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浜松市史 四
(日本楽器)
日本楽器
一方、楽器メーカーであった
日本楽器
製造が、本格的にオートバイ生産に乗り出したのは昭和二十九年十二月,戦時経済下、
日本楽器
は軍用飛行機のプロペラ生産を行っていたが、敗戦とともに生産設備が賠償指定を受け管理保全,これらの機械を使って何を生産すべきか、
日本楽器
製造の『社史』によると、当時様々な検討が行われ、最終的に, 【赤とんぼ 小池岩太郎 GKグループ】
日本楽器
が、オートバイ生産という全く新しい,
日本楽器
は、昭和三十年二月十一日ヤマハYA1型125ccを完成させた。 /
日本楽器
浜松市史 三
(日本楽器会社)
日本楽器
会社 【オルガン製作 中村藤吉】
日本楽器
製造株式会社 山葉寅楠(やまはとらくす)によって創立,には初めて輸出、また音楽教育の普及によって需要も増加し、三十年九月には資本金十万円の株式会社となし、
日本楽器
製造株式会社 /
日本楽器
会社
浜松市史 四
([集排法と日本楽器の対応])
[集排法と
日本楽器
の対応] 【過度経済力集中排除法 企業再建整備法】 前述したGHQの経済的非軍事化政策,昭和二十三年二月、
日本楽器
は過度経済力集中排除法の適用を受け、岩手工場の閉鎖に追い込まれた。,これに対して
日本楽器
側は、持株会社整理委員会に対して「過度の経済力の集中に該当するかどうかを決定する具体的基準, これに対し持株会社整理委員会は、
日本楽器
が、現に所有している他社株式を処分するために,
日本楽器
の『社史』では「翌二十四(一九四九)年二月二十八日、企業再建整備法による新旧勘定合併決算を行い / [集排法と
日本楽器
の対応]
浜松市史 四
([日本楽器における労使関係の再編])
[
日本楽器
における労使関係の再編] 【
日本楽器
日本楽器
聯合労働組合 日楽経営協議会
日本楽器
労働組合, 新労働協約 経営権の独立】
日本楽器
の生産再開は昭和二十年八月二十日、本社事務所を佐久良(さくら,
日本楽器
は戦時中プロペラや補助タンク等の軍需製品を生産し、動員学徒や女子挺身隊を加えて約一万人の従業員, 足立 荘 鈴木 実 菊池 一雄 (監査役) 林 慶吉 杉浦 公庸
日本楽器
,
日本楽器
における経営権の回復は、昭和二十五年に締結された新労働協約においてであった。 / [
日本楽器
における労使関係の再編]
浜松市史 三
(楽器工業)
楽器工業 【
日本楽器
】②楽器工業 山葉寅楠の創立になる
日本楽器
株式会社は、大正十五年の争議(後述、本章第三節第二項,)ののち、
日本楽器
株式会社では住友電線株式会社から迎えられた川上嘉市(明治十八年三月長上郡内野村生、東大卒
浜松市史 三
(河合楽器)
河合楽器 【河合小市】また技師長として山葉寅楠を援け、
日本楽器
株式会社の発展に尽してきた河合小市(浜松上新町明治十九年一月生,河合のあとを追い日楽を退社した七人の人々の協力もあって、四年六月には河合楽器製作所と改名、
日本楽器
とならぶ,その他に七年以降には
日本楽器
や河合楽器に関係した人々にであったより、千代田・遠州・富士・浜松・三葉等の,戦争勃発とともに飛行機部品・グライダー・プロペラ・燃料補給タンク等の軍需品生産に転換したが、この間も
日本楽器
浜松市史 四
([賠償指定工場の指定とその解除])
[賠償指定工場の指定とその解除] 【賠償指定工場 鈴木式織機
日本楽器
賠償指定工場の解除】 GHQ,遠州地方では、浅野重工業・中島飛行機・遠州織機・鈴木式織機・
日本楽器
・大東機工の六社が指定を受けた。,
