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浜松市立中央図書館/浜松市文化遺産デジタルアーカイブ

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浜松市史 ニ (御役六町)

御役六町 【連尺町】その後、正徳二年にいたり、旅籠町の出訴により(後述)連尺町が役町に加えられ、御役町,旧称十王町 慶長年間 肴町 128人 55疋 小島三郎右衛門外 歩役三町方と称す 田町 杉本彦九郎外 旅籠町,有馬48疋 正徳2 連尺町         御役町に加わる,旅籠町,の訴願によるもので,旅籠町の役の半分を負担
浜松市史 ニ (御本陣日記)

これによると、正保四年(一六四七)旅籠町伊藤平左衛門・旅籠町杉浦惣兵衛・伝馬町梅屋(うめや)市左衛門、,伝馬町稲津甚太夫家から養子市左衛門をもらい、家を建て本陣宿になったのだという(『旅籠町平右衛門記録』)
浜松市史 ニ (問屋場と問屋役人)

二人で上下月番で当番制となし、おもに伝馬町・塩町からだんだん問屋場として整備されてきたのだという(『旅籠町平右衛門記録,問屋庄屋五人にて壱ヶ月之内半月は馬問屋相勤、半月は人足問屋相勤、別会所にて御継飛脚御用半月相勤申候、旅籠町,・旅籠町年寄役を経て文政九年庄屋となっている。,そして改めて「問屋場所持取締方大通行ニ而差支当座御勘定等も助遺候様」添問屋を命ぜられている(『旅籠町杉浦日記,なお問屋場には諸印鑑・旧記・諸帳面が保管されていた(『旅籠町杉浦日記』)。  
浜松市史 ニ (一大宿場町を形成)

家数六百四拾六軒、人数四千三百三十六人、右拾壱丁分也、右之内、五軒本陣、七拾三軒伝馬町はたこや、弐拾弐軒旅籠町,十八軒塩町はたこや、十六軒連尺町はたこや、はたこや〆百五十一軒」とあり、一大宿場町を形成していた(『旅籠町平右衛門記録
浜松市史 三 (東海道通)

【旅籠町】さらに伝馬町から旅籠町へかけては旧宿場町の名残を残し、宿屋(旅籠屋二七戸、郷宿三戸)が多く、,なかには貸座敷(伝馬町一九戸、旅籠町七戸)に転業した店もあった。
浜松市史 三 (浜松三戸長役場)

浜松三戸長役場 このとき浜松宿では三つの戸長役場(浜松旅籠町組戸長役場・浜松紺屋町組戸長役場・浜松田町組戸長役場,して、何町村組戸長役場と称えたが、明治十八年一月戸長役場の位置が改正されて(甲第三号)、浜松宿では浜松旅籠町,【浜松中央部】伝馬町外十二ケ町村戸長役場 浜松旅籠町 浜松伝馬町 浜松塩町 浜松元魚町 浜松成子町
浜松市史 ニ (本陣の規模)

ちょうど三月三日雛の節供で、旅籠町の旅宿にいて蛙の鳴くのが聞けたのである。  ,門構玄関付 本陣 凡建坪225坪 連尺町(佐藤与左衛門) 壱軒 門構玄関付 本陣 凡建坪163坪 旅籠町,(杉浦惣兵衛) 壱軒 門構玄関付 本陣 凡建坪197坪 旅籠町(伊藤平左衛門) 壱軒 門構玄関付
浜松市史 ニ (肴町と歩役)

田町・旅籠町は往還筋にあり。旅宿が多く、肴町とならんで歩役百二十八人をつとめるようになった。,【伝馬町 塩町 肴町 田町 旅籠町】この裁断にしたがって五か町の庄屋たちは、つぎのような申し合わせを行,               三分一    田町  〃 五二軒                三分一    旅籠町
浜松市史 ニ (旅籠屋)

【九十四軒】天保十四年旅籠屋九十四軒、戸数に対し五・八%(『旅籠町杉浦日記』には九十八軒)で、そのうち,【文政期】ところが『旅籠町杉浦日記』によると、文政二年旅籠町・伝馬町の旅籠屋が維持困難というので「御救方願書
浜松市史 ニ (馬込川の出水)

つづいて享保十九年八月七日にはまたも板屋町・田町・早馬町一帯が床上二尺(六〇㌢)ほど冠水し、橋当番の旅籠町,ほか他町も出動して土俵などを運び馬込橋の流失を防いでいる(『旅籠町平右衛門記録』)。
浜松市史 ニ (戸口の増減)

