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浜松市立中央図書館/浜松市文化遺産デジタルアーカイブ

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浜松市史 四 (松菱劇場)

松菱劇場 百貨店の松菱はその後も復旧工事を進め、昭和二十三年に三階の売場と屋上に遊園地を開設、翌年に,八階までのすべての売場と食料品マーケット、映画館の松菱劇場を開設した。,これに伴い棒屋百貨店は松菱に対抗できなくなっていった。   / 松菱劇場
浜松市史 四 (松菱百貨店 棒屋百貨店)

松菱百貨店 棒屋百貨店 松菱百貨店は戦災の被害が甚大であったが、昭和二十年十月には一階の一部を古本屋,この二カ月前の十月には松菱と道を隔ててすぐ北の田町に棒屋百貨店がオープンした。,平屋建てではあったが、当時の松菱と同じくらいの売場を持つ百貨店で、あらゆるものを買うことが出来た。 / 松菱百貨店 棒屋百貨店
浜松市史 四 ([食堂の開業と松菱百貨店])

[食堂の開業と松菱百貨店] 【食堂 松菱百貨店 棒屋百貨店】  市民や近郷近在から浜松に来た人、やみ,昭和十二年に開店した松菱百貨店は空襲と艦砲射撃で大損害を受けたが営業を続行し、終戦時にも一部の売り場で,松菱と並んで小規模ながら百貨店として営業していた棒屋は戦災で焼失、二十一年十月に再び棒屋百貨店として新装開店,し、松菱と競い合うようになった。 / [食堂の開業と松菱百貨店]
浜松市史 五 ([西武百貨店の撤退と松菱の破産])

[西武百貨店の撤退と松菱の破産] 【西武百貨店の撤退】  平成九年十二月、西武百貨店浜松店は二十六年,同百貨店は松菱百貨店に次ぐ売り場面積(二万二千五百平方メートル)を保有し、都市型百貨店として浜松市民から,【松菱の自己破産】  さらに、浜松市民を驚愕させた出来事は老舗百貨店松菱の自己破産による閉店であった,松菱は平成十三年十一月十四日、静岡地裁浜松支部に自己破産を申請し、六十四年の歴史に幕を閉じた。,自己破産の直接的なきっかけは、買い物券やプリペイドカードを交付する子会社松菱友の会からの借入金の返済が / [西武百貨店の撤退と松菱の破産]
浜松市史 四 ([松菱増築と県下最初のエスカレーター])

[松菱増築と県下最初のエスカレーター] 【松菱 エスカレーター】  棒屋百貨店の廃業で浜松唯一の百貨店,となった松菱は、昭和三十一年十一月に大増築が完成、県下で初のエスカレーターを一階から三階まで(二基)取,    県下にはじめてのエスカレーターが浜松の松菱デパートに出来上り二十五日から動き出した,などが見受けられて話題をまいた初日の運転風景だった、なおこれは一基千二百万円という    松菱,図3-38 増築された松菱 / [松菱増築と県下最初のエスカレーター]
浜松市史 四 ([浜松ライオンズクラブ])

結成に当たっては、当時の松菱百貨店社長谷政二郎の果たした役割が大きかった。,昭和三十年の夏ごろ、谷はまず松菱の監査役西川熊三郎に思いを伝える。,この二人を、松菱の山本頼次専務が行き届いた配慮によって支えた。,京都クラブ、国際本部の協力と助言、また松菱の監査役山岸勇次郎(浜松ロータリークラブ会員)の協力により、
浜松市史 五 (カルチャーセンター)

カルチャーセンター 【松菱友の会文化教室 浜松SBS学苑 浜松中日文化センター しずおか社会保険センター,浜松で比較的大きなものとして出来たのは松菱百貨店の会員組織・松菱友の会が開設した松菱友の会文化教室で、
浜松市史 五 ([中心商店街活性化とザザシティの建設])

ザザシティ浜松構想は、既存の松菱百貨店を第一の核とし、さらに西武の跡地に第二の核である西館を建設し、この,また、松菱と西館を結ぶモールの役割を担う中央館は地下一階、地上十五階で専門店や県・市の公共施設が入り、,翌年(平成十三年)十一月には、中央館がオープンし、松菱と連絡通路で連結する予定であったが、ザザシティハママツ,のグランドオープン(十一月二十二日)を目の前に控えた十一月十四日、松菱百貨店は倒産した。
浜松市史 五 ([中心市街地からの大型店撤退])

さらに、平成四年に松菱は大規模な増床を行った。,月 ニチイ浜松店閉店、撤退は3月 平成4年1月 長崎屋浜松店撤退 平成4年4月 松菱百貨店新館増築,西武百貨店浜松店撤退 平成12年11月 ザザシティ浜松西館オープン 平成13年11月 松菱百貨店
浜松市史 三 (連合義勇隊)

焦土と化した浜松市内(遠望は松菱デパート)
浜松市史 五 (スーパーの郊外進出)

