秋葉山に禅を,結び、のち方広寺独住二代となった(『引佐郡麁玉郡有功者列伝後篇』)。
浜松市史 一 (臨済禅)

臨済禅 【方広寺】臨済禅は、京都から三河に入り広沢寺を、さらに遠江で奥山朝藤の帰依をうけて方広寺を開
浜松市史 一 (浜松地方の建築物)

浜松地方の建築物 浜松地方で室町時代の文化を伝えるものに、建築物として鷲津本興寺の本堂と奥山方広寺の,【方広寺七尊菩薩堂】方広寺の七尊菩薩堂は、間口三尺(約九〇センチ)・奥行五尺(一五〇センチ)の小さい堂
浜松市史 ニ (近衛前久浜松に逃れる)

【方広寺】なお天正十五年六月二十六日、方広寺住持に出世(この場合は紫衣を許すこと)の勅許があったとき、,前久が副(そえ)状を出している(『方広寺文書』)。  
浜松市史 三 (仏葬の復活 遠州大念仏)

【高町半僧坊】奥山方広寺が浜松高町に説教出張所(正福寺となる、半僧坊)を設け、浜松に進出したのも二十二年,一時南禅寺派に属した方広寺が独立して方広寺派と称しその本山となったのも明治三十六年であった。
浜松市史 五 (托鉢)

今回中心になったのが方広寺大井際断管長である。  ,【春風亭鯉昇】  平成七年十月十九日付記事では、方広寺青年会が創立三十周年記念として、阪神大震災の被害者,同会会員と方広寺専門道場で修行中の僧等三十人が高町の奥山半僧坊浜松別院正福寺から浜松駅に向かって連鉢(
浜松市史 五 (開帳)

昭和五十七年十二月十八日付記事で、両光寺(臨済宗方広寺派・富塚町)では市民に厄除け観音として知られた、,例えば、臨済宗方広寺派の方広寺では管長自身や方広寺青年会が半僧坊別院正福寺(高町)や浜松駅前のプレスタワー,蔵泉院(臨済宗方広寺派・西ケ崎町)は「人生を語る会」を同五十九年以来開催し、教派を超えて妙心寺派宝泰寺,統計(『静岡県宗教法人名簿』平成六年三月、静岡県総務部学事課)によれば、臨済宗妙心寺派(二十)、臨済宗方広寺派
浜松市史 ニ (禅宗)

宗旨別にみると、前述したように禅宗の寺院がもっとも多く、中でも曹洞宗普済(ふさい)寺十三派、臨済宗奥山方広寺,に末寺をもつ寺と末寺のある村(遠江西部各宗開山除地高帳による) 宗派 寺名 村名 臨済宗 ●奥山方広寺系,  方広寺● 上刑部 中刑部 下刑部 堀谷 西ヶ崎 万斛 宮口 小松 小林 小池 橋爪 中条
浜松市史 ニ (半僧坊と三尺坊)

半僧坊と三尺坊 ちなみに浜松地方では方広寺(臨済宗、引佐郡引佐町)の半僧坊、秋葉寺(曹洞宗、周智郡春野町
浜松市史 三 (勧善会)

そして地元方広寺・安寧寺等の有志寺院によって説教場ができた。
浜松市史 ニ (白隠の影響)

これは臨済宗奥山方広寺(引佐郡引佐町奥山)にも白隠系統の僧がいたことでわかる。
浜松市史 三 (猪俣全獅 松山舜応)

しその再建に力を尽し、松山舜応(文政八年尾張国生、明治四十年三月没、八十三歳)は富塚村法林寺住職より方広寺住職
浜松市史 五 ([長泉寺の四百年遠忌])

平成二年三月二十七日付)の記事(以下、掲載年月日のみ表記)では、三月二十六日に執行された長泉寺(臨済宗方広寺派
浜松市史 五 ([多彩な空間的・時間的方法])

