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浜松市立中央図書館/浜松市文化遺産デジタルアーカイブ

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浜松市史 四 (映画)

本書の扱う戦後の約十四年間は、焼け跡の中に戦前からの大衆娯楽としての映画が復活し、映画界が最盛期を迎えるまでの,この間の歴史については、『浜松 戦後映画史と映画看板の変遷』(井上富雄・浜松市立中央図書館編平成八年十二月一日発行,戦前浜松市内にあった映画館と劇場は、戦災によりすべて焼失していたが、戦後市内に映画館復活の動きが始まるのは,このころから、主要映画館は新聞への別々の広告をやめて、「浜松映画街案内」として共同の広告掲載となった。,こうして一時期、映画館の中には経営的に行き詰まるところも現れたが、人々の映画への関心は衰えを見せることはなかった / 映画
浜松市史 三 (映画の普及)

映画の普及 最初は古い映画が上映されたが映画館の数が多くなると、日本映画はもちろん新作品も早く見られるようになった,大勝館の尾上松之助映画に鬱憤を晴らし、敷島館の山本嘉一演ずる乃木将軍に忠烈の血をたぎらせ、吾妻座のルス・ローランド,また勝閧亭(寄席であったが映画館に変った)のユニバーサル社のブルーバード映画に夢をふくらませた。,【プログラム】映画館ではプログラムを発行するようになり、映画俳優のブロマイドを売る店(連尺町)もできたり,、映画熱に浮かされた青年たちの中には騰写版の映画誌をつくるものも現われた。 / 映画の普及
浜松市史 三 (映画常設館)

映画常設館 【大勝館】映画が盛んとなり常設映画館ができたのは大正五年で、芝居小屋の音羽座が大勝館と改称,し(のち帝国館、松竹会社の直営館となり松竹館と改称した)、映画を上映したのが最初であった。,【吾妻座】続いて八年には芝居常設の旭座(伝馬町、旧称若松座)も吾妻座と改称し映画館に転向した。,ほとんどが映画会社の直営館ではなくて地元資本ということに特徴があった。,こうして大正末期から昭和にかけて映画の全盛時代を迎えた。 敷島館 / 映画常設館
浜松市史 四 ([映画教室の開催])

[映画教室の開催] 【映画教室 映画三原則 劇団たんぽぽ】  GHQは占領政策の一環としてアメリカ,浜松での映画教室はナトコ映写機などの不足で、市の中心部や笠井など、映画館がある所では普通の映画館を使って,市内の小中学校は映画三原則(学校で連れていく映画、学校で推薦する映画、父兄同伴の映画のみ見ることが出来,映画館がない所の学校は講堂や公民館に子どもたちを集めて映画教室を行った。,昭和二十六年五月に多くの学校が行った映画教室は「少年期」の鑑賞、この映画教室を担当していた浜松視聴覚教育研究会映画教室部 / [映画教室の開催]
浜松市史 四 ([映画の全盛時代])

[映画の全盛時代] 【シネマスコープ】  トーキー、カラーと並んで、シネマスコープの登場は映画界の,こうして、映画人気はますます高まり、日本の映画人口は『日本映画五十年史』(塩田長和著)によれば、昭和三十三年,この虻蜂会が中心となって、映画文化向上のために、映画関係者や市内の文化人たちによって出来たのが浜松映画研究会,  【『映画と私』】  映画ブームのなかで、市内の高校にも映画のクラブや愛好会が生まれた,虻蜂会会員の河村隆司が指導する浜松工業高校映画部では、部誌『映画と私』を発行し、同校の先輩で偉大な映画監督 / [映画の全盛時代]
浜松市史 三 (トーキー化と時局映画)

トーキー化と時局映画 映画がトーキーとなったのは昭和六年ごろで、戦争がはじまると映画も戦時体制化され,、ニュース映画が歓迎され、その専門館(伝馬町角、浜松実業倶楽部階下)もできるようになった(山本巴水「戦前,昭和十五年当時の映画館に松竹劇場(田)・吾妻座(伝馬)・浜松新興館(鍛冶)・松竹館(利)・浜松座(千歳 / トーキー化と時局映画
浜松市史 五 ([浜松よい映画をすすめる会の活動])

[浜松よい映画をすすめる会の活動] 【浜松よい映画をすすめる会】  戦後の日本文化の向上発展の上で,、映画の果たした役割には極めて大きなものがあった。,そのような状況の中で生まれたのが浜松よい映画をすすめる会であった。,をすすめる会推奨映画』とする。」,その後、テレビの普及等の理由により、映画館での映画の鑑賞人口が年ごとに減少の一途をたどったことは周知の / [浜松よい映画をすすめる会の活動]
浜松市史 五 ([木下恵介記念館の開館とはままつ映画祭])

