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馬込川が流れるまち:曳馬地区わが町文化誌
(浜松市立曳馬公民館『馬込川が流れるまち:曳馬地区わが町文化誌』 目次)
馬込川が流れるまち:
曳馬
地区わが町文化誌 / 目次 『馬込川が流れるまち:
曳馬
地区わが町文化誌』 浜松市
曳馬
公民館 1989年,⇒ 小見出しを表示しない 目 次 ページ 画像 はじめに 第一章
曳馬
地区の自然 一,の神社 95 十一
曳馬
銀行と浜名銀行 96 十二 耕地整理について 【
曳馬
小学校 耕地整理記念碑,】 104 【早出学校 八幡学校
曳馬
小学校】 106 【
曳馬
町合併記念碑】 109 十五 明治, 上島小学校】 128 行者講 (
曳馬
中学校生徒取材より) 【
曳馬
町三浦】 130 / 浜松市立
曳馬
公民館『馬込川が流れるまち:
曳馬
地区わが町文化誌』 目次
浜松市史 三
(曳馬町)
曳馬
町
曳馬
町は町村制施行によって上島・一本杉・早出・細島新田・十軒新田・島之郷・高林・助信・新津・,茄子一色・船越一色・野口・八幡・下池川・上池川・中沢の十六か村を大字として自治村となり
曳馬
下村と称したが,、明治二十四年六月十一日
曳馬
村と改称した。,その後昭和九年二月十一日に町制をしき
曳馬
町となったが、十一年二月十一日には残る全町(高林・上島・一本杉,・早出・細島新田・十軒新田・島之郷・助信・新津・茄子一色)が浜松市へ編入され、
曳馬
町の名称はなくなった /
曳馬
町
浜松市史 三
(曳馬萩筆)
曳馬
萩筆
曳馬
萩筆 万葉集の古歌によって、
曳馬
野(ひくまの)は萩の名所というところから、三方原(みかたがはら,)の萩の茎を筆軸に用いることを思いつき
曳馬
萩筆と命名、浜松の製筆業者が発売したのがはじまりである。,
曳馬
萩筆を唄った野口雨情の童謡詞碑が浜松成子町の法林寺にある。 /
曳馬
萩筆
浜松市史 三
(曳馬の友 尚徳雑誌)
曳馬
の友 尚徳雑誌 明治三十年代に入ると、『
曳馬
の友』が連尺松柏堂内の実行徒弟共励会より三十六年七月発刊 /
曳馬
の友 尚徳雑誌
浜松市史 三
(中田島 十軒)
中田島 十軒 【藺莚】また白脇村中田島白羽・福塚や
曳馬
村十軒新田・早出などでは太藺(ふとい)を栽培し,藺莚(むしろ)の製造が行なわれ、
曳馬
村の明治四十四年生産高は八十二万三千貫、一万七千余円であった(『
曳馬
村誌
浜松市史 ニ
(引馬を浜松と改める)
いまの当市
曳馬
町の地区にあたる付近は引馬・引間・匹馬・
曳馬
などと書かれ、中世にはもっと広い地区が浜松荘
浜松市史 三
(古書の復刻)
【
曳馬
拾遺 遠江国風土記伝】古くは、浜松谷島屋書店が『
曳馬
拾遺』(山本金木校訂、明治三十四年高林家本、
浜松市史 四
([奥山線の電化とディーゼル化])
まず、電動客車四両を導入して、翌年四月二十六日に全線の三分の一にあたる東田町─
曳馬
野間(八・三キロメートル,また、二十六年八月一日には、残りの
曳馬
野─奥山間にディーゼル動車二両が導入された。,図2-46
曳馬
野・奥山間のディーゼル動車 浜松軽便鉄道創業の大正三年以来、ラッキョ軽便の愛称
浜松市史 三
(陶工)
【
曳馬
焼】大正二、三年に広沢の普済寺門前で茶器を焼き
曳馬
焼(ひくまやき)と称して販売したが、原料の関係
浜松市史 三
(富塚村の例)
合計 前住地 男 女 合計 主な転出先 大正10 8 4 12 略 19 13 32 浜松・浜名郡
曳馬
村,10 23 〃 16 18 34 〃・愛知県 〃13 9 6 15 〃 31 24 55 〃・浜名郡