・観照寺の無縁仏供養と万燈会  平成十四年三月二十日付記事に見える観照寺(臨済宗方広寺派・東若林町),・蔵泉院の電子音楽伴奏  平成四年四月三十日付の記事では、四月二十九日に蔵泉院(臨済宗方広寺派・西ケ,これは臨済宗方広寺派・妙心寺派の僧侶三十人が参加した大般若経転読の祈祷であった。,・正光寺のライブハウス  平成十三年一月三日付の記事では、正光寺(臨済宗方広寺派・豊町)で檀家からの,・龍泉寺の満月まつり  平成十三年四月七日付記事では、龍泉寺(臨済宗方広寺派・鼠野町)で市民有志が、
引佐町史 上巻 (引佐町史 上巻 目次)

475 (五)尹良親王と〝ユキヨシサマ〟 481 (六)「新羅堂崩れ」をめぐって 489 第四節 方広寺,と無文元選 494 (一)遠江における禅宗の伝播 494 (二)無文元選の方広寺創建 496 (,三)方広寺派の発展 499 (四)方広寺の七尊菩薩堂 505 第五節 中世農民のすべて 508,への雨乞いと飢饉 756 1 方広寺へ雨乞いに 756 2 井伊谷地方の米価と諸物価 757 (,と龍譚寺の末寺 768 (一)寛永十年の方広寺末寺帳 768 (二)近世寺院に大転換の龍譚寺 771
浜松市史 四 ([諸寺の復興])

市の中心部という地の利を生かした臨済宗方広寺派正福寺(高町)は、利用頻度が高いことで知られ、市民は親しみを,にあったが、檀家数もわずかで寺院経営もままならず、市中に移り、奥山半僧坊大権現の別院と称し、寺院管理は方広寺
浜松市史 ニ (家康の進路)

その先達は菅沼定盈)・黄楊野(つげの)・陣座(じんざ)峠をこえ、遠江引佐郡奥山から方広寺をへて、十三日井伊谷
浜松市史 五 ([経年老朽化寺院の再建])

平成九年二月十九日付と同十年十二月一日付記事では、高蔵寺(臨済宗方広寺派・高塚町)は昭和十九年の地震で,平成十二年三月十五日付記事では、洞雲寺(臨済宗方広寺派・神ケ谷町)の馬頭観音堂が住職と住民の熱意とによって
浜松市史 三 (浜松鉄道株式会社)

浜松鉄道株式会社 奥山方広寺のある引佐郡奥山方面や三方原などを浜松と結ぶ浜松鉄道株式会社は、はじめは,【経営困難】沿線には聯隊をはじめ中学校や師範学校があったので軍人や生徒に重宝がられたが、奥山方広寺の半僧坊参拝客
浜松市史 五 ([馬頭観世音菩薩])

平成十二年三月十五日付の記事では、洞雲寺(臨済宗方広寺派・神ケ谷町)の金谷義樵住職の主唱で地域住民が協力
浜松市史 五 ([施設の刷新])

(2)寺院の場合  昭和四十八年三月三十一日付記事では、光禅寺(臨済宗方広寺派・大蒲町)の大日堂は、,同年十一月二十二日付記事では、二十一日に安泉寺(臨済宗方広寺派・米津町)で江戸送り地蔵堂の上棟式、同五十五年三月二十四日付記事,昭和五十六年一月十九日付記事では、少林寺(臨済宗方広寺派・高林町)観音堂の戦災後の復活と屋外大観音像(,昭和五十九年二月二十七日付記事では、少林寺(臨済宗方広寺派・高林町)の本堂増築工事が完成したことと、これに,昭和五十九年五月十三日付記事では、松林寺(臨済宗方広寺派・中野町)客殿完成の落慶式法要と、松林寺を正中元年
浜松市史 三 (歌人の往来)

【与謝野晶子】与謝野晶子(よさのあきこ)も昭和十一年七月奥山方広寺に足利紫山を尋ねている(鈴木実『与謝野晶子
浜松市史 五 ([戦後復興の終盤])