か町のみであったのに伝馬町・肴町・板屋町・新町・大工町・紺屋町が加わり七か町となり、また五十軒未満が旅籠町,七軒町・神明町・早馬町・下垂町・池町・鍛冶町・平田町・本魚町・利町・清水谷・猿屋町と十四か町だったのに旅籠町
浜松市史 三 (文芸誌)

純真社(当市旅籠町五〇、編集兼発行人尾藤光之助)発行の文芸誌。,【鈴蘭】このほか鈴木愛作(当市旅籠町)・松井多門による『鈴蘭』(大正九年十一月、一号で休刊、鈴木覚馬の
浜松市史 ニ (海岸地域)

その一例として『旅籠町平右衛門記録』によって寺嶋八幡地(当市寺島町・北寺島町付近)の綿作について述べよう,これは当時ここに旅籠町所有の田畑があったのでこの記録が残ったのであるが、これによると延宝八年(一六八〇
浜松市史 一 (浜松のばあい)

肴町・田町・旅籠町がこの役を負担する歩役町になった。,【旅人宿町】田町も旅籠町も旅人宿の町である。
浜松市史 ニ (若宮八幡社)

(八幡町)の神輿(みこし)の御旅所となったのは、正徳四年(一七一四)の八月十五日からであるという(『旅籠町平右衛門記録
浜松市史 ニ (各町の長短)

二百間以上あるのは伝馬町・田町・板屋町・新町の東海道通町道の四町で、板屋町の二百十四間が最長、百間未満は旅籠町
浜松市史 ニ (放生会)

大工町の若宮八幡社と小沢渡村(当市小沢渡町)の音羽松(浜松の松ともいう)は神輿の御旅所であるという(『旅籠町平右衛門記録
浜松市史 三 (張子細工)

【二橋志乃】その子永智が嗣ぎ、二橋志乃(しの)(永保の子、旅籠町、昭和四十八年没、八十三歳)は昭和三十四年浜松市無形文化財保持者
浜松市史 ニ (町幅)

三間は旅籠町・田町・七軒町・上新町・下垂町、三間未満は肴町・成子坂町・早馬町・鍛冶町・平田町・本魚町・
浜松市史 ニ (寺院の配置)

薬師堂は慶安二年のころ新道から七軒町に移ったという(「旅籠町平右衛門記録」『浜松市史史料編一』)。
浜松市史 三 (魚市場)

【旅籠 八幡地】しかし町が発展し魚類の需要が増してくると四十四年には旅籠町に浜松水産株式会社が設立されて
浜松市史 ニ (笹ヶ瀬隕石)

三百十六匁ぐらいあり、たいへん珍しい「玉」というので領主本庄安芸守は江戸屋敷へ運ばせて検分したという(『旅籠町平右衛門記録
浜松市史 三 (火災)

つぎに火災をあげると、   【宝来亭】大正十二年三月十五日 伝馬町寄席宝来亭より出火し、平田町・旅籠町
浜松市史 ニ (琉球塚)

また掛川市天然寺には寛政十年四月死去した和蘭使節ケイスベルト・ヘンミー(「旅籠町杉浦日記」『浜松市史史料編二
浜松市史 ニ (民政関係の職種)

【水野氏】『旅籠町杉浦日記』によると、文政九年(一八二六)の水野藩の主要な役職・人員として、家老二・年寄三
浜松市史 三 (人身売買禁止)

【貸座敷 娼妓】当時貸座敷は伝馬町に十二軒、娼妓二十六人、旅籠町に貸座敷六軒、娼妓五人であったが、七年一月
浜松市史 三 (浜松の仮戸長と管轄地)

秋葉町・清水町・利(とぎ)町・本魚町・紺屋町・大工町・大堀新地・猿屋町・愛宕町・七軒町・成子坂町・塩町・旅籠町
浜松市史 三 (木綿商人密集地域)

町別で調べると、旧武家屋敷町(元城・元目・御組町)や旅泊業者の多かった宿の中央部(神明・連尺・伝馬・旅籠町
浜松市史 ニ (町の景観)

大田南畝(おおたなんぼ)が旅籠町の本陣で蛙の鳴き声をきいた話はすでに述べておいた。
浜松市史 ニ (塩町と伝馬)