曳馬
村,41 〃 42 47 89 〃・東京・横浜・名古屋 〃3 18 12 30 〃 53 45 98 〃・
曳馬
村
浜松市史 三
([農業地域の都市化])
1 大正元.10 富塚村一部 2 〃5.5
曳馬
村天神町村一部, 3 〃10.4 天神町村 4 昭和11.2
曳馬
町富塚村
浜松市史 三
(百里園の解散)
百里園の解散 【三十九年】百里園の御料局売却案がもちあがったのは三十五年六月であるが、これをきいた
曳馬
村,の中村太郎三郎はじめ原川通徹・横山義珍・大石和吉・大原則教・斎藤幸次郎・大久保牧太らの七人は
曳馬
村の有志
浜松市史 三
(童話の実演)
【童謡踊 童謡講習会】講習会は飯尾哲爾を講師とする大正十二年九月と翌十三年七月の童謡踊講習会(会場
曳馬
小学校,
曳馬
の萩と題して「スイッチョがいった スイッチョがいった
曳馬
の萩は筆になっちゃった スイッチョがきいた, スイッチョがきいた
曳馬
の萩は野原の萩だ」という雨情の詩が刻まれている。
浜松市史 三
(馬車鉄道)
西遠馬車鉄道株式会社 明治三十年二月川口栄三郎らによって計画され、引佐郡気賀町から中川・和地・三方原・吉野・
曳馬
村,②浜松・二俣間馬車鉄道会社(仮称) 明治三十年浜松町中村忠七・
曳馬
村中村太郎三郎らの立案。
浜松市史 四
([道路延長の急伸と街路計画の進展])
9 和合富塚線 和合・富塚 20 Ⅰ. 3. 6 東田町追分線 東田町・追分 25 Ⅱ. 1.10
曳馬
住吉線,
曳馬
・住吉 20 Ⅰ. 3. 7 八幡三方原線 八幡・葵 27 Ⅱ. 1.11 三島芳川線 三島・芳川,助信宮竹線 助信・宮竹 25 Ⅱ. 3. 1 池川広沢線 上池川・広沢 12 Ⅰ. 3.16 松江
曳馬
線,松江・
曳馬
27 Ⅱ. 3. 2 伊場亀山線 東伊場・亀山 12 Ⅰ. 3.17 天神長上線 天神・,
曳馬
・早出 25 Ⅱ. 2. 8* 鴨江西伊場線 鴨江・西伊場 16 Ⅰ. 3.20 子安大柳線 子安
浜松市史 三
(蒲村)
大字名 1 大正元.10.1 富塚村のうち 両追分 和地山 和合の一部 浜松沢 2 〃5.5.1
曳馬
村,天神町村 天神町 上中島 向宿 馬込(木戸) 福地 塚越 佐藤一色 名切 馬領家 4 昭和11.2.11
曳馬
町
浜松市史 三
(浜松地方報徳社)
22年6月 中之郷社 浜名郡新居村 66 23年4月 吉津村古見社 浜名郡吉津村 46 25年3月
曳馬
社,浜名郡
曳馬
村 5 25年7月 将監名社 浜名郡蒲村 17 26年3月 佐藤一色社 浜名郡天神町村 15,鼠野社 浜名郡芳川村 32 28年10月 相生社 浜名郡天神町村 19 28年11月 上島社 浜名郡
曳馬
村,2月 新堀社 浜名郡龍池村 23 〃 長北報徳社 浜名郡小野口村 29 33年5月 島之郷社 浜名郡
曳馬
村
浜松市史 三
(創業年代)
またこれを村別にみると①東北部地域の北浜村・積志村②東南部の天神町村・
曳馬
村・飯田村・蒲村③西南部の可美村,そのうちでも飯田村・篠原村・
曳馬
村・可美村(大正三年三月十日浅場村を可美村と改称)などは比較的先進村落,中瀬村 0 龍池村 0 豊西村 0 中ノ町村 1 2 3
曳馬
村
浜松市史 三
(筆工)
川瀬為吉】筆工 山本伊吉(嘉永元年浜松池町生)・文明堂川瀬為吉・大明堂富次郎(浜松高町)などがあって、
曳馬
萩筆
浜松市史 三
(風致地区)
風致地区 浜松城・佐鳴湖地区・
曳馬
野地区が風致地区に指定されたのは昭和九年、さらに十三年には和合地区
浜松市史 五
([中央地区で難航の住居表示])
また、
曳馬