[木下恵介記念館の開館とはままつ映画祭] 【木下恵介記念館 木下忠司】  浜松駅の北口の左手、現在遠鉄百貨店新館,図4-45 木下恵介記念館リーフレット 【はままつ映画祭】  第一回はままつ映画祭が開催されたのは,期間中、映画としては木下監督の代表作「カルメン故郷に帰る」「楢山節考」を含む七本が上映され、これとは別,にこども映画祭として子供向け映画を無料で上映する企画もあった。,同映画祭は平成二十年現在も開かれている。 / [木下恵介記念館の開館とはままつ映画祭]
浜松市史 四 (木下恵介)

に対する評価は揺るぎないものになっているが、この作品について、映画評論家の佐藤忠男は『日本映画史』2(,なお、「二十四の瞳」は前記受賞のほか、芸術祭の文部大臣賞、同監督賞・毎日映画コンクール日本映画賞、脚本賞,このような、映画監督としての着実な歩みの上に「二十四の瞳」の成功はあった。,この年は、日本映画が活況を見せたその頂点の年でもあった。,木下はこの後、下降し始めた日本の映画界にあって、なお旺盛な制作を続け映画に代わるテレビの世界においても
浜松市史 三 (興行形態)

興行形態 上映映画は短編実写映画(一本)、劇映画として邦画(旧劇と新派劇、一本又は二本)と洋画(一本,)というのが原則的で一週間で映画は交代、一日一回の夜間興行が普通で、興行時間も六時より十一時と長時間であった,【弁士 楽士】無声映画のため洋画は一人の弁士(五十嵐狂虎・吉田天洋などが人気があった)が、邦画は数名の,ピアノ・オルガン・コルネット・バスなど)おり音楽の伴奏をし興趣を添えた(例えば大正十五年六月松竹館上映映画
浜松市史 三 (ロケーション)

ロケーション 映画のロケーションも浜松を舞台に時々行なわれた。,鳥人といわれた映画俳優高木新平が鴨江観音堂の屋根で演ずる活劇に驚き、昭和三年には栗島すみ子主演「愛のゆくすえ,また実演と映画で綴る連鎖劇というものも行なわれたが長続きはしなかった。
浜松市史 四 (楠田芳子 楠田浩之)

昭和十九年、そこで知り合った松竹映画のカメラマン楠田浩之と結婚。,作品が初めて映画化されたのは、第三作目「この広い空のどこかに」(小林正樹監督)で、五作目の「夕やけ雲」,(木下恵介監督)、六作目「涙」(川頭義郎監督)も映画化された。,って、歓びに堪えない次第であったッ   図3-94 「涙」浜松ロケ  芳子は、映画,木下恵介監督は、後世に残る幾多の傑作を含め生涯に四十九本の映画作品を制作した。
浜松市史 四 (木下忠司)

やがて上京し、兄の仕事を手伝うことになるが、木下映画の音楽を担当したのは昭和二十一年、木下の第六作目の,忠司は以後、兄恵介のほとんどすべての映画の音楽を任せられることになる。,があり、「破れ太鼓」・「喜びも悲しみも幾歳月」をはじめ、多くの作品の主題歌の作詞と作曲を手掛け、木下映画
浜松市史 四 (学校新聞 演劇)

学校新聞 演劇 【映画】  学校新聞は、新制高校になる以前の昭和二十二年六月に浜松第二中学校(今の,高校の演劇活動は多くの学校の参加により長く続くことになっ映画た。,浜松工業高等学校の映画部は昭和二十年代の半ばから三十年代初めにかけて熱心に活動し、『映画と私』という機関誌,この冊子により、当時の浜松の映画事情が手に取るように分かる(『新編史料編五』 九文化 史料61参照)。
浜松市史 四 ([図書館と移動文化館])

日米文化センター】  戦後の図書館は書籍や雑誌の閲覧にとどまらず、先述のようにレコードコンサートや映画会,映画は当時大衆娯楽の頂点にあり、毎日邦画や洋画を見ることが出来たが、短編の文化映画は映画館では上映されることは,図書館では県の視聴覚ライブラリーや日米文化センターから多くの文化映画を借りてきて上映するようになった。,これは、ただ単に書籍を置きに行くということだけではなく映画会や読書会の開催、さらには青年・婦人学級と連携
浜松市史 四 ([娯楽と庶民の生活])