【歩方三町方】伝馬役二町方に対して肴町・田町・旅籠町の三町が歩役三町方と呼ばれて荷物運搬の人夫役をつとめた
浜松市史 ニ (井上氏所替)

このとき町方庄屋一同も同一歩調をとることとなり旅籠町問屋庄屋兼帯甚兵衛・七軒町庄屋治左平の両人も同行した
浜松市史 ニ (連尺町加入の事情)

連尺町加入の事情 宝永年間、困窮した旅籠町の庄屋が連尺町を役町に加えるように幕府へ願い出た。
浜松市史 ニ (海岸地帯)

【浅田村】『旅籠町平右衛門記録』(『浜松市史史料編一』)によると、享保十一年(一七二六)に浅田村・伊場村
浜松市史 三 (士族の配置)

うしろみち)(一軒)利町(とぎまち)(一軒)新町(一軒)平田(なめだ)町(二軒)池町(一軒、明光寺)旅籠町
浜松市史 三 (活版印刷)

浜松宿の印刻師には幕末のころ『志学抄経』(嘉永二年版)を印刻した山崎十左衛門、明治の初期に旅籠町開明堂鞍智逸平
浜松市史 三 (各町消防組 連合消防組)

新町・田町・肴町・連尺町・伝馬町・塩町・成子町・七軒町上新町・紺屋町・利町・大工町・元魚町・下垂町・旅籠町
浜松市史 三 (西遠商会 西遠銀行)

浜松旅籠町三五番地にあった。
浜松市史 ニ (代官役所)

【地代官】『旅籠町平右衛門記録』によると、下表のとおり江戸時代の中ごろ、藩領の「寺嶋八幡地」(後述)が
浜松市史 ニ (御役六町の増減)

25 23 2 4 田町 100 80 52 52 3 3 肴町 96 94 49 49 4 4 旅籠町
浜松市史 ニ (寺嶋八幡地の要求)

寺嶋八幡地(当市寺島町およびその付近)は前述のごとく土地所有関係が複雑で寺社領があり、また浜松市中の旅籠町
浜松市史 ニ (大久保山論)

浜名郡雄踏町)との間にある大久保山の山堺が不明のため紛争がおき、貞享三年(一六八六)解決しているし(「旅籠町平右衛門記録
浜松市史 ニ (宿の根幹表筋町)

ここで今まで西進してきた道は直角に左折し連尺町・伝馬町・旅籠町・塩町・成子坂町がならぶ。
浜松市史 ニ (町民の生活)

があったが、享保十三年(一七二八)の「浜松宿質屋仲間定」によると、当時二十一軒(成子坂町三、本魚町一、旅籠町一,一六八五)の記録があり「此まつりは浜松町在々共ニおびたゞしく御座候、浜松町立始り而之まつりニ御座候」(「旅籠町平右衛門記録
浜松市史 四 (浜松商店界連盟)

鍛冶町・板屋町・鴨江町・砂山町・常盤町・名残町・追分町・旅籠町・田町・肴町・千歳町 ・連尺町・高町・伝馬町
浜松市史 ニ (五社明神社)

杉山(当市利町、現在の市民会館の前)では延宝四年九月まで三年に一回ずつ能楽が行なわれ(『旅籠町平右衛門記録
浜松市史 ニ (鴨江彼岸会)

不及申、惣町見物之者共残多」く思ったのである(伝馬・連尺・塩・旅籠のお役町は困窮のため参加していない『旅籠町平右衛門記録
浜松市史 一 (被害状況)

伯耆守)から千三百七十四俵の救米が出され、また御役五町に対しては六百二十六俵の拝借米(期限三カ年、ただし旅篭町,斗升合勺 伝馬町 139・3427 塩町 46・2492 田町 139・3427 肴町 139・3427 旅篭町
浜松市史 一 (火災)

旅籠町平右衛門記録(『浜松市史史料編一』)の中に浜松町在々出火之覚という項があり、寛文五年(一六六五)
浜松市史 ニ (起源)

【記録】大念仏の由来に関する最も古い記録とされている『旅籠町平右衛門記録』(『浜松市史史料編一』には、
浜松市史 ニ (開帳)

また七軒町普大寺不動尊では享保九年、下垂町明光寺は享保十三年(『旅籠町平右衛門記録』)、寺嶋村大聖寺は
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