地区も住居表示には積極的で、高林町、上島町、
曳馬
町などは昭和五十六年から同六十年にかけて住居表示
浜松市史 三
(小野組支店)
明治27.6 積栄 浜名郡小野口村 大正15.6 浜松銀行(第二次)に買収さる 明治26.6
曳馬
合資,敷知郡
曳馬
村 明治28.10
曳馬
銀行と改称 明治28.10
曳馬
浜名郡
曳馬
村 大正12.8 遠州銀行,8.11 浜松(第二次) 浜松市 昭和18.6 現存の静岡銀行へ合併 明治29.11 浜名 浜名郡
曳馬
村
浜松市史 三
(市立浜松図書館 夜間開館 展覧会)
なお昭和十六年には、
曳馬
(
曳馬
国民学校内)・富塚(富塚国民学校内)・白脇(白脇国民学校内)・蒲(蒲国民学校内
浜松市史 三
(織機)
、名産と称せられるものに忍冬酒(にんとうしゅ)・浜名納豆(はまななっとう)・甘納豆(あまなっとう)・
曳馬
萩筆
浜松市史 四
([新制中学校の建設])
[新制中学校の建設] 【東部中学校 西部中学校 南部中学校 北部中学校 中部中学校 八幡中学校
曳馬
中学校,
曳馬
中学校は、
曳馬
小学校の校地・校舎を借用して創立、その後、浜松農業高等学校東側の三方原台地東端に当たる,このため、
曳馬
中学校のようにはるかに高い台地の上に新制中学校を建てるといったことが各地で行われた。
浜松市史 四
([進学と就職])
[進学と就職] 【進学 就職
曳馬
中学校 南部中学校】 六・三制の発足は農村部の親にとって波紋を,
曳馬
中学校は当時は都市部と農村部が半々の学区であったが、昭和二十五年三月に卒業した生徒は二百十七人、高校
浜松市史 三
(自作小作別 地域別 旧市区 業態別)
【
曳馬
】また
曳馬
地区をみると、市街地に近い地域では集約的農業が行なわれ、畑には市街地供給目的の蔬菜が栽培,農業労働力は壮年者が商工業に走ることは他の地区と同じだが、それでも旧市区・
曳馬
地区に比するとめぐまれている
浜松市史 五
(防音校舎)
三十四年度以降は城北・葵が丘・伊佐見・
曳馬
などの各小学校、高台・湖東・
曳馬
などの各中学校で行われたが、
浜松市史 五
([人口のドーナツ化と学校の分離、独立])
萩丘小学校は昭和六年に浜名郡
曳馬
村の
曳馬
尋常高等小学校の西分教場として設立され、同十年に
曳馬
西尋常小学校
浜松市史 三
(茶業組合 共同組合)
、各地の共同組合は年を追って増加し大正時代には十指に数うるにいたった(鴨江・伊場西・東大山・神ヶ谷・
曳馬
村,北浜村 7.0 小野口村 10.0 赤佐村 23.0 中瀬村 0.5 豊西村 0.2 中ノ町村 0.3
曳馬
村
浜松市史 三
(浜松の芝居小屋)
【
曳馬
座】ついで十八年当時には伝馬町に
曳馬
座があり、十一月坂東太郎一座が「菅原伝授手習鑑」などを興行している,松栄座・
曳馬
座・入枡座・子の日座は明治前期の浜松の代表的な劇場で、江戸時代の名残をとどめていた連尺町・,原田浜人(ひんじん)は明治三十年十四歳のとき
曳馬
座で観劇し、「幕間にいろいろの食べ物を売りに来る。
浜松市史 五
(中学校のクラブ活動)
表2―10は
曳馬
中学校の昭和四十九年度の必修クラブ名と放課後の部活動名を示したものである。,郷土研究 出典:昭和44年度『学校経営書』浜松市立北星中学校より作成 表2-10 昭和49年度の
曳馬
中学校,郵便友の会 科 学 茶 道 エレクトロニクス 出典:昭和49年度『学校経営書』浜松市立
曳馬
中学校
浜松市史 三
(蔬菜 園芸品 品種改良)
主要供給地として浜松周辺の
曳馬
・芳川・飯田・河輪の各村があったがこれらの村には園芸農作も発達するようにもなっていった
浜松市史 三