日本楽器
も、プロペラ、補助タンクなどを製造していたため賠償工場に指定され、プロペラ製造専用機械,しかし、昭和二十一年十月八日には、
日本楽器
は賠償指定工場から解除されることになった。,これにより
日本楽器
は、本格的な会社の再建に乗り出していくことになった。
浜松市史 五
([企業のスポーツ活動])
[企業のスポーツ活動] 【河合楽器体操部
日本楽器
黒獅子旗
日本楽器
卓球部 鈴木自動車工業陸上競技部,野球では社会人リーグの最高峰と言える都市対抗野球大会に河合楽器と
日本楽器
が何度となく出場、
日本楽器
は昭和六十二年,この年は
日本楽器
の創業百周年、十月には社名もヤマハ株式会社になり、会社にとっては記念すべき年となった。,
日本楽器
卓球部は戦後の昭和二十二年に始まるが、昭和四十五年には全日本実業団卓球選手権大会で優勝した。,
日本楽器
卓球部の名前が全国に知れ渡ったのは小野誠治が入社して以来、小野は昭和五十四年の世界卓球選手権大会
浜松市史 三
(争議の悪化)
争議の悪化 五月三日
日本楽器
の争議悪化。,「
日本楽器
労働争議に県工場課の調停か、東海道中開闢以来の争議として警察部は事件の詳細を調査し解決案既に
浜松市史 四
([社会人野球とプロ野球])
になると、浜松には国体代表となったヤマヤ醸造、天皇杯争奪全国軟式野球で第三位となった河合楽器、さらに
日本楽器
,これに対し、戦前から軟式野球部を持っていた
日本楽器
は、昭和三十年の浜松商工人野球大会で優勝するなど、実力,
日本楽器
は河合楽器の硬式野球部発足を受けて、昭和三十三年に全
日本楽器
硬式野球部(全日楽)を誕生させ、河合楽器,なお、当時県内の社会人チームは大昭和製紙が断トツで、本州製紙、日本軽金属、河合楽器、金指造船、
日本楽器
,浜松市内にほぼ同時に誕生した河合楽器と
日本楽器
の両チームは昭和三十四年から毎年春秋二回の定期戦を開始、
浜松市史 三
(嘆願書提出)
嘆願書提出 大正十五年(昭和元年)四月二十一日、
日本楽器
従業員(総数一三八〇名、うち女子三〇〇名、争議,実生活状態を充分御調査被下、来る二十五日午前九時迄に職工代表並に組合代表と会見の上、御回答相成度候
日本楽器
株式会社々長, 天野千代丸殿
日本楽器
株式会社職工代表者
日本楽器
製造株式会社販売部(大正8年撮影
浜松市史 三
(浜松最初のメーデー)
殊に大労働争議といわれる
日本楽器
の紛争や、浜松名物の凧揚とかち合って浜松署では前日来、警官百五十名の増援,参加人員は争議中の
日本楽器
男女工その他合計約三千余名で(中略)、会場は龍禅寺境内、午前九時頃各組合旗を,注意を与えて、九時半頃出発し、「日本労働組合評議会浜松合同労働組合第一班」と染め抜いた赤旗を先頭に「
日本楽器
争議団
浜松市史 四
([楽器生産の開始と中小楽器工場の設立])
[楽器生産の開始と中小楽器工場の設立] 【楽器産業
日本楽器
河合楽器 新しい楽器工場】 戦時中,、浜松の楽器産業は軍需品生産へ傾斜し、
日本楽器
はプロペラ生産が主力になり、河合楽器も航空機用の補助タンク,
日本楽器
は軍用の木材を利用して家具や簡易住宅の建築を手掛けるところからスタートした。,
日本楽器
が持株整理委員会に提出した「説明書」(昭和二十三年)に添付した資料によると、楽器製造会社は全国,表2-18 静岡県内所在楽器製造業者一覧(昭和23年) 工場名 所在地 製造品目 製造開始
日本楽器
製造株式会社
浜松市史 三
(官憲の弾圧)
官憲の弾圧 五月十六日
日本楽器
争議は昨今又復悪化の形勢を示し、何時流血の惨を惹起せんとも測り難いので,浜松署では厳重警戒に努めていた処、午前十時頃に楽器争議団応援の鈴木織機株式会社職工金田義雄外二十余名は、