スーパーの郊外進出 【松菱マート 遠鉄ストア ユニー浜松泉町ショッピングセンター ミニスーパー】,松菱百貨店の子会社である松菱商事は昭和四十六年四月に松菱マートを遠州浜に出店させ、さらに遠州鉄道は昭和四十八年十月,スーパーマーケット名 店名 スーパーいしはら 泉町店、葵町店、日赤前店、新津店 松菱
浜松市史 五 (大型店の進出)

浜松ショッピングプラザ(核店舗はイトーヨーカ堂)、中貿ビル(遠鉄百貨店)、松菱増床の三つであった。,、イトーヨーカ堂と遠鉄百貨店は相次いで三条申請(建物設置者の届け出)を行い、さらに、老舗百貨店である松菱,その結審内容は、浜松ショッピングプラザと松菱は五条申請(小売業者の届け出)時の売場面積(浜松ショッピングプラザ,は一万五千百平方メートル、松菱は五千五百平方メートル)がそのまま認められたのに対して、遠鉄百貨店は二万三千百十平方,15,100㎡ 遠鉄百貨店 17,300㎡ 14,000㎡ 23,110㎡ 松菱百貨店
浜松市史 五 ([マンションの建設])

大型の分譲マンションで、松菱商事が幸町に建設した鉄筋コンクリート五階建ての松菱コーポ幸は同年の十二月に
浜松市史 四 ([その他のスポーツ])

駅伝競争大会】  浜松・二俣間のマラソン大会は戦前から行われていたようで、スタートは二俣町役場、ゴールは松菱百貨店前
浜松市史 五 ([化学消防車、はしご付き消防車などの導入])

これは松菱百貨店から市へ寄贈され、「鳳竜」と命名され、中消防署に配備された(『新編史料編六』 二自衛隊,図2-15 松菱百貨店から寄贈されたはしご車
浜松市史 四 (谷島屋書店 バラック建て)

このころ数多く開店したものはカメラ店で、松菱のカメラ売場を含め四店が新聞に広告を出している。
浜松市史 三 (買物圏の拡大 近代化する商店 百貨店開業)

建築面積建坪千四百十四平方メートル延坪八千二百十五平方メートル、全館暖房換気装置・客用エレベーター二基を備えた松菱百貨店,が、鍛冶町に浜松最初の本格的百貨店として開業した(『松菱二十年史』)。
浜松市史 三 (戦災と生活)

焼失した松菱デパート
浜松市史 四 ([復興した浜松の中心市街地])

鍛冶町の松菱と田町の棒屋がその中心となっていたが、有楽街や浜松座通り、千歳町・伝馬町・連尺町・神明町・,  【松菱百貨店 県下初のエスカレーター】  松菱百貨店は昭和二十四年に全売場を再開し、
浜松市史 四 ([梵鐘供出と復活])

光福寺の梵鐘は著名な鋳金家に依頼したという事情もあり、松菱百貨店でその披露が果たされ、稚児行列を組んでの
浜松市史 四 ([パチンコ熱の到来])

二十五年十二月十五日の『静岡新聞』によれば、浜松にはすでに百三十軒のパチンコ屋があり、特に鍛冶町の松菱
浜松市史 五 (平和運動)

昭和四十二年には松菱デパートで開催予定の自衛隊展に反対を申し入れをしたり、同四十三年から四十五年にかけて
浜松市史 五 ([中心市街地の活性化])

ただ、平成十三年十一月の老舗百貨店・松菱の倒産は市民を驚かせ、改めて中心市街地の活性化がいかに難しいかを
浜松市史 三 (救護活動 戦災対策本部)

28 現浜松市役所 元城町 29 第113部隊 三方原台地 30 浜松医師会救護所 下池川町 31 松菱百貨店
浜松市史 四 (佐々木松次郎)

また、浜松市立図書館や松菱百貨店を会場として、しばしば個展を開催した。
浜松市史 四 ([廃墟と化した中心商業地とやみ市の発生])

中心市街地では、昭和十二年に開店した松菱百貨店ほかわずかな建物だけが残った。  
浜松市史 四 ([都市計画事業の推進])

鍛冶町の北側にあった三角地帯の商店や住居の取り壊しが始まったのも同年四月、松菱の北側の道が都市計画で決,  【中央工区不燃化商店街】  松菱筋向かいの富士銀行浜松支店は鉄筋二階建ての堅牢な建物
浜松市史 四 ([地方議会議員選挙])

また、松菱は新憲法実施を祝し、記念大売り出しを行い、売り上げの一部を市内の小学校の復旧費に寄付した。
浜松市史 五 (浜松商業活動調整協議会)

ジャスコが入野町への出店計画を打ち出してから三条申請の受理まで二年余りかかったのは、西武、松菱の売場面積
浜松市史 四 ([結核予防の実践運動])

した通知で、結核感染者の増加について警鐘を鳴らし、その予防実践週間を設定したこと、その期間中に「鍛冶町松菱百貨店二階
浜松市史 五 ([警職法・安保闘争と労働条件改善への取り組み])