(救護活動 戦災対策本部)
中部配電浜松営業所・銀行集会所・日赤浜松病院・西遠高女・追分国民学校・東海銀行前広場)に治療救護所と十か所(城北・
曳馬
,分団 砂山町 ⑫ 〃第6分団 山下町 ⑬ 〃第7分団 相生町 ⑭ 〃第8分団 富塚町 ⑮ 〃第9分団
曳馬
町
浜松市史 三
(市内道路の改良)
また距離の最長は高町から飛行隊に至る姫街道の四千メートルの改良工事で、
曳馬
(ひくま)坂と呼ばれた高町の,100m 10.8m 2 田町・元城線舗装(最初の車歩道分離) 684 3.6 3 篠原・入野・
曳馬
野
浜松市史 三
(文芸と青年)
【中村孤月】そうした環境の中に育った文学青年たちに、中村孤月(八郎・浜名郡
曳馬
村早出)・坂口刺青(利三郎
浜松市史 三
([町村合併の進行])
こうして市は隣接する浜名郡の富塚村・天神町村・
曳馬
町・白脇村・蒲村の五町村を市へ編入し、昭和十四年十二月戸数三万二千三百四十一
浜松市史 三
(浜松案内書)
その著『山水と歴史』(昭和九年刊、千倉書房)には「姫街道と三方原」があり、
曳馬
の萩・細江のみおつくし・
浜松市史 三
(足踏機)
明治二十年頃発明された松田式足踏機が浜松地方へ導入されたのは明治二十六年に
曳馬
村高林の中村長太郎(山本又六
浜松市史 三
(遠江二葉会)
仏教童話や映画会を助信の善信寺をはじめ玄忠寺・法林寺・教興寺・万福寺・新町庚申堂の各寺院で開き、その範囲も
曳馬
村
浜松市史 五
([郊外での保育園の急増])
750 120 630 54年度 佐鳴台保育園 寺島保育園 西保育園 瑞雲保育所 太陽保育園
曳馬
保育園,瞳ヶ丘保育園 みどり保育園 佐鳴台三丁目 寺島町 布橋二丁目 佐藤町 飯田町
曳馬
町
浜松市史 三
(塵芥焼却場)
【浅田町】止むを得ずこんどは三方原方面に着目し、
曳馬
村と和地山を打診したが、
曳馬
村は拒絶、和地山の銭取
浜松市史 四
(医療救護情況)
事情は不明であるが、城北・
曳馬
・八幡の各国民学校と西遠高等女学校、中部配電浜松営業所の患者は六月二十二日
浜松市史 三
(御料地)
これは最初は三方原出張所として長上郡平貴村平口(現在浜北市)に置かれたが、二十五年敷知郡
曳馬
村一本杉(
浜松市史 三
(三方原村成立)
後十二年三月まで第十二大区二十小区となったり曲折があったが、町村制施行(明治二十二年)のさい三方原村となり、
曳馬
下村
浜松市史 三
(上水道 上水道規模)
【送水路】②送水路 集水井より高揚喞筒(ポンプ)を以て豊西村・中ノ町村・長上村・
曳馬
村等を経て浄水場まで,【浄水と配水】③浄水及び配水 浄水場は
曳馬
村高林(現在の住吉五丁目)に設け、ここで濾過(ろか)浄水した
浜松市史 五
([教育文化奨励賞])
個人は音楽文化の向上に尽くした富永忠男
曳馬
小校長、心身障害児教育の実践に尽くした栗原昭男蜆塚中教諭、遠州地方
浜松市史 五
([十分・十一分・十二分ダイヤと新型車両の導入])
高頻度運転】 昭和四十八年四月、前年に実施した十分ヘッドダイヤから十一分ヘッドダイヤに変更(それまで遠州
曳馬
駅
浜松市史 三
(中村藤吉)
②
曳馬
(高林・上島)・入野・積志・白脇(浜新田)・可美村の不毛地の開拓。
浜松市史 一
(半田山C群)
④中沢町常楽寺裏山
曳馬
野第二号墳(第11表㉚)土取り作業中白尾善義氏より通報を受け、半壊の古墳を調査した,と推定される須恵器を発見したが、墳丘はあるかなしかの低平なものであったらしい(向坂鋼二「静岡県浜松市
曳馬
野第二号墳
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