日本楽器
会社付近,【労農同志会 天野辰夫】会社は
日本楽器
争議団に対抗すべく新たに日本主義労農同志会(天野辰夫によって結成
浜松市史 三
(労組の拡大 労組の勝利過信)
鈴木織機(東部支部)をはじめ飯田織機(中部支部)・東洋染色・中村氷糖・帝国製帽・
日本楽器
(北部支部)・,そして、自力によってこの争議に勝利を得たという浜松合同労組の自負が、次に述べる
日本楽器
会社の争議を惹きおこすことになるのである
浜松市史 三
(労働運動)
7 7.28
日本楽器
木工部50名 賃上要求スト 9.15 新居町新居汽船船員 賃上要求 8 9.12,待遇改善要求スト 11.24 浜松駅運送組合仲仕100名 正月三か日公休要求 9 1.20
日本楽器
,浜松板屋町夏目宅にて同好会労働同盟懇談会 10.25 政治研究会浜松支部創立 12.28
日本楽器
浜松市史 四
(大橋ピアノ研究所)
ピアノ研究所 【大橋幡岩 オオハシ】 株式会社大橋ピアノ研究所の創業者は大橋幡岩(はたいわ)で、
日本楽器
出身,大橋は日楽争議によって山葉直吉が退職をすると同時に退職するが、請われて再び
日本楽器
の技師となり二十種の
浜松市史 五
(海外生産)
地域の大手企業であるであるヤマハ発動機、
日本楽器
製造、河合楽器製作所、鈴木自動車工業が海外に設置した生産,【ヤマハ発動機】 ヤマハ発動機は、従来から海外生産の意欲が強く、
日本楽器
製造の海外展開に相乗りした,昭和三十年に
日本楽器
から独立、その三年後には
日本楽器
が設立したヤマハ・デ・メヒコに相乗りし、ピアノ生産,【
日本楽器
製造】
日本楽器
製造の海外系列会社は昭和五十六年一月時点で十七カ国に二十社設立されており,
日本楽器
の海外戦略の理念は「高品質の製品を作り、信用を重んずるビジネスを行い、音楽文化の普及に資する」
浜松市史 五
(楽器産業)
日本楽器
がとった方法は特約店方式と割賦販売方式の導入であった。,
日本楽器
は全国の楽器店や書籍店などと契約を結び、
日本楽器
の楽器を専門に販売するという特約店方式を採り入,電子楽器の開発にいち早く乗り出したのが
日本楽器
であった。,
日本楽器
のリードに対して、他の楽器メーカーや電機メーカーも追随していった。,
日本楽器
の成長は量産化プラス多角化によって達成されたと言える。
浜松市史 四
([オートメーション化による大量生産方式の導入])
【
日本楽器
大量生産化 オートメーション 大量生産方式】
日本楽器
の川上源一は欧米視察, 【団体交渉制度 シーズニングの短縮 直線的ラインのコンベアー】
日本楽器
は、ピアノ,そこで、
日本楽器
は、昭和三十一年五月、天竜工場に世界でも類を見ない木材乾燥室を新設し、オートメーション,オートメーション化による大量生産方式の導入は、経営の効率化に寄与し、
日本楽器
の成長に画期的な役割を演じた
浜松市史 三
(解決勧告)
会社側の態度に憤慨して各職場で抗議集会を開き、大要次のような決議文を可決して、各工場三名の代表者がこれを
日本楽器
会社,「決議、本大会は
日本楽器
従業員諸君の要求を当然なものと認める。
浜松市史 四
(海外視察)
日本楽器
の川上源一社長は昭和二十八年七月から九月まで欧米各国を視察、鈴木自動車工業の鈴木俊三社長は昭和三十年, 【大量生産体制】
日本楽器
の川上源一は、アメリカでは流れ作業による大量生産を行っていた,とにかく、何から何まで全部新しくやりなおして世界的な視野ですべての準備をしない限り、
日本楽器
の将来はない,これを契機に
日本楽器