と庶民の生活] 【パチンコ店 鶴田浩二】  昭和二十年代後半から三十年代前半の浜松の庶民の娯楽は映画,映画も昭和三十年代前半がブームであったが、詳しくは第九節文化 第五項を参照されたい。,このころ浜松出身の映画スターと言えば鶴田浩二(本名=小野栄一)であった。,学徒出陣で海軍の航空隊に入ったが、終戦後は浜松に戻り、一時は浜松駅に着いた映画のフィルムを映画館に配達
浜松市史 四 ([復興した浜松の中心市街地])

  【映画館冷暖房完備】  市内の映画館の冷房は昭和二十七年ごろから始まったようで、以後二十九年,ごろまでにはほとんどの映画館が冷暖房完備となった。,図3-58 浜松駅前の夜景   【映画館】  昭和三十年の『浜松市勢要覧』によると,昭和三十五年の『浜松市勢要覧』では映画館は二十二、劇場は二となっていて、映画館の数は五年間に約一・四倍,当時の映画館のほとんどは中心部に立地しており、商店街と合わせて、中心市街地は戦前を凌駕するほどのにぎわいを
浜松市史 四 (山根七郎治)

このほか山根は、黄檗宗関係の書籍の収集に努め、また辰野隆、古今亭志ん生、徳川夢声等との交友関係があり、映画監督,その関係で、木下恵介監督門下の川頭義郎監督の映画「涙」(昭和三十一年)に寺の住職役として出演したのをはじめ,木下監督の「喜びも悲しみも幾年月」(同三十二年)に教会の牧師役で、「笛吹川」(同三十五年)では快川和尚役で映画
浜松市史 四 (松菱劇場)

進め、昭和二十三年に三階の売場と屋上に遊園地を開設、翌年に八階までのすべての売場と食料品マーケット、映画館
浜松市史 四 (『浜松民報』 『遠州新聞』)

図書館の催しや、各種文化組織の動向を伝え、また、美術・文芸・音楽・演劇・映画など幅広い分野における情報,特に映画評は署名記事で、当時評判の高かった「ヨーク軍曹」・「三等重役」・「第三の男」など東西の作品が取
浜松市史 三 (静岡県立浜松鴨江病院)

しかし各種の保健衛生上の検査(例えば氷屋の井戸水の水質検査、浴場や理容業の検査、映画・演芸場の衛生検査
浜松市史 五 ([邦楽])

一方、坂下憲吾アンサンブルを結成し、クラシックの名曲や映画音楽・ポピュラーミュージックなどを手掛けて、
浜松市史 三 (活動写真)

活動写真 映画は活動写真と呼ばれ、明治の末ごろから小屋掛け(鴨江観音の彼岸興行)とか劇場を借りその舞台,にスクリーンを垂らした俄か映画館で、時々巡行してくる一座によって興行された。,日露戦争後「サンフランシスコの大火災」を(『娘と時代』)、また同座では明治四十二年浜松中学校の生徒が史劇映画,映画の旅興行一座では駒田好洋の一行が人気があった(『おまじない物語』)。  
浜松市史 三 (童話の実演)

【映画 紙芝居】映画や紙芝居もとりいれ昭和二年には飯尾・久保田の両名は夏季休暇を利用し、小型映写機をたずさえ
浜松市史 三 (遠江二葉会)

【仏教童話】大正から昭和へかけて日曜日に仏教童話や映画会を助信の善信寺をはじめ玄忠寺・法林寺・教興寺・
浜松市史 四 (新生活運動)

産児制限指導映画。医師を囲み寄生虫の話と映画。虫下し配布と検便。,[楽しみ]レクレーション・映画会。[見学]ビニール工場。子ども会。[青少年] 少年防犯運動。,[教養]「村八分」映画会。 29年度 [新生活運動] 新生活学校浜松教室開校、新生活西部婦人大会。,[慰安]会員慰安映画会。[運動]売春問題、原水爆禁止問題。貯蓄推進運動、花いっぱい運動。
浜松市史 四 ([浜松市母子の会による授産事業と市の授産所])

問題は運営資金で、篤志家の寄付や映画会による収入に頼り、和田村では村からの助成金や芝居・映画で資金を得
浜松市史 三 (化学工業 写真フィルム 印画紙)

また同社はX線フィルムを国産として最初に完成したり、映画フィルムの製造も行なったが、十九年に戦争による
浜松市史 五 (『広報はままつ』)

