機関トップ
資料グループ
テキスト一覧
年表一覧
キーワード一覧
参照データ一覧
浜松市立中央図書館/浜松市文化遺産デジタルアーカイブ
トップページ
詳細検索
詳細検索
目録
テキスト
年表
キーワード
その他(トップページ等)
検索条件を追加
目録
テキスト
年表
キーワード一覧
その他(トップページ等)
AND
OR
NOT
年号変換
閉じる
検索結果
: 27件
辞書ファセット
○○○
△△△
10件
20件
50件
100件
(並べ替え)
テキストタイトル(昇順)
テキストタイトル(降順)
ページタイトル(昇順)
ページタイトル(降順)
掲載ページ(昇順)
掲載ページ(降順)
/ 1ページ
浜松市史 ニ
(本丸)
本丸
本丸
天守曲輪の東どなりに、これより一段と低く空濠(からぼり)(現在は埋め立てられ、空濠の小字名,【地積】地積は八反七畝三歩(「明治六年浜松城払下告示」の
本丸
跡地積による)である(小字名千畳敷。,しかし、
本丸
内の建造物についても明らかでなく、当時の城絵図をみても天守曲輪と同じように何も記載されていない,
本丸
と天守曲輪との連絡路は、二重の石垣に添った急な石段で、南からのぼりきるとすぐ左が天守門となる。 /
本丸
浜松市史 ニ
(石垣)
その主なところは天守台・天守曲輪・
本丸
と清水・西端城の両曲輪をかこむ石垣で、そのほかに二の丸・外濠などがある,また天守曲輪と
本丸
との境は二重の石垣となっていた。,の石垣がある(現在は
本丸
よりの新しい道もできている)。 ,西端(にしは)城・清水の両曲輪の石垣 この石垣は
本丸
前の広場までのびている。,天守曲輪や
本丸
ほど石垣はけわしくない。 二の丸の石垣 前者よりまた低い。
浜松市史 ニ
(災害の記録)
『玉露叢』に、延宝八年(一六八〇)に浜松に大風があって
本丸
・二の丸・三の丸の櫓塀が破損し城下の倒壊戸数三百五十八軒,石垣所々孕
本丸
菱櫓下 同所富士見櫓下 同所多聞下 同所鉄門脇 天守曲輪天守台 同所天守門外道之方
本丸
浜松市史 ニ
(浜松城の築城)
【城の規模】これが浜松城で、その規模は「
本丸
・二の丸・西羽曲輪・馬出曲輪・清水谷郭・三丸尉曲輪・鳥居曲輪等,妙光寺(明光寺)薬師堂の南、深沼ヲ本城ノ後要害トセラレ、
本丸
惣囲石垣トシ、其上多聞ヲ建ラレ、当時隣国ニ
浜松市史 ニ
(出丸)
出丸 出丸
本丸
の南部の低い丘陵上にあった(小字名袋町、浜松市立図書館付近)。
浜松市史 ニ
(鉄門前広場)
鉄門前広場 【鉄門 榎門 清水門】
本丸
の鉄門前は広場(名称不明)で、この広場から東へ二の丸前を経て大手筋
浜松市史 ニ
(城櫓)
城櫓 ここで城櫓をまとめてみると、
本丸
には菱櫓と富士見櫓、多聞に太鼓櫓、清水曲輪と西端城曲輪とが連続
浜松市史 ニ
(青山家と領民)
(二)貞享二年(一六八五)正月の条(浜松在城中) 【
本丸
】元日―辰下刻(午前九時ごろ)御書院で伊勢,お祓いをうけ、終わって御座の間で年寄衆をお目見、巳刻
本丸
へ御出。,十七日―
本丸
の矢場にお出、弓場始、例年の如く大般若転読、同夜お日待を行なわる。,二十六日―
本丸
矢場で箕浦又市の弟子共の鉄砲を御覧。 【参勤】この年六月九日―参勤のため浜松発駕。
浜松市史 ニ
(払下)
その内容は別表(八四ページ)のとおりで、当時の
