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浜松市立中央図書館/浜松市文化遺産デジタルアーカイブ
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浜松市史 三
(県令 林厚徳)
県令
林厚徳
【五年十一月】県令として額田県権令
林厚徳
(あつのり)(名東県士族)が着任したのは六年二月,【石黒務 大江孝文】当時
林厚徳
は四十七歳、抜擢されて県令に任ぜられただけあって、権参事石黒務や権典事大江孝文 / 県令
林厚徳
浜松市史 三
(新茶製産の成功)
このときに浜松県令
林厚徳
は酒肴を送りこの労を慰い、八月には気賀林・間宮鉄次郎に賞金を与え、翌十年三月静岡県
浜松市史 三
(気賀林の実権把握)
気賀林の実権把握 【茶樹植付】こうして県令
林厚徳
の支持によって三方原の茶園経営の実権は気賀林らに移り
浜松市史 三
(電信架設 電信局)
東海道筋ヘ出ル」(『松坂春英雑記』)を見分し、その結果浜名湖北に架設された(なお、明治七年十一月、県令
林厚徳
,このため電信局設置の要望がわきおこり、六年八月県令
林厚徳
は工部大輔あて上申書を提出するに至った。
浜松市史 三
(横田保の三方原開拓進言)
のあとをうけた横田保は鋭意茶園の経営に専念することになるが、保と茶園との関係は「明治六年七月浜松県令
林厚徳
町村学校巡視
浜松市史 三
(気賀林全盛時代 百里園風光)
稿を寄せるもの静岡県令大迫貞清、元浜松県令
林厚徳
、遠州中川村医員荻原定通、遠州医員高部春庵、松島十湖、
浜松市史 三
(士族の状況 開墾許可)
【六年 園長気賀林】さて三方原の開墾は浜松県が静岡藩より引きついだ最大の課題でもあったので、県令
林厚徳
浜松市史 三
(改租開始)
改租開始 浜松県(県令
林厚徳
)では明治七年五月、地租改正について「人民心得書」を出し、その中で先般発行
浜松市史 三
(小野組大火)
午前十一時ヨリ南風ニ変リ、東ハ馬込村迄延焼シ、午後第四時鎮火、右ハ管下未曾有之大火ニ有之」とその翌日浜松県令
林厚徳
浜松市史 三
(共和園規則)
元東大史料編纂所長、東大名誉教授の坂本太郎はその孫にあたる-等)によって創立されたのもこのころであった(「
林厚徳
祝詞
浜松市史 三
(浜松県民会 小区長会 民会の意義)
浜松県民会 小区長会 民会の意義 【九年六月】明治九年六月、浜松県令(
林厚徳
)は改租完了時の約束にもとづき
浜松市史 ニ
(払下)
払下 明治五年八月二十三日浜松県令(明治四年七月浜松県設置)
林厚徳
から浜松古城建物の払下げの布達が出
浜松市史 五
([浜松医界百年のマグマ])
約言抄記するが、明治四年(一八七一)の浜松県発足後、同六年に会社病院が設立され、翌七年一月、浜松県令
林厚徳
浜松市史 三
(浜松県学校創立 学校建設と地元の負担)
したり、従来の学校に閉鎖を命じたりして学校創設の準備をしていたが、本格的にその準備に着手したのは県令
林厚徳
浜松中心街の今昔:わがまち文化誌
(浜松市立中部公民館『浜松中心街の今昔:わが町文化誌』 目次)
万福寺の黒衣地蔵尊(野口町) 200 ○ 子授け地蔵(新 町) 201 【コレラ 浜松県県令
林厚徳
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