【蔵興寺】 ・蔵興寺  蔵興寺(臨済宗方広寺派・新橋町)である。
浜松市史 ニ (二筋の姫街道)

といっても宝永以後市野宿はまったく廃絶したのではなく、宿場に準じ「井伊家・近藤家・三州鳳来寺・遠州奥山方広寺
浜松市史 ニ (大雄庵の法系)

詩文にもすぐれ『黄檗楚州禅師語録』二巻、『亀林余稿』上中下三巻、『奥山草』前後二篇は奥山方広寺に、『舘山吟草
浜松市史 五 ([法永寺の百句塚を守る])

でいう太徳教会(神道修成派・豊西町)の百人一句塚、松島十湖菩提寺の源長院(曹洞宗・豊町)、長泉寺(臨済宗方広寺派
とみつか:わが町文化誌 (浜松市立冨塚公民館『とみつか:わが町文化誌』 目次)

権現谷稲荷大明神 296 【権現谷川 水車 稲荷信仰】 296 二 寺院 297 (一)臨済宗方広寺派,300 【松山舜應大和尚 南禅寺】 301 【庚申本尊 青面金剛童子】 302 (二)臨済宗方広寺派, 宝蔵寺 304 【大黒尊天本堂】 305 【聖徳太子御尊像】 308 (三)臨済宗方広寺派 両光寺
引佐町史 下巻 (引佐町史 下巻 目次)

72 3 村々に見る神葬祭 81 (1)堀江藩の寺院の廃合 81 (2)狩宿村の神葬改式 ―方広寺派寺院,232 2 文明開化への反発 233 3 『贔屓の引たほし』 236 (二)半僧坊信仰の流行と方広寺門前町,の誕生 237 1 寺院の明治維新 237 2 方広寺経営の危機 238 3 半僧坊の再建 240,4 奥山村の大火と半僧坊信仰の定着 241 5 方広寺門前町の誕生 243 (三)消防・警察・,690 (三)昭和前期の文化活動と国民教化 696 1 郷土の俳諧活動 696 2 井伊谷宮と方広寺
浜松市史 五 ([教化活動の現れ])

 寺院側の積極的な教化活動の例のうち、鴨江寺(高野山真言宗・鴨江四丁目)の春秋彼岸会や蔵興寺(臨済宗方広寺派
浜松市史 一 (中世編)

蒲神明宮蔵)        五〇九 無文元選像 無文禅師語録              五一八 方広寺
浜北市史 通史 上巻 (浜北市史 通史 上巻 目次)

1072 3 将軍上洛と助郷負担 1080    第十章 文化の興隆 1085 第一節 渡来僧独湛や方広寺派,近藤貞用 1087 独湛の念仏 1092 憑依と臨終 1097 法源と檀越たち 1101 2 方広寺派寺院
細江町史 通史編中 (細江町史 通史編 中 目次)

   第3編 中世 第1章 南北朝と戦国の世 第1節 宗良親王 91 宗良親王 91 無文元選と方広寺派
汽笛・ステンショ・まちこうば:わが町文化誌 (浜松市立南部公民館『汽笛・ステンショ・まちこうば:わが町文化誌』 目次)

216 (五)石のかろうと 【新豊院 華蔵義曇 擬宝珠】  218 (六)慈光院 【浅田 方広寺
浜松市史 五 (写経)

平成元年十月七日付記事では、蔵泉院(臨済宗方広寺派・西ケ崎町)において市民社会の多彩な関心と活動を背景
浜松市史 五 (目次)

馬頭観世音菩薩        上求菩提・下化衆生        ラオスへ謄写版寄贈        蒲地区方広寺派寺院
解説「浜松城絵図と城下絵図」 (解説「浜松城絵図と城下絵図」)

なお、高町に「半僧坊」が描かれているが、半僧坊浜松別院(正福寺)は明治17年(1884)に奥山方広寺が
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