は楽器の大量生産体制を確立し、さらに事業の多角化を積極的に展開していった。
浜松市史 五
(電気・電子楽器)
電気・電子楽器 【
日本楽器
製造 LSI ヤマハ株式会社】 他方、構造不況下にあっても
日本楽器
製造,
日本楽器
は電子ピアノ、電子オルガンなどの電子楽器部門に加え、ステレオなどのオーディオ部門、住宅部材・音響設備,このような電子機器分野への進出と創業百周年を迎えるのを期に
日本楽器
製造は、昭和六十二年十月、社名をヤマハ
浜松市史 三
(労働者側敗北)
日本楽器
労働争議解決の記事
浜松市史 三
(木工品)
方面からの外材の輸入も行なわれて中野町村を中心とする製材業とともに、洋家具など木工品の生産も増大し、
日本楽器
製造株式会社
浜松市史 三
(浜松の三大産業)
日本楽器
製造株式会社・帝国製帽株式会社・日本形染株式会社はその代表的な工場であった。
浜松市史 三
(駅付近発展)
並び、後道(大正十四年千歳町と改称)には聴濤館・芙容館・鳥利などという料理店ができて、板屋町新道には
日本楽器
会社
浜松市史 四
(アトラスピアノ製造)
日本楽器
や河合楽器は、もともと部品の内製率が高かったのに対し、中小メーカーの場合は、初めから組み立てだけを,なぜなら、この時期は
日本楽器
・河合楽器の二大メーカーが量産体制を確立する時期で、生産コストを下げるためには
浜松市史 三
(争議解決条件)
争議解決条件 「覚書
日本楽器
会社争議は左記に依り円満解決したり。
浜松市史 三
(学校工場 勤労令 授業停止)
KK 浜名郡舞阪町 浜松市立 市立浜松高女 5 30 豊川海軍工廠 豊川市 死亡1 4 180
日本楽器
浜松工場,死亡1 3 230
日本楽器
製造KK 天竜市二俣町 浜松女商 私立浜松女商 4 58 日蓄木工KK,89 浜松市航空機工業KK 周智郡森町 3 40 共同印刷KK 〃犬居町 専攻 45
日本楽器
天龍工場,セロファンKK 浜松市早出 3 50 日本蚕糸浜松工場 浜北市中瀬 信愛学園 信愛女子商業 4 100
日本楽器
製造
浜松市史 四
([野球ブームと各種大会])
昭和二十四年七月の浜松電化祭の一環として行われたもので、参加は二十二チーム、決勝では鈴木式織機(今のスズキ)が
日本楽器
,昭和二十六年になると参加チームは三十にもなり、
日本楽器
、日本形染、日本通運、玉川紡績、安田織物、内外織物
浜松市史 四
([徹底的に破壊された工場と各産業被災率])
[徹底的に破壊された工場と各産業被災率] 【被災率
日本楽器
川上嘉市】 徹底した空襲と艦砲射撃,昭和二十一年一月五日の『静岡新聞』において、
日本楽器
製造株式会社(以下
日本楽器
という)の川上嘉市は「平和産業
浜松市史 五
(社報)
既に百号を突破した
日本楽器
の豪華版、同じ楽器界で河合楽器、鈴木自動車工業、本田技研工業、そして遠州鉄道,前記引用文中の
日本楽器
の『日楽社報』の創刊は古く、昭和二十二年十二月で、創刊号(タブロイド版四頁)の一面全部,川上は、
日本楽器
にはかつて全従業員からなる樂友会という会があって、「樂友」という雑誌を出していたと記した
浜松市史 四
(東洋ピアノ製造)
石川は
日本楽器
と河合楽器で十年間ピアノの製造技術を修得した。
浜松市史 四
([学校の器楽合奏、ハーモニカバンド])
楽器会社である
日本楽器
の社内には、すでに大正時代にハーモニカバンドがあったというが、戦後は、昭和二十三年十一月,なお、この快挙の陰には、メーカーの
日本楽器
製造株式会社や東海楽器、また浜松青年会議所の援助等があったようである
浜松市史 四
([鍋釜など日用品と千円バラックの生産開始])
また、
日本楽器