全日通や全松菱もストを行っている。,- - 5,400 6,700 8,950 9,700 10,200 全松菱
浜松市史 五 ([中心市街地の地盤沈下と中心商業地活性化事業])

[中心市街地の地盤沈下と中心商業地活性化事業] 【丸井浜松店】  昭和四十九年八月二十四日、松菱・
浜松市史 五 ([バブル経済の崩壊と不良債権問題])

同年の路線価で見ると、市内の最高価格は鍛冶町の松菱百貨店前鍛冶町通りが前年(平成二年)比三十三・一%アップ,その後も地価の下落傾向は止まらず、平成三年に最高路線価を付けた松菱百貨店前は、平成八年には一平方メートル
浜松市史 五 ([企業スポーツの盛衰])

凱旋したナインを迎えてヤマハ浜松店や松菱、西武の両デパートからは花吹雪がナインに降り注ぎ、市民会館や体育館
浜松市史 五 (社報)

『しょうだ』の創刊号(昭和三十八年七月)の庄田和作社長、『社報まつびし』(株式会社松菱)の創刊号(昭和三十九年八月
浜松市史 五 ([浜松婦人懇話会の活動])

八一年国連婦人の十年浜松婦人会議(児玉レイコ事務局長)は昭和五十六年六月四日から六日間にわたって松菱百貨店
浜松市史 四 ([増える交通事故と信号機])

特に信号機については、二十八年暮れの松菱前を皮切りに、三十三年末までに広小路角、伝馬町角、旅籠町角、市役所前
浜松市史 四 ([電化生活])

二十七年末の新聞に松菱の「電気カミソリ宣伝売出し」の広告(『新編史料編五』 七社会 史料41)が出た。
浜松市史 四 ([空襲被害者の治療])

を隔離病舎に収容したが、自宅療養の者もいるらしいこと、便所消毒のクレゾールが不足していること、市内(松菱
浜松市史 三 (写真・図版目次)

大空襲時の浜松市域戦災図                  六五五 焦土と化した浜松市内(遠望は松菱,デパート)              (浜松市紺屋町 池谷晃司氏撮影) 六五七 焼失した松菱デパート
浜松市史 四 ([静大工学部の発展])

昭和二十八年になると、浜松まつりにテレビの一般公開を行うことになり、市の公会堂、松菱百貨店ほか市内のラジオ
浜松市史 五 (大型店進出)

地元スーパーの大手には松菱マート、トウア、主婦の店があり、さらに生鮮食品の販売を中心としたスーパー(スーパー
浜松中心街の今昔:わがまち文化誌 (浜松市立中部公民館『浜松中心街の今昔:わが町文化誌』 目次)

88 二 商  業 89 (一)浜松中心市街地の商業の発展 89 【田町 棒屋】 89 (二)松菱百貨店開店,【文化劇場 狐のくれた赤ん坊 白バラ劇場 千歳町 東洋劇場 鍛冶町 セントラル劇場】 306 【松菱劇場,山下靴店 興誠学園 戦災前の神明町商店街 中之島 おしるこの月ケ瀬】 348 六 連尺町 349 【松菱,松浦左官 漆喰彫刻 大福寺 遠州浜松各町書上】 448 19 百貨店時代の幕あけ「棒屋」の開業 【松菱
浜松市史 三 (六月十八日の大被害 全市火の海 見渡すかぎりの焦土 公式発表 米軍記録)

 専売局浜松出張所  日本形染会社工場  県食糧営団浜松出張所  浜松専売局支局  浜松憲兵分隊  松菱百貨店
浜松市史 四 ([プロテスタント布教の原点])

の昭和四年四月に遠州教会に着任していた松本美実牧師は、実に昭和二十年八月下旬にして、焼け野原となった松菱百貨店
浜松市史 五 ([所得の増加と豊かな消費生活・貯蓄・消費者教育])

昭和三十五年六月に松菱百貨店の全館冷房が完成すると、さらに楽しみが増えていった。  
浜松市史 四 ([観光協会の設立と浜名湖の観光])

また、十三年八月に日本交通公社(今のJTB)の浜松案内所が松菱百貨店の中にでき、観光案内や宿泊の手配などを
浜松市史 五 ([春闘と労働運動の活発化])

23日:松菱百貨店労組結成。26日:丸正自動 車製造労組結成。,4日:政暴法粉砕静岡県総決起 大会に2500人参加(県庁前) 7月 1日:松菱百貨店労組、24
浜松市史 四 ([女性運動の展開])

・性病撲滅と正しい性知識普及のため「明るい結婚展」開催(松菱百貨店) 23年度 ・物価引下げ運動を展開
浜松市史 四 (主な参考文献)

浜松商店界連盟 『行きたくなる、歩きたくなるそんな街にしたくて50年』浜松商店界連盟 『松菱三十年史,』松菱 『静岡新聞』 『中日新聞』 『朝日新聞』 『毎日新聞』 『読売新聞』 『浜松民報(
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