の広報活動は全国的にも評価され、『広報はままつ』は昭和三十六年度全国広報コンクールで第四位、十六ミリ映画
浜松市史 四 ([有楽街と浜松座通りの発展])

に巨大な歌舞伎座が、大正三年(一九一四)には浜松座が下後道に完成すると、ここでは歌舞伎・剣劇・演劇・映画
浜松市史 四 ([商店街の誕生])

など、そして駅南の砂山町商店街などには呉服・衣料品・食料品・文化品等の特色ある専門店が集中し、さらに映画館
浜松市史 四 ([素人劇団])

しかし、映画の人気の高まり等によって次第に姿を消していったようである。
浜松市史 四 ([占領目的違反行為])

一、無検閲映画の上映。 一、阿片の製造販売。 一、メチールアルコールの製造又は販売。 
浜松市史 四 ([パチンコ熱の到来])

このころになると大衆娯楽の王座を誇っていた映画を追い越すほどの人気で、早朝から深夜まで客足が絶えず、その
浜松市史 四 ([少年自治会と子ども会])

芝居・映画等 紙芝居・幻灯会を催す。 神社を遊び場に指定し教育幻灯会、映画会実施。
浜松市史 四 (学校新聞)

くから新聞を発行していたようで、昭和二十四年八月に発行した『学友新聞』第六号には子供銀行、校内放送、映画
浜松市史 四 ([プールと講堂])

#160; 【講堂】  学校では大勢の児童・生徒を集めて行う始業式・終業式・卒業式などの儀式や学芸会・映画会,くても昭和二十年代後半、佐藤小学校に大きな講堂が完成したのは昭和三十年で、自慢の講堂では付近の住民もよく映画
浜松市史 五 ([市立高校文芸部の活躍])

その中の「Ⅰ風景(特別寄稿)…楠田芳子(旧制三十八回卒)」の寄稿者楠田芳子は浜松出身の映画監督木下恵介
浜松市史 五 ([クリエート浜松と復興記念館の開館])

クリエート浜松と復興記念館の開館] 【クリエート浜松】  これまで市内には視聴覚センターはなく、映画
浜松市史 五 ([防災思想の普及と自主防災隊])

そして、関東大震災や防災関係の映画会・講演会等を開き、日頃から地震防災に対する関心を高めていくとした。
浜松市史 五 ([浜松文芸館の開館])

藤枝静男、吉田知子、俳人の相生垣瓜人、百合山羽公、作詞家の清水みのる等がおり、演劇人としては小百合葉子、映画監督
浜松市史 四 ([浜松合唱連盟の誕生と合唱祭])

    松竹映画「君の名は」で岸恵子演ずる氏家真知子が巻いた「真知子巻き」、ミスユニバース
浜松市史 五 ([敬老の日と老人クラブ])

老人クラブの活動内容は、世間話や昔話をしたり、時事問題や健康についての講話を聴いたり、映画や義太夫などの
浜松市史 四 ([成人学校の開催])

科目は料理・洋裁・華道・染色・音楽・書道などのほか、時代を反映した自動車技術・ラジオ技術・簿記・英語・映画研究
浜松市史 四 ([新制高校の発展])

また、文化クラブとしては映画・写真・無線・新聞・弁論・演劇・図書など実に多くの分野で熱心な活動がなされていた
浜松市史 四 ([警察の防犯活動と防犯協会])

具体的な活動としては防犯標語やポスターの募集と展示、防犯映画会の開催など防犯思想の普及と宣伝や防犯灯などの
浜松市史 四 ([青年学級の開設])

クラブ活動としては卓球や柔道などがあり、映画会や体育祭の開催、夏には上高地にキャンプに出掛けた。,から翌年の三月まで開講するもので、授業は一般教養のほか、簿記・ペン習字・商店経営・珠算などで、演劇・映画
浜松市史 四 (主な参考文献)

タイジ・ キヨカワ・アーツ 『鈴木三朝展』浜松市美術館 『北野熊雄遺作画集』北野家遺族 浜松『戦後映画史,と映画看板の変遷』 浜松市立中央図書館 『映画と私』浜松工業高等学校映画部 『虻蜂族』浜松映画研究会
浜松市史 四 ([『浜松百撰』])

これは藤枝の生涯の師であった志賀直哉が、作家の里見弴と映画監督の小津安二郎の二人と共に、浜松を訪れたときのことを
浜松市史 四 ([東洋劇場と公会堂での催し])

そこで利用されたのが、新しく出来たばかりの劇場や映画館であった。
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