本丸
・二の丸などの地積が明らかである。,元勘定所 土蔵 10 瓦門塀総体 元
本丸
之分,
本丸
跡
浜松市史 ニ
(概観)
概観 城郭の根幹をなす部分は天守曲輪・
本丸
・二の丸・三の丸などで、傾斜する地形に応じて西から東へ階段状
浜松市史 ニ
(大手口)
くぐると左右に侍屋敷がならぶ大手筋で、馬屋の北角を左折すると、二の丸の前を経て
本丸
の鉄門前に達する。
浜松市史 ニ
(誕生屋敷)
西より階段的に順次に低く並列する天守曲輪・
本丸
・二の丸は、城郭のうちでももっとも重要な個所なので、さらに
浜松市史 三
(藩校)
浜松では城内
本丸
に設置され、これを御家人学問所と称した。
浜松市史 ニ
(浜松入城)
引馬城もとりいれ、その西方の高地に
本丸
以下惣廻(そうまわ)りの石垣、長屋などをつくり、三河・遠江の武士
浜松市史 ニ
(水の手)
穴蔵に一(口径一・三メートル、丸石をもってかこむ)、天守曲輪の埋門脇に一(現在深さ七メートルあまり)、
本丸
浜松市史 ニ
(城絵図)
ここでは主として「御家中配列図」・「安政絵図」によって記すことにする(「明治六年浜松城払下告示」によれば
本丸
浜松市史 ニ
(城地内に町ができる)
明治十九年、つづいて翌二十年には幼稚園(のちの浜松元城幼稚園)、二十七年鍛冶町にあった齢松寺が千畳敷(旧
本丸
浜松市史 五
([齢松寺の移転])
齢松寺は市内後道(うしろみち)にあったのであるが、明治二十七年に旧城内
本丸
跡に移転し、昭和四年には墓地
解説「浜松城絵図と城下絵図」
(解説「浜松城絵図と城下絵図」)
【
本丸
】 天守曲輪の東の石段を下りた一段低い部分にあたる。,
本丸
内には小規模な建物が2棟描かれる。,現在、
本丸
の東半分及び南側は失われている。,
本丸
とは土塀・土居および空堀で隔てられている。,
本丸
南側付近の被害状況は、以下のように記載されている。
浜松市史 ニ
([水野藩の財政窮乏])
当時西丸老中職にあった忠邦にとって、さらに
本丸
老中に進み、忠邦のいういわゆる「青雲の志」を達するには、
浜松市史 三
(設置方針 商工業が町是 浜松町立浜松商業学校)
こうして補助金は五か年間年八百円交付と決定し、浜松町大字元城の齢松寺(旧浜松城
本丸
)の地所建物を借用し
浜松城下のうつりかわり
(解説)
【近世】現在残る絵図等をみると、江戸時代前期には天守曲輪・
本丸
・二の丸等に加え、三の丸や城下町の整備までがほぼ
浜松市史 ニ
(忠邦の略歴)
【老中就任】同十一年十一月西丸老中に、天保五年
本丸
老中に昇進し中央政界に進出して御勝手御用を兼ねた。
浜松市史 一
(遠江南朝北朝の戦)
大平城は、標高一〇二メートルの丘頂を
本丸
にしている。
浜松市史 三
(商業地域 浜松駅開通 新興商店街)
神明町・連尺町・伝馬町が中心であったが、浜松駅が開通すると、二十七年には鍛冶町の齢松寺が元城(浜松城
本丸
跡
浜松市史 ニ
(二の丸)
二の丸 二の丸
本丸
の東に隣りして、土地も一段と低くなる。
浜松中心街の今昔:わがまち文化誌
(浜松市立中部公民館『浜松中心街の今昔:わが町文化誌』 目次)
【芳蘚寺 池町】 216 【教興寺 中沢町 勘馬 小野組】 217 【齢松寺 中沢町 後道
本丸
御殿跡
/ 1ページ