は軍用の木材が残っていたため、これを使って簡易住宅(バラック)の建築に取り掛かった。
浜松市史 四
([天皇行幸による道路復旧])
直ちに、自動車で市役所、名古屋鉄道局浜松工機部、北国民学校(現北小学校)の仮校舎、
日本楽器
製造株式会社
浜松市史 三
(爆弾事件)
爆弾事件 七月十六日 浜松市高町の
日本楽器
会社監査役小竹禄之助の邸宅で、十六日午前三時頃に突如表玄関口,浜松署では、犯人は周囲の事情より推して
日本楽器
争議団員の仕業と睨み、目下その方面に亘って大活動を続けている
浜松市史 四
([結核予防の実践運動])
ただし除外例は、市内各学校在学者と企業従業員(東洋紡績・
日本楽器
・石川鉄工・浅野重工業・
日本楽器
天竜工場
浜松市史 三
(交渉経過)
交渉経過 この間の事情を『
日本楽器
(浜松)争議関係資料』(静岡県社会問題研究所発行)によると、
浜松市史 三
(工場規模 生産品の多様化)
【ハーモニカ】
日本楽器
製造株式会社では大正三年から開始したハーモニカの生産が急増、八年には全楽器生産額二百四十七万五千四百四十円中,104 121 西野製糸場 〃6 16 107 123 旭日氷糖株式会社 〃13 60 57 117
日本楽器
製造
浜松市史 五
(スポーツ)
【アーチェリー 卓球 陸上競技】 昭和三十五年、浜松の
日本楽器
製造(株)では川上源一社長の指示の下,同四十年代に入ると全国の大学や高校などにアーチェリーの普及活動を展開、浜松は
日本楽器
の地元ということもあり
浜松市史 五
([警職法・安保闘争と労働条件改善への取り組み])
このメーデーには昭和三十一年に全労傘下の全繊同盟が、三十三年には電機労連傘下の
日本楽器
労組が参加し、企業,また、この高度経済成長期は、浜松地区では多くの楽器メーカーやオートバイメーカーが
日本楽器
製造、河合楽器製作所,
日本楽器
労働組合は昭和三十八年二月に週四十時間・週休二日を目指す労働協約改定要求書を会社側に提出していた,(
日本楽器
労働組合『組合のあゆみ 15周年記念』)。
浜松市史 三
(日本形染会社)
日本楽器
製造株式会社(大正年間) 帝国製帽株式会社(大正年間) 日本形染株式会社(
浜松市史 三
(評議会弾圧 争議団動揺 協調会案受諾)
そこで翌七日添田理事は再び来浜し、渡辺市長(
日本楽器
会社株主)・鈴木幸作市議とともに天野社長・小竹監査役
浜松市史 四
([慰安演芸会や村祭り・年中行事の再開])
終戦からわずか一カ月半の昭和二十年九月に中沢町の
日本楽器
で、十月には蒲神明宮で〝戦災市民慰安無料公演〟,なお、昭和二十年代には
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本社労組や浜松工機部労組など市内の主な労組には演劇クラブ(部)があり、いろいろな
浜松市史 三
(日楽ハモニカ部争議 浜松最初の労働組合 浜松合同労組)
ハモニカ部争議 浜松最初の労働組合 浜松合同労組 そうした動きのうちに、大正十四年十二月二十八日に
日本楽器
株式会社
浜松市史 三
(浜松近郊被害)
中島飛行機工場ノ被害又大ニシテ工場ノ約八割破壊セラレタリ、目下中部第七十九部隊兵員約三百名出張取片付中ナリ、又
日本楽器
天竜工場
浜松市史 五
([市役所の週休二日制])
日本楽器
製造の本社・工場や本田技研工業の完全週休二日制は同四十七年、鈴木自動車工業では昭和四十七年には
浜松市史 四
(富士楽器製造)
野田は
日本楽器
や河合楽器で技術を習得し河合楽器